〜汚れた誇りは身体を締め付ける③〜
「アナタもなかなかに強情ですね。黙っていれば痛い目に会わずにすむというのに」
「……この世界にはな、己よりも大事な物があるのだよ。私はそれを、ただ手放したくないだけだ!」
自分勝手だと言われるかもしれない。
我が儘だと言われるかもしれない。
――それでも、あの子は守りたい、傷付いてほしくない。
その為ならば、どんな苦行にも耐え抜く事ができる。
そう、約束したのだ。あの時、彼と――――彼?
私は一体何を言って――
考えの最中、自分の周りを火が囲んだと思った瞬間、ヴォブリットの意識を遮断された――
「う……ん」
目が覚めると、そこは見慣れない部屋だった。
書類が床や机に乱雑し、置かれた本棚には、背表紙に日本語でない様々な国の文章体を載せた本が、所狭しと詰められている。
西側に大きく付けられた窓からは、夜の帳の落ちた街並みが窺える。
そして、少女は自分が動けない事に気付く。
「なっ! これは……」
十字型の台に、両手両足を寝かされるように拘束されていた。
拘束具を外そうと力を込めるがビクともせず、やがて、諦めたように力を抜く。
(自力での脱出は無理ですか――しかし、あの、意識が無くなってしまった時……)
先ほど、駐車場で穴に触れた時、何かが身体を駆け巡った。
悪寒や違和感とは違う、何か、懐かしさのある感覚……そう、まるでアレは――
「目が覚めたかな、マガイモノよ」
そう考えていた刹那、部屋の入口から声が聞こえた。
見ると、男が立っていた。頭や髭に白が混ざっている事から、相当の歳だと窺えるが、放っている雰囲気は老若云々よりも凶悪さに満ちている。
ヴォブリットと比べると貧弱としたいえない身体つきながら、彼よりも恐ろしいと思ってしまう。
それは多分、男の纏っている、オーラのせい。
そして気付く。目の前にいる男こそが――
「……ラーナ大佐、ですね」
「ご名答。私は世界警察機構日本監国支部、迎撃武器・能力開発研究局総合管轄者、ラーナ大佐だ」
自らの肩書きを誇示するように言った後、イスに腰掛け、机に肘を付きながら下卑た笑いを浮かべる。
「くくく、やっと……やっと見つけたぞ――『他人の力をコピーする』フラスト遣いっ!」
感極まったように叫ぶラーナのその言葉に、シエルは目を見開く。
「なぜ私の力の事をっ……」
そう問いただそうとした時、ドアから誰かが入ってくるのが見えた。
シルクハットを被り、大きな鉤型の鼻が特徴的な顔。
とび色をした目は優しそうにも、冷たくも見える老人と、黒いスーツ姿の、存在感の薄い人達に支えられた――ヴォブリット。
「おじさんっ!」
予想はしていたが、あまりのヴォブリットの状態に思わず声を張り上げてしまう。
左手は手首から上がなく、傷口は爛れたようになり、身体の所々には赤黒い斑点が付いている。
顔は青白く、目の焦点もゆらゆらと揺れ定まっていない。
「シ……エ……ル」
だが少女の呼び声に反応し、わずかばかり目に生気が戻ったように感じられる。
ヴォブリットを床に転がした後男達は下がり、残ったのは老人のみだった。
「――おじさんに何をした!」
老人を睨み付けるが、気にした様子もなく、穏やかに喋ってくる。
「……初めまして、お嬢さん。私は炎といいます。彼には暴れられては厄介なので気絶をして頂いただけでございますよ」
「貴方もフラスト遣い……なんですね?」
「えぇ。お嬢さんと同じ化け物です」
その言葉にピクンと眉を上げるが、反論はせず黙っておく。
――その通りだと、納得したのもあった。「しかし、歴史に残る日だと言うのにギャラリーが少なすぎるな……おい、お前も顔を見せて挨拶をしろ」
ラーナは低い声色でそう言うと、自分の座るイスと机の間にある空間に手を伸ばす。
そして引っ張られるようにして顔が現われたのは――
「刃!?」
炎が驚きの声を上げる。
そういえばマガイモノの少女と一緒に連れて来られたはずの刃が、部屋に来ても姿が確認出来なかった。
それを主に聞こうと思ってはいたが……まさか、こんな――っ
窓から差し込む僅かな夜景の光と、シエルの拘束された台を照らす照明しか光源がない部屋の、隅に置かれた机の周りは薄暗かったが、シエルには彼女の状態がよく見えた。
そして、驚愕に顔を染める。
怒りと侮蔑の入り交じった恐ろしい表情で、ほくそ笑む男を睨み付ける。
「この……外道がっ」
刃は狂ったように叫びだした時とは変わっていた。
机から覗く彼女の肩には、あの奇抜で華やいだ服は見られず、綺麗に整えられていたストロベリーブロンドは見る影もない程汚れていた。
暗闇に浮かぶようにある彼女の黄色の瞳は喜色を帯び、その口からは粘着質の液体が糸を引いている。
「主……一体刃はどうしたのですか?」
「あの時に完全に壊れてしまったようでな、私の寵愛を受ける事しか考えられなくなった。もうフラスト遣いとして使い物にならないだろう」
掴まれていた髪を離され、また彼女は消える。
そして、微かに部屋に響く、水音。
信じられないという顔で呆然と立ち尽くす炎。
感情を押さえずに、ラーナに向け憎悪に満ちたまなざしを送るシエル。
ヴォブリットは、以前床に倒れ伏したままだ。
「仮にも人の上に立つ人間が、よくこんな非人道的な事が出来ますね」
「何をいう。刃は望んで今の状態になったのだ。悪く言われる筋合いは無いと思うぞ」
そう言ったラーナの視線はどこまでも冷淡で、寒気を感じさせる。
だがそれでも、シエルは言わずにいられない。
「彼女は貴方を慕っていました……例え、造られた感情だったとしても、です。なのに貴方は――これ以上彼女から何を奪うつもりですか!」
