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雷神と白樺(1)



          1.


 天神の息子スカルパ(雷)は、若く麗しい神だった。

 長い銀色の髪を風になびかせ、晴れた夏空色の瞳は澄んで輝いている。雲に乗って天空をかけめぐり、時には自ら蒼白い光の龍となって(そら)をはせる姿には、同輩の神々も感嘆の声をもらすほどであった。

 天神にとって、自慢の息子だった。

 出来たばかりの世界を自由に駆けながら、けれども、スカルパの心は晴れなかった。何故か、日が経つにつれ、強いむなしさを感じるようになっていた。兄弟神たちは案じたが、本神にも理解できない空しさでは、どうすることも出来ない。

 スカルパは、沈みがちになり、やがて、でかけることもなくなってしまった。

『どうしたというのだろう、俺は。何故、こんなに寂しいのだろう』

 雲の上に腰をおろし、溜息をついていた。


 ある日、スカルパは、地上で楽しそうに笑う女神たちの声を聞いた。

 彼の妹ロマナ(湖)は、はるか昔に地上に降りて、そこで暮らしている。きっと、彼女の友達だろうと考えたスカルパは、何気なく湖の畔を見下ろした。

 そして、息を呑んだ。

 岸辺では、ちょうど、ロマナと三柱の川の女神たちが、春の日差しを楽しんでいるところだった。若葉の生いしげる草原に腰をおろし、笑いさざめいている。

 近くには、少年のような服装(なり)をしたイエンタ・テティ(狩猟の女神)やホウワゥ・テティ(魚の女神)もいたのだが、青年神は、春の白樺の女神の姿に目を奪われた。

 白い肌は新雪のようにけがれなく、頬はノバラの花びらのような淡い紅色。長い髪は冬の夜空さながら、つややかに輝いている。(みどり)の瞳は、陽光にきらめく若葉のごとく。すらりと伸びた手足はほそく、なまめかしい。その脚を湖の水にひたし、彼女は微笑んでいた。

 若き雷神は、一瞬で恋におちた。

 スカルパは、しばらく、女神から目を離すことが出来なかった。それから、そうっと溜息をついた。いつからか胸に抱いていた空隙をうめる相手を、やっとみつけたのだ。

 さて、どうしよう。


 天神の息子は、柄にもなく、己の感情にうろたえていた。遠くから女神のすがたを見詰め、溜息をつき、うろうろと雲の上を歩き、また戻って溜息をつく。彼女の声を聴こうと身をのりだすものの果たせず、諦めて立ち去ろうとするが、女神たちの笑い声を耳にすると、戻ってきてしまった。

 青年神は、いまや、苦しんでいた。むなしさは消えたが、恋焦がれる気持ちの切なさを、もて余していた。意を決し、妹のロマナ・テティ(湖の女神)に仲立ちを頼もうと、天の台座を降りかけた。


 その時だ。

 白樺の女神に見惚れていたスカルパは、足を滑らせ、雲の(きざはし)から転落した。

 まっすぐに空を()き、雪をいただく尾根をかすめて。雷神は、草原へと落ちていった。方向を変えることは、彼には出来ない。大地の神に引かれるまま、驚いた妹神(ロマナ湖)が眼をみひらく前で、何も知らない女神を直撃した。

 銀色の稲妻につらぬかれた白樺の女神は、声もなく、燃えあがった。


「兄上!」


 ロマナは叫び、他の女神たちは悲鳴をあげ、逃げまどった。雷光に召喚された火の女神も、自分が燃やしているのが生きた白樺と気づくと、悲痛な叫び声をあげた。

 ロマナと川の女神たちは、急いで彼女に水をかけた。イエンタ・テティと他のテティ(動物神)たちも、手伝った。

 スカルパは、呆然と立ち尽くしていた。


 やがて、火の勢いがおさまったとき、ロマナの腕に抱かれた白樺は、息も絶え絶えになっていた。

 女神の身体は、真っ二つに裂けていた。美しかった髪は焼け落ち、白い肌は焦げてくすぶっている。

 モナ・テティ(火の女神)は彼女の傍に跪き、こんなことをするつもりはなかったと言って泣いた。ロマナも、他の神々も、それはよく解っていた。どこであれ、求めるものの召喚に応じるのが、火の女神のつとめだからだ。

