〜悪夢を彷徨う少女〜
泣けば夢になってくれると思った
泣けば貴方が、いつもの様に無愛想に心配してくれると思った
でも声を枯し、涙を枯し尽くしても貴方は現れず
私はいまだ
悪夢の中にいる――
薄く月明りが照らす路地裏。
頭上にそそり立つ灰色のビル達が隠した夜空、そのほんの隙間を満月の淡い光が降り注ぐ。
まるで水面のようだった。
月の光が路地裏の地面に反射し、辺りを幻想的に彩る。
ビルの壁に飛び散っている飛沫も、何か意味の隠れた絵画のように、この幻想的な場所を引き立てている。
しかし、見目美しいこの狭い路地裏を見る者は無く、動く人はいない。
――いや、動く『モノ』ならいた。
壁に、地面に飛び散る澱み止どまっていた大量の血を、地面に転がり動かなくなった六人分の肉の塊から吹き出たものをたっぷりと全身に浴びている。
見れば、年は成人を迎えたばかりのよう。純白の……いまは血染めにより赤と白の入り交じったワンピースを着た女。
顔の造りは端正で、くすんだ色合いをした緑の瞳はただ、自分を襲ってきた肉の塊達を見ていた。
そして急に、
「はははははっ……」
笑い出した。哀れみも、嘲りも、嘲笑も憐憫も憤怒も、そして自虐も。
全ての負の感情を固め、また全ての感情を殺した声で笑う。
まだ声高く少女のように聞こえ、しかし年を重ねた妖艶な女性のような声。
自然に耳に入り、不自然な思いを抱かせるその声は、ただ笑い、その場に佇んだままだ。
緋の色をした満月に照らされた血臭漂う場所に立つ女を、人と呼ぶにはあまりに異質な雰囲気を纏ったモノをどう呼ぶか。
人ではなく、だが人でしかない外見。彼女のようなモノは普通の人間からは畏怖され、恐怖の対象のされ、一括りにある名称で呼ばれた……。
「血塗りの魔女ですね」
――路地裏に突如響く声。
「フラスト遣いの力での行為の数々……。その報いを受けさせる為、ある者から依頼をされて参りました」
言葉は丁寧だが感情を感じぬ声。
まだ少女の時の高い音質の声はしかし、平坦に、冷酷に、血塗りの魔女と呼ばれた女に向けられた。
――血塗りの魔女。
それは女個人の名称であった。
数多の人間を殺し、幾多の地獄絵を造り出した人では有り得ぬ『力』を持つモノ達に付けられる個人の通り名のようなもの。
誇れるようなものではなく、ただ、己が人間に恐怖される存在になったと知らしめられる名。
その声を聞いて未だ笑い続けていた女――血塗りの魔女は声の方を向いた。
大通りから伸びた路地裏に入る為の唯一の入口、異質なこの場所に通じる入口に声の主は立っていた。
見ればまだ少女のようであった。
四季というものがこの国から無くなり、肌を凍て付かせるような寒さが昼夜共支配している中、その少女の服装は相応しいものといえた。
全身を包み込むような黒のレザーコート、淡い月の光に照らされ鈍く光る金具。
まるで拘束具のように様々な箇所に施された留め具は少女の身体を締め上げ、倒錯的な匂いを醸し出す。
首に下げられた十字架型のネックレスを右手で握りしめ、眼前に広がる惨状を、血臭の漂う悍ましい現実の中に足を踏み入れていながら、少女は灯の燈らない瞳で女を見続けるのみ。
一歩、路地裏へ足を踏み入れる。
武骨で実用的な造りのブーツが血溜まりに浸かる。
血の飛沫が飛んでも少女は反応を見せず、一歩ずつゆっくり女に近付いてゆく。
途中血溜まりの中にある死体を一瞥したが、表情は変わらずに歩き続ける。
そして二人の距離が数mになった時、少女は止まった。
「抵抗しない事をお薦めします。血塗りの魔女――貴女では私に勝てません」
己の力に対する自信ではなかった、相手に対する見くびりでもない。
――ただ、少女は真実を言葉にしたのみ。
と、今まで黙って少女の動向を見ていた女が喋った。
「まったく…警察も毎度毎度ワタシを殺す為に色々送ってくるけど……まさかこんな可愛い女の子よこすなんて、笑い話にもなりゃしない」
少女に話し掛けたというより独り言のように喋った後、おもむろに足元に転がる死体を踏み付けた。
「ねぇ分かってんの! 今ワタシ気分最高なんだよねぇ~…なのにあの餓鬼」
ベキベキッと音を立てて死体の顔が潰れてゆく。
砕けた頭蓋骨が皮膚を突き破り、目玉は踵に踏みつぶされ何かを飛び散らせ、脳髄が垂れ流されている。
三日月型に口を歪め、新しい玩具を見つめた子供のように爛々に瞳を輝かせた女には理性の無いように思えた。
いや、この惨状に出くわした人間ならば気を狂わせるのが普通であろう。
だが女にとってこれは日常、これが普通、襲い、襲われ、死ぬか殺すかの世界。
――それがこの国なのだ。
「アンタはどんな風にしようかな~……その何にも感じてなさそうな眼、それを羞恥と絶望と恐怖に染める…あぁ、考えただけでイっちゃいそうよ!」
恍惚な表情のまま今だ死体の顔を踏み付けるのを止めない。
最早顔は原型を止めておらず、女の靴は地面を踏み付けていた。
少女はただ見ているのみであった。
女の言葉に反応せず、飛び散る液体物にも何も感じていないように。
全ての感情が欠落したような瞳、その瞳に映る光はほの暗く、映る世界は絶望の終夜区。
それでも少女は立ち続けるのみ、変わらず――臨む者全てを飲み込むような殺気を放ちながら。
「ねぇ、あんたもフラスト遣いなんでしょ? なら二つ名を教えてよ。ワタシがあんたを知らないであんたがワタシを知ってるなんて不公正だと思わない?」
眼を細め、口の端をつり上げながら女は切り出す。
まるで薄っぺらな板に張り付いているような笑い方、見る者を何処かへ誘うような艶ある微笑みにも見え、戻ってくる事の出来ぬ何処かへ連れて行く嘲笑のようでもある。
「……そうですね。どうせ貴女にはすぐ忘れてもらうでしょうから教えても問題はないでしょう。私の二つ名は――」
「――マガイモノ」
「ッ!」
瞬間、血塗りの魔女の身体はかき消え、瞬きさえも赦さぬ速度で少女の後ろに回り込んでいた。
――しかし、
「勝てないといったでしょう」
眼前にいるはずの少女の姿はなく、幼さの残る声は後ろから聞こえてきた。
「ぎっ!?」
確認などをせず血塗りの魔女はがむしゃらに後ろに手を突き出した。
しかし何も捕らえられず虚空が広がるばかりだった。
