〜汚れた誇りは身体を締め付ける〜
真っ暗な空に包まれて
凍て付く風に包まれて
足元も見ずまま歩いてきた
でも違うのかな
間違ってたのかな
――淋しいよ
――――淋しいよ
ドォォ……ン
高く、高くそびえ立つビルの群れ。
茜色の空を雄々しく突く巨大な人工物はしかし、窓が割れ、外壁が剥れ、無残な姿だった。
人に捨てられながら、今もあり続ける廃墟の群が広がる景色に、耳に突き刺さるような爆音が響いた。
濛々と吹き上がる煙、次いで、身体中を震わせる程の衝撃と音を上げながらビルが倒壊していく。
それを無気力な目で見る、薄汚れた格好の人達。
一般的な暮らしが出来ず、見捨てられたこの区画に集まった浮浪者達。
立ち止まり、うずくまりその光景を見るが、驚く事は無い。
――彼等にとっては、この光景も日常の一部なのだ。
「くっ……そ!」
倒壊したビルからさほど離れていない場所を、男が走っていた。
灰色のスーツをラフに着崩し、短く刈り込まれた髪。
メタルフレームのメガネの奥の眼には焦りの色が浮かび、度々後ろを振り返りながら走り続ける。
ビルの外壁や割れたガラスの破片などが散乱した道路を、ただ……奴等から離れる為に駆ける。
それから幾許か走り続け、足取りもおぼつかなくなった頃、路地裏へと入り込み、座り込んだ。
息が上がり肩が激しく上下する。
年中が冬のようなこの国で汗を大量にかき、身体から蒸気のようなものが発せられている。
ただ、歯はガチガチと震え、顔は恐怖で歪んでいた。
「何なんだあいつ等ッ……何だって俺を追ってくるんだよ」
突然襲ってきた奴等。
その場にいた彼以外は全員、焼き殺された。
しかし男は自分の力を遣い何とか逃げ出す事に成功し、そしてここにいる。
「とにかく、早くこの書類だけでも何とかしないと……」
胸に抱えていた封筒を強く握り締め、これからの事を思案する。
まずは、ここからどうやって逃げ出すか。
「そういえば前に、第一部隊のやつから教えてもらったのが――」
そう言って、貰った紙を取り出す。
それにはクローバーという字と、住所のようなものが垣間見えた。
「喫茶、クローバー……」
「やっと見つけたぁ~」
路地裏に幼い少女のような声が響くと同時、男はその場所から勢いよく走り出した。
「無駄だよぉ~。あの時は油断して見失っちゃったけど、姿を捕らえたらもうドコにも逃げられない……だって、おじちゃんの隣りにはいつも私が居るんだもん」
だが声は遠ざかる事なく、走る男に並走するかのように聞こえてくる。
「どれだけ走ったって、私の力からは逃げられないよ? ……例え身体を飛ばしてもね」
その言葉に男は顔を強張らせる。
「やっぱり、おじちゃんの力はドコかへ飛ぶ事なんだ。タネが分かれば何て事ないなぁ~……簡単に潰せちゃうよ」
声高く発せられる言葉は、感情の集約されたもの。
ただ一つの、殺意のみで形づくられたもの。
「――こらこら、女の子がそんな乱暴な言葉を使ってはいけませんよ」
「!?」
老人がいつの間にか立っていた。
まったく気付かず、まるで一瞬で現われたかのように老人は目の前にいた。
男は逃げる足を止め老人を見る。
シルクハットを被り、鉤型の鼻が特徴的な顔。
とび色をした瞳が、目標である男を見つめる。と、手に持っている杖を持ち上げ、空にかざした。
「残念ですよ……我等が主を裏切る者がいるとは。しかも、同じ組織内から」
杖の先からは小さな火が次々と飛び出し、男の周りを囲んでいく。
「我等が主を国外のWPFに売ろうとした罪……その身をもって、償いなさい」
炎によって作られた円状の帯が高速で回りだし、その幅を縮めてゆく。
「では――燃え尽きなさい」
高く上がる巨大な火柱の中で、悲鳴を上げる間もなく男は絶命し、身体は炭になった。
「……さて、書類も燃え尽きたはずです。これで任務は終了――と、どうしたのですか『刃』?」
老人の視線の先には、ビルの影に身を隠すように佇む、女が1人。
紫を基調にした、ゴシックロリータのデザインをした服、赤毛に近いストロベリーブロンドの髪、暗闇の中でも光る、金色の瞳。
