第1話 東京ビッグサイト、到着! 準備開始※表紙絵追加
コミケ、それは戦場。
買う側――一般参加者達はその日だけ限定販売されるグッズを手に入れるべく、小銭という名の実弾を用意して会場扉の前に隊列をなす。
売る側――サークル参加者もまた戦士である。彼らの背中のリュックからは丸めたポスターや什器が砲身のごとく突き出す。一足早く会場入りして迎え撃つ準備をする。
鈴木愛里もまたそんなサークル参加者だった。
東京ビッグサイトという名前の巨大な建造物を前に、すうっと胸がすく。
(今年も来たぞ~っ)
そんなことを叫びたくなる。ここで記念に写真を撮っている人もいた。
夏に開催されるコミケ、通称「夏コミ」にはもう三度経験しているが、毎度この大きな建物を見ると気合いが入る。
コミケとは、コミックマーケットの略称。プロも素人も関係なく「好きに作った作品」を三日間だけ集中して売り買いする場所だ。経済効果は百八十億円とも言われる「オタクの祭典」である。
(漫画、買ってもらえたらいいな)
愛里は自分の売り場スペースに到着し、印刷会社から自分の描いた「新刊」漫画本がきちんと届いていることを確認してほっと胸をなでおろした。
愛里は少女漫画家を夢見てオリジナル少女漫画を描いている二十五歳独身女子だ。コミケで頒布するのはもちろん少女漫画で、今回も〆切ギリギリまで粘って原稿を描き、必死の思いで入稿したものだった。売り物が無事届いていたことで余裕が生まれる。よし!
「今日はどうぞよろしくお願いします」と前後左右のサークルにあいさつすると、みんなにこにこと挨拶を返してくれた。お隣さんはまだ来ていない。
まずは人が少ないうちに大きな看板を立ててしまう。その後、畳まれたまま長机の上に置いてあるパイプ椅子を下ろし、宣伝パンフレット類を片付け、作品を並べていく。一日だけの即席本屋さん。売り物は自分の描いた作品。
愛里は小学生の頃から少女漫画家になるのが夢だった。
自分の考えた物語で、読者を思いっきり楽しませたい。
それを仕事にするために、高校生になった頃には漫画家新人賞に応募するようになった。大学も表現文化を学べる学部に入り、さらには漫画研究部に所属して漫画を描き続けた。
しかし拾ってくれる出版社はなかった。大学は卒業し、漫画とは関係のない小さな会社に就職もした。仲間達も社会人になり、漫画の道は諦めて家庭を持つ者も増えていく。
でも愛里はまだ真剣に漫画を描いていた。
やっぱりどうしても漫画家になりたかった。
仕事が終わったら漫画を描いて新人賞に投稿する日々が続いた。
落選に次ぐ落選、ここがダメあそこがダメ、直しても直しても、全部ダメ。
自分がどんなに心を込めて描いても描いても、特に誰も喜ばない。そもそも読んでくれる人が存在しない。審査員に落とされるために描いているのだろうか? なんて心は荒み、自分の漫画は駄目なのかと自信をなくしたりもした。自信をなくしたら、本来描けるものも描けなくなってしまう。
負のスパイラルに陥り、このままではまずいと、打開策を模索した。
純粋な作品発表の場が必要だと思った。
そして辿り着いたのがこのコミケだった。
コミケは温かかった。
落選通知で不要の烙印を押された作品も、自分にとって半身、我が子同然で、
その想い入れを、熱量そのままに受け入れてくれた。
熱い思いをぶつければぶつけただけ、手に取ってくれた人の顔に笑顔が増えるのを実感できた。入念に準備をすればするほど、即売会当日は充実したものになった。
コミケの理念。
それは、すべての表現者を許容し、表現の可能性を広げる為の「場」であることだという。
そんな「場」がこの日本に存在してくれていることに感謝の念を抱かずにはいられない。
(一人でもいいから、私の作品に興味を持ってくれたらいいな)
愛里はそう願うような気分で着席し、来るべき時を待つ。
それにしても。
(お隣さん、まだ来ないんだな)
まだ時間はあるが、サークル参加者は九割方集まっている。
もしかして、休み?
隣がもしお休みならそれはそれで気楽だし広々でラッキーだけど、閑散としてちょっと寂しいような気もしなくもない。
同ジャンルのサークルと親しくなれるのも魅力の一つなのだ。ここは創作の苦しみや喜びを共有し合う仲間と出会える場所でもある。