最期
「白愛! 何故!?」
「飛ぶわ……」
鏡は緋ノ都の元に現れるや、彼に手を触れ再び消える。その間は僅か一秒程度だった。
「させるかよ」
亜空間は一瞬にして黒い揺らめきを出現させそこから何かを引き抜く。
「ッッ!?」
亜空間の手が引き抜いたのは鏡と緋ノ都の二人だった。
まさか移動中に引き戻されるなど考えていなかった鏡は眼を剥いて驚愕していた。
「空間を介する移動でオレから逃げられると思ったのか?」
亜空間は白愛の腕を掴み上げそのまま投げ飛ばした。鏡は突然の出来事に困惑していたためか、それに対応しきれず背中から地面に叩きつけられてしまった。
「くッ……」
「白愛ッ!」
緋ノ都は倒れながらも呻くように鏡の名を叫んだ。
「てめぇはこっちに集中しとけよ。まぁこの一撃で最後だなけどな」
亜空間は言葉を紡ぎながら足元の緋ノ都に右掌を翳す。しかし――
ゴオッッ、と音を立てて亜空間の頭上に橙色の炎塊が出現し、完成するや亜空間へと落下を始めた。
「チッ……」
亜空間は苛立ったような表情を浮かべ、下方に翳した掌を頭上へと移動させた。
炎塊に次いで氷塊、雷塊、竜巻が立て続けに出現し、亜空間に降り注いだ。
「カスが群がりやがって……」
翳した掌のやや上方に黒い揺らめきが盾の如く出現し、全ての攻撃を吸い込み消し去った。
「《亜空交錯》」
亜空間の周囲に無数の黒い揺らめきが生じていく。出現範囲は段々と拡張していき、あちこちの牢の影にも出現した。
「コソコソ隠れてんじゃ……ねぇよ!」
自身の最も近くにある黒い揺らめきに手を突っ込み引き抜く素振りを見せる。すると上空に一つ、黒い揺らめきが出現した。
そこから現れたのは数人の絶異者であった。あの炎塊や氷塊で亜空間に攻撃を仕掛けたのは彼らなのだろう。
「《亜空球》」
上空の絶異者達を包み込むように黒い揺らめきの球体が出現し亜空間はそれに右掌を翳す。
「やめ……ろ」
緋ノ都は消え入りそうな掠れ声で呟いた。
「カスはカスらしく……」
亜空間は翳した掌をゆっくりと握っていく。
「やめろ……」
緋ノ都の顔が絶望に染まっていく。この先の結末を、最悪の未来を想像してしまったのだ。
「やめろぉぉぉぉぉ!!!」
緋ノ都は絶叫した。だが叫び声は虚しく反響するだけで、亜空間の行動を止めることなど到底できるはずもない。
「消えとけ……」
亜空間は球体にかざした掌を力強く握り締めた。
刹那。球体が消滅した。一切の音すら無く、あっさりと。
それが何を意味するのか。上空に現れた絶異者全員の死だ。
全く実感がなく直接的でもなかった死に、しかしこの場の全員が球体の消え去った虚空から目を逸らした。
「ぁ……」
目を見開いていた緋ノ都は後に憤怒と哀愁が混じりあったような表情を浮かべ、
「貴様ぁぁぁぁぁ!!!」
怒号を放つ。
亜空間に向けた純粋な殺意。立ち上がった緋ノ都の鋭い眼光が亜空間を捉える。
次の瞬間、
ドオォォォォォン!!!
亜空間を中心に大地が消滅した。いや、正確に言えばあまりの重力に地面が一瞬にして陥没したのだ。
今までとは桁違いの究極の重力。
「もういいよ、お前」
声は緋ノ都の真後ろ、背後だ。亜空間が緋ノ都の背に触れ黒い揺らめきをほんの少し生じさせた瞬間、緋ノ都の身体がまるで紙のように地面と平行に吹き飛んでいく。亜空間は黒い揺らめきを介して一瞬のうちに緋ノ都の進行方向に姿を現し、上空に蹴り上げる。
すぐさま亜空間は足元に掌を向け、黒い揺らめきを出現させた。すると亜空間の身体が飲み込まれ、次の瞬間には打ち上げられている緋ノ都の真上に姿を現した。上空に現れたの亜空間は両拳を組み、黒い揺らめきをオーラのように纏わせて止めの一撃を放とうとしていた。
「消えろ」
組まれた両の拳が鉄槌の如く振り下ろされる。
「京夜ぁぁぁ!!!」
ドッッッッッ!!!!