心を奪われ、身体を奪われ、誇りをも奪われてしまった刃。
様々な出会いのある世界の中で、なぜ彼女だけこんな目に合わなければならないのか……なぜ、私は、『彼』と別れなければならなかったのか。
いつしかシエルは自分の姿を彼女に重ねていたのかもしれない。
それゆえ、あの男に対する怒りは――尋常ではない。
「奪うか……。確かに私はこの女の心を壊し、疑似的な愛という支えを植え付けた。しかしそれは仕方のない事だ、実験体として引き取ってすぐ使い物にならなくなっては困るからな。私に従順な方が後々楽に実験を出来る――だが」
途端苦虫を噛み潰したような顔になり、右手を張り上げる。
「私の、理論はっ、完璧なものであったのにコイツはっ! 予想とは違う力を身に付けたんだ!」
何度も振り下ろし、その度に乾いた音と小さな悲鳴が響く。
「っやめなさい!」
シエルが叫んでも止まる事なく、嗜虐的な笑みを浮かべながらラーナは続ける。
「こんな力など、私のっ、求めている、ものではなかったがっっ! ……そのまま捨てるには金を費やしすぎており勿体なかったのでな、以降戦闘訓練を積ませ、私の寵愛を受ける身となっている」
息を切らし、手を止めたラーナの足元からは、また、水音が響いてくる。
「……君はなぜフラスト遣いが現われるようになったか、考えた事があるか?」
いきなり話を変え、シエルに質問を投げかけるラーナ。
睨みながらもその質問にシエルは答える。
「貴方のような外道な人間を殺すため」
「くくっ、そうかもしれんな……しかし私は思うのだ。フラスト遣いは神が人間に与えた罰なのだと」
両手を広げ高らかに言う。
シエルは唐突すぎる話に付いていけず、固まったようにラーナを見た――
入口付近で見ていた炎は、自分の主の言葉にまるで肩透かしを食らったような表情をしていた。と、その足首を誰かに掴まれた。
「……何かご用でしょうか?」
殺気を含む視線の先には、倒れたままのヴォブリットがいた。
彼は、残った右手でしっかりと足首を掴んでいる。
「本……当に、このままでいいのか。あんな男に……付いて……行き続ける、のかっ」
今だ光が僅かにしか宿っていない目ながら、その光が強く輝いている。
彼の強固な意志は、まだ折れてはいない。
「アナタには関係の無い事でしょう。それに、私達は主に命を救われた者……その恩情に報いるのは当然の事です」
「それは……彼女、を見ても、思っている……のか?」
その言葉に、心臓が跳ねる。
確かに話を聞くと、刃は可哀相だと思う。
そんな風に追い込んだのが慕い続けたあの男だという事も、分かる。けれど――
「……アナタがあの子を守りたいと思うように、私も、守りたい人がいるのですよ」
ふと、ある少女の顔が浮かぶ。
唯一自分に残された肉親の、病弱でベッドに寝たままの少女の顔が。
「私は、あの子の多額の医療費を主に出してもらったのです。自分の命よりも大切なあの子を、救ってもらったのです――裏切る事など、出来るはずがないでしょう」
――多分、主が助けてくれたのは私達がフラスト遣いだからだろう。
外を見たい、外を歩きたいと願い続けた結果、精神のみを自由に飛ばせるようになったあの子の力を。
そして、慈悲の無いこの世界を燃やし尽くそうと思った、憎悪から生まれた私の力を、求めたまでに過ぎないのだろう――それでも、助けてもらったのは事実なのだ。
――変わらぬ真実なのだ。
「……そ、れは、あの時聞こえた声の、少女の事か?」
あの時? ――ああ、モニター室の時の事か。
「そうですよ。あの声の子が、我等が主に助けてもらっ……た――」
――そこで、異変に気付く。
あの時から少女の声がまったく聞こえこない。
耳を塞いでいても脳に直接響くような、変声期前のあの声が、聞こえないのだ。
嫌な予感が全身を駆け巡り、最悪な予想をした炎は、ラーナを見た。
――彼は、ただただ、己に酔うように笑い続けていた。
「そこのお前、止まってこちらを向け」
エレベーターに向かっていると突然呼び止められた。
数人の、警備員らしき男達が近付いてくる。
「地下には今、非常警戒体勢が発令中だ。その専用エレベーターは使用禁止だ」
「非常警戒体勢?」
「ああ、地下の駐車場で社員の1人が倒れていてな。
何人かがその社員と一緒に奇妙な出で立ちの少女を確認している事から、外部からのテロと予測しその一帯を立入り不可にしたのだ……放送を聞いてなかったのか?」
目の前の男が訝しげな視線を送ってくる。
後ろに控える何人かも、腰の物騒なモノに手を添える。
「氏名と配属部署を言え」
いきなりの上から目線。
ちょっと……いやかなりムカついてきた。
「言えと言ってるだろ! 我々は不審者に対し逮捕する権限を持って――」
話の途中ではあったが、これ以上は聞く気がなかったので延髄にキツいのを一発入れて気絶させた。
「き、貴様! 何をするっ!」
後ろに控えてた男が慌てて腰のモノを抜くが、それよりも早く私は近付き首にナイフを這わせる。
「動くなよ? そんでこのまま一緒に来い。エレベーターで地下に向かうから」
男は脂汗をかきながら何か言おうとしたが、私の威圧感に押されたのか口をつぐんでしまった。
騒然となる辺りを見回しながら、私は悠然とエレベーターに向かう。
「さぁて……手のかかる弟子の為に、久しぶりに暴れようかな」
目的地はもちろん、三階だ――。
炎が先程から立ち尽くしている事に、ヴォブリットは疑問を浮かべていた。
まるで何かとてつもない事に気付いたように顔を強張らせ、ラーナを見つめている。
(一体どうしたと言うのだ?)
