第18話 「もう君を、離したくありません」
息を切らして飛び込んできた尚貴は、キッと郡山を睨む。
「エリンギちゃんは僕を訪ねてきたんだろう?」
「はい」
「なのに郡山は僕には何の連絡もせず、会わせないようにしたんだね……。それだけじゃない、エリンギちゃんに僕の連絡先を消させたね?」
「はい」
郡山は眉一つ動かさず首肯する。愛里も頷くと、尚貴は今度は愛里に対して驚くことを言うのだ。
「僕の送ったLINEもメールも、届いていなかったんだよね? エリンギちゃん」
「えっ、来ていません」
なおさんは、私にメールを送ってきていたの?
それに対しても郡山が涼しい顔で淡々と告げる。
「愛里様の端末内から、尚貴様に関する情報の受信を全てブロックさせていただきましたので」
ブロック!?
なるほど、だからだったのか。
愛里が連絡先を消されていても、尚貴が連絡を取ろうとその気になればいろいろ手段があると思っていた。それなのに、取引先や関係会社にメールをばらまくというこんな大掛かりな捜索をしなければならなかった理由はこれだ。
愛里が金と引き換えにスマートフォンを渡した時、郡山は尚貴の情報の削除だけでなく密かにブロック操作をしていたのだ。それで尚貴からの電話着信や、LINEメッセージやメールの受信が愛里にはできなかったのだ。
それにしても、郡山はまさかそこまでしていたとは。
「電話にも出ないし、既読にもならない。僕は、エリンギちゃんからあの感想メールをもらうまで、てっきり嫌われたと思っていたんだ……」
泣きそうな顔で言う尚貴。
(そっか。それならあの時、自分からメールを送って、よかったな……)
世界が違う、嫌われたのかもしれない、と思って悩んだけれど、尚貴も同じことを思っていたらしい。
愛里が尚貴に感想と事情の説明のメールを送ったことで、尚貴も自信を取り戻し、そして愛里の落とし物を頼りに愛里を捜して郡山を出し抜いた。
「もう引き離そうったってそうはさせないからね、郡山」
尚貴は郡山を恨むというよりも、天敵から身を守るように、愛里の傍に立つ。
尚貴との距離が近くなり、思わぬ圧迫感にどきりとする。
(……なおさんって背、高いんだな……)
割と小柄な社長と歩いていたからか、尚貴の背の高さに驚かされる。それと英国風チェック柄のブラウンスーツをビジネスの場でも自然に着こなす人を初めて見た。今はそれどころではないというのに、華麗な姿にすっかりまた見惚れてしまう。普段何の仕事をしているのだろう? デザイナーとかクリエイティブディレクター(?)だとしたら、違和感ない服装だけど。
愛里はふと不思議な気分を覚えた。
郡山にここまでされたのにもかかわらず、尚貴は彼に対し敵意を向けたのは初めの一瞬だ。今はもう憤るわけでもなく、ただ挑むような目で見ているだけだし、そして郡山も、尚貴を邪険にするような様子はなかった。
そして尚貴は何かを考え詰めたような顔をして立ち尽くしている。
すると郡山は僅かに眉根を寄せ、聞き分けの悪い子どもを諭すような口調で言った。
「では旦那様に直訴なさいませ」
尚貴は悔しそうに、顔を歪ませる。
「……わかってる。郡山を恨むのは筋違いだ。郡山は、父さんに命令されて動いているだけなんだから」
「はい」
「そして、そんな父さんの庇護下から抜け出せていない僕だって……」
複雑な顔のまま、言葉を途切れさせる。
(郡山さんは、なおさんのお父さんに命令されてこんなことを? なおさんのお父さんって……)
尚貴の父親とはつまりFUJITAグループの現社長だ。
眠れない夜に愛里が調べて読んだFUJITAのネット記事によると、社長はかなりの凄腕らしかった。FUJITAグループをここまで飛びぬけるほど大きくさせたのは現在の社長だと、どのサイトを見ても書いてあった。
(なおさんは、お父さんと仲が悪いのかな……)
黙り込んでしまった尚貴をそっと見上げる。綺麗なその瞳に浮かんでいるのは、痛みと悔しさと畏れ……に見えた。
尚貴が愛里の視線に気付いてこちらを向く。
「ごめんなさい、エリンギちゃん」
そう言って、尚貴は愛里の手を握った。
(わ……!)