「貴女のフラスト……どうやら血のようですね。貴女の血を相手に付けるか、または身体へ侵入させるか。今まで殺された人達は臓器破裂、血液の逆流、神経不全などでしたから後者でしょうか」
小さくブーツの音を路地に響かせ、少女は死体達の近くへ着地する。
「過去のトラウマか己の願望か……どちらにしても、大した事はありませんね」
その時、少女の顔に初めて感情が浮かび上がった。それは明らかな、嘲りの笑い。
それを見た血塗りの魔女から笑みが消えた。
怒り狂った訳ではない、平静を取り戻した訳ではない――恐怖を感じたのだ。
目の前の少女から。
年端のいかぬ華奢な身体から、触れば折れてしまいそうな指先から、白絹のように透き通った肌から、底の見えない碧眼の向こう側から。
言い知れぬ恐怖を感じ、笑みを作り続けれなくなったのだ。
少女の放つ殺気に全身を舐めずり回され、喰い殺されそうになりながら、それでも血塗りの魔女は抗おうとする。
それが弱者である自身の虚勢とも分からずに。
「では……忘れましょうか、血塗りの魔女。この世の、全てを」
そう聞こえた時にはもう、視界は闇深く塗りつぶされていた。
血塗りの魔女に残ったのは、最後に首筋に触れた冷たい指の感触だけ――。
凍えるような夜の帳に包まれて、その男は立っていた。
薄く照らす緋色の月と、不規則な明滅を繰り返す街灯の下、二mはあろうかという長身と大樹のような重量のある身体。
小さく右胸に『WPF』と付けられたジャケットを身に着け、迷彩柄の服に包まれた男は、サングラスの下の眼を閉じある者を待っていた。
男のいる場所は人工川にかかる橋の下だ。
近くには黒塗りのワゴン車が一台停まっている。
明滅する街灯の明かりに照らされる男の息は、雪牡丹のように咲き、瞬く間に散っていく。
自分の吐いた息さえも凍りそうな夜の中で、男はただ待った。
「隊長~、いい加減車の中に入って下さいよ。ヤツが出かけて30分も経ってませんよ。中で連絡待ってた方がいいですってば」
ワゴン車の窓が開き、中から同じ服装の男が顔を出す。しかしこちらはまだ若い、青年という言葉が似合う年齢のようだ。
その青年の言葉に反応せず、隊長と呼ばれた男はゆっくりと眼を開ける。
(――そういえば、あの子が笑わなくなった日もこれぐらい寒い日だったな)
ブーーッブーーッ
男のジャケットが震えたのはそんな事を考えた時だった。
すぐさま車のドアを叩き、部下達に知らせる。
そしてジャケットのポケット内に納めていた電話を取り、通話ボタンを押した。
「……認証コード。上から6、L、西、2、クローバー」
「認証した。こちら世界警察機構日本監国支部、第一部隊隊長のヴォブリット大尉だ。そちらの状況は?」
「ターゲットの『記憶消去』に成功しました。血塗りの魔女は力の遣い方、過去殺した人間に対する記憶を一切失いました」
「……了解した。ではターゲットを連れて集合ポイントまで向かえ」
「分かりました」
――ピッ。
通話を切ると、ヴォブリットは静かに息を吐いた。
なぜこうなってしまったのか……彼女だけは、例え他のフラスト遣いよりも強い力を持っていようとこの世界には来て欲しくはなかった。
出会った頃のように無邪気に、笑いの絶えぬ人生を歩んで欲しかった。
――今、彼のサングラスの奥の瞳は何を映しているのだろうか。
少女の歩む血と欲望で出来た現在か。
彼が掴みきれず手に入れる事の出来なかった未来か……。
ガララッ!!
静まり返った夜の中大きな音をたて、車のドアが開いた。
次いで四人の男達が素早く降りてくる。
全員が同じ軍服を身に着け、警棒のようなモノを腰に差している。
ヴォブリットへの敬礼、点呼を済ますと、先程話し掛けてきた青年が二の句を告げる。
「隊長、指示をお願いしますッ」
「全員『クローバー』が来るまでこのままで待機。彼女が現われたら四方に散開、彼女の警護にあたれ」
「「ハッ!」」
それから程なく、少女が姿を現わした。
それを見た隊員の1人が『ヒッ』と小さく悲鳴を上げるが、気にとめる風もなく近付いてくる。
隊員らが畏怖の表情を見せる中、ヴォブリットだけは普段通り、憮然とした顔をしていた。
「ご苦労だったクローバー……その血はお前のものか?」
「……私がこんな相手にケガをすると思いますか?」
侮蔑の入り交じった表情を見せ、左手に掴んでいたものを投げ渡す。
「依頼通り血塗りの魔女です。多少汚れていますが、間違いありませんね」
少女の言う通り女は血まみれだった。
だがそれは返り血であり、自身のものではない。そして、少女もまた、多くの血を浴びていた。
街灯の光を反射するように濡れているコート、少女の歩いた靴跡は、血の靴跡であった。
顔にも多少の返り血を浴びており、ヴォブリットがおもむろにハンカチを出し拭おうとしたが
「――結構です」
彼女はそれを許さなかった。
自分の四方に散った隊員達を一瞥した後、隊長へいつもの口上を述べる。
「依頼料はいつもの口座へお願いします。もし万が一記憶消去が完璧でないとそちらが判断した場合、料金はお返し致します。また、新たに依頼を頼みたい場合は喫茶クローバーにメールでお願いします」
では、とその場を去ろうとする少女を、ヴォブリットは引き止めた。
「……前に言った事は考えてくれたか? ――シエル」
その時、僅かだが少女の肩が揺らめいた、しかし誰も気付かない。
「……私は、クローバーでもシエルでもありません。私は――マガイモノです」
そう言った彼女の瞳は、少し濡れていたように感じられた。
少女の姿が見えなくなり、散開していた隊員達はヴォブリットの元へと集合した。
「……シムル少尉、ターゲットを拘束し車に乗せろ。シマ軍曹はクローバーの残した痕跡を消してくれ。残りは本部と連絡を取り処理班を手配しろ」
「「ハッ!」」
指示をした後、ヴォブリットは星空を見上げた。
(この星の下で……お前はまだ、探し続けているのか)
星空は何処までも続き、人々の想いを飲み込んでゆく。
しかし、彼女の想いだけは未だ心に止どまり、燻り続けていた。
カランカランッ
軽やかなベルの音が店内に響き、お客が来た合図を鳴らす。
(――いい音だな)
本当にそう思う。