そして右手には、3尺をゆうに超える長さを持つ、野太刀が握られていた。
童話の中にいるような幻想的な雰囲気を纏った女は、視線を空高く上げ、抑揚のない声で言った。
「何かが空間を曲げ、別次元の意識を通過した」
「何と……どうやら直前に書類だけをドコかに飛ばしたようですな。貴女の力で切り刻む事は出来ませんか?」
「無理だ、一瞬で私の意識範囲外に出てしまっている。もう私の刀では届かん距離に飛んでいるだろう」
元々やる気が無いのか、興味が失せたのか更に暗闇の濃くなっている方向へ去ろうとする。
「何か分かったら連絡を。それまでの調査は頼んだ」
そして女は居なくなった。
「やれやれ……力は凄いのですが、あの性格はどうにかならないのでしょうか」
「ねぇ~『炎』、私はどうしたらいいの?」
またドコからか少女の声が聞こえる。
「『瞳』は飛んでいった書類を探して下さい。どのぐらい時間がかかりそうですか?」
「手掛かりはあるにはあるけど……何日かかるかは分からないよぉ」
「出来るだけ早く調べるように。私は、主に報告へ行ってきます」
男の死体は、誰に気付かれる事なく、路地裏で煙をあげていた――。
日付が変わって少し経った時間帯。
ある地区に建っている『世界警察機構日本監国支部』の建物内、その一室で作業している男がいた。
年齢を感じさせる深いシワが肌に刻まれてはいるが、その身体はたくましく、実年齢より若く思われる事が多い。
ネクタイを緩め、疲れの為か時折目頭を押さえながら、パソコンの画面に見入っている。
男以外に人はおらず、彼のキーボードを叩く音のみが室内に響く。
(最近シムル少尉の知り合いが消えた……。彼は裏方で動く専門だから、WPFに恨みを持つフラスト遣いの可能性は低い。それに、彼は何かを持っていたらしい。情報か物か……シムル少尉にさえ見せなかったそれのせいで消えたとなれば、やはり内部の――)
そこで一度手を止める。
(だがこうして彼の事を調べているが、何も掴みきれずにいる。……私の杞憂で終わってくれればいいのだがな)
その時携帯が鳴った。
昔、まだ屈託なく笑っていた少女が設定したままの着メロが流れる中、彼は電話に出る。
「もしもし」
『私です』
それは、着メロを設定した少女からであった。
『WPFに関連する事の書いてある書類が先日届いたのですが、私達には手に余るもののようです。引き取りに来てもらえませんか?』
「どんな事が書いてあったのだ?」
『それは取りに来た時に自分で確かめて下さい。では、夜分遅くに失礼しました』
事務的な喋りのまま、通話は一方的に切られた。
男は眉をひそめ、どういう事なのかと考えを巡らす。
(なぜクローバーに書類が届いたのだ? あの店がWPFと協力関係にあるのは、上層部と我々第一部隊しか知らないはず)
突然訪れた謎の来報は、いくら考えても分からず、とにかく明日クローバーに行ってみる事にした。
だが、男は知らなかった。
部屋の入口に立っていた者にも、その話を聞かれていた事を――。
次の日、少女が喫茶クローバーに帰ってくると店にはもうヴォブリットが来ていた。
「帰ったか、シエル」
「……わざわざお呼びしてスミマセンでした。では、書類をお持ちします」
病院であった事件で、少しは心を開いてくれたと思っていたのだが……。
「……それだけ心の闇は深いという事か」
「ん? 何か言いましたか隊長」
カウンター席に座るヴォブリットの横にはシムルがいた。
「いや、何でもない。それよりお前まで来る事はなかっただろう」
「でも偶然とはいえ、あの話を聞いたら……居ても立ってもいられなかったんすよ」
――そう、あの時話を聞いていたのはシムルだった。
ヴォブリットが自分の友人の為に色々調べてくれているのは知っていて、その日は差し入れを持って来たのだ。
そして偶然にも電話での話を聞き、すぐにヴォブリットに頼み同行させてもらったという次第だ。
「その書類ってのも匂うけど、一番はやっぱ届き方っすよね」
「そうだな。ナナエ、確か書類は玄関先に落ちていたんだな?」
