覚醒 ~デモナス・パラミ~
「ッ…… 行くぞ」
亜空間は踵を返して黒い揺らめきへと踏み込もうとした。
「ぇ……?」
だが後方の氷華が一向に歩を進めようとしない。亜空間はイラついたように振り向き、戦慄する。先程まで、ほんの二、三秒前まで転がっていたはずの死体が消失していたのだ。
「《オレ》とも遊んでいけよ!!」
「!?」
狂気を孕んだ声と共に亜空間の身体が地面を抉りながら吹き飛ぶ。
「ハハハッ! よく飛んだな!」
亜空間を吹き飛ばしたであろう声の主は氷華に背を向けて笑った。
「レイ……ア……?」
何故この少年を覇魔黎鴉と認識してしまったのかは分からない。
薄鈍色にほど近いくすんだ白髪に赤錆色の双眸。雰囲気だって全くの別人にも関わらず、氷華は直感的に目の前の少年を彼だと識別した。
「……」
「……」
覇魔黎鴉とおぼしき少年はほんの少し振り向き、氷華と数秒間無言で視線を交錯させた。
しかし氷華の背後に気配が現れた直後、彼女の視界が一変する。
「ッ……!」
氷華は咲神達も集まっている場所に移動させられたのだ。彼女の背後に現れた鏡によって。
「ねぇ……あれがさっきの彼なの?」
遠くのレイアに目に向けている鏡を代弁するかのように咲神が問うてきた。
「……間違いなく」
氷華はレイアを見据えながらはっきりと言い切った。
「おい、さっさと立てよ。あんなもんじゃ大したダメージもないだろ」
オレは亜空間が吹き飛んでいった方向に向けて言葉を放った。
「あぁ……」
背後からの声。瞬間、オレは地を蹴り数十メートル後方に飛び退いた。
「……その身のこなし、てめぇ一体何者だ……?」
「オレは《覇魔》黎鴉だ。知ってんだろ?」
「! お前が《災華》と《禍罪》のガキか!」
「そんなことどうでもいいだろ、早く続きやろうぜ?」
オレは闘争の意志と殺気を放ち、戦闘態勢に入ったことを亜空間に知らせる。彼はそれに応じて身構えた。
「無駄無駄」
ドンッッ、と地面にクレーターを穿ち、オレは一瞬で亜空間に肉薄した。
刹那の接近。だが亜空間はそれに反応しており、同時に拳が放たれ激突する。
「中途半端な混血に押し負けるかよ」
「ッ……!」
亜空間の拳はオレの拳の威力を相殺しきれずに弾かれ、彼の身体は仰け反る。
「ッッ!」
そんな隙だらけの亜空間の腹部に的を絞って全霊の拳を放つ。
「はッ! 調子乗んじゃねぇよ」
亜空間は仰け反りながらも右足を斜めに蹴り上げた。その先はオレ、ではなく虚空。しかし虚空に黒い揺らめきが出現して彼の足先を飲み込んだ。
「……!」
背後右方向からの蹴撃。右拳を放った状態では躱しきれない。だからオレは空いている左手を無理矢理右側に持っていき蹴りを受け止める。
だが無理な体勢での防御では致命傷を受けないことが精一杯で威力は殆ど弱まらなかった。
「くッ……」
横方向へ思い切り吹き飛ばされたオレだったが、何とか体勢を立て直し地面を抉るように勢いを殺した。
「……」
身体能力、動体視力ともに覇魔の純血である俺の方が上だ。ただあの異能が厄介だ。予期せぬところからの攻撃には覇魔の動体視力を持ってしても反応が遅れてしまう。
「天能者として力を得たばかりのひよっ子がオレに勝てると思ってんのか?」
「お前こそ何言ってんだ。この力は天能者としてのモノじゃねぇ、ただの覇魔の力だ」
オレと亜空間は相対しながら言葉を交わす。
「覚醒したならなんで能力を使わねぇ。あんま調子乗ってると一瞬で消すぞ……?」
亜空間は降ろした両手の先に黒い揺らめきを出現させながら威圧してくる。
「……」
異能を発動しなければ亜空間の言う通りになってしまうだろう。
「今見せてやるよ……」
声と共にオレの首に掛かっている鴉羽のネックレスが闇色の光を放ち始めた。オレは押さえ付けるようにそれを握り締める。一瞬光が収まったように見えた直後、闇色、いや闇そのもののような赤黒い靄が指の間から吹き出した。
