stage8 感覚痛と甘い抱擁
そこは大通りから外れた細い路地裏。
点在する店は軒並みシャッターが下ろされ、最後に開いたのがいつかわからないほど錆び付いている。
日はまだ昇り始めたばかりだがそれにしても暗い。
周囲を照らす街灯はなく道も整備されなくなってかなり経ったようで、あちこち好き放題に荒れている。
街から見放された場所。
そんな言葉がピッタリな光景だった。
しかし、そんな人が生きることを諦めた場所にも店を構える人間がいるようだ。
シャッターの開かれた先に入り口だけが申し訳程度に顔を出している。
店の外にはBARと書かれた立て看板。
傍には地下へ続く階段があり、そこを降りると木を基調としたお洒落な空間が現れる。
店内には優雅な大人の雰囲気が漂っていた。
カウンターとテーブル席に分けられた店内は20人程入れる広さ。
しかし、今日は営業を終えた後なのか、それとも初めからなのか客の姿は無い。
「ただいまぁ」
カランカランと店内に小気味の良い音が響き渡った。
階段から現れたのはエイヤ。
仮面は外してあるがボロボロの黒装束はそのままだった。
「おかえり、今日は随分と遅かったな」
声をかけたのはカウンターでワイングラスを磨いていた女性。
持っていたグラスを手際よく背中の棚へ戻すと、笑顔でエイヤを出迎えた。
女性はウェーブのかかった亜麻色の髪を邪魔にならないよう後ろに束ね、黒と白の制服に身を包んでいる。
二十代後半のように見えるが、見方によってはもっと若くも見える。
「なんだフレア。まだ起きてたのか」
「君がなかなか戻らないから心配でね」
フレアと呼ばれた女性は別の棚からマグカップを取り出すと一杯のコーヒーを淹れた。
たっぷりの砂糖とミルクを入れてカウンターへ置く。
そしてエイヤは立ち込めるコーヒの香りに導かれるようにしてマグカップの前に腰を下ろした。
「そんなに心配しなくても簡単に死にはしないって……。いや、今日はちょっとやばいのに当たったかな」
エイヤはアクリルケースを真っ二つにした少女を思い出してか表情を曇らせる。
「アイリスから聞いたが、パラディンが相手だったそうだな」
「そうだよ。何で俺が行った時に限ってそういう面倒なのに会うかねぇ」
「単純に君に運がないだけだろ」
「うるせぇ」
ぼやきながらコーヒーを口に含むエイヤ。
その甘さにホッとしてか、エイヤの表情が僅かに和らぐ。
「それにしてもそのパラディンはそこまでの相手だったのか? 君のそんな姿を見るのは初めてだぞ」
顔に浮かぶ赤い線と、ボロボロの黒装束を見てフレアは少し驚いているようだ。
「そうだよ。色々あったんだよ、こっちは」
エイヤは答えるのも億劫なのか、そのままカウンターに突っ伏してしまった。
「それとこれ。また新しいやつを頼む」
カウンターから起き上がろうともせずに、エイヤは懐から取り出した割れた仮面をそのままフレアに手渡した。
右半分が綺麗に無くなった仮面を見て、フレアは疲れたように溜め息を吐く。
「全く。私たちにとって素性がばれるのがいかに危険かわかっているのか……? と、言いたいところだが。今回はパラディン相手に頑張ったみたいだから、よくやったと褒めておこう」
フレアは大人の威厳を漂わせながら優しい笑みを浮かべた。
そして割れた仮面を持ったまま奥へと消える。
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
カウンターにだらしなく頭を乗せたままエイヤが疲れたように呟く。
そのまま目を閉じるとエイヤの表情から力が抜けていく。
このまま眠ってしまいそうな勢いだったが、しかしエイヤは突然何かを思い出したかのように目をカッと見開くと勢いよく飛び起きた。
「そうだ! アイリスはどこ行った!?」
エイヤは思い出した。
自分を置いて行った少女に何をすると誓い、そして後悔させてやるために自分が何を準備していたのかを。
しかし立ち上がって店内を見渡すが人の気配はない。
「ああ、アイリスなら私に子供を預けてすぐに出て行ったぞ」
フレアが興味無さそうな声と共に奥から戻ってきた。
「あの野郎。パラディンを俺に押し付けておいて感謝の一言も無しかよ」
エイヤの拳に自然と力が入るが、それをぶつける相手がいなければどうしようもない。
まあいたとしても、アイリスに軽くあしらわれる姿しか想像できないのだが。
「まあ、コーヒーでも飲んで落ち着きたまえ」
エイヤは言われて椅子に座ると渋々ながらも再びコーヒーに口をつけた。
「そう言えば子供の方は大丈夫なのか?」
本人がいない以上怒っていても仕方ないのでエイヤは話題を変えることに。
