キャンバス
誰だって感じたことがある。私はそう思います。
どこかに沈んでいた意識が浮かび上がってくる。重かった体が軽くなったような感じがして、枕代わりの腕に乗せていた頭を上げた。
窓から流れ込む優しい風がカーテンを少し靡かせる。外は夕焼けに包まれていて、教室もオレンジ色に染まっていた。
黒板の上の時計を見ると時刻は四時二十分。どうやら私は終礼の後、眠りこけてしまったらしい。先に帰ってしまったのだろう、いつも一緒に帰る彼女の姿はなかった。
久々に一人で過ごす放課後は物悲しい。誰かしらいるのだろうけれど、この場では人の気配が感じ取れない。こんなにも暖かい雰囲気なのに教室はとても静かで、このシチュエーションが気持ちに拍車をかけた。
どうしよう、もう家に帰ってしまおうか。
そう思うのに、当たり見回すとどうしても帰りたくなくなってしまう。まだここにいたいと思ってしまう。けれどずっとここにいても仕方ないので、暇潰しも兼ねて学校探検をすることにした。歩き回っていれば誰かに合うだろう。人に会えばこんな物悲しさは直ぐに消える。そう思った。
教室から廊下に出ると、どこに行こうか考える。右に行けば音楽室、左に行けば職員室がある。普段の放課後なら廊下にいても音楽室から聞こえるはずの、ドラムとギター、ベースの音が聞こえない。軽音部は今日、活動していないらしい。だったら職員室に行こう。生徒が残ってるのに先生がいない、なんてことはないはず。確実に誰かがいるだろうから。
私は左を向いて職員室に向かって足を踏み出した。
職員室前に着くと、私は扉の前に貼ってある職員室に入る時のルールを守って扉をノックした。けれど先生から中に入る許しが出ない。それどころか、中から声すらしない。
嫌な予感がして扉に手をかけた。この際、許しが出ていないのは気にしない。人がいないなら誰も許してくれないわけだし、無断で入ったことも気づかれはしない。扉を開けると、案の定、そこには誰もいなくて、ただただ先生たちの机に書類やパソコンが置かれているだけだった。荷物はあるから全員が帰ったわけじゃないだろう。それでも職員室に誰一人いないなんて、何か大きい問題でもない限り異様な光景だった。
誰もいない世界に一人だけ取り残された気がして、何とも言えない寂しさが押し寄せてくる。それに耐えるように、扉を閉めて俯いた。
別に一人が怖いわけじゃない。耐えられないものでもない。でもちょっと自覚してしまうと、どこまでも寂しさの海に落ちていきそうになる。必死に上に行こうとするのに足に何かが絡みついて私の邪魔をする。最初は振りほどきながら進もうとするけど、次第に疲れてきて足掻く力がなくなって。最後は押しつぶされて自分の意識さえも消えてしまいそうになる。自分で何とかしなければならない問題だということは分かっている。自分自身で抜け出さないと。それでもそうなる前に誰かに引き上げてほしいと、心の底でずっと願っていた。
学校を歩き回って見ると様子が変なことに確信を持てた。運動場には片付けられていないサッカーボールや野球ボール、バット、グローブ。教室に放置された鞄。流しっぱなしの水道。沈んでいてもおかしくないのに沈まない太陽。動かない時計。外に出ようとしても開かない校門。勿論、人はどこにもいない。
この状況がどういうことなのか、私には分からなかった。けれど妙に納得している自分もいて。帰れない理由もそこにあると薄々感じていた。
私は美術室に向かった。行こうとした理由は特にない。しいて言えばまだ行っていなかったから、ということと、美術室に導かれている気がしたからだ。
美術室に入る前に上履きを脱いで、専用のスリッパに履き替える。上履きは靴箱に入れた。
美術室に入ると、色がのせられたキャンバスがイーゼルに置いてあった。その作品を描いている人はそこにはいなくて、ただキャンバスの中でセーラー服を着た少女たちが楽しそうに笑っているだけだった。
椅子をイーゼルの前に置いてそこに座り、キャンバスに軽く触れてみる。塗られていない箇所のざらっとした感じが指先に引っかかった。そんな肌触りもこの空間も、全てが懐かしく感じられて、自然と涙が溢れる。そして思った。
ここに、私の『全て』があるんだ、と。
涙を止めもせずに流していると、後ろで扉が開く音がした。咄嗟に振り向けば私を見て不思議そうな顔をする、帰ったはずの彼女の姿があった。
「あ、ここにおった……ってなんで泣いてるん?」
「詩穂こそなんで……? 帰ったんちゃうかったん」
手で涙を拭って詩穂に聞くと、彼女は上履きを脱いでスリッパを履きもせず中に入ってきた。
「帰らへんよー。いつも一緒に帰ってるやん」
彼女は私の隣に立って、座ったままの私にはにかんだ。隣に彼女がいる。それだけで外れていたピースがあるべき場所に戻ったようだった。
「さ、帰ろ」
彼女が私に手を差し出した。