 スカルパは、妹神の視線をうけ、悄然とうなだれた。彼は、火の女神の隣に並んで立ち、涙を流した。


「美しき白樺のテティ(神霊)よ。赦して欲しい。これは事故だ。……私は、貴女に恋していた。傷つけるつもりなど、毛頭なかったのだ」


 白樺の女神は、最期に、澄んだ碧の瞳で彼を見詰めた。しかし、結局ひとこえも発することなく、息絶えてしまった。

 スカルパは勿論、森のテティたちの嘆きは深かった。モミやベニマツの兄弟神たちは、ロマナから彼女の遺体をうけとると、埋葬しようとした。

 その時、小さな泣き声に気づいた。

 神々が改めて見ると、割れた白樺の女神のからだの中に、双子の赤ん坊がいた。一人は女の子で、もう一人は男の子だ。ムサ(人間)の姿をした赤ん坊をみつけて、神々は顔を見合わせた。

 雷神と白樺の女神の間にうまれた子どもたちだということは、明らかだった。

 戸惑う神々のなかから、モナ・テティが進み出て、あたたかな腕で赤子を抱き上げた。男の子の方だった。


「兄上(スカルパ)に代わって、この子は、私が育てましょう。母神を燃やしてしまった罪を償うために。決して飢えさせず、凍えさせないと誓いましょう」

「では、この子は、私たちが育てます」


 死んだ女神の姉妹たちが、女の子を抱いて言った。


「偉大な天の兄上が、授けてくださった命です。この子のために、家を建てましょう。夏は涼しく、冬は暖かな家を。籠を編み、子守唄を歌いましょう」

「それでは、私も誓おう」


 スカルパは、涙でぬれた顔を上げた。


「我が血につらなる者たちのために、必ず春を呼び、夏を招くと。氷河を融かし、水の流れを絶えさせないと。……私が天を駆ける時には、見えるところにイトゥ(神幣)を飾っておくれ。それを目にする度に、私は約束を思い出し、その家に棲む者を守るだろう」


 モナ・テティも言った。


「私も、白樺のイトゥのあるところでは、穏やかに燃えるでしょう」


 こうして、神々は、祝福をさずけた子どもたちを連れ、離れていった。恋する女神をうしなったスカルパ・テティ(雷神)は、嘆きながら天へ帰った。


 男の子はアロゥと名付けられ、モナ・テティに養われた。女の子はシャナと名付けられ、シラカバのテティたちとともに暮らした。

 彼らの子孫は、アロゥ族はモナ(火)の刺青を入れ、シャナ族は生命の()の刺青を身体に刻む。そうすることで、自分たちが誰の子どもであるかを表すのだ。

 彼らの棲む家には、シラカバのイトゥが飾られている。スカルパとモナ・テティは、それを観るたびに、(いにしえ)の誓いを思い出している。


          **


「おはよう、タミラ」


 高床式倉庫のなかで、干したキノコとホウワゥ(鮭)を片付けていたタミラは、聞きなれた声に顔をあげた。入り口から外を見ると、仔ユゥク(大型の鹿)の毛皮の外套を羽織った少女が、にこにこと微笑んでいた。


「おはようございます、ラナ様」

「はいってもいい?」


 乳母の家を指さして、ラナは、声をひそめた。

 タミラの一人息子のビーヴァは、五日前から、氏族の刺青を彫る儀式に臨んでいる。潔斎して家にこもり、成人の証である炎の紋様を、左の頬に入れてもらう。刺青が彫りあがるまでは、家族以外の者と会うことは出来ない習わしだ。

 乳兄妹のラナは、ここ数年は父王の家で寝泊まりしているのだが、日中は乳母一家と過ごすことが多い。ビーヴァの潔斎の間、彼に会うことを控えていた。

 そろそろいいかと思い、訪ねて来たのだ。

 タミラは、笑って頷いた。


「会ってやってください。あの子ときたら、大袈裟に痛がって、動こうとしないんですよ」


 そういうと、倉庫のなかを片付ける作業に戻った。


「ビーヴァ?」


 前室と居間を仕切る毛皮をかきわけて、少女が顔をのぞかせた。彼女には珍しく、ひかえめな口調だ。ベニマツの板敷の部屋のなかを眺め、兄をさがす。

 炉から少し離れたところに横たわり、こちらに背を向けている姿があった。ほどけかけた黒髪が、床に輪を描いている。身体の左側を上にして、樹皮衣はゆるく羽織っていた。

 眠っているのかと思って近づいたラナは、底光りのする黒い瞳に見据えられて、呼吸を止めた。


「ビーヴァ。大丈夫?」

「…………」


 ビーヴァはうすく唇を動かして答えたが、声が小さすぎて、何と言ったのか分からなかった。ラナが訊き返そうとすると、面倒そうに目を逸らしてしまう。

 理由は簡単だ。とにかく、痛いのだ。


 ビーヴァの左頬には、彫られたばかりの刺青があった。指をひろげた手のような、炎の象形(かたち)だ。頬骨の上から顔の半分を覆い、顎の線をこえ、首へと続いている。耳朶の後ろから鎖骨へつながる線は、渦を巻き、肩へ向かっていた。