理由は分からないが、とにかく今がチャンスだと思った。
ヴォブリットは全身の力を振り絞り、そして膝立ちの体勢になる。
(ヤツは炎を遣っていた。あの時、多分私は酸素欠乏症にかかったのだろう)
火は酸素を使って燃焼する。ヴォブリットの周りに現われた火が酸素を使い急速減らした結果、彼の脳は意識を遮断させたのだろう。
(回復するまで時間がかかるが……今はそんな悠長な事は言ってられん)
彼の視線の先には、台に張り付けにされたシエルの姿。
一刻も早く拘束を解いてやらねばと、気力を使い立とうとしたその時、ヴォブリットではない誰かが、動き出した――。
「……どうした?」
ラーナは近付いてきた炎を見ずに問う。
目線を伏せたまま、炎は震える声で聞いた。
「――あの子を、どうしたんです?」
「やはりその事か。心配ない、悪いようにはしない」
分かりきった事を聞くなと言うように平坦な声で返し、手を払うような仕草をする。
「分かったら大尉を見張っていろ。今にも立とうとしているぞ」
見抜かれていたらしく、それを聞いたヴォブリットは低く唸る。
だが、炎は以前ラーナの横に立ったままだ。
「……まだ何かあるのか?」
多少苛立ったように言ったラーナのこめかみに、炎の杖が向けられていた。
「あの子を、どうするおつもりですか?」
その声には怒りが籠っており、炎の身体から感情が洩れ出すように、火花が散る。
「あの子に手を出すとどうなるか……お分かりですかっ」
冷淡に言い放った言葉に、だがラーナは視線も向けず抑揚のない声で喋る。
「君も私に手を出せば……その子がどうなるか分かっているか?」
炎は歯ぎしりした。
こんな、こんな男に今まで仕えていたのか……絶望と怒りが腹の中で混ざり合い、マグマのように噴き出そうとするが、耐える。
さっき男が言ったのは脅しではないだろう。
やると言ったらやる男なのだ――今は、耐えるしか、ない。
砕けそうな程に奥歯を噛み締め、炎は静かに杖を下ろした。
「ふん、それでいいのだ。先程も言ったが悪いようにはしないつもりだ。あの力はなかなかに珍しいからな、じっくりと調べていく事にする」
その言葉に炎は眉を吊り上げ、怒りに身体を震わせる。
青白い火花が飛び散り、彼の押さえきれぬ感情を現わし続ける。
「アナタという人はっ…あの子が病弱と知っているでしょう!」
「ああ、あと余命幾許も無い事も知っている。だからこそ死ぬ前に色々調べねばならんのだろう?」
その言葉からは悪意が感じられない、どこまでも真直ぐな――男の、欲望。
「後遺症の残らん睡眠薬で眠らせ、今は同階の研究室に連れて行ってる。後で最後の面会をさせてやる」
ガチャガチャとベルトを締める音がし、男は立ち上がる。
「さて、ではマガイモノよ。私の言う事を聞いてもらおうか」
そう言って男はシエルに近付いてゆく――。
エレベーターに気絶させた男を残したまま、ナナエは三階に降りた。
ひんやりとした空気の漂う中、足音を響かせながら目的の扉に向かう。
(確か自白剤飲ませたヤツから番号を聞き出してたけど……何番だったっけ?)