奥にある調理場でミルクを温めていたナナエが、声のみで返事する。
「そ。最初は落とし物か何かだと思ったんだけど、血文字でWPFの字とクローバーの絵が書かれてたから、拾わないわけにはいかなくてさ」
「それが昨日の昼の話か……。シムル、行方不明になった彼の力はどんなものだった?」
「確かテレポートのようなもんでした。ただ人間の場合は容量がデカいらしく、数十mが限界だと言ってました」
「なら書類のような、小さな物ならどうなる?」
「それだとかなりの距離飛ばす事が出来てました。……前もアイツん家から俺ん家まで、貸してたゲームを力で送ってきた事ありましたし」
その時を思い出したのか、シムルは浮かない顔つきになる。
シムルの肩を優しく叩き、ヴォブリットはすまなかったと謝まった。
「物を飛ばす事は可能か……。ただどれくらいの距離をどれだけの時間で飛ばせるのか、だな」
「アイツの話だと、大体百km飛ばすのに一日はかかるって言ってました」
「彼が行方不明になって一週間か……。やはり昨日飛ばされたものとしてでなく、それ以前にここに飛ばしたと考えた方が妥当だろう。となれば――」
「その彼を行方不明にした犯人等も、これを探し回っているという事ですね」
白いワンピースに着替えたシエルが、手に封筒を持ってやって来た。
「これが昨日届いた封筒です。ですが私達はまだ、中身を見ていません」
「その方がいいだろう。今回のはWPFの内輪もめのような気がする」
「ちょ、ちょっと待って下さい! 隊長どういう事っすか内輪もめって」
ヴォブリットの思いがけない発言に、シムルは動揺する。
なぜWPF絡みというのか……なら、アイツは仲間であるWPFに――。
「確証はない。今は私の長年の勘、というしかない。……とにかく書類を確認してみよう」
封筒の封を慎重に解き中を覗く。
中には数十枚に及ぶ文書と、テープレコーダーが入っていた。
「……テープレコーダーっすね」
「再生してみるぞ」
ナナエがホットミルクを持ってきて、シエルに渡す。
そして面白そうといった風にテープレコーダーの方へ耳を傾ける。
「――……っ――…………っ」
最初の方はよく聞き取れない。
どうやらかなり焦って録音をしたらしい。
所々、聞き取れる事が出来るが、やはり言葉になってない。と、
「今、ラーナ大佐と聞こえなかったか……もう一回巻き戻してくれ」
シムルが巻き戻し、もう一回聞く。
「やはりラーナ大佐と言っているな。しかしなぜ大佐の名前が出てきたのだ……」
「それはこっちの書類に書いてあるっぽいわ」
ナナエが書類を手渡す。
「これは――機密漏洩流出の記録か」
「こっちはラーナ大佐の口座への入送金の表っす!」
「時期がぴったり合うと思わない? まるで情報が漏れたからその大佐に金が入ってきてるような」
ナナエの言葉に答えず、2人は書類を見る。
「こんな事が……ラーナ大佐はWPF日本支部を何十年も前から支え、この国を安全なものにしようと日々、粉骨砕身しておられる方だぞ」
「でもこの書類の量だと、かなり前から情報の横流しはあったみたいっすね……」
絶句するヴォブリット。
彼は、同じWPFに所属する人間として信じられなかった。
書類に書かれている事が嘘であって欲しいと思った。
「――内部告発書ですね。恐らくそのラーナ大佐が書類の存在を知り、消しにかかったんでしょう。でもなぜ、クローバーに送られてきたんでしょう」
「あっ! そういえば前に、ここの事を教えた事があった。困ったらこの何でも屋に行けって」
「……確かにウチは何でも屋だけど、厄介事を持ち込まれるのは勘弁してほしいね」
そう言って入送金の表が書いてある紙を見る。
「まったく、こんなに金集めて何するんだか。ラーナ大佐っていったらもう還暦だろ? 人間は衰えても欲望は衰えないって所か」
呆れたようにナナエが言うと、その場にしばしの沈黙が流れた。
「――とにかく、この書類は予定通り引き取る。2人の協力に感謝するぞ。シムル、すぐに皆を呼び出してくれ」
席から立ち上がると書類とテープレコーダーを封筒に戻し、ヴォブリットは店から出ようとする。
