第19話 待つ間、冒険してみる?
丸井社長が応接室を出ていったあと、さて遊びにいこうとにっこり微笑む尚貴に待ったがかかった。
「尚貴様、仕事はどうしました?」
お目付け役の郡山である。
「……わかってるよ」
尚貴は顔を曇らせる。
このあと時間あるかと聞いてきた尚貴はよっぽど自由な立場なんだろうと愛里は思っていたが、どうやらそういうわけではないようだ。
「実は、僕の方こそ、すぐに遊びに行こうというわけにはいかないんだ。ごめん」
尚貴は待っていてほしい旨を頼んできた。愛里は帰る足もないし、言われるままにするつもりだったが、「フジタの敷地にはいろんなものがあるから、退屈しないと思う!」と、楽しそうに言われて、鞄にしまったパンフレットを思い出す。あれだけの広さだ。待ち時間内ではきっと散策しきれないだろう。楽しみである。
「あ、でも、あんまり遠くには行かないで。何されるかわかんないからね。僕の半径百メートル以内にいて」
尚貴の必死さに愛里は、ふふ、と笑ってしまった――が、よく考えたら笑いごとでもないかと思い直し真面目に頷いた。離れた途端に物理的に引き離されることはリアルに想像できる。
机を挟んでいても存在感を放っている郡山が、
「尚貴様の担当されている案件は、社外秘です」
「う」
「それに、女を連れまわして仕事していては、示しがつきません」
と、釘を刺してくる。‟女”って、私のこと? どうでもいいところで、愛里はちょぴりどきっとする。
「たしかに、それじゃ貴志兄さんと同じになっちゃうね」
「そういうことです」
貴志兄さん? 長男の秋貴さんとはまた別の名前が飛び出す。
「じゃあ一キロメートル以内で。早く終わらせて行くからね」
尚貴は真剣な顔でそう言うと、応接室を出る。どこに行くんだろう。小さなネジ工場しか知らない愛里は、社会見学みたいな気分で後に続いた。
本社ビル廊下ですれ違う人はみな、はっとした様子で頭を下げていく。
このFUJITAの社内で、藤田一族の御曹司とすれ違うとこうなるのか。ネットに尚貴の情報は挙がっていなかったが、FUJITA社内ではちゃんと名が通っているらしかった。常に視線を感じたし、そっと道を空けられ、遠巻きに指をさされている。
エレベーターを降り、本社ビルを出る頃には時刻は午後三時を回っていた。自動ドアを通ると、めらめらと暑い空気に包まれる。広い敷地を迷いなく歩いていく尚貴に、愛里は訊ねてみる。
「なおさんは、どんなお仕事をしているの?」
これからどこに向かうのだろう。どこまでついていっていいのかな?
「僕?」
尚貴は道行く人と適当に挨拶を交わす傍ら、答えてくれる。
「今は研究系のことやってるけど……」
なんと説明したらいいのか悩むように、間が空く。
「まあ……仕事というか、今は修行中の身なんだ。技術も学ぶけど、財務とか営業とか、あと人事まで一通りやらされるからね。若いうちに経験を積んで、時期が来たら用意された椅子に座る。うちの一族はみんなそうなんだ」
「へー」
あまりにも自分の人生とは違いすぎる。と愛里は思った。
愛里は小さなネジ工場である丸井螺子に身を置いているが、それは漫画家として生計を立てられるまでの仮の居場所のつもりだ。一方で尚貴は、生まれながらにFUJITAの重要な役職に就くことを決められ、長い年月をかけてそのための準備をしている。
「ぬるいよね」
「えっ?」
愛里は聞き間違いをしたのかと思い顔を上げる。尚貴は恥ずかしそうに言い直した。
「僕、漫画で生きていきたいって、言いながら、ぬるま湯に浸かってる」
愛里はなんと答えたらいいのかわからなかった。「仕方ないんじゃないかな? 責任重そうだし、ぬるいわけじゃないと思う」と言ってみたが、尚貴は首を横に振るだけだった。
研究棟と書かれた看板を曲がる。ようやく涼しい建物の中に入れた。なんだか大きな病院みたいな雰囲気。ここは部外者が入っちゃいけなさそうな場所だ。と、思う間もなく、部屋に入る際に社員証の提示を求められた。
「ごめん、この先はゲストカードじゃ通れない」
いかにも企業機密を取り扱っていますといった風貌のため予想はしていた。
「私、どこにいたらいいかな?」
「行ける範囲ならお好きにどうぞ。不便があるといけないから、郡山を付けようか?」
「え、いや、それは……」
愛里が振り返ると、郡山とばちっと目が合う。郡山も尚貴と同じくらい背が高くて、動く壁のようについてきていた。
(それって逆に不自由な気がする……)
トイレ行くにも、ゲストカードだと通れない場所があったりするからと言われたが、丁重にお断りする。あれだけコンビニがあれば大丈夫だろう。
愛里は一人で敷地内を見て回ることにした。
(えーとどれどれ……)
エアコンの効いたロビー内のソファに腰かけ、パンフレットを開く。
(へえ、各工場ごとに社員食堂があるのか)
第一工場の食堂は定食屋、
第二工場の食堂はカレー屋、
第三工場の食堂はお寿司屋さん、
第四工場の食堂は麺屋、
第五工場の食堂は丼屋、
第六工場の食堂はバイキング、
研究棟の食堂はハンバーガーショップ、
というラインナップ。
第二工場勤務になったら毎日カレーを食べるハメになりそうで、異動の際の悲喜こもごもが想像ついた。別の工場まで行けば違うものが食べられるのだろうが、時間が無くてやむを得ずその場にある食堂に行くこともあるだろう。
(うーん。ご飯は済んでるし、面白そうなところとしてはマーケット通り、かな?)
社員寮や来客用のホテルもある社内には、暮らしに便利なショッピングモールがあるらしい。敷地から出なくても十分生活ができそうである。
(すぐ近くだ。行ってみようかなー)
さらによく見ると時刻表が載っていた。
(時刻表? なんの……? ああ、社内バスが巡回しているんだ)
街のように広すぎる敷地だとバスも走るらしい。ここ研究棟前にももうすぐ停まるようだ。
窓ガラス越しに小さめのバスが見えた。
(ちょうど来た! 無料みたいだし、バス、乗ってみたいかも!)
愛里は立ち上がると自動ドアを出る。
「乗ります乗ります!」
挙手したまま小走りに駆け、停まってくれた運転手にお礼を言って乗車した。奥へ進み、空いている席に着く。乗車率は半分ほどといったところで、その大半がサラリーマンだが、何かの用事で来た一般人っぽい人や、学生服を着た未成年が数人乗っていた。