鯉瀧ちゃんを助けに行くまでは覚えていたんだけどなぁ、と思っていると、前の方から複数の足音と声が聞こえた。
すぐにナナエは足音を消し、気付かれぬように近付いてゆく。
複数の足音は、目的地の扉とは違う方向に向かっているようだった。
途中の柱に付けられたプレートを見てその行き先を確認する。
「……研究室?」
不審な響きのそれに導かれるように、ナナエは足音に付いて行く事にした……顔に獰猛な笑みを張り付けて――。
「その前に質問をさせて下さい」
近付いてくるラーナに対し、シエルは敵意ある視線を向ける。
「なぜ私の力を知っていたんですか?」
「その疑問はもっともだ。いいだろう、話してやる。私の崇高なる思想と、偶然にも知り得てしまった真実を」
本当は喋りたかったのだろう、男は喜々として話し始める。
「私は以前からある研究を進めていた。それは……『力』の無力化。いくら強力な武器を作ろうとフラスト遣いの前では役に立たない。それは変える事の出来ない事実であった」
「――その通りです。例え同じ種族でもネコがライオンに挑むようなものです」
「そうだな……しかし、私は遂に作り出したのだ! ある金属を!」
「ある金属……だと?」
ヴォブリットが思わず聞き返す。
「そうだ。その金属はフラスト遣いの力を受け付けず、その攻撃であればどんなものであろうと防ぐ事が出来る」
「……貴方達にとっては夢のような金属ですね」
「これを使えばフラスト遣いを殲滅できると思った。そして、その時に私は偶然にも知ったのだよ」
「……何をです?」
「君はマガイモノであって、マガイモノではない」
――何で
「その二つ名は元々は『彼』のものだろう? それを君の二つ名だと世界中が勘違いをしている」
――何でその事を知ってる?
「最初は炎の力で金属を溶かせるか実験していた。金属で箱を作り、その中に手近にあった物を入れたのだ……その時に起こったのが、一年前のあの事件だ」
――そういう事か
「……そしてその中に入れた物の中で、彼に関する情報と、一年前の事件とを見比べ、記述に違いがある事に気付き、私の過去を調べたと。私の力はその時に知ったんですね」
「ああ。どうやら彼も昔からWPFと協力していたようだな。細かな経歴が載った書類があったよ。そしてその力は記憶の消去……君の力は『他人の力のコピー』であろう」
その話を聞いて、シエルは内心ため息をついた。
こいつは彼の事を偶然知っただけ。
彼に関する全ての情報が消えた中で、偶然難を逃れた書類を見ただけ。
手掛かりは何も……無い。
「そしてもう一つ……彼が昔、力を暴走させた際に出来た、空間の隙間に関する記述」
シエルは伏せていた目を上げた。
「今なん……て」
「WPFに調べられた事があったようでな。私はそれを読み、その隙間に渡る方法を見つけ出した」
悪夢のように笑う男から、天使のような甘い響きが聞こえる。
待ち望んだものが、今、目の前の男が持っている。
「私に協力すればその方法、教える事を約束しよう――悪い話では、ないだろう?」
理性に霞みがかかったようになり、シエルは純粋なる自分の欲望が膨らんでいくのを感じていた――。
「まさか、本当に実在したのか……」
今しがたラーナの話を聞き、ヴォブリットは驚きの声を上げた。
「シエルの言っていた事は嘘ではなかったのだな……」
驚きと同時に、安度感が心に湧いた。
シエルの言っていた事が、真実だった事がなにより嬉しかった。
そして、あの時一瞬だけ思い出した誰かとの約束も今では合点がいく。
「約束したのだな、私は――あの子を守ると」
そうて分かればやる事は決まっている。
今、少女を丸め込もうとしているラーナを捕まえ、情報を聞き出し彼を救い出す。
そう思うと、力がみなぎってきた。
少女の真なる笑顔を取り戻す為に、必死に立ち上がろうとする。
そんなヴォブリットの視界の端に、立ち尽くしたままの炎が見えた。
老人そのままの顔に、更に疲れを滲ませ、ラーナを見ている。
先程までの雰囲気とは違い、今は吹けば折れてしまいそうに弱々しく見える。
火花も散ってはおらず、とび色の目は、ただただ曇っていた。
「……なぜ、動こうとしない」
「――アナタは主の恐ろしさを知らない。あの男を殺せば、すぐに情報が飛びあの子が殺されるでしょう。また、あの子を助けにいけば、命令が飛び殺される……私は、ヤツの目の前から動けないんですよ」
その目に映るのは、諦めの色か、絶望の色か。
分かるのは、彼にとって希望は無いという事だけ。
「――諦めるのか?」
「そんな事できるはずがないでしょう。私の唯一の肉親のあの子を、私の生きる意味である、あの子を泣かせる事などできません!」
彼の目にはいつしか涙が溜まり、床へと落ちてゆく。それを見て、毅然とした声でヴォブリットは言う。
「ならば諦めるな。泣き言を言うな。最後の最後まで貫け、自分の、信じるものを」
ヴォブリットの目は燃えるように瞬き、比例するようにゆっくりと身体が持ち上がっていく。
「シエルを助け出した後必ずその子も助けてやる。だから、最後まで信じろ、全てをなげうってでも助けたいと思う、その気持ちを!」