シムルも後に続こうとしたが、シエルの方を振り返ると近付いてきた。
「なぁ、シエルちゃんは隊長に娘みたいに可愛がられてたんだろ?だったらこう何か……元気付けてやったり出来ねえかな?」
「これは彼の問題です。私は関係無いでしょう」
「いやそうかもしれないけどさぁ、――はぁ、もういいや」
ため息をつくと、そう言って店を出ていった。
先ほど関係無いと言ったが、シエルの頭には、ヴォブリットの沈んだ横顔がちらついていた――。
店から出てきたヴォブリット達を、見つめる人影があった。
――あの時の、老人と少女。
「はてさて、これは困りましたね」
「どうしてぇ? 今から奪っちゃえばいいじゃん」
「そう簡単な話じゃなくなってしまったんです。今、書類を持っているあの男……確か第一部隊所属のヴォブリット大尉。彼を殺して書類を奪ったとしても、部隊長が殺されればさすがに大沙汰になります。可能性は低いですが、それで我等が主が疑われるのはあまりにも愚。私達が存在するのは、秘密裏に状況を修正する為なのです」
鋭くヴォブリット達を睨むが、老人は彼等に手出しが出来なかった。……まだ、出来ない。
「瞳は引き続きあの男を見張って下さい。私は、主と刃にこの事を伝えなければなりません」
「刃ならもういるよ? ――ほら、あそこに」
少女の指示す向こう、そこには刃と言われる奇妙な出で立ちの女がヴォブリットと向かい合っていた。
「なっ! あの人は一体何を考えているのですかっ!?」
歯噛みし、老人は怒りをあらわにする。
だが、今出ていって自分達の存在さえも知られるのは困った。
「その書類を、こちらに渡せ」
「……まさかこんなにも早く現われるとはな。いいのか、私を殺せばお前達の飼い主にも容疑がかかるかもしれんのだぞ」
女の放つ殺気に身じろぎ一つせず、落ち着いて話すヴォブリット。
自分では勝てないと瞬時に判断し、せめて対策を練る為の時間を稼ごうとする。
「私達も今これをどうこうする事は出来ない。今日は痛み分けという事で、主の元へ帰るんだな」
「……クククッ。さすがWPFの人間は口が上手い――だから、嫌いなんだよ」
女の目が、怒りに燃える。
「どうせあんた達は殺すんだ。今ヤった方が手間が少なくて済むだろう?」
「……自分の主が断罪される事になってもか」
「あの御方なら大丈夫。いくらでもねじ曲げられる。そして私は、あの御方に褒めてもらうんだっ……」
うっとりと、恍惚の表情を見せる女。
「――仕方ないっすね。隊長、ここは俺に任して下さい」
「やめろシムル! フラスト遣いに一人で立ち向かってもどうにも出来ん」
「俺が時間を稼ぎますからどうか隊長は、アイツの無念を晴らしてやって下さい。お願いします!」
そう言って腰に下げていた警棒のようなものを握る。
「女と戦うのは趣味じゃないんだけどな……しょうがないか」
シムルは眼前から迫る巨大なプレッシャーを前に足が震えた。
殺される、自分が敵う相手ではない。だが、逃げる事もできない――なら、せめて、コレで一泡吹かせてやる。
「地獄に――墜ちろ!!」
渾身の力で女に向け投げる。
すると投げた棒から大量の光が溢れ、爆音を轟かせた。
女に届くまでに要した時間は、瞬きより更に速かった。
煙が濛々と上がる目の前の光景を見て、シムルは苦笑いを浮かべた。
「中に雷に匹敵する程の電流を閉じ込めた自発型電磁誘導武器。まだ試作品だけど威力はそこらの拳銃と比べ物にならないぜ?」
「――そのようだな」
声が、聞こえた。
煙の向こう側から、さっきと変わらぬ声量で。
煙が晴れ、女は姿を現わす。傷、一つなく。
「……やっぱこんなのじゃ倒せないか」
分かっていたとでも言うようにシムルは息を吐く。
恐ろしいスピードで飛んだ武器は、細切れになって女の足元に散らばっていた。
「私の力は身体能力を増幅させる。こんなスピードでは私の剣撃には勝てない」
三尺を超える野太刀を前に構え、静かに笑う。
「では――死ね」
常人では目に捉えられぬ速度で肉薄した女は刀を振り降ろし――
「させません」
「っ!?」
ガキィィィンッ!