彼女も、絵も、この美術室も、学校も、全てが私を支えてくれている。そして背中を押してくれている。さっきまで帰ろうという気にはならなかったのに、今は彼女の手をとることになんの躊躇いもなかった。
二人でたわいもない話をしながら校門へ向かう。開かずの校門があっさりと開いて、彼女が先に外に出た。振り返って私を待っている。
もう外に出ることが出来るだろう。大丈夫、私は前に進める。
校門を通り抜けると視界が眩い光に包まれた。だんだんと見えなくなっていく詩穂が笑っているように思えて、私も笑い返す。
私の寂しさはいつの間にか消えていた。
耳元で鳴る不愉快な音で目が覚めた。重かった体が軽くなって、ベットから体を起き上がらせる。スマートフォンのアラームを止めると画面の時計は午前八時を示していた。仕事に行くための用意を始めないといけない。けれど私は時間の下の一件の通知を見て、中身を確かめることを優先した。
画面をタップしてみると、詩穂から久々に送られてきたメールが表示された。今日の夜、時間があれば会おう。そんな内容だった。夜に用事はないし、親友からの誘いを断る理由もない。了解、仕事が終わったら連絡して。スマートフォンに打ち込んで送信し、ロックをかけた。
午後七時十分。駅前に新しく出来たカフェで本を読んで詩穂を待っていた。昔から私も彼女も待ち合わせに遅れてくるタイプだった。既に待ち合わせ時間から十分程過ぎている。
彼女の遅刻癖はあの頃から変わっていないらしい。褒められたことではないけれど、許せてしまって笑みがこぼれた。
五分後、息を切らした彼女がやってきた。私の前に来るなり、手を合わせて、仕事が長引いて遅れた、ごめん、と謝る。元々怒ってなどいない私は、目の前の椅子に座るよう促した。飲食店に勤めている彼女は必ずしもシフト通りに帰れないことは分かっている。遅刻といっても今回は仕方がないことだし気にする必要はない。むしろ頑張ってきただろう彼女に、遅刻癖が直ってないと一瞬でも思った私を怒りたい。彼女にお疲れ様を送ろうと思ったが、言わなかった。言わなくても伝わっていたみたいだから。
それから、仕事の愚痴やら身近に起こったことを話し合った。次第に過去話になり中学時代の話になって、一つ一つを言葉にして行くと、忘れかけていた出来事まで引っ張られるように飛び出してくる。
あの頃は何でもした。今考えると馬鹿だ思うこともあるけれど、当時は自分なりに真剣に向き合っていて、限界を知らないからこそ出来たことがたくさんあった。学んだことで頭で出来るか出来ないかを考えてしまう今の私には、到底真似出来ない。過去の自分が少し羨ましく思った。
「そういえば今日の朝、夢に詩穂が出てきた」
どんな夢だったの、と聞いてくる彼女に見たままを話す。変わった夢だったから曖昧なところが多かったけれど、感じたものをそのままに伝えた。
あの夢は昨日までの私の心情を表していたんだろう。青春と呼ばれた時代はとても楽しく、満たされていた。何でも言い合える友達がいて、いつでも一緒で。なのに社会人になると上辺だけの付き合いも増えて、安心感なんてどこにもない。悩みが増えて、解決してもまた増える。どうしたらいいか分からなくなって、独りぼっちになったようで、毎日息苦しかった。
でもあの夢で分かった。確かに、私は今、一人で立っているのかもしれない。けれど独りになったわけじゃない。何も無くしてはいないし、私を支えてくれるものは私の思い出に、心に、存在する。だから不安になることはないんだ。
「そっか。寂しさって誰にでもあるよね」
「詩穂もあるん?」
「うん。実は今日誘ったんは寂しかったからやねん」
私が話している間に運ばれてきたカフェオレを彼女は恥ずかしさを隠すように飲んだ。
大学を卒業して社会人になった私と違って、高校を卒業して働きに出た彼女は私よりも早くこの感情を経験していて、私よりも長くそれに耐えている。彼女だって人間だ。同じ感情を抱いていてもおかしくない。どうして気づけなかったんだろう。
「あの絵を描いたときもみんなと離れるのが悲しくて、寂しかってん。だから消えへんようにどうしても楽しい思い出を形にしたかったんよね。まさか雪ちゃんの夢に出てくるなんて思わんかったけど」
私が夢で見た少女たちの絵は詩穂が描いてコンクールで賞を取ったものだった。数年経った現在も学校に飾られている。彼女は卒業式で泣かなかったし、寂しいなんて一言も言わなかったから、絵にそんな想いが込められてるなんて知らなかった。
絵が夢に現れるなんて、私は無意識に彼女の思いを汲み取っていたんだろうか。
「詩穂もあの絵を見に行けばいいと思うで」
あの絵は私に力をくれた。きっと彼女にも力をくれる。描いた本人だからこそ、もっと大きいものを得られるはずだ。
来週、行ってみる。
そう言って彼女は笑った。
大学の授業内課題で書いたものでした。寂しさって誰でも抱えていると思います。でも自分だけじゃないんだってことを少しでも感じてもらえたらな、と思います。