やがてそれは収束していき両掌のみに留まった。
「それがてめぇの異能か……」
「あぁ、存分に味わえよ」
オレは一瞬で最高速度に達し亜空間の寸前に迫る。オレの接近は真正面からの単調なものだったため、亜空間は完全にオレの動きを予測していた。そのため掌と黒い揺らめきをこちらに翳していた。
「ッッ!」
オレは黒い揺らめきの寸前、赤黒い靄を纏った掌で地面を強打する。そしてその反作用によって亜空間の掌が向いている軌道上から逸れた。回避行動であった下方への掌底は爆発的な推進力となり、オレは瞬きの間に亜空間の懐へと入り込んだ。
「《断絶空》」
眼前の亜空間の口元が言葉を紡ぐと、オレの視界が黒一色に塗りつぶされる。いや、質感は異なるがこれは亜空間が出現させる黒い揺らめきが変質したものだ。
「……ぶっ壊せ」
オレは目の前の壁を認識するや、左掌に力を込めた。それに伴い赤黒い靄も増大し左掌を包み隠した。
これがオレの異能。
全てを死滅させる掌。
「《死滅者の掌》」
同時、深黒の壁へ左手の掌底を叩き込む。
破砕。壁はオレの掌に触れた途端、薄い硝子のように呆気なく粉々に砕け散った。
「!?」
亜空間は顔を驚愕一色に染め、だが向かって来ているオレの拳を捉えて防御体制に入った。
しかし何かを悟ったのか、亜空間はすぐさま防御体制を解いて強引に回避行動に移った。
亜空間が悟ったのは根源的な死の恐怖。
防御したとしてもこのまま攻撃を受けてしまったら確実に致命傷以上の大ダメージを負うと。亜空間はそのような恐怖を得てしまったのだ。
「ッッ!!」
亜空間は硬質化した黒い揺らめきを自身にぶち当てオレの攻撃線上から逃れた。それでもオレの掌を覆う赤黒い靄は彼の左肩を掠めた。
自ら吹き飛んだ亜空間はどうにか体勢を立て直し、左肩を押さえつつ臨戦態勢を解かずにこちらの様子を窺っていた。
「どうだ、オレの力は? 掠めただけでも相当効くだろ」
亜空間は無言で左肩から手を外すと、覆い隠されていた肩口が顕になった。彼の漆黒の外套は肩口の部分が消えており、そこから露出する肌は炎に焼かれたの如く赤黒く爛れていた。
「ククッ……クハハハハ!!」
亜空間は身体を揺らし声を上げて狂笑を始めた。
「あ……? どうしたんだよ」
「ハハ…… 嬉しいんだよ、久々にオレの全力をぶつけられそうな奴と出会えたんだからよ!!」
「ッッ……」
亜空間の雰囲気が悍ましいモノへと変質した。元々強過ぎる殺気ではあったが今までとは比べ物にならない。普通の人間であればこの場にいるだけで気をやられてしまうだろう。
加えてあたりの空気が、その全てが重苦しいものへと変貌を遂げていた。
怖い。
こいつと戦うことが。
こいつと対峙していることが。
こいつと同じ空間に存在していることが。
オレの身体が警鐘を乱打する。
こいつと戦ってはいけないと。
こいつと対峙してはいけないと。
こいつと同じ空間に存在してはいけないと。
この場から逃げ出せと。
逃げろ、逃げろ、逃げろ
逃げろ、逃げろ、
逃げろ。
「楽しませてくれるよなぁ? ハマ、レイア」
不気味な声を放った亜空間はオレの眼前、いや寸前にまで迫ってきていた。その間隔は長くても十数センチ程度。オレの視線が強制的に亜空間の瞳に吸い込まれていく。その時の彼の瞳は白目部分が黒、黒目部分が白となっており人間のそれとは思えなかった。
亜空間の視線に射竦められ、一瞬全身が硬直してしまったが何とか亜空間から間合いを取った。
「ハァハァ…… !?」
死に物狂いで退避したため自分でも驚くほどの間合いを取っていた。
「おいおい、逃げんなよ。これからが楽しいんじゃねぇか」
亜空間は口角を釣り上げ、楽しそうにオレを見る。
戦うしかない。
逃げ出したところで逃げ切れるわけがない。すぐに追い詰められて殺されるだけだ。