呆然とする炎が見つめる中、ヴォブリットは立ち上がり、信じる己の気持ちの為に、少女の元へ走り出す――。
「うおお!」
耳をつんざく怒声と共に、シエルの目の前を巨体が通りすぎた。
「おじさんっ!」
見ると二人の間に入り込むように、ヴォブリットが倒れ込んでいた。
まだおぼつかない足取りで、台を支えに立ち上がろうとする。
「……今私達は重要な話をしているんだ、邪魔はしないでくれるか?」
現われたヴォブリットに苛立った声を出す。
そんなラーナを睨み付け、だが彼は立ち塞がるようにし一歩も引かない。
「この子に指一本でも触れてみろ! 貴様の四肢をへし折り頭蓋を粉砕してくれる!」
「このめでたい日に何とも愚かしい――どけ、今ならまだ殺さずにいてやろう」
「シエル、奴の口車には乗るな。情報を持っているというのも疑わしいし、何より信用ならん人物だ」
油断ならない視線をラーナに送りながら語りかける。しかし、シエルからの返事は、ない。
「シエル? ――があ!!」
発砲音と短い悲鳴が響いたのは同時だった。
「おじさん!」
シエルが驚いて彼を見ると、右足から血が流れ出していた。
「次は肩を撃つ。その次は耳だ。それが嫌ならすぐに退け」
いつの間にかラーナの手には拳銃が握られており、銃口が薄く煙を吐いている。
「おじさんに手を出さないで! ……分かったから」
その声を聞き、ラーナは勝ち誇ったように笑う。
「何がだ?」
「……貴方に協力、します」
ヴォブリットは驚き、慌ててシエルを見る。
「私の事なら気にするな! お前の為なら命など惜しくはない!」
――彼は、知らない。その言葉が、彼女にとって何より重い言葉だと。
「あんな奴になど手を貸しては――」
また銃撃の音が響く。ヴォブリットが苦悶の表情を浮かべ、痛みに堪える。
「次は肩を撃つ、と言っていただろう。その次は耳だ」
照準を合わせるように構え直したラーナに、シエルは悲痛な叫びを上げる。
「もう撃たないで! お願いだから……」
その目には、いつしか涙が溜まっていた。それを見て、ヴォブリットは何も言えなくなる。
「……もう、誰かが私のせいで傷付くのは、居なくなっちゃうのは嫌なの。だからおじさん、もう無理をしないで」
――彼は少女の為に命を賭けた。
それが、一番いい事だと信じていたから。
でも、残された方はどうしたらいいというのだ?
深い後悔と悲しみに心を苛まれ、どうやって笑えばいいというのだ?
居なくなったら、その行動に意味などない。未来に紡いだ道があっても、少女の側に居ないのならば、それは、意味がないのだ――
「おじさん、もう無理はしないで休んでいて。それに、これは私にとっても、掴みたいチャンスなの」
少女の言葉に、ヴォブリットは、ただ、涙を零す事しかできない。
自分の無力さ、不甲斐なさ、どんな言葉を用いようと足りない自責の念にかられ、ゆっくりと、床に座り込む。
彼の想いは今、砕け折れてしまった。
「ふむ、マガイモノ――いや、シエル君。君はなかなか頭の回転がいいようだな。私はそういう使える者は大好きだ」
床に座り込むヴォブリットを一瞥し、ラーナはシエルの拘束されている台へと近付いた。
「それにこの、流れるような髪、白絹のような肌、未熟な果実を思わせる、君の肢体。実に私の扇情的な部分をくすぐってくれる」
そう言ってシエルの髪を触り、顔を近付けてくる。シエルは顔を逸らし、首筋を這う生暖かい感触に必死で耐えた。
「……貴方の趣味に付き合う気は毛頭ありません。とっとと拘束を解き、協力内容を教えて下さい」
その喋りは事務的に聞こえ、仕事時のと同じ雰囲気だった。
「なに、君にやってもらう事は実に簡単だ……だがそれを話す前に、やらなければいけない事が1個出来てしまったようだ」
男が視線を向けた先、そこには、杖を向けこちらを睨んでいる炎が立っていた。
「私に手を出すとどうなるか、先程説明したと思うが?」
「分かっています、分かっていますが……やはりアナタを殺さなければ、私の気は収まりません」
「その為なら可愛い孫娘が殺されても仕方がない……というのだな」
「アナタのような輩に弄ばれて殺されるより、その方がいいに決まっています。アナタを殺して、彼女を迎えに行った後……私も、命を絶つ」
それは、老人が望んだ結末ではない。欲しかったのは、もっと、幸せな未来。
だが、今はもう手に入れられないそれを求めるより、彼は、彼女と共にこの世から消える事を、望んだ。
「その子から離れなさい。……アナタのような下衆では私には勝てませんよ?」
杖を動かし、退くようにとサインを出す。だが、男はその場から動かず、顔に笑みを貼り付けている。
「……何がおかしいのですか」
「いやなに、つくづく救いようがないと思ってな――私に勝てるなどと絵空事を言うとは」
持っていた銃を炎に向ける。しかし炎は動じない。
「アナタこそ私の力をご存じなら、そんな鉛弾が効かない事など分かりましょう。届く前にそんな物は私の火に防がれ、燃え尽きます」
気でも狂ったかと思った。実際に銃弾を防いだ場面は何度も見ているはず。
なのになぜ、あんな笑みを浮かべられている。
炎が怪訝な表情でラーナを見る。自信に満ちたその目には、負けるという言葉が見当たらない。