「ああ、今は奥でぐっすり眠ってるよ」
「そっか。そりゃよかった」
コーヒーの甘い香りを楽しみながら一時の安息に身を委ねる。
しかし落ち着けば落ち着くほど、自分の苦労をよそに楽した人間が頭にちらつきイライラは募るばかり。
エイヤは溜まった不満を吐き出すようにアイリスへの愚痴をこぼす。
「けどアイリスの野郎。俺がどんだけ酷い目にあったかわかってんのかよ」
ぼやきながらコーヒーを一口飲む。
「そう言ってやるな。アイリスにも事情があったみたいだからな」
「仲間を置いて逃げる事情なんてよっぽどのことなんだろうな」
どうせくだらない理由だと予想していたエイヤだが、フレアから口から出たのは予想外のものだった。
「同じ学園の生徒だったらしいぞ。そのパラディンの少女」
思わずコーヒーを吹き出しそうになったエイヤ。
あまりに予想外過ぎたのかゴホゴホとむせている。
「な! マジかよ!? それってさすがにマズいんじゃ!?」
「だから君に相手をしてもらったんだろう。私たちにとって素性がばれるのは命にかかわるからな」
「何だよ。そういう事なら早く言ってくれればいいのに」
唇を尖らせて不満そうなエイヤ。
「相手のいる前でそんなことを迂闊に話して聞かれでもしたらお終いだろ」
「それはそうだけど……」
他にもアイリスに対して言いたいことは多々あった。
だがフレアの言ってることが正しいこともわかっているので、エイヤは口をモゴモゴさせながら出てくる言葉を呑み込んだ。
「まあ、そういうことなら今回は許しておいてやるかな」
「何だ、また悪巧みでも考えてるのか?」
フレアは別のワイングラスを手に取ると慣れた手つきで磨いていく。
「別に、俺を置いて行った裏切り者に怒りの鉄槌を下してやろうと思ってただけだよ。ま、そういう事情があったなら許してやろうと思ってな」
上から目線でそう語りながらエイヤは再びマグカップに口をつけた。
しかしその声は不満というよりかは、どこか寂し気な気持ち押し殺しているようにも聞こえる。
そんなエイヤにフレアが磨ききった曇り一つないワイングラスをかざした。
そして片目をつぶってじっとエイヤを観察する。
店内の淡い照明もあってか、グラスの向こうに見えるエイヤの姿はとても幻想的な雰囲気を纏っている。
顔に浮かぶ痛々しい傷。
あちこち擦り切れて汚れた黒装束。
疲労感とは別に悲しげに揺れるエイヤの瞳。
フレアは何かに気付いたのか微笑みながらグラスを棚へと戻す。
そしてエイヤに背中を向けたまま、確信を突く言葉を口にした。
「アイリスに心配してほしかったのか?」
「…………っ!」
飲んでいたコーヒーを盛大に吐き出しそうになりながらも、どうにか堪えることに成功したエイヤ。
しかし動揺を隠すことには失敗したようだ。
「ちげぇよ! そんなわけないだろ! な、なんで俺があいつに心配してほしいんだよ……」
エイヤはカタカタと震えるマグカップを無事に着地させると、何故かもう一度コーヒーを飲もうとカップを持ち上げる。
しかし震えたままではコーヒーを飲むことは出来ない。
「君は本当にわかりやすいな」
「だ、だから、違うって言ってるだろ!」
エイヤはコーヒーを諦めて近くに置いてある角砂糖に手を伸ばすが、上手く掴めずに転がり落ちる。
相当動揺しているのだろう。
掴もうとしては逃げる角砂糖と、それを追うエイヤ。
「アイリスに見られる前で良かったな」
そんなエイヤの姿を面白そうにフレアは眺めていた。
「だから違うって!」
吠えるエイヤだが耳が赤くなっているのは何故だろう。
「アイリスから敵はナイフと短剣を使っていたと聞いたぞ。なのにどうして君の黒装束は切られた傷が殆どなくて、破られたものばかりなんだろうな。それとその土汚れ。街の中でつくことは無いはずだが?」
「これは……命からがら逃げる途中、敵に……!」
自分で言って何かに気付いたのだろう、エイヤが言葉を詰まらせた。
「敵が街の外まで追いかけて来たのか?」
その言葉は遠回しに“そんなことはありえないだろ?”そう語っているようでもあった。
「別に心配してほしいとかそんなんじゃねぇよ。感覚拡張を使ったから、しばらくは感覚痛に悩まされる俺の身にもなってほしいと思っただけだよ」
フレアから視線を逸らしたままエイヤはやっとの思いで言い訳を口にする。
「君がそう言うならそういうことにしておこうか」
「そういうことにするんじゃなくて、そういうことなんだよ!」
声を荒げれば荒げる程、エイヤの顔が怒りとは別の理由で赤く染まっていく。
そしておもむろに席を立つと、バツが悪そうに小声で呟いた。
「……着替えてくる」
エイヤは先程フレアが仮面を持って消えた奥へと足早に姿を消した。