ここ最近通いつめてるこの店の『秘めたる自慢の一つ』なのだと店長に教えてもらった。
そんな事を考えながらいつものカウンター席に腰掛けると、目の前に湯気のたったマグカップが置かれる。
「いつものでいいんだろ?」
そう言ってマグカップを置いた女性はカウンターの男に薄く笑いかける。
薄緑がかった髪を後ろてに縛り、店のロゴの入った前掛けを付けている。
瞳はまるで高純度のルビーのように美しく、引きつけられそうになる。
「有り難うございますナナエさん。……あぁ、やっぱり落ち着きますね、この匂いは」
そう言って男はマグカップを持ち上げる。
そして一口、
「今回も味が違いますね。でも、何だか今日の僕に合ってるような気がします」
「そりゃそうだろ。私の淹れるコーヒーは客に合わせて挽いてるんだから」
不敵にそう笑って、カウンターの奥に行ってしまう。
そしてすぐに戻ってくる。手には、白い液体の入ったコップ。
「や、僕はブラックで飲むのが好きなのでミルクは要りません」
「別にお前に用意した訳じゃない。もうそろそろ帰ってくるんだ、あの子が」
店の一番奥、そこに置かれたテーブルには一組のイスが置いてあった。
ただしイスは持ち上げられており、使われていないように見える。
ナナエはそのうちの一つを降ろし、その前にミルクの入ったコップを置く。
――その時、またベルの音が店内に響いた。
男がドアの方を見ると、そこに立っていたのは幼いという言葉が先にたつ、まだ少女といえる年端の女の子であった。
淡く陽光を浴びて透き通った金色の髪、触れるだけで汚してしまいそうな白絹のような肌、この近くにある名門校の制服を着ているが、まだ制服に着られていると言える、華奢な身体。
だが瞳を見た瞬間、男は全身が総毛立った。
少女という外見の中に、まるでまったく異なるモノが入っているような、光の差し込まぬ碧眼の中に何か、人では有り得ないモノが隠れているような、彼女の瞳はもの言わず、男の全てを見透かすような印象であった。
「お帰りシエル。こいつが今回の依頼者だ」
ナナエはそう言うとあのテーブルのイスを引く。
無言でそこまで行き、イスへと座った少女は男を見た。
感情の感じられる瞳で観察するかのように。
男は目を合わせられず、気まずく視線を泳がせているとナナエが手招きをしていた。
仕方なくそちらに向かう、もう一つのイスも降ろすのかと思ったが、そのイスには手をかけずシエルの近くにあるイスに座らせた。
「……セイゴ・G・ジナイ、22歳。様々な方面に事業を展開するカイヅ製薬会社日本監国支社勤務。現在カイヅ大学附属病院に入院中のリン・アヤガミ・チョーツィと婚約、一ヵ月後には挙式予定」
まるで資料を読み上げるように言ったシエルだったが、男は驚いていた。
「な、何でそんな事知ってるんですか!」
「依頼者の身元調査は常識的な事だ。文句があるのなら断ってもいいんだぞ」
冷たい口調で言い放つナナエ。
その言葉で男は黙ってしまう。
「では、セイゴさん。いくつか質問しますので答えて下さい。まずこの店の事はどうやって知りました?」
「……会社の同僚から教えてもらいました。どんな依頼も聞いてくれる腕利きの何でも屋があるって」
その言葉にナナエは思わず吹き出してしまった。
「ハハハッ! 何でも屋、喫茶クローバーが何でも屋とは言うねぇ、お前の同僚とやらも」
「……次に、この依頼は危険を伴う、命を落とす可能性のある依頼ですか?」
「いや、それはないと思います。今まで依頼した他の方で怪我をした人はいますが死んだ人はいませんし……」
「何だ、私達が初めてじゃないのか?」
「はい、憲安や探偵、傭兵派遣所に依頼した事もありましたが全て失敗しました」
「では最後の質問です。……依頼の内容は何ですか?」
男は少し間を置き、決意したようにシエルの目を見る。
「……僕の婚約者、リン・アヤガミ・チョーツィを守って下さい!」
――目が覚めると、そこには真っ暗な世界が広がっていた。
……いや、違う。
目が慣れてきてぼんやりと周りが確認できる。
見慣れたリノリウムの天井、病院独特の匂い、廊下に漏れるナースステーションの明かり。
ここ何年も感じている、狭く息苦しい世界。
――私の生きる世界そのもの。
ベッドから起き上がりカーテンを開ける。
眼下に広がる街は賑やかに光り続け、まるで私を誘おうとしているようだった。
(飛べたら――私もあの中で生きられるだろうか)
叶わぬ願いと知りながらもそう思わずにはいられない。
夢を見ずにはいられない。
だが、それが彼女のフラストになろうとは、きっと、誰も思えなかっただろう事――。
薄く曇りがかった空の下、様々な人が仕事へ、学校へ、縛られた時間を過ごす為歩いている。
――日本監国の首都である東京都。
昔、日本監国がまだ普通の国だった頃の首都名。
異能者の国として再建される際にそのまま用いられた地名、その一区に、都内でも有数の進学校がある。
『篭之壊国立院』
小中高エスカレーター式に進学できる体制を取っており、その学力レベルは日本監国外でも他を寄せつけない。
また、院の名前でもある篭之壊とは昔、日本監国の再建に尽力した1人の異能者の名前だ。
そして、この院の設立者の名前でもある。
国内では珍しく異能者・非異能者問わず入学させる事から、様々な所から揶揄されるが、創立からの実績により今も多くの入学志望者が集まる。
――それが篭之壊国立院なのであった。
その院に通うシエルは指定の制服に身を包み、とある橋の上で立ち止まっていた。
濃いワインレッド色にまとめられた上下、襟元には細かな刺繍が施され、胸には淡い黄色のリボンがあしらわれている。
院指定の蝶の形をした学年章を胸元に付け、ツインテールにまとめ上げた髪が風になびく。
うつむき加減でじっとしており、視界に映るは己の革靴のみ。
そんなシエルの姿を見つけ、1人の少女が走りよってきた。
「あれ、シエルちゃ~ん! こんな所でどうかしたの?」
シエルが顔を上げるとそこには小麦色の肌をした、快活そうな少女が立っていた。
短く肩の辺りで整えられた髪、アクセントとして赤色のエクステを付け、胸にはシエルと同じ学年章。
身長は女の子としては高めで、すらりとスカートから伸びている脚が美しい。