――たが、刀は血飛沫を上げ肉を切断する事なく、金属同士がぶつかりあう甲高い音が響いた。
目の前に振り降ろしかけられた女の刀、それをナイフで受け止めている、幼い小さな背中。
「シエル……ちゃん」
「下がっていて下さい」
頭が事態に追いつけないでいると、後ろから誰かに引っ張られた。
「隊長! 逃げなかったんすか!」
「あぁ……部下を置いて逃げる訳にはいかんだろ。敵のフラスト遣いには同じフラスト遣いを――。さっきクローバーに連絡して、私達の警護を依頼した」
ヴォブリットは、仕事で呼ぶ彼女の名前を出した。
「彼女が戦っている間に――私達は支部に戻り、書類の真意を確かめるぞ」
彼にとって、それはきっと、苦渋の決断。
巻き込みたくないといつも思いながら、結局は巻き込んでしまっている、己の愚かさ、愚鈍さ、惨めさ、そして……悔しさ。
だが彼は仕事の時の表情を作り、感情はその仮面の下に埋もれさせる。
そうやって、矮小な自分を守り、進んでいく。今は、それしか、出来ない。
「何だ、お前」
「彼らに依頼を受けた者です。その内容は、警護する事。――手は出させません」
刀を右手に掴むナイフで受け止めながら、左手を女の方に突き出す。
何かを感じ取ったのか、女は素早くバックステップを踏み、左手から逃れた。
「……なるほど、ジャックナイフの二刀流か。あんたの二つ名は切り裂きジャックなのか?」
女が嘲笑するが、シエルは表情を変えぬまま両手のナイフを構え直す。
「面白い、私と刃物で戦おうというかっ。――私の名は刃、あんたは?」
「……貴女に答える義務はありません」
そう言うとシエルは地面を蹴る。
髪が金色の帯を引きながら凄まじい速さで間合いを詰めると、速度と体重を乗せた一撃を刃の刀めがけて繰り出す。
――ギィンッ!
武器が噛み合うように重なる。
次いでシエルは刃から死角になる左脇腹にナイフを突き立てようとする。
刃は左足を軸に反転し身体をねじ曲げ、その一撃を避ける。
完全に死角からの攻撃だったのに避けられた事に、シエルは少なからず驚いた。
しかしすぐにナイフを逆手に持ち替え、今度は右手を狙う。
その時、妙な悪寒が全身を包んだ。と、刃が噛み合っている刀を上に持ち上げ、シエルの体勢を崩そうとした……ように見えた。
シエルはすぐさま噛み合わせていたナイフを引っ込め、右へ転がるように跳躍する。
途端、左の肩に斬られたような痛みが走った。
(いつ斬られた!)
見れば肩に血が滲んでいた。
無理な体勢で飛んだシエルを追うように刃は走りだし、刀を突き出すように構える。
「くっ!」
避けきれないと判断したシエルは身を出来るだけ低くしゃがめ、その一撃を避ける。
だが、また妙な悪寒が走った。
そのせいで次の動作が一瞬遅れ、上から振り下ろされる刀を避けられず、2本のナイフでかろうじて受け止めた。
カチカチと音を立て、攻防を繰り広げる2人。
「……貴女の力は身体機能の向上とは別のものですね」
「よく分かったな。そう、身体機能の向上などオマケでしかない。私の力は別にものだ、それは――」
音もなくシエルの頭の上に黒い穴のようなものが現れ、そこから刀の先端が突き出る。
「私の意識で認識出来る範囲内だったら、様々なものを自由に出現させられるんだ」
見れば女の振り下ろしている刃の先端は別の黒い穴の中に消え、刀が動くと、その分先端部分の刀も動く。
「あんたの肩も、私が突き出した先端を穴を通して別の場所から出現させて、攻撃したんだ」
己の力を誇示するかのように喋る女。
まるで、酔ったかのような赤ら顔で幸せそうに、語る。
「こんな特殊な力を持っている私だからこそ、あの御方に愛してもらえている……あぁ、ラーナ様」
瞳を潤ませ、愛しい人の名を呼ぶ。
だがシエルには聞こえていなかった。
目の前に開いた黒い穴。
中は何処までも暗く、光の侵入さえも許さない。
それは、見覚えのある塗りつぶれた色。
ネックレスが見せた、あの時の場面で現われた空間の隙間。
「これは……まさかっ――」
――それはあの時『彼』を飲み込んだ空間の隙間と同じ色をしていた。
老人は己の目を疑っていた。
断続的に聞こえる金属のぶつかり合う音、誰かの悲鳴。
空から柔らかに照り付ける日差しの下、老人の目の前には凄惨な場面が広がっていた。
「た、助け……がっ!」