「確かに銃弾が効かない事は知っている――ならこれも効かぬかどうか、その身体で確かめてみるといい」
銃声が響いた途端、熱い何かが身体中を駆け巡った。何だ、と思い自分の腹を触ってみる。
ベチョッとした感触がした後、手の平を見ると真っ赤に染まっていた。自分の足元にも、血溜まりが出来ている。
「な……ぜ……」
そう発した直後、再度銃声が轟き、彼の意識は暗雲に包まれた――
「さて、やっとじっくり話せるようだ」
こちらを振り向いた男は、そう言うと拳銃をしまう。
「……何なんですか、今のは」
シエルは、見た。あの老人の瞬時に張った火の壁に、銃弾が当たった瞬間まるで吹き飛ぶように火は消え、弾は止まらずに老人の身体を貫いたのを。
普通では有り得る事のない、現象を。
「別に不思議ではない、この銃弾には先程言った金属を使っている。力は弾に作用せず、ヤツの油断しきった所に撃ち込んだまでだ」
「そんな物を作って……本当にフラスト遣いが憎いんですね」
「憎い? それは違うな――私は嬉しいんだよ。この世界の歪んだ変貌が。そして、愛しいんだよ、フラスト遣い全てが……だからこそ殺したい」
蛇のように纏わりついた視線が、シエルに注がれる。
「愛して――愛して愛して愛して愛して愛して!? それでも足りないから私は殺す。私の愛を、世界中のフラスト遣いに届けたいのだよ!!」
「……そんなもの、誰も欲しいとは思ってはませんよ」
狂っているとしか思えぬ男を憐れむように見ながら、感情を遮断した声で、言う。
「それより教えて下さい。私のする事を」
「では教えしよう――これを見ろ」
ラーナが台に付けられていたボタンを押す。シエルの耳元から何かがせり上がってくる音が聞こえ、止まった。
「これは?」
見ると容器のようだった。 冷却されていたのか冷たい煙を吐きながら、それはある。
大きさはシエルの腕ぐらいで、中には何かが入っているのが分かった。
「ここで昔話をしよう。この日本監国が造られた時、尽力を尽くしたある女性の名前を知っているか? 彼女は世界中に多大なる影響力を持つ富豪家でありながら、同時にフラスト遣いでもあった。
そして、その女性は国という枠組みが出来上がった頃、あるものを建設した。それは――」
「……篭之壊国立院」
「そうだ。くくくっ、そういえば君はそこに通っていたな」
何を分かりきった事を聞くんだと思ったが、無視し話を進める。
「そんな何十年も昔の話に何の関係があるというんですか」
「それが関係あるのだよ……これは、その篭之壊という女性の腕だ」
「!?」
ピッとボタンを押す音の後、容器の前面にある硝子が開いていく。中にあるのは、人形の腕のようなもの。
「君は見るのは初めてではなかったな。1年程前も見ただろ、これを」
「ええ、私を連れ戻そうとした組織が持っていました――WPFが持ち去ったとは聞いていましたが、まさか貴方が持っていたとは……」
「私の肩書きを使えばどんな物でも手に入るのだよ。そしてこれを見せられた今、何をするか言わずとも分かるな?」
「……その腕に宿る篭之壊の力のコピー、ですね」
昔、シエルはその特殊な力ゆえにある犯罪組織に拉致された。だが、それは『彼』とある1つの要因によって破綻する事になる。それは――
「しかし残念な事に、私ではコピー出来ませんよ。昔、その腕に触りましたが力を発揮できませんでした」
もはや逸話とした言えない彼女の力――蝶の鱗粉のようにあらゆる物質を撒き、自由自在に人の心を操れると言われるあの力は、発動する事はなかった。
「死んだ者の力はコピー出来ないのか、はたまた腕が壊死してしまっていたのか分かりませんが、残念ながら私には無理としか言えません」
シエルはそう言うが、ラーナはその言葉を聞いても動じる事なく、笑っている。
「君があの事件の時に失敗したのは予想していた。だから私は、別の手を考えた」
「別の手、ですか」
なぜか、寒気がした。恐ろしい何かの前兆のような、底知れぬ何かを感じる。
「――それはクローン技術だ。この腕から取った細胞を使い、新しく腕を作ったのだ。そしてそれを人間に繋ぎ、『生きた腕』として機能させる。こうすれば、君は力をコピーできるはず」
ラーナの顔は凶悪に歪み、常軌を逸したオーラを放つ。
その表情を見て、男を恐いと感じた。フラスト遣いでもないのに、これ程までに欲望をさらけ出せる男が恐いと、思った。
「悪夢の所業……とでもいうんでしょうか? やはり貴方は、狂っている」
「栄光と凶行は紙一重なのだよ。今は理解されなくとも、すぐに世界が結果を示してくれる。では、その腕を付けている者を呼ばねばな――刃!!」
その言葉に反応し、机の下から何かが這い出してくる。
段々と照明の当たる場所まで移動してきたのは、刃という女。
黄色に光る目は澱んだまま、生まれた姿で、自分を呼んだ主の元へ向かってくる。その顔に恥辱の色はなく、恍惚と頬を染めているのみ。
シエルは辛そうに顔を背ける。少し前まで命をやり取りをした、殺気をたぎらせ吠えるように斬りかかってきた彼女はそこにはおらず、いるのは、心の壊れた、男専用の人形。