その少女は屈託なく笑うとシエルの頭を撫でた。
「いやぁ、でもシエルちゃんは今日も可愛いなぁ~。私的にそのツインテールがグッとくるね」
撫で撫でしてくる少女の行動に無反応のまま、シエルは鞄から一枚の紙を取り出した。
「今日から一週間程休むので、この欠席届出を先生に渡して下さい」
少女に紙を渡すと、シエルは院とは反対方向へ歩き出す。が、立ち止まり少女を振り返る。
「それと……鯉瀧さん、口元にご飯粒が付いていますよ」
そう言われ慌てて指摘されたご飯粒を取った少女だったが、その間にシエルの姿は消え失せていた――。
カイヅ大学附属病院のとある一室、そこのドアを叩く者がいた。
そして中にいる者の返事を待たず入ってくる。
入ってきたのは、担当の看護師と綺麗な少女であった。
外年齢がまだ未成年にしか見えない少女はナース服を着ており、無表情のまま立っている。
誰だろうかと考えてたら、担当の看護師が喋り出した。
「えっと、シエルさんでしたね。この部屋の患者さんは……って知ってるんだっけ、WPFからの派遣でしたものね。患者さんの医療的な事は私がするから、貴女にはその他の事をお願いします」
簡単な説明と数枚の紙を渡し、そして私に近付いてくる。
「はぁ~いリンさん、今日のご機嫌はどうですかぁ? 寝汗とかかいてませんかぁ?」
そう言って私の服の中へ手を突っ込んでくるが、いつもの事なので私はそれを無視する。
てきぱきと検温、脈拍を測り、取り付けてある点滴を慣れた手つきで取り替える。
その間、シエルと呼ばれた少女はじっと見ているのみであった。
まるで、私を観察するかのように。
「今日は曇ってますけどカーテン開けましょうか? 外が見えた方がいいですもんね」
サッと一気に開けられたカーテンの外の風景は、確かに曇っていた。
三日前の急激に冷え込んだ日ほどではないが、今日も外は寒そうな風が吹いていた。
だが病院の中にいる私には関係なく、それが生きている事をより希薄にさせる。
「じゃあ私は戻りますけど、貴女はどうするの?」
話し掛けてきた看護師にはしかし見向きもせず、もう少しいますとだけ返した。
訝しげに視線を送ってきたが、機械に触らないようにという注意を残し、看護師は出ていった。
「…………」
無言のまま病室内を見渡す少女。
私と何回か目が合ったが、気付かず視線を変える。
「まさか保護の対象が――植物人間とはね」
そう呟くシエルの目の前には、複雑そうな機械に繋がったリンの寝るベッドがあった。
そして、少女とは対角線に位置する部屋の隅に、リンと同じ顔の少女が立ち、シエルを見つめていた――
彼女――リン・アヤガミ・チョーツィが最初に入院したのは2年程前になる。
突如として訪れた胸の痛み。
動悸は早まり、脂汗が身体中から吹き出す。立っている事さえもままならず、揺れる視界がシャットダウンし彼女は気を失った。
そして次に目覚めたのは病院のベッドの上だった。
まだ朦朧とした意識の中、辺りを見回すと、自分の寝ているベッドに突っ伏した男を見つけた。
それは――
「セイゴ……?」
「――リンっ!!良かった、目が覚めたんだね! そうだ、看護婦さんを呼ばないとッ!」
泣き腫らしたのか目が充血し、髪はボサボサになっていたが、彼は間違いなく彼女の家の近くに住む、幼馴染みのセイゴだった。
ナースコールを押した後、セイゴは今までの状況を話してくれた。
昨日の夜家に帰る時、車はあるのにリンの家に明かりが付いてなく不審に思った事。
電話をしたが誰も出ず、中庭に回ってみたら居間で倒れているリンを見つけた事。
すぐに救急車に電話し、そして現在に至るという事。
「担架に乗せられた君は本当に青ざめていて……僕はいつもは祈らない神様に祈ってしまったぐらいだよ」
ははっと疲れたように小さく笑うセイゴ。
ふと時間を確認すると午後の4時になろうとしていた。
「まさか昨日の夜から今までずっと付いていてくれたの?」
「当たり前だろ。だって、僕らは親友だろ?」
そう言ってリンの手を握り締めるセイゴ。
本当に良かった……と何度も、何度も彼は言ってくれた。
リンの両親は日本国の政府に殺された。
当時は突如異能者として覚醒する者の出現頻度が懸念されており、その力を恐れた政府は、少しでも疑いのある者を次々と処刑していったのだった。
この動きは世界各国でもあり、のちに『罪なき大虐殺』と呼ばれ、これにより世界は大きく変動した。
両親を殺されたが、リン自身は子供だからと殺されずにすみ、ある養護施設へ送られた。そして、そこで出会ったのがセイゴだった。
彼もまたリン同様、異能者の疑いのあった父親を殺され、その父の血を引いた自分を恐れた母親から、この施設に送られたのである。
2人、同じ傷をもつ仲間になり、親友になり、その関係は施設を出てからも変らず続いていたーー
「ドコか痛んだりするかい?」
ズキンッと、針で胸を刺されたような痛みがあった。
ただ小さな痛みであり、彼にこれ以上心配をさせたくないと、リンは黙っておく事にした。
「ううん、もう大丈夫だよ。疲れてたのかもね」
「そうかい? ならいいんだけど――あんまり無理しちゃ駄目だよリン、君は昔から人より身体が弱かったんだから」
リンよりも年上であるセイゴは、昔そうしていたように、リンの頭を撫でる。
「僕らは兄弟みたいなものなのだから、困った時は頼ってくれてもいいんだ」
「……うん」
しかしリンは、なぜか淋しそうに頷くのみだった。
リンの身体の異常はなく、過労によるものだと判断されその日のうちに帰る事ができた。
しかし胸の痛みは収まっておらず、それを言おうと思ったがセイゴの顔が頭をよぎり、彼女は言う事が出来なかった。
だが……彼女が気絶する事はその後も度々あった。
しかし診断では異常は見当たらず、原因不明のまま入退院を繰り返した。
――この日も何度目になるか分からぬ発作に襲われ、病院のベッドに寝かされていた。
最初の頃と比べ胸の痛みは大きくなり、眠る事さえままならなくなっていたのだが、この日は珍しく心地よい眠気が身体を包んでいた。
と、病室のドアが開き、セイゴが紙袋を持って入ってきた。
「着替えはこれぐらいでいいかな? 他に何か必要だったら言ってくれよ」