 濃紺の墨のところどころに、緋い血がにじんでいた。かさぶたのついたところもあるが、まだ、腫れがひいていない。敏感な場所に彫られた傷は、特に痛みを伴った。

 しゃべるために口を動かせは、当然、頬と顎も動かさなくてはならない。刺すような、ひきつるような、燃えるような感覚に、ビーヴァは黙って耐えていた。


「すごい。きれい……」


 ラナは、そんな乳兄妹(あに)を、能天気に眺めた。大人たちの刺青は見慣れているが、ビーヴァのそれは、初めてだ。温和なビーヴァに、勇ましい炎の紋様は似合わないのではないかと想像していたが、流れるような線は、優雅といえた。

 息子に刺青を施すのは、父親の仕事だ。氏族の紋様と、本人の希望に合わせて図柄を決める。ラナが予想していたより広い範囲に彫られているのは、それだけビーヴァが我慢強い証拠だった。羽織った衣の襟を大きく開けているのは、布が皮膚に触れると痛いからだろう。


 ラナは、普段みることのない首すじの紋様を、まじまじと見詰めた。やがて、ふと、悪戯したくなった。

 少女は、動けないでいるビーヴァに顔を寄せ、紅く腫れている皮膚に、ふううっと息を吹きかけた。


「…………!」


 ビーヴァは、怒りと驚きに、はね起きた。抗議の声をあげかけ、痛みのあまり、絶句する。

 ラナは、けらけら笑い出した。


「……ラナ」

「だあって。ビーヴァったら、返事してくれないんだもん!」


『だからと言って、これはないだろう』 ビーヴァは言い返したかったが、笑い転げているラナを見ると、言葉を失った。溜息を呑み、苦虫を噛み潰す。仕草ひとつひとつに痛みが伴ったが、気にすることにも疲れていた。

 息子の気持ちを知っているのかいないのか。タミラが、籠を抱えて戻るなり、叱咤した。


「ビーヴァ。お前、起きられるなら、起きとくれ。いつまでも食べないんじゃ、弱ってしまうよ」

「えっ。食べていないの? どうして?」


 ラナは、黒い目を大きくみひらき、瞬きをした。ビーヴァは、身体から力がぬける心地がした。いったい、この妹は、自分をどんなムサ(人間)だと思っているのだろう。


「痛いんだよ……」


 息子の数倍の声量で、タミラが説明した。


「口を開けるのが痛いとか言って、汁物しか食べようとしないんですよ、この子ときたら。情けないったら」

「…………」

「寝てばかりいないで、起きなさい。ラナ様は、朝餉(あさげ)は召しあがったのですか?」

「まだよ。タミラと一緒に食べたかったから」

「まあ、嬉しいことを仰ってくれますねえ。待っていてください。今、したくしますからね。シム(団子)とホウワゥ(鮭)でいいですか?」


 自分そっちのけでおしゃべりを始めた母と妹を眺め、ビーヴァは、そっと嘆息した。とたんに、焼けつく痛みが左の肩にはしったが、なんとか(こら)え、胡坐を組む。

 母に言われずとも、情けないことは承知している。これほどとは、想像していなかったのだ。聞かされていないと抗議したかったが、話せば不要な恐怖を与えるからと、遠慮されていた可能性に思い至った。

 或いは。大人だけの、禁忌というやつかもしれない。

 大人になったのか? 自分は。――ビーヴァには、全く実感がわかなかった。刺青を入れるのは、そういう意味のはずだが、ひたすら痛いだけだった。ラナも母も、いつも通りで、何かが変わったとは思えない。

 変わることがあるのだろうか?