そして再び現れたエイヤは、学生服に身を包んでいた。
心機一転とばかりにさっぱりした表情で席へとつく。
「言っとくけど、服を着替えたことに深い意味は無いからな」
フレアに念を押してマグカップに手を伸ばすエイヤ。
どうやらコーヒーを飲めるまでには精神的再建を果たしたようだ。
「アイリスに見られてからかわれるのが嫌だったから、じゃなくてか?」
からかうようなフレアの口調。
それはまるでアイリスを見ているかのようでもあった。
「ち・が・う!!」
絶対に認めないとエイヤが力強く否定する。
フレアはやれやれと首を振るとポケットに手を伸ばした。
「全く素直じゃないな君は、せっかくアイリスが君のことを心配してくれていたというのに」
「どういう意味だよ」
「これはなんだと思う?」
言ってフレアがポケットからペンダントを取り出した。
手の上で転がる星形の装飾の施された丸い形のペンダント。
中は赤く輝く粒子で満たされている。
「それって、もしかしてアイリスの光る粒子か?」
「ああ、これで君の感覚痛を抑えてやってほしいと頼まれてね」
「……なんだよそれ」
ぶっきらぼうに答えながらもどこか嬉しそうなエイヤの表情。
「じゃあ、早速始めようか」
フレアが引き出しからマッチとアイスピックを取り出した。
更に氷の入ったグラスも。
「軽く今の状態をチェックするから目は閉じるように」
「今はまだ大丈夫だよ」
優雅な大人の一時を演じるかのようにエイヤが白く染まったコーヒーを飲んで一息つく。
「君は変な所でかっこつけようとしてやせ我慢するからな」
「別にかっこつけてるわけじゃ……。自分以外の光る粒子を使うのが嫌なだけだよ」
「他者の光る粒子に頼らない君の生き方は褒めるが、これはアイリスが自分の意思で取り出したものだ」
「それでもなんだかあいつに借りを作るみたいで……」
中々煮え切らないエイヤにフレアが実力行使に移った。
「いいから黙って目を閉じろ」
エイヤのこめかみを鷲掴みにして、フレアが思いっきり締め上げた。
その細い腕のどこにそんな力があるのか、エイヤの頭にギリギリと音を立てて指が食い込んでいく。
「わ、わかった! わかったから手を離せって!!」
ジタバタと暴れてギブアップを訴えるエイヤ。
フレアが手を離すと薄っすらと涙目になった瞳を隠すようにしてエイヤが目を閉じる。
そして、さあ好きにしろと言わんばかりに椅子の上で姿勢を正してその時を待った。
右手は掌を上にしてフレアに差し出す。
「痛かったらすぐに言うんだぞ。止めはしないが」
だったら言うなよ。
喉元まで出かかった言葉をエイヤはグッと呑み込んだ。
「これは?」
フレアがエイヤの右手の掌にマッチの火を近づける。
「熱い」
「じゃあこれは?」
今度は氷をエイヤの掌に置く。
「冷たい」
「最後だ、これは?」
フレアがエイヤの指先を親指から順番にアイスピックの先端で軽くつつく。
「うーん、少し痛いかな」
首を捻りながら感じたことをフレアに伝える。
どれも当然の感想を口にするエイヤだが、アイスピックが小指に触れた時だった。
「痛っっってぇぇぇええええ!!!!!」
フレアから手をふんだくるとエイヤは勢いもそのままに床へと転げ落ちてしまった。
小指が無事かどうかを慌てて確認する。
「かなり初期だが感覚痛が早くも出ているな。悪化する前に抑えておこう」
エイヤは泣きそうになりながら小指にふうふうと息を吹きかけている。
まるでアイスピックが小指を貫いたかのような大袈裟なリアクションだが、本人には本当に小指が貫かれたように感じていたようだ。
「じゃあこれは?」
ふに。
床にうずくまるエイヤの背中に柔らかい感触が伝わった。
同時に自分が後ろから抱きしめられたことに気付く。
シャンプーの甘い香りと、背中に押し付けられた優しい二つの感触。
耳元で囁く蠱惑的な声にエイヤの顔が一瞬で赤く染まった。
しかし相手が誰かに気付いたエイヤは、目が覚めたように甘い抱擁から抜け出した。
振り払うように身をよじって振り返る。
そこにいたのはやはりあの少女だった。
「やっぱりお前かよ!?」
白い制服を完璧なまでに着こなして学生鞄を手に持った赤い髪の少女。
すらりとした身長に透き通るような白い肌はそれだけでも美少女と呼べるだろう。
しかし残念なのがその顔が見えない事。
牛の悪魔が嘲笑うように少女の顔を隠している。
「どうだった仔牛くん? お姉さんの甘~い抱擁に痛みなんて忘れちゃったでしょ」
唯一見える口元がクスクスと笑っている。
そこにいたのはエイヤをからかうのが好きで好きでたまらない悪戯好きの少女、アイリスだった。