――私の発作の度に泣きそうな顔で飛んできて、心配し、世話を妬いてくれる人。
昔から慕って、頼っていた、お兄ちゃんのような人。
でも……私は――本当は
「ん? 何か言ったかい」
何だか意識が遠のいてゆく。
……自分でも分かる。
今眠ると次は目覚められないかもしれない。
だから、今、彼に、伝えないといけない。
「…………――」
その声が届いたかどうか知った時、彼女は誰にも見えない存在になっていた。
(私の言った事をセイゴは今叶えようとしている。でも、今の私なんかと結婚なんて……)
病室の隅、膝を抱えふさぎ込んでいるリンがいた。
だが身体は透けており、後ろにあるはずの壁が見える。
(何でこうなったのか分からないけど、あれから私は幽霊みたいになってしまった。身体に戻りたくても戻れない――セイゴ、助けて)
彼女の悲痛な願いはしかし、誰にも届かず、彼女の胸の中で反響するのみ。
と、病室の入口に人の気配を感じ、リンは顔を上げる。
病室に入ってきたのは先日、担当になったシエルという女の子。
底の見えない奇妙な碧眼の彼女は、ベッド近くのイスに座り何かを考えるように眼を閉じた。
彼女は一体何者なんだろう――。
リンは立ち上がり、奇妙な雰囲気を持つ少女にゆっくりと近付く。
そして彼女の美しさにハッとする。
自分では持ち得ない艶やかな髪、透き通るような肌、少女の愛らしさと、女の艶やかさが見える、不思議な体躯。
自分もこんな恵まれた容姿ならば、今のようにならず、もっと早く彼に想いを伝える事が出来たのではないか。
こんな未来にならずにすんだのでないか。
心の奥の方から滲むように出てきたその想いは、全身を巡り、心地よい気分にさせてくれる。
(なぜだろう――。今なら、空も飛べそうな気がする)
――風が、吹いた。
窓も開いていない病室に、少しだけ、風が吹いた。
それを感じシエルは眼を開け、リンの方を見た。
だが彼女は、以前のようにベッドに寝たままの状態だ。
「もしかしたら……」
そう言ってリンに近付こうとする、が、その時ドアが叩かれた。
その音で我にかえったリンが、ドアの方を見る。
「私だ。入ってもいいか」
その声は、リンには聞き覚えのない、シエルには耳慣れた声であった。
「どうぞ」
リンに近付くのを止め、イスに座り直したシエルがそう返事をする。
静かにドアが開き、そこから入ってきたのは大柄な男だった。
筋骨隆々とした身体は天井高く、着ているスーツは窮屈そうである。
サングラスで見えない眼がシエルの姿を捕らえ、近付いてゆく。
「ナナエから聞いたらここだと言われたからな。この子が依頼された保護対象か」
どうやら私の事をこの人は言っているらしい。
そうか、彼女は今までのあの人達と同じ、私を守りにきていたのか。
リンが納得するのを余所に、大柄な男――ヴォブリットはなおも話す。
「ここにいるという事は、WPFの派遣状は役に立ったみたいだな。しかし何もナース服を着らんでも良かったんじゃないか? それにスカートの裾が短いような気が……」
そう親しく話し掛けるヴォブリットに、シエルは立ち上がり、無言で視線を送る。
「……分かった、本題を話そう。三日前の依頼の事だ」
「何か問題が?」
「いや、無かった。血塗りの魔女は問題なく記憶を失い、WPFの監視下の元、普通の人間として生活を始める事になった」
(血塗りの魔女?)
その言葉にリンは聞き覚えがあった。
確か、近付いた者全てを殺すと恐れられ、よくニュースで取り上げられていた異能者の名前だったはず。
「なら何しに来たのです? 確かに今回、病院へ潜入する際に力を貸してもらいましたが、正式な依頼としてそちらには受諾して頂いたはず。……お礼でも言ってほしいんですか?」
そう言い少女の口の端がつり上がる。
――似合わないな、と思う。
まるで無理して笑ってるような、そんな笑い方だ。
普通に笑えば可愛いはずなのにと、見ていて可哀相に思えてくる、そんな、淋しさを感じさせる笑いだった。
ヴォブリットはその笑いを見、悲しそうな顔をする。
それを見て、シエルは澱んだ碧眼の瞳で睨みつける。
「……なんですかその顔は。もう、私に構わないようにと前に頼んだはずですっ――なぜ……なんで! なんで昔みたいに私に話しかけるの!!」
彼女が押し固めていた感情が、小さくヒビ割れ、中に溜まっていたほんの一部が流れ出す。
「もう昔みたいに笑えない! 昔には戻れないのっ! だって……だって、ここには『彼』が、居ない」
彼女の頬を涙の滴が走る。まるで頬を裂くように、心の傷をなぞるように、一筋、流れる。
「シエル……しかしッ、何度も言ったように私やナナエ、その他の者だってお前のいう[彼]を覚えている者はいないんだぞ! 更にこの世にいたという痕跡さえ存在してはいない。あの夜言った事、もう一度よく考えてみてくれ。もうこの世界から身を引いて、普通の生活に戻ってくれ……私に出来る事があるのなら、何でもしてやる、だから――」
「有り難う、おじさん。……でも無理だよ、貴方にして欲しい事は無い。私は、この世界で彼を取り戻す方法を探す。例え彼を覚えているのが私だけでも……彼の残してくれた、このネックレスと力で」
――その昔、誓った事があった。
力を暴走させ、何処かに消えてしまった彼を救い出そうと。
その力の暴走により、彼の存在を皆が忘れていようとも、私は覚え続けておこうと。
思い出させてくれたネックレスと、それに宿る彼の力を遣って必ず――。
少しだけ垣間見えた少女の素顔はしかし、今は消え失せ、涙の跡のみが残る無表情になっていた。
「……他に用が無いのでしたら帰って下さい。依頼を完遂するのに邪魔です」
「――――分かった。その子の為に持ってきた花……飾ってあげてくれ」
男は不似合いな綺麗な花束を置く。
出て行く際こちらを振り向いたが、彼女は背を向け見ていなかった。
男は、再び悲しそうな表情をしたが何も言わず……そして静かに病室から出て行った。
(この子は……戦ってるんだ。多分、世界の全てを憎みながら、自分自身を嘆きながら、その身を、心を、削りながら――)
今日はよく晴れていた。
ここ何日かは曇天の空模様だったが、久しぶりに太陽が顔を出している。