「こいつの右腕を見ろ。手術痕があるだろ? ――こいつのみでの力の発現は失敗したが、君がやるのなら、今度こそあの力を手に入れられる!」
興奮したように身を震わせる男に、刃は甘えるように身を預けるが、男は顔をしかめ刃を突き飛ばす。
「お前はそこで待っていろ……ではシエル君。拘束を解いてやろう」
そう言った直後、シエルを縛っていた拘束具は台の中に消え、身体に自由が戻った。
そしてシエルは、視線を床に向ける。そこには惚けたように倒れる刃と、ヴォブリットがいた。
ヴォブリットは少女の意志を聞いた時から、黙って事態を傍観していた。
ただ、見守るように、自分の役目はこれなのだと決め付け、動く気配などなく、茫然自失にシエルを見つめる。
その先には老人――炎が倒れていた。俯せの彼の周りには血溜まりが広がり、時々ビクンと身体を震わせる以外、彼は何もしない。
そして、目の前にいる男。今回の黒幕であり、最悪の人種であり、人を人とは思わぬような、最低の、男。
――けれど、『彼』を救い出す方法を唯一知っている、男。
自分の選んだ道は正しいのだろうか、間違ってはいないだろうか、何度も何度も己に問いながら、少女は覚悟を決め、顔を上げた――
完全に夜の帳の落ちた風景の中で、煌煌と光の灯るビル。
闇の中に浮かび上るように、そびえるビルの地下、立ち入り禁止とされた区画にある部屋には、異様な雰囲気が漂っていた。
異質な空気は充満し、今まで起こった事と、これから起こる事に向け危険を知らせているようだった。
そんな部屋の中で、立っている者がいた。
1人は初老を迎えた頃の男。痩せぎすの身体と顔だが、それとは不釣り合いな鋭さを放つ目。口の端は、楽しそうに吊り上がっている。
もう1人は、幼さの残る少女。全身を黒服に統一し、だが反比例するかのように白く、きめ細かい肌。
光を具現したかのように、滑らかに伸びた、金色の髪。両の碧眼で男を見据え、無表情で立っている。
そして、少女は喋り出した。
「具体的に私はどうすればいいのでしょうか?」
その声は澄んだ鈴のように響き、しかし凛とした雰囲気を纏った美声であった。
少女と女の境界線に踏み入ったばかり、初々しさと妖艶さを重ねた声はしかし、感情の感じえぬもの。
まるで、感情を無理に押し殺したような、ぎこちのない言霊。
それを聞いて、だが男は楽しそうに答える。
「ふむ、今ここで実験するのもいいが、出来れば整った環境、私の研究室などで行いたいものだ」
抑揚の感じられない年相応の声は、冷静に、冷徹に、冷淡に聞こえる響きを醸し出す。
少女のそれとは違い、感情を全て捨て去ったような、マイナスに傾いた感情を押し固めたような、聞く者に不快感と恐怖を植え付ける声。
その答えを聞き、少女はそうですかと言うと歩き出す。向かった先には……床に倒れた1人の、女。
「私はそんな悠長に待つつもりはありません。今ここで終わらせられるのなら、ここでやりましょう」
近付き、今や自分の足元に転がっている女を見、押し殺した心から漏れ出たある感情が、一瞬瞳に映る。
それは――憐れみ。
しかしその視線に気付く事なく、惚けた顔の女は動く気配を感じさせない。その姿は、生きる事に疲弊したように見えた。
「今回は力が遣えると分かるだけでいい。後は、私の調合したフラスト遣い専用の細菌をバラ撒くのみだ。それで君の仕事は終わり、隙間に入る方法を教えてやろう」
待ち望んだ玩具をやっと貰えるような、そんな無邪気さが男の声にはあった。
だが男を見ていると、無邪気さが一番恐ろしい事なのだと感じてしまう。
「さぁやるんだ! 君の力でコピーし、逸話の中のフラスト遣いを蘇らせろ!!」
その男の言葉に、少女の右手が女の腕に伸びてゆく。そして触ろうとした瞬間――
「――誰かがドアに近付いてきます」
手を止め、部屋のドアを睨む。男が怪訝な表情をするが構わず、迎え撃つように臨戦体勢をとる。
「気配からして、かなりの手だれですね。誰ですか!」
少女が叫んだ瞬間、ドアが凄まじい音をたて弾け飛ぶ。
ぽっかりと開いた空間からは足が覗き、静かに下ろされる。
そして入ってきたのは――
「いよ、元気にしてたか?」
「ナナエさん……」
そこには、少女の見知った女性が立っていた。薄緑がかった髪。それを後ろ手に縛り、身体のラインを際立たせるような黒のシャツと、ローライズ気味のパンツを履き、だが足元は軍隊仕様のブーツが履かれている。
ナナエと呼ばれた女性は辺りを見回し、少女に視線を合わせる。
「こっちもなかなか派手にやったみたいだな。私の方も、ちゃんと鯉瀧ちゃんは助けたから安心しな」
それを聞いて安堵のため息をつく少女。女性は部屋にいる人達を見ながら、少女に近付いてゆく。
「血塗れの老人に真っ裸の女。……よく知ってる筋肉バカもいるよ。そして――あんたがラーナ大佐だな?」
痩せぎすの男に近付き、無遠慮に睨み付ける。その視線に男は動じず、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして――生きた伝説よ。君の血なまぐさい活躍はよく聞いている」
「……私の過去を知ってるなんて、さすが諸悪の根源、とでもいうかな」