救いを求める声はかき消され、同時に鈍い音が響く。
(何という事ですか……。刃は接近戦において他のフラスト遣いよりも格別の強さを誇っていたはず。――だが今は、まるで赤子のように軽くあしらわれ続けているではないですか! しかもその相手は、まだ力を遣ったようには見えない)
このままでは彼女が殺されてしまう……だが、私達が重要視しないといけないのは我等が主の身の安全。
ここで私が出ていくのは……そう考えていた時、老人の持つ携帯が鳴った。
「も、もう許して……本当に私は、何も知らない」
顔中が腫れ、口の中が切れ、身体中を傷だらけにされ、女は完全に戦意を喪失していた。
――しかし、シエルは攻撃を止めない。
「……嘘を、言うな。その力の事を、教えろ」
怯える表情で倒れる女に近付き、胸ぐらを乱暴に掴む。
「穴の中はどうなっているか、知らないと言ったな。なら、人がその中に入ったら、どうなる?」
「し、知らない……そんな事試した事ないから――ひぃっ!」
女の腹に容赦のない蹴りが入れられる。
「知らないって……さっきからそればっかり言って! ねえ、穴の中に人間はいなかった! 誰か見たりはしなかった!?」
「分からない……穴の中なんて何も分からないんだ」
しゃくり上げる声と嗚咽を交えながら、女はうわ言のように言い続ける。
ここまでやって喋らないという事は、本当に何も知らないのだろう。そして……それは彼に対する情報も無いという事。
シエルは無言で女を見おろし、ゆっくり手を離した。
「……そう、知らない、んだ。分かった、もういい。どうやら――貴女はハズレみたいね」
俯き、虚ろになった目のまま、少女は重い足取りでその場を去っていった――。
「刃、大丈夫ですかっ!」
シエルが去っていった後、老人が駆け寄ってきた。
「っこれは酷い……。君の刀も、折られてしまっていますね」
女が力を見せた後、シエルは圧倒的な強さを発揮した。
捉えきれぬ速度、野太刀を簡単に折る腕力、そして、幾百の命を奪った女でさえも恐ろしいと思った、あの瞳。
世界にはその感情しか無いというように、瞳にはそれが充満していた――狂喜、が。
自分より年下の少女になぶられ続け、泣いて許しを請う自分。
彼女にとって、これ以上ない恥辱と屈辱。
「許さない……絶対、絶対、殺すっ」
そう呟く女を老人は見ている事しか出来ずにいた。
「……とりあえずは主の元へ帰りましょう。今しがた瞳から連絡があり、書類を持った彼らがWPFに着いたようです」
女に肩を貸しながら、車を手配する。女は、まだ小さく呟き続けている。
(しかし、少女の使っていたあの体術は見た事があるような気がしますが、一体ドコで――)
――それを使えるのは世界でただ一人。数年前にこつぜんと姿を消した、生きた伝説とまで呼ばれた、女性のみ――。
「へッッくしゅ!」
客の入っていない喫茶店。
昼下がりののんびりとした時間を、ナナエはカウンターで新聞を読んで過ごしていた。
「風邪か? ……それより、大丈夫だろうか?」
カランカランッ
その時、高らかな鐘の音が響き、入口のドアが開いてシエルが帰ってきた。
「お帰りシエル。っと、また随分汚れたじゃないか」
ワンピースは所々が破れ、左肩の部分は鮮血に染まっていた。身体の至る所には擦り傷や切り傷があり、痛々しく感じられる。
「まっ、生きて帰ってきたからマシか。まぁだけど、怪我するようじゃ私の弟子としてはまだまだ、な?」
安堵感を含んだ言葉を喋りながら、店の奥から救急箱を持ってきてシエルの近くに座り、傷の手当てを始める。
すると、それまでずっと黙ったままだったシエルが、重そうに口を開いた。
「もう――ダメです。この仕事を始めて一年が経とうとしていますが、今だに彼を助け出す為の手掛かりを、何にも得ていません。今回の敵も、もしかしたら彼に繋がる何かがあるのかと思いましたが、やっぱり何も……もう、諦めた方が、いいのかなっっ」
――ポタッポタッ
彼女の握り締める小さな拳に、透明な雫が落ちる。
「……淋しい、よ」
この仕事を始めて、やっと見つけた手掛かりの原石。
しかし、それは光り輝く事なく石くれのまま、無残に砕け散った。
孤独に苛まれ、それでも嘆かず、揺るがず、すがるように、希望を探していた――だけど、思う。
思いたくないけど、思ってしまう。
彼を助ける方法は、もう――
パァン!!