だけど、あの日から彼女は、私のいる病室に来なくなった。
しかし何時間ずつ部屋の前に来ているようなので、病院には来ているようだ。
瞼を閉じたままの自分自身を見下ろしながら考えていると、病室のドアを叩く音がした。
「シエルさ~ん、アナタに会いに来てる人が……って、何だ居ないじゃん」
ドアから顔を覗かせたのは担当の看護師だった。
「まったく! 何で私があんな無愛想な子供のお守りしないといけないのよ」
はぁっと息を吐き、看護師はリンの寝るベッドに腰掛ける。
「こいつの病状を調べる為にWPFから派遣されてきたって院長には言われたけど……どうも信じられないなぁ」
リンの顔を無遠慮に覗き込みながら、看護師は鼻で笑うように言う。
「それよりあんたの婚約者……セイゴって言ったっけ? アイツもこんな状態のあんたと結婚しようなんて、頭おかしいんじゃないの?」
答えるはずのない、答える事の出来ないリンに向かって、看護師は嘲笑を続ける。
「植物人間と結婚したって何にも出来ないのにねぇ~。こんなになっても想われてるなんて幸せ者ですねぇリンさんは」
リンは聞いている事しか出来なかった。
彼女は看護師に答える事などできず、触る事などできず、出来る事など何も――
「でも結構格好よかったんだよね――そうだ! リンさん、あの人は私が貰う事にするわ。あんたと結婚する前に、ちゃんと動く女としか出来ない事を色々してあげる」
………何、言ってる…の……。
「でもさすがに結婚はしたくないなぁ~……捨てちゃうだろうな。その時はあんたにあげるわ、そしたら結婚でもしてもらってよ。ははっ、何か私悪女みたいね」
――溢れて、しまった。
多分、眠り続けるようになった日から、溜まっていた何かが。
もう、抑えきれない……止められない。
目の前の女が――憎い。
屋上に据えられているベンチ。
患者用に設けられたそこに、シエルは座っていた。
ただ、じっと空を眺めて。
そしてあの時ヴォブリットが訪ねて来た時の事を思い出していた。
――また、涙が出そうになった。
一度ついてしまったヒビ割れは直る事はなく、広がってゆくばかり……。
どんなに心を、感情を殺そうとしても、あの、皆がいて笑っていた日々を思わずにはいられない。
……それでも、と思う。
それでも、立ち止まれない。
私にとって彼は世界であり、全てであり、一番、大切な人であるから。
首に下げた十字架のネックレスを強く握り締め、今一度誓った想いを心で反芻する。
もうこれ以上、泣き言を吐かない為に。
ドォォ……ンッ!
大きな揺れと共に、地響きのような音が響く。
「っ!?」
感覚で分かった。
誰かのフラストが……誰かの願いが暴走している。
同じフラスト遣いだから分かるのか、それとも同じ、届かぬ夢を見ているからなのかそれでも彼女は、駆けるしかない――。
病院内は混乱の渦中にあった。
逃げまどう人々、動けない患者には看護師が付き添い、非常口へ向かう。
泣いている子供の声、誰かの怒声、自らの病室で事態を見ているだけの老人。
誰もかれも、ここが病院である事を忘れていた。
治す場所である此所で、壊れたような声が、足音が轟く。
(目を離すんじゃなかった!)
確証はなかった。
怪我をしたという人達から話を聞き、あの時に病室で吹いた風と、病室内にいつもある違和感の事を、頭で整理し、一つの仮定を出していた。
でも、今までそんなのは聞いた事がなかった――いや、
(望めば何ものであろうと手に入れられるのがフラスト遣い……か)
人の波を掻き分け、少女はリンの病室へ急ぐのだった。
病室の前に辿り着くと、そこは惨劇になっていた。
ドアは周囲の壁諸共吹き飛び、廊下に叩き付けられていた。
そして瓦礫の上には、仰向けで倒れこむナース服の女の死体。
あちこちに血痕の付いたナース服、有り得ない方向に曲がっている手足、顔面はズタズタに引き裂かれ、とても見れる状態ではない。
女の死体は、まるで前方からとてつもない圧力をかけられ、潰されたようである。
死体を一瞥し、シエルは大きく穴の開いた病室へゆっくり足を踏み入れる。
病室の中は外とは違い、静かであった。
まだ少し粉塵が舞う室内で、リンはベッドに寝続けている。
シエルは落ちていた拳大の瓦礫を掴むと、それをリンに向かって投げ付けた。
常人では出し得ぬスピードで飛ぶ瓦礫は瞬く間にリンに近付くが、当たる寸前の所で、何かにぶつかったように砕け散った。
「やっぱり……」
納得する事の出来たシエルは、病室内を見回し言った。
「リン・アヤガミ・チョーツィ。貴女はここにいますね」
その言葉は、リンの身体にでなく、リンの魂に呼び掛けられたもの。
「貴女は、自分の身体に危害を加える者に対しフラストを遣っている。多分、私の声も聞こえているでしょう」
そして、静かに、告げる。
「貴女は――フラスト遣いです」
「私が……フラスト遣い……?」
「!?」
その声はリンの身体でなく、窓際から聞こえてきた。
「やっとお話できますね、リン。……貴女の今の状況を教えてもらえますか?」
「分からない……気が付いた時には私は、自分の身体を見下ろしていて、でも誰も気付いてくれなくて」
ぼんやりと窓際に何かが浮かぶ。
少しずつ輪郭が鮮明になっていくと、それはリンであった。
だが、透けて、弱々しく揺らいでいる。
「……ねぇ、これは私がやったの? 気が付いたら、こんな風になっていて。担当の看護師さんはっ――」
「彼女は廊下で死体となっています。貴女の力によって、です」
「そんな……だって、私は、普通の……」
「覚えていませんか? 貴女を今まで警護していた人達が怪我した時の事を。彼等に話を聞くと、皆一様にこう言いました。彼女の身体に触れた時か、セイゴに対する悪態を言った時に、突如突風のようなものが舞い、切り刻まれるように怪我をしたのだと」
「違う……違う……」
「そもそも貴女に警護をつけようとしたのも、貴女を担当する医師や看護師が切られたような怪我を頻繁にするからだと。貴女に危険に晒されていると思い、依頼者が始めた事だそうですね。しかし――」
「違う……助けてっ……セイ――」
「貴女が全ての元凶だったんですよ、リン・アヤガミ・チョーツィ」
ビュワァッッッ!