真っ白な長い指がひんやりと愛里の右手を掴み、もう片方の手も添えて包まれる。
「僕は無力です。僕が無力なせいで、あなたに悲しい思いをさせてしまいました」
か細い声ともに、片膝を床につけられる。キザに、というよりは、縋るように。
「ここでお別れしたら、二度と会えなくなる気がする」
項垂れたまま、震える声で、
「もう君を、離したくありません」
そう漏らす。
愛里はどうしたらいいかわからず、固まってしまう。
(なおさんの、手が、手が、冷たくて……、私なんて、なんかすごい熱くなってるし……)
尚貴の淡く真っ直ぐな前髪が手の甲にかかって、こそばゆい。
汗ばんでしまったら恥ずかしいし離してほしいような、でもこのままもうちょっと握られていたいような。
ええと、待って。
もう君を離したくありませんって、結構大胆な発言のように思えるんだけど……これって私が舞い上がってるせい!?
「わ、私も、その……」
愛里はなけなしの勇気を奮い立たせる。
「やっと会えて、嬉しかった……です」
空いている方の手で、尚貴の頭を撫ぜてみる。やっぱり細い髪質で、それでいて艶やかで、何の香りだろう? 高貴な香水の匂いがする。
頬が熱くなっている。
顔が真っ赤になっていると思う。
「ずっと、連絡を待ってたけど、住む世界が違うんだって、思って、仕方ないって受け入れようとしたり……」
言っていて視線をそらしてしまう。今だって、それはそうなのだ。こんなすごい場所で、こんなに美人な人に手を握られて、信じられない。夢みたい。
「住む世界が違うなんてそんなことは、僕は思っていませんよ」
尚貴は顔を上げると、ぐいっと手を引き、抱き寄せる。
夏仕様なのか、通気性の良さを感じる質感のスーツが愛里の肌をかすめる。
「ごめん。今日、このあと、時間ある?」
耳元で尋ねられた言葉に胸が熱くなる。
「え、と、うん……」
敬語がとれて、男女の会話みたいだ。
「でも、あ、戻らないと……」
タイムカードだって切ってないし。
……って、そんなの後からなんとかなるとは思うけど。
でも、自分の仕事を大事にしていないと思われたくなくて、愛里は首を横に振る。
「じゃあ待ってるから、そのあと」
尚貴は諦め悪くそう押してくる。気弱そうに見えた尚貴が、こんなにまっすぐに自分を求めてくれていることに驚きを感じた。耳元の吐息が熱くて、心臓がどきどきと鳴る。
「う、ん……うん、うんいいよ」
震えるように頷き返す。
のぼせたように、視界に何も入ってこない。
ただただ、耳元のなおさんの熱い吐息と、夏のスーツの心地よい肌触りと、それから、手から伝わる、自分とは違う彼の体温だけが、ぐるぐるぐるぐると駆け巡っていた。
もうなんでもいい。
このまま、この人の望む場所に連れていかれたい。
「いやぁ、すまんのぉ」
お邪魔虫に鳴き声があるとしたら、こんなしわ枯れ声をしているのだろう。
割って入ってきたのは、
「あ、社長」
愛里はぱっと手を振りほどく。
さっきまでとはまた別の意味で顔に血が昇っていく。
きゃー何やってるの私!!!!! 恥ずかしい! 社長の前で!!
「ワシ、忘れられてたかな、いや、すまんな」
すみません、正直忘れていました。本当に申し訳ありません社長。
社長は椅子から立ち上がると、
「いいよいいよ、明日は休暇にしておくから」
「えっいいんですか!?」
「ああ。それじゃ、帰りは送ってもらってね~」
頬の色がぽーっとピンク色のまま、すすすと退室していった。
「あ……」
ありがとう社長!!!!