乾いた音が店内に響き渡る。
ナナエが、容赦なくシエルの頬を叩いたのだ。
イスから落ち、床に倒れ込んでしまったシエルへナナエは怒鳴った。
「ぐだぐた言うな! 何なんだそのネガティブは、私はお前に諦める事を教えたか? ふさぎ込む事を教えたか? 無理だと思うな、そんな気持ちがいつもあと一歩を止どまらせるんだ。信じたんなら貫き通せ、手掛かりが無いなら見つかるまで探せ、単純明快な答えのみで動け――そして、自分を信じろ」
人として、女として、師匠として……そして、家族として。
ナナエは力強く、シエルを叱る。
「あんたの言う彼を私は覚えてない。ただ、あんたがそんなに必要としてる彼を思い出したいと私は思う。……それには、あんたが頑張らないといけないだろ?」
優しく、ナプキンで涙を拭ってやる。
「それにあんた忘れられるの? ――彼の事を」
見開かれた目。そして、無意識に漏れた、少女の純粋な心の言葉。
「でき……ない。彼を忘れるなんて……私、できないよっ」
ナナエはそんなシエルを優しく抱き締めた。
「――まったく、一人で強がって……潰れそうになる前に誰かに頼りな。私やヴォブリットが、あんたの周りに居るだろ。強がって、突っ撥ねて、それで全てを取り戻せた時笑えなくなってたらどうするんだ? 彼を忘れてしまった私達が憎いのは分かる……でも、何も知らなくたって手伝ってやれる事は出来るんだから、前ばかり向いてないで、たまには後ろに居る私達も見ろ」
まるで小さい子をなだめるようにナナエをゆっくり揺れながら、揺籠のようにシエルを包み込む。
シエルの、伏せられていた目が上がる。
それは、昔と変わらぬ綺麗な碧色の瞳。
自分を偽るため、覆い被っていた澱んだ色は薄くなり、一年前と同じように輝こうとしている――。
「ナナエ……さん」
「そのヒントに成り得なかった情報ってのを教えな。――二人で考えれば、何とか出来るかもよ?」
誰にも縋らずに歩んでいこうと決めた彼女の心が、少しずつ、崩れ始めていった――。
WPFに戻ったヴォブリットは、召集しておいた部下達の待つ会議室に急いでいた。
(あの子まで巻き込んでしまったのだ。この事件、必ず解決する!)
そう自分に言い聞かせると、シムルと共に集合場所の部屋へと入る。
「皆すまない、待たせてしまっ――」
だが、彼の台詞は途中までしか言えなかった。
「あっ、隊長。先ほどからラーナ大佐がお待ちしておりますよ」
シマ軍曹が若干緊張した面持ちでそう告げる。
シマ軍曹の前、ヴォブリットとテーブルを挟むように向かい合い、イスに座っていたのは男。軍服の胸ポケットに光り輝く無数の勲章を付けた、男。
「戻ったか、ヴォブリット大尉」
「……ラーナ大佐」
そこには、かつて尊敬した人物が座っていた。
全体的に細いイメージを受ける男。髪や髭は白く歳を感じさせてはいるが、男の目は爛々と輝いている。
真っ黒な眼からは意思の強さが見え、纏っているオーラはそこに居る誰よりも、ヴォブリットよりも濃く、恐ろしい。
今だ現役で働く、WPF日本支部創設時からの重鎮は、灰色のスーツの中から葉巻を取り出し、静かに火を付けた。
ヴォブリットは歯ぎしりした。
予測はしていた、彼が動くのは――だが、早すぎる。「……スミマセンがラーナ大佐。私達はこれから緊急の会議をしないといけませんので、ご退室して頂けますか?」
あくまで冷静に喋るヴォブリット。
日本監国外にあるWPF本部に情報を渡す為の準備すら出来ていない今の状況で、ラーナ大佐を問い詰めるのは得策ではなかった。
国内に様々なコネクションを持っている彼を相手にするには、味方が圧倒的に少ないのだ。
(しかし――なぜこの場所が気付かれた?)