荒れ狂うように風が吹き荒れる。
危険を感じ、シエルは部屋を出ようとしたが、激流のごとく風はシエルを掴まえ、壁へと激突させた。
「ぐっ!!」
口から血を吐き、倒れ込みそうになる、が、それを堪え、シエルは蜃気楼のように揺れるリンを見据える。
「違う……私じゃない! 私は普通の人間で、普通の女の子で、ただ、セイゴの事が好きで、セイゴの事を奪うって言ったあの女が悪いんだ! 私はただ、自由になりたかったの! 外へ飛んでいきたかったの!!」
途端、彼女の背中からみるみる内に羽根が生えてきた。
だがそれは、みすぼらしく、羽ばたきさえもする事がままならぬ、そんな、羽根。
『……それが、貴女の、フラストなん、ですね。自由に、飛び立ちたいという願望……それが、貴女、を異能に目覚めさせた――想い」
「違うっ! 私は人間よ!?」
ビュウッ!
「くっ!」
シエルが倒れるように横へ転がる。
今までいた場所に間髪入れず、殺気を孕んだ風が無数の切り傷を作る。
「あ……あぁ……」
「認めて下さい、貴女はもう人間ではありません。そうすれば力の暴走も治まります。自分の存在を人としてでなく……化け物として捉えるんです」
「化け……物?」
人としての自分を捨て、フラスト遣いという化け物として捉える。
そうしなければ目覚めた力は暴走を止めず、身体が壊れるまで惨劇を創り続ける。
「――現実を、受け入れて下さい」
「現実……ははっ、現実、現実ね。――ならアナタはどうなの! 誰も知らない、誰も覚えてない彼って人をずっと探し続けてるアナタこそ現実を受け入れなちゃいけないんじゃないの!!」
「……聞いていたんですか」
「当たり前でしょ! だってここは私の病室よ! 私がいちゃ悪いっ!?」
「彼は……居ます。皆が覚えていなくても、彼は今も別の何処かで生き続けているはずなんです」
「何よそれ! アナタはそんな夢物語を追う為に、フラスト遣いになったっていうの! ……まさかそれが、アナタの欲望なの?」
シエルは、静かに首を振る。
「――フラスト遣いは、一般的には突如として目覚める事が殆どです。しかし、稀にですが力を持って生まれてくる赤ん坊がいるんです。……私も、そうでした」
目を伏せ、リンの身体が眠るベッドに腰を降ろす。
そこに荒れ狂う風はなく、暴走する攻撃は当たらない。
「後天的な人とは違うせいか、私のフラストは異色なものでした……それは、他人の力のコピー。右手に触れた者の力を遣う事が出来たんです。ただ、それには対象を右手で触り続けなければいけないという制約もありましたが」
そう言ってシエルは、ネックレスを右手に握りしめる。
「そんな中、私の力の異色さに気付いたある組織に、私は連れ去られました。そして助けてくれたのが――」
「……彼?」
いつの間にか、リンも自分の眠るベッドに腰降ろし、シエルの話を聞いていた。
さっきまでの感情の高ぶりは収まり、今はただ、声に耳を傾けている。
シエルは小さく笑って頷いた。
だがその笑顔は、年相応ではない、疲れているように感じられる。
「あの頃、といってもまだ一年も経ってはいませんが、凄く幸せでした。彼がいて、側に私がいて……毎日が夢のようでした」
話すシエルの瞳に光が灯る。
その光は虚ろで、荒んだように鈍く揺らめく。
「彼は今の私がしている事と同じ、フラスト遣いとしての力を遣って仕事をしていました。そして彼のフラストは、記憶の消去」
「……そんな事まで、出来るの」
「彼もまた、私と同じ先天的なフラスト遣いでした。望もうが望むまいが、その力は彼の周囲で悲しい場面を何度も作り、その度に彼は心を削り捨てていったんです」
まるで今の私そのものだ……と少女は言う。
少女もまた、心を削り、捨て去りながら、生きているのだと。
「そして……とうとう、私を連れ去ろうとした組織に居場所がバレてしまいました。私は言いました。これ以上迷惑をかけたくないって。でも[彼]は――彼は自分の力を暴走させ、私を助けてくれました。けど、暴走した力は彼の存在そのものさえも、親しい人達の心の中やこの世から取り去り、彼は『初めから存在しなかった人』になってしまったんです……」
唇を噛み締め、少女はネックレスを見る。無駄な装飾のない、シンプルな十字架。
――彼との、残ったたった一つの繋がり。
「なら……なぜアナタは覚えているの? 皆と同じように、忘れなかったの?」
「私も、忘れていました。でも……彼が消えた場所に残っていた、このネックレスに触れた時、何もかも思い出したんです。多分、私の他人の力のコピーというフラストの影響と、あと一つは――」
「……あと一つは?」
「――神様が起こしてくれた、奇跡だと思います」
その瞳に映るのは、喜びでも、感動でも、後悔でも、ない。
ただの――疲れた、彼女の心。
「私は彼を助ける為にこの道を選びました。貴女も……今とは違いすぎるかもしれませんが、別の道を選んでみませんか?そうすれば、何かが拓けるかもしれません」
すっ……と手を出すシエル。
少しだけ逡巡した後、リンは、その小さくも優しい手を握り返した。
「私も……アナタのように、強く、なりたいッ……」
――風は、いつの間にか止んでいた
一ヵ月後、彼女は結婚した。
看護師の死んだあの事件は以前捜査中であったが、植物人間であるリンが犯人候補に上がる事はなく、病院の屋上で、慎ましい挙式を挙げた。
病院からの計らいもあり、ウェディングドレスに着替えさせられたリンは、タキシードを着たセイゴと夫婦の誓いをする。
式にはシエルも招待され、2人の挙式を見守っていた。
「――なぜ貴方がいるんですか」
「ここでは君はWPFから派遣された事になっていたんだ。上司として相席するのは普通だと思うがな」
少女の隣りには大柄な男――ヴォブリットが立っていた。
「……シエル、やはりいくら考えても、私は君のいう彼を思い出す事は出来ない。それが[彼]の暴走した力のせいだというのなら、これはもう仕方の無い事なのだろう――だが君が、肌身離さず付けているネックレスから『記憶を消し去る力』を引き出しているのも事実だ。……これからもこの世界で生きるというのなら、やはり私は賛成をしないだろう。だが、君がそれでもこの世界を生き続けるというのなら――出来得る限りの助力をしようと思う。それが、今の私に精一杯言える事だ」