だったらこの掌で抗ってやる。
覚悟を決めたオレは掌を強く握り締め、また緩めた。すると両掌が纏っている赤黒い靄の量が倍加した。
「さぁ……オレを楽しませろよッ!!」
亜空間は高々と叫びながらオレに向かって突進を開始した。
一瞬で間合いを詰めてきたわけではない。容易に反応出来る真正面からの攻撃。だからオレはあえてその攻撃に触れて弾き、亜空間に隙を作ろうと考えた。
何の変哲もない、殴打の為だけの拳。それなのに何故こんなにも不気味に感じるのか。
「ッッ!!」
亜空間の拳に触れた瞬間、オレの右半身が何か得体の知れない漆黒によって消し飛ばされた。
痛みはない。血一滴すら流れていない。そこにはただただ漆黒の無だけが広がっていた。
オレは身体も意識も、存在そのものが漆黒に飲み込まれ―――
「ッッ……!!!」
意識が刈り取られたのを知覚した直後、オレの眼前には時が逆流したように再び亜空間の拳が迫ってきていた。
先程の死はオレの負のイメージ。亜空間の不気味な拳がオレの精神を殺したのだ。
「くッ…… オォォ!!」
寸前、オレの鼻先まで迫ってきていた拳を回避するため全身全霊で地を蹴り、オレの身体を反作用によって吹き飛ばす。半ば転がりながら無様に退避したオレは亜空間から数十メートル離れた地点でようやく勢いを殺し立ち上がった。
「ッ……」
明確すぎる死のイメージ。それは未だオレの精神を蝕み続けていた。
「な!?」
亜空間から決死の思いで退避したオレは目の前の光景に戦慄する。
オレに向けて放たれた亜空間の拳から数十メートルまで先の空間が漆黒により歪んでいるのだ。物理法則も関係ない。亜空間は能力によって空間すら消し飛ばし、捻じ曲げてしまうのだ。
「な……ぁ……」
オレはその事実を認識した途端、全身が泡立つ感覚を覚えた。
なんなんだこの力は。
物質の原子を崩壊させ殺し尽す《死滅者の掌》などとは格が違うではないか。
この掌では空間を捻じ曲げるという現象を壊すことなど出来ない。
亜空間は緋ノ都や他の絶異者との戦いでは本気の欠片も見せていなかったのだ。
この常軌を逸した力を見せた現在ですら全開なのかはわからない。
勝ち目など皆無だ。
この戦いはただの人間が創造主たる神に抗うような無謀で無駄な行いだ。
「折角だ、最後にオレの全力に近い力で消し飛ばしてやるよ」
亜空間は悍ましい瞳でオレの姿を捉えながら右手の人差し指を向けてきた。
「《亜空消失》」
刹那、亜空間の指先から凄まじい勢いで空間が消滅し、暗黒に染まり始めた。
空間の消滅は瞬く間にオレの寸前のところまで迫ってきている。
「ッ……」
オレは反射的に両の手を前方へ突き出し迫り来る暗黒を消滅させようとしていた。
無駄だと理解していても身体はまだ生にしがみつこうとしている。
何故《僕》はこんなにも必死に生き延びようとしているのだ。
世界から隔絶され、仄暗い地下で一生を終えるはずだったくだらない命。そもそも地の果てに入れられた時点で《僕》は死んだようなものだったかもしれない。
そんな命に価値があるのだろうか。
「……!」
気が付くと朱に染まっていた視界が正常に戻り、目にかかっている白髪が漆黒に戻っていた。
亜空間との絶望的なまでの力差に、強者であるはずの《オレ》と弱者の《僕》の意志が重なってしまったが故、自我が《僕》へと移譲されてしまったのだ。
辛うじて《死滅者の掌》の力は残留しているようだがそれでどうにかできるような状況ではない。
漆黒に飲み込まれる。
僕の存在全てが。
「結局お前もこの程度、オレと対等な奴はこの世界にいねぇのか……?」
暗黒に飲まれゆく視界の先で亜空間が落胆したように呟いていた。
『本当にキミは仕方ないなぁ……』
頭の中で誰かの声が反響した。しかし今の僕にはもうどうでもいいことだ。
「…………」
暗黒が全てを諦めた僕を飲み込み、世界から完全に消滅させた。