 少年がぼんやり考え込んでいると、ラナが、明るい声をあげた。


「ケイジ!」

「ラナ様、いらっしゃい。ビーヴァ、起きたのか」


 川へ水汲みに行っていたケイジは、提げていた手桶をタミラに渡し、部屋に入って来た。薪にするベニマツの枝も持っている。王の娘には簡単に挨拶をして、壁際に枝を置くと、胡坐を組む息子へ近づいた。


「父さん……」


 ビーヴァは、かしこまった。水汲みは、彼の仕事だからだ。潔斎している間は外へ出られないので、父が代行している。

 ケイジは、片手をあげて息子を黙らせると、頬から首筋にかけてひろがる刺青を、眼を細めて眺めた。


「すこし、腫れがひいてきたな」


 得心したように頷き、つけ加える。


「かさぶたを剥がすなよ、ビーヴァ。きれいに仕上げたいなら。痛むか?」


 息子の襟を直してやりながら、(わら)った。


「今が、一番痛い時期だ。あと十日もすれば、気にならなくなる」


『そんなにかかるの?』と、ビーヴァは口には出さなかったが、顔に現れたのだろう。父は、くっくっと、喉の奥で低い声を転がした。


「こすったり、かさぶたを剥がしたりしないなら、もう、外に出て構わないぞ」

「本当?」


 ケイジは、息子の頭に右手をのせ、軽く揺さぶった。それから、炉の傍の家長の場所に、腰を下ろす。胡坐を組み、タミラの差しだす椀を受け取った。

 タミラは、息子に声をかけた。


「ほら、ビーヴァ。これならどうだい?」


 母は、食べやすいようにくずしたウバユリの団子とホウワゥの粥を用意してくれていた。

 ビーヴァは、のそのそと動いてラナの隣に座り、器を受け取った。気持ちは既に、外へ出かけている。


「俺、エビに見せたいな」


 大きく口を開けると傷がひらくので、用心して食べる。ケイジは頷き、焼いたホウワゥの身を裂いてかじった。


「エビなら、刺青の扱いも知っている。教えてもらうといい」

「はい」

「姉妹(同氏族の成年女性)に対する礼儀に、気をつけるんだよ」


 ビーヴァは、母の言葉の意味が一瞬わからず、瞬きを繰り返した。タミラは、心配そうに彼を見遣った。


「もう子どもじゃないんだから、ぼんやりしているんじゃないよ。髪を分けた(成人した)姉妹に会ったら、どうするんだい?」

「あ……」


 ビーヴァは、頬の痛みを忘れて、ごくんと粥を飲みこんだ。ラナは、興味津々、兄の横顔を見上げている。

 ビーヴァは、口ごもった。


「ええと……顔をそむける?」

「お前のモナのしるし(火の刺青)を、見せるんだよ」


 タミラは、肩を落とした。


「相手のしるしも見ずに、顔を背ける奴があるかい。お互いに確認できるまでは、見たっていいんだよ」

「…………」

「まっすぐ目を見たり、話しかけたりしちゃいけないのは、アロゥ氏族の姉妹だけだ。私やロキは、かまわない。アリやニレは、駄目なんだ。わかるね?」


 ビーヴァは、潔斎に入る前までは普通に接していた女たちの顔を思い浮かべた。同じ血に連なる女性の頬には、炎の刺青があることを、想い出す。もとより、滅多に話をする相手ではなかった。

 エビの妻、ロキは、ロコンタ氏族の出身だ。エビ同様、何かと自分に目をかけてくれている。彼女とはこれまで通り接してよいのだと理解して、ビーヴァはほっとした。


「ごちそうさま。俺、行ってくる」


 空になった椀を置き、ビーヴァは、手早く衣をととのえた。ほつれかけた髪は、額帯(ひたいおび)で押さえる。いそいそとチコ(革靴)を履いて出かけようとする息子の背に、タミラは声を投げかけた。


「もう食べないのかい? 痛みは?」

「大丈夫」

「慌てて、転ぶんじゃないよ。気をつけて――」

「わかってる」


 おざなりに応えると、ビーヴァは、振り向きもせず、出ていった。

 ラナは兄を見送ると、食事の手を止めたまま、乳母を見た。タミラは、溜息まじりに肩をすくめた。


「大失敗をしなけりゃいいけど……」

「失敗も経験のうちさ。すぐ慣れるよ」


 ケイジは鷹揚にこたえたが、タミラは相変わらず不安げだった。


「あの子の場合、失敗したら、女たち全員と喋らなくなりそうですよ。見分けるのが面倒くさいとか言って」


 この言葉に、ケイジは、フッと苦笑した。――数秒後、ふふっと息を抜き、やがて、肩を揺らし、わき腹をおさえて笑いだした。

 物静かな男が、めずらしく声をあげて笑うさまを見て、タミラとラナは、顔を見合わせた。


「どうしたんだい? あんた」

「ケイジ?」

「いや、何でもない……」


 言いながら、ケイジは、声を殺して笑い続けた。身に覚えがある、とは言えなかった。


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