この会議室は、今は幾多の段ボールの置かれる倉庫として使われている。
それなのに彼はこの場所にいた。
――まさか、ここに集まるという事を聞いたのか……部下達の誰かに。
そう考え、すぐに否定する。
今まで共に命を賭けて戦ってきた仲間を疑うとは、と頭を振る。
とにかく、今はこの男をどうにかしなければ……。
「そうか、緊急の会議か――それは、情報を横流しした事についてかね?」
「なっ!」
躊躇する事なく言った男の口元から煙が吐き出される。
「世界警察機構日本支部第一部隊隊長ヴォブリット大尉、君を逮捕する。容疑はWPFの機密情報を不正取引した疑いだ」
バァンッとドアが勢いよく開き、手にマシンガンらしきものを持った兵士が入ってくる。
「動くなよ? でないと殺さんといけんからな」
ヴォブリットは得た情報の凶悪さと、敵の巨大さを読み違えた事を悔やみ、歯ぎしりするしかなかった――。
ひとしきり泣いて、幾分か落ち着きを取り戻したシエルは、貰ったホットミルクを飲んでいた。
「ん~、次元の隙間の中か……」
その隣りでは、考え込むナナエがいる。
先ほど聞いた刃というフラスト遣いの能力。
不明な次元の隙間の中、本人でさえ知らぬ、塗りつぶされた穴の中。
「穴を通して刀を出せるんなら、入ったものが出て来るのは確なのか……。その彼が消えた隙間と、同じような穴の中か」
鋭い視線で、空を睨みながら、独り言を呟く。
「やっぱり、それを逃すのは惜しいな。調べる価値は充分にある」
「調べるといっても敵の力ですし、どうすれば……」
「戦いの中で確かめていくしか無いだろうな。まず調べるのは、穴に入ったものが出て来る事が出来るか。そして――人が入れるのか」
その言葉に、シエルは身を強張らせる。
「……まだ彼が消えた空間の隙間と同じ種類と決まった訳じゃない、違うかもしれない。それでも、確かめるか?」
ナナエはこう言いたかったのだ。
――穴の中を調べて、もし出る事が出来なかったら、もし人間が入れる事が出来なかったら、彼の消えた隙間と同じとは言えないが、それでも、今後の行動に陰りを出すだろう。
何が出るか分からぬ暗闇を、それでも光に照らしてみるのか、と。
「……もう、待ったままは、嫌です」
まだ敬語で話すものの、柔らかくなった表情で少女は決意を固めた。
……一人で戦っていたはずだった、一人で抱え込んでいたはずだった、でも、違った。
いつも私は、見守ってもらっていた。
そこはかとない安心が心に充満し、身体を動かす活力になってゆく。
恐れて何もできないよりも、何もしない事を恐れよう。
踏み出す事で何かが変わる事を、信じてみよう。
――そこにはもう、一人で泣く少女の姿はおらず、誰かと共に笑い合える少女がいた。
シエルの通う篭之壊国立院、そこからさほど離れていない道を、鯉瀧という名の少女は歩いていた。
小麦色に焼けた健康的な肌をスカートの下から覗かせながら、機嫌の良さそうな顔で歩いている。
(――あれからシエルちゃんが笑うようになった)
先生に指導室へ呼び出されたあの日、彼女は確かに笑いかけてくれた。
それから、ほんの少しではあるが、笑みがこぼれる事がある。
それは同じクラスになって初めて、彼女が感情を出している場面に出会えたと言えた。
その事が無性に嬉しくて、少女は自然に笑顔になり、家路を急ぐ。
(ちゃんと友達になれたんだよね、私達)
――ドン
「……ぇ」
いきなりの衝撃。その直後、意識が唐突にブラックアウトする。
地面に倒れ込もうとする少女を片手に抱えたのは、顔中が腫れた金色の瞳の女――。
夕刊を取りに出たナナエは、新聞と一緒に手紙のような物を持ってきた。
「あんた宛みたいだよ」
渡された手紙は確かに、シエル様と私の名前が書いてあった。
だが、差出人の名前は無い。
ペーパーナイフを使い封を切る。中に入っていたのは1枚の写真。
「!?」
それを見た瞬間、呼吸が止まった。
自分の鼓動がやけに煩しく聞こえ、身体が震えてしまう。
「――見せろ」
異変を察知したナナエさんが写真を取り上げた。
そして、驚愕に顔を歪める。
「くそっ! まさかこの子を巻き込んでくるとはな……」
それに映っていたのは私の友達と呼べる、唯一の人。
目隠しをされ、イスにくくり付けられ、何処かに閉じ込められているよう。
そして写真には『WPF日本支部で殺してやる』と呪詛のように書かれていた。
それを送りつけた相手はすぐに分かった。
彼の手掛かりが掴めるかもしれない力を遣う、あの女。
シエルは無言で立ち上がり、部屋に向かう。
「……あの服に着替えるのは、マガイモノとしてか? それとも、シエルとして?」
その言葉に足を止め、振り返って彼女は答える。
分かりきった事を聞くなというように、いつもの調子で。
「マガイモノもシエルも……私、自身です。どんな服を着ても私は私であり、マガイモノであり――シエルなんです」
二つの顔はいつしか混ざり合い、彼女になった。
そして彼女は、依頼と友人と、自分自身のため、あのビルを目指す事にした――。