大柄な身体からは想像出来ない程の優しい微笑み。
シエルはそれを聞き、しかし表情は変えず、ただ一言。
「……有り難う」
――全てが伝わった。
この一言で分かり合うぐらい、それ程に、2人の関係は深いものであった。
式の途中に、シエルは屋上の隅に立ち、ずっと2人を見ている女性の方に近付いた。
「ご結婚おめでとうございます」
「うん、有り難う。でも、挙式している私の身体は抜け殻で、心はこっちにあるのに……何だか変な感じ」
そう言ってリンは照れ笑いを浮かべた。
今も続いている挙式を、幸せそうに見つめながら。
「力の遣い方などは、後々教えていきます」
「うん、その事だけど……もういいかなって思うの」
広がっている青空のように、どこか晴れ渡った顔をしてリンは言う。
「あの時はアナタにすがるような事を言って、アナタみたいになりたいなって思ったのも事実。でも……多分、私はセイゴの重荷になりたくなかったんだと思う。彼が私に同情して、自分の人生をかけてまで、私を助けようとするのが、みっともなく感じたの。
自分は迷惑ばかりかけてるなぁって――だから、自由に飛びたかったのかもしれない……」
いつの間にか現われた彼女の羽根は、今度はしっかりとしていた。
もう、大丈夫と言うかのように、何回か羽ばたき、消えた。
「でもあの日、彼が惨状を見て病室に入ってきた時、アナタに掴み掛かったでしょ。『リンを守るのが君の仕事だろう!』って。犯人は私なのにね……本当、私の心配ばっかりして」
指輪の交換をし終え、幸せそうに笑う彼を見ながら、彼女は静かに涙を零した。
「その時、気付いたの。彼も私を必要としてくれたんだって。あの時言った事は彼にとって重荷なんかじゃなくて、凄く、幸せな事だったんだって……もしかしたら私の勘違いかもしれないけどね」
小さく舌を出して、リンは笑ってみせる。
シエルも釣られたように、小さく、しかしはっきり、笑った。
「でも今、彼が笑ってあそこにいるのは確かで、私達が結婚するのも事実で……私が心で願ってた事、全部叶ったみたいなんだ」
「……そうですか」
「うん、だからもう大丈夫。本当にアナタのお陰で色々な事が解決出来たような気がする、有り難う」
そしてシエルを手招きする。
「だからアナタも、いつか絶対彼に会えるよ。夢や希望は、きっと、叶う為にあるんだから」
ぎゅっ……と抱き締める。
触れる事が出来ないはずなのに、シエルはリンに包まれたように感じ、目を瞑る。
「有り難う、シエル」
「……どういたしまして、リン」
いつの間にか挙式は無事済み、色とりどりの花びらが、2人に浴びせられていた。
そちらを見ていたシエルが、もう一度前を振り向くと、そこにはもう、透けているリンは立っていなかった。
――それから一週間後。
リン・アヤガミ・チョーツィは、病院のベッドの上で静かに息を引き取った。
「――よし、これで今回の依頼の調査書は完成だっと」
閉店時間を過ぎた喫茶クローバーの店内。
ナナエはテーブルに広がった何十枚にも及ぶ紙をまとめ上げ、一括りにした。
「シエルも報告ご苦労さん。しっかし……まさか幽霊が出るなんてねぇ、あれだろ? 結局あんたにしか見えなかったんだろこのリンって子は」
「ええ、婚約者のセイゴさんにも見えませんでした。多分、その現象も彼女のフラストに関係あるものだったのでしょう」
「ふぅん。フラスト遣いはフラスト遣いにしか分からないって事なのか……それより、今回の依頼は失敗って事になってるけど、どうしてかなぁ?」
「……彼女から目を離していたのは事実ですし、保護するといっても何も出来ませんでした。結局、彼女の魂は原因不明の病に侵されている身体に戻り、死んでしまった。私が彼女の幽霊化を解く手助けのような事をしたのも紛れもない事実ですし、総合的に考えた結果、失敗と判断しました」
「――はぁ。相変わらず固い事言ってるねぇ。何で師匠である私の、お気楽な部分は受け継がせきれなかったんだろう」
「……何を言われようと、私が失敗したのは事実ですから」
「失敗、か。心残りがあったまま生き続けるか、心残りが無くなって死ぬか、あんたはどっちが幸せだと思う?」
「……分かりません」
「まっ、この結果を失敗と思うやつもいれば成功って言うやつもいるって事かね。とりあえず失敗って事らしいから、後で組み手百セットだけどね」
それを聞いてシエルの肩がビクッと震える。
「でもその前にぃ~~と、ほら。仕事お疲れ様」
カップから湯気をあげているホットミルクをシエルに差し出す。
「……有り難うございます」
依頼の終了後にナナエから手渡されるそれを、シエルはいつものように飲む事にした――。
「シエルちゃ~~ん!」
ある晴れた日、篭之壊国立院に続く坂道を上がっているシエルを、誰かが後ろから呼ぶ声がした。
「鯉瀧さん、おはようございます」
「うん、おはよう。今日のポニーテールもいい味出してるねぇ……ってそうじゃなくて! この前シエルちゃんから先生に渡すように言われてた紙、渡したら先生破いちゃったよ!」
両手をせわしなく動かし、一大事件のように騒ぐ。
「シエルちゃん、ちょくちょく休むでしょ?だから先生が怒って『こんなの認めん!!』って破いて、登院してきたら指導室まで来るように言えって……」
(――WPFの派遣状を見せれば、教師も何も言えないでしょう)
「分かりました、では指導室に向かえばいいんですね」
『あぁシエルちゃんっ! ……私も、付いていこうか?」
「どうしてです? 鯉瀧さんは別に呼ばれた訳ではないですよね」
「そうだけどっ、友達のピンチは私のピンチっていうか、その……」
「――有り難う、ございます。でも大丈夫ですよ……私は、大丈夫です」
――多分、初めてだったと思う。
彼女はそう言うと、すぐ院に向かい出したんだけど、ほんの一瞬だけ、笑っていたと思う。
それは凄く可愛くて、綺麗で――
「そうそう、鯉瀧さん」
「っ! は、はい!!」
「またご飯粒が付いていますよ」
そう言って彼女は、笑顔を私に向けてくれた――。
歩いてきた道は戻れず
歩いてゆく道の先は見えず
ただ重たくなる足を引き摺りながら
ただ一つの願いを想いながら
――この道を進んで行こう