第11話 手切れ金
それからはもう何を話したかあんまり覚えていない。
企業城下町藤田市の本家本元電機メーカーFUJITAの御曹司と、連絡先を交換してしまったことと、さらに家に招待されたことが、愛里の頭の中をぐるぐる回り続けている中、打ち上げ飲み会はお開きの流れになった。
店の外に出ると、街は賑やかで、行燈看板が夜を明るく照らして、東京をぐつぐつ煮詰めたような喧騒に包まれていた。
そんな光景さえ、今の愛里には現実離れして見える。
風もなく蒸し暑いことさえ、VR体験でもしているかのように錯覚めいたように感じた。
道路には、黒塗りの車が一台停まっていた。
後部座席に尚貴を乗せ、どこからか戻ってきていた郡山がこちらに向かって歩いてくる。
「今日は、尚貴様が大変お世話になりました」
正面で立ち止まると、丁寧にお辞儀をしてきた。
「いえ、そんな……」
辺りが静まり、すうっと涼しくなったように感じる。
なおさんは本当にとんでもない世界の人だった。
たぶん、《《上流階級の中では》》うちは過保護なのだということを尚貴は照れながら伝えようとしていたんだろうと今では愛里は思う。
常識が違いすぎる。
スケールのあまりの大きさついていけないし、強大すぎてちょっと、畏れ多いというか、こわい。
自分が常識的に行動したつもりでも、相手が相手だ。うっかり何かのはずみで睨まれでもしないか心配になる。
逃げ出したいほどに。
郡山は淡々とした手つきで懐から封筒を取り出すと、こちらに差し出してきた。
「こちらは、心ばかりですが謝礼金です」
え?
目の前のものがなんなのか、意味がわからなかった。
謝礼金?
だめだ。
もう、頭が追い付かない。
今日はただでさえコミケで疲れているのに、規格外の様々なことがありすぎて、情報処理が追い付かない。
なんですか、この封筒?
「どうぞお納めくださいませ」
「いっ、いえいえいえ……!」
とりあえず、お金を渡されようとしているから、という理由で、反射的に断る。
親戚のおばちゃんに「お祝い金だよ」とお金を渡されそうなときも、一旦断ってお母さんに相談してから受け取るし。
「あの、謝礼金って、そんな、お金をいただくようなことは、何も……」
なんでこんなものを渡すんだろうかと思って郡山を見ると、張り付けたような作り笑いで説明される。
「尚貴様は、ゆくゆくはグループの重要な役職に就かれる方でして、今回は、手違いでこのようなことをなさってしまいましたが、今後は私どもも目を光らせています。もうお会いすることもできないと思いますので、心ばかりではありますが、どうか、お受け取りを」
そして郡山はまた頭を下げる。定規で測ったように正確に同じ位置に。
「もらえませんそんなの……お友達になって楽しくやってただけですし」
とにかくもらえないよ……なんかこわいし。
それに、お金を渡すって、どうなの?
そりゃこちらは庶民だし裕福じゃないけど、でもなんか失礼じゃないのかな。
すると郡山は、コミケで二人きりの時に見せたような仕事人の表情を滲ませて言った。
「誠に恐縮なのですが、先ほど尚貴様と交換された連絡先を、削除していただきたく思っておりますので……ですのでどうぞ、ご遠慮なくお受け取りください」
夜風が吹いた。
(あ、そういうこと……?)
夢から目が覚めていくような心地になる。
(これ、手切れ金ってわけ、か)
FUJITAの御曹司に変な虫がつかないように離れていただきたい、失礼を承知でお願いします、これで満足してください、と。
封筒を持った手と反対の手が差し出される。スマートフォンを出せ、連絡先をこの場で消せ、ということだろう。
ここで従わなかったら、大変な目に遭うことは、想像に難くない。
FUJITAの意に沿わないことなんて出来るわけがない。
FUJITA本社に勤めている親戚もいるし、迷惑を掛けるかもしれない。もしかしたら自分の勤めている会社だって、潰されるかも。
世界が違うんだ。
怖い相手だ。
ちょうどいいよ。ここで離れてしまう方が、身のためだよ。
愛里はスマートフォンをポケットから取り出すと、郡山の見ている目の前で、アプリを起動。新しい友達の欄に表示されている「藤田尚貴」という名前をタップした。
消さなきゃ。
アイコンが拡大表示されて、そこに描かれていたのがイラストだったと気が付いた。
これは、尚貴が描いた絵だろうと愛里は思った。
繊細なのにとても華やかで、まるで本人みたいだったから。
中心に立つのは天使のように神々しい男で、彼の周囲には幾何学模様が描かれており、一つ一つの模様の中にも細かい絵がある。四季や、朝昼夜、それに天体など――万華鏡のように連なっている。
なおさんは、こんな細かい絵を描くんだね。描き込みが多すぎて、一目見たときはよくわかんなかったけど、でも――魅入っちゃった。すごいね。
漫画は、どんな内容なのか、読むのが楽しみだよ。
「削除をお願いします」
郡山が促す。
……なおさんに、感想を言ってあげたかったな。
私は、郡山さんを除けば、なおさんの描いた漫画の唯一の購入者なのに。
冬コミで……また会えたり、するかな。
無理か。
コミケに参加なんて、なおさんはもう二度と無理だろうと感じた。
今後は目を光らせておくって郡山さん言っていたし。
「失礼いたします」
郡山はじっとしたまま動かない愛里からスマートフォンを取り上げると、淡々と操作を始めた。交換したLINEアカウントをはじめ携帯番号が残っていないか隅々まで確認され、きっちり削除された。愛里の空いた手には、ずしっと重たい封筒が握らされていた。