「ふふふっ、私が諸悪の根源か。なかなかユーモアのセンスがあるではないか」
その態度に明らかに苛立つナナエは、男を指差し少女へ聞く。
「シエル、こいつをとっとと捕まえて家に戻るぞ。それで全て終わりだ」
いつしかナナエの瞳には獰猛な色が灯っていた。
「生理的にこの男ムカつくから、捕まえる前に一発殴るぞ」
今にも殴りかかりそうなナナエの言葉に、若干暗くなったような声が返事をする。
「いえ……この男は捕まえません。彼と私は今、協力関係にあります」
それを聞き、ラーナはほくそ笑み、ナナエは目を見開く。
「……何言ってんだ」
「彼は約束したんです――次元の隙間への入り方を教えると。だから私も、他人の力をコピーする力を、彼に提供します」
ナナエの方を向き、真直ぐに見つめる。
「だから私はこの男を、ラーナを捕まえる事は出来ません」
まるで、一瞬のようであり、永遠のようであった沈黙が流れた。
そして、ナナエの言葉が、それを破る。
「――分かったよ。あんたが決めたんなら、私は何も言わない」
「……すいません」
「何で謝る? あんたが決めた事なんだろ、ならそれを信じてやってみろ……薄汚れてでも手に入れたいものは、誰にでもあるんだから」
その瞳には、少しだけ悲しみがこもっているように見えた。
「なら私は憂さ晴らしにもう一暴れしてくるかぁ」
「ちょっと待って下さい」
部屋から出て行こうとするナナエをシエルが呼び止める。
「おじさんとその老人も連れて行ってくれませんか? まだ、助かるかもしれません」
素人目に見ても致死量だと思える血が出ているが、フラスト遣いなら可能性はあるとシエルは言う。
老人に近付き簡単な止血を施した後、ヴォブリットに近付く。
「おじさん……これを持っててくれないかな?」
シエルが手渡したのは、十字架のネックレス。それは、彼女がいつも首にかけていた、一番、大切なもの。
「――私が戻って来た時に、返してくれればいいから」
ただ無言で受け取ったヴォブリットはまだ……その言葉の真意を、知らない。
「この女はいいのか?」
床に倒れている女を指差し、ナナエは聞く。それにシエルは首を振り、辛そうな目をする。
「彼女は、今からの事に必要な人だから……いいんです」
そうかと答え、老人を抱え上げると、ラーナを睨み付ける。
「言っとくが……うちのシエルに変な真似したら、ただじゃおかないからな」
それだけで人を殺せるようなルビー色の瞳に居抜かれ、ラーナも僅かに表情を固くする。
「さすが伝説のフラスト遣いの殺気は凄いな。約束してやる、シエル君におかしな真似はしない」
出て行く際ナナエはシエルを見、一瞬だけ逡巡したが、結局は何も言わずに部屋を後にした。その後を、ヴォブリットが続く。
「では――始めましょうか」
そして、少女の手が、女の腕に触った――
「あの子、もしかしたら戻ってこないかもね」
地上へ向かうエレベーターの中、ナナエが唐突に言った。
「……何を言う?」
あまりに唐突すぎた為、うわずった声で返事をしてしまった。だがそれと同時に、背筋を、奇妙な悪寒が走る。
「長年の勘……ていうのか分からないけど、あの場所からは戻ってこない気がする。だから、あの子はあんたにそれを預けたんだと思う」
ヴォブリットが握り締めているネックレスを見て、ナナエは言った。
「戻ってくる時の道しるべにしたかったのか……あるいは、遺品とし――」
「何を言っているのだ!!」
言い切るのを待たず、ヴォブリットは叫んでいた。
「そんな訳あるはずがないだろう! 私に預けたのは、無くしたくないとか、そういった事だ――」
自分で言って、その言葉の、ちぐはぐさに困惑する。
あの時の雰囲気から、そんな理由でないのは明白だった。
シエルからは、何か決意めいたものを感じた――だが、そんな事、考えたくない。
そんな事……
「あんたは身体はデカいくせに、本当に心が小さいなぁ」
「……どういう意味だ」
「それをあんたに預けた意味が分かる? ――あんたを信じたからだよ。あんたを信じ、あんただから預けたんだ。私達を部屋から追い出したのも、きっと今から起こる事に巻き込みたくなかったから」
ドドドド――!!
その時、建物全体を揺らす程の揺れが発生する。エレベーターもとてつもない衝撃に見舞われる。
「ぐっ!?」
「……始まったみたいだね」
静かにナナエが言った直後、ヴォブリットは地下3階のボタンを押そうとした。
――私は、あの子に裏切られたと思っていた。
あの子のあの言葉を聞いた時、その真意を考えようとせず、私は耳を、目を、塞いでしまった。
だがそれでも、あの子は私を信じ、これを預けてくれた……今更私に何が出来るか分からない、だが、このままでは、あの子の優しさに気付けなかった自分自身が許せない。
その指がボタンに触れようとした瞬間、ナナエの声が耳に届く。
「今から戻っても邪魔になるだけだ。本当にあの子を信じるなら、あの子の選んだ道に口出しせず、じっと帰りを待ってやれ」
ナナエの声は、震えていた。彼は壁を思いっきり殴った後、ボタンから指をどける。
そして、強くネックレスを握り締めながら、言う。
「信じるぞ……シエル」
彼の目には、光が戻っていた――