鏡の叫びも虚しく、緋ノ都の身体に亜空間の拳が炸裂する。
地面に叩き付けられるコンマ数秒の間に緋ノ都を追うように黒い揺らめきが連続して生じる。
接地の直前、緋ノ都の落下が直線ではなく横にずらされた。それにより緋ノ都の身体が横に吹き飛ぶ。
彼は叩き付けられる直前に自重を横向きに変換したのだ。先程の落下地点は追尾するように発生していた黒い揺らめきによって完全に消し飛ばされていた。もしあのまま真下に叩きつけられていたら緋ノ都もああなっていただろう。しかしそれでも威力を全て殺せたわけではない。緋ノ都は地面を抉りながら本来の落下地点から百メートルも離れた地点でようやく停止した。
そこには生死の判別がつかないほど満身創痍の緋ノ都が俯せに倒れていた。生きていようがいまいが、どちらにせよもう立ち上がって亜空間と対峙することは出来ないだろう。
「「ッ……」」
緋ノ都 京夜が敗北した。
地の果ての最強の絶異者がこうもあっさりと、亜空間に傷一つ負わせることも出来ずに敗北したのだ。
これが何を意味するかを理解しているだろう隣の氷華は瞳を閉じて歯を食い縛っていた。
「よく避けたな。まぁもう指一本動かすことすらできねぇだろうがな」
亜空間は呆れたように緋ノ都から目線を外しこちらに、僕達が集まっている方へと歩み寄ってくる。
緋ノ都が負けたことにより、亜空間に対抗する術は皆無となった。
地の果てにいるのは咎人が五人、何の力も持たない罪の子が百人強、絶異者などもう片手で数えられる程度しかいない。
究極の絶望。僕達はただ亜空間に殺されるのを待つことしか出来ないのだ。
「レイア、聞いて……」
氷華の声音は透き通るように美しく、そして凛としていた。
僕はその声に圧倒され、返事もせずに氷華の真っ直ぐな濃い藍色の瞳を見つめていた。
「あの部屋で見つけたこの薬……」
そう言いつつ彼女が差し出したのは先程の試験管であった。
「これがあの文献に書かれていた《強制異能疾患剤》…… これを飲めば絶異者に成れるかもしれない」
「絶異者……」
僕はその単語を噛み締めるように呟いた。しかし、この薬を飲んだとしても絶異者に成れる確率は地の果てにいた絶異者の数から見ても相当に低いのだろう。
もし万が一、絶異者として力を得たとしても亜空間と渡り合えるほどの力なのか。否、まず有り得ない。先程瞬殺された絶異者達は力を得て一日や二日だったという訳ではないだろう。そんな彼らがああも容易く殺されたのだ。今から僕達が絶異者になったところでどうこうできる話ではない。
「今私達が選べる道は三つ…… このまま何もせずに殺されるのを待つか、薬を飲んで拒絶反応で死ぬか、極めて低い確率で力に目覚めてその小さな希望に縋るか……」
氷華の冷たい声音は現実を突きつけるのに十分な重さを備えていた。
三つの道のうち二つは命を落とす道。生き残る道はたった一つで、それすらも極僅かな可能性でしか進めず、進めたとしても生き残れるとは限らない。
僕のような弱者がこんな選択を出来るわけがない。こんな場面になっても自己選択のできない自分が本当に嫌になる。
「……私は小さな希望に縋るわ」
氷華は黙ったままの僕に痺れを切らしたのか自身の決心を告げてきた。
決意を胸に氷華は試験管の栓を抜こうとする。
「まだ抗うつもりなのかよ?」
「「ッ……!」」
その呆れたような声は僕の背後から聞こえてきた。正面遠方にいたはずの亜空間は一瞬のうちに僕達の背後をとっていたのだ。僕達はすぐさま振り返って身構える。身構えたところでできることなど無いのだが、それでも亜空間と対面すると身構えずにはいられない。
「さっきの奴でさえオレに大したダメージ食らわせらんなかったんだぜ? 今更お前らが覚醒したところでどうにもならねぇよ。それに……」
亜空間は一拍置いて僕達を指差して再び言葉を継ぐ。
「お前ら罪の子には既に投薬済みらしいぜ?」
何のことだ。僕と氷華は身に覚えのないことに顔を見合わせた。
「あぁ…… お前は例外だったな、《刻鴉》の一人」
亜空間は氷華に目を向けて呟いた。刻鴉。それは一体何なのだ。どうやら氷華のことを指す言葉のようだが。僕はそんなことを考えつつ、訝しげに亜空間を睨めつける。
「お前は飲まされただろ? その薬」
僕はその問を否定すべく首を横に振った。
睡眠中、ということもありえない。地の果てで収容者に何かをするときには必ず外、別室に連れていかれる。忍び込んで飲ませようとしても、カードキーによる解錠音は無音の中では相当響いてしまい収容者を起こすことになってしまう。
「飲ませなかった奴もいるのか……?」
亜空間は僕の答えに眉を顰める。
「薬が投薬済みなら何故何も起こっていないの…… さっき見た文献の中には薬を飲んだら拒絶反応で死ぬか異能を疾患するかのどちらかだった」
「あぁ、それは即効性の話だ。罪の子に投与したのは身体に馴染んで覚醒率を上げる遅効性だ。 効果は一日後、そろそろじゃねぇか?」
亜空間が説明を終えて少し経つと、辺りから小さな呻き声が聞こえてきた。そして罪の子が一人地を這って物陰から出てきた。今まで身を隠していたのだろう。
「「アァァァァァ!!!!」」
そして地の果ての至る所から叫び声が上がり始める。まるで断末魔の合唱だ。
「選定が始まったみてぇだな」
亜空間は辺りを見回しながら小さく呟いた。その様子はこの阿鼻叫喚の状況を楽しんでいるかのようであった。
「ッ……」
自分も投薬されていたらこうなっていたのかもしれない。そう考えると背筋が凍りつく。
僕が冷や汗をかいていると、突如として断末魔の合唱が止んだ。
そして数秒の後、最初に現れた罪の子が全身から血を吹き出して動かなくなった。その様子はさながら、腐蝕した果実が地面に叩きつけられ無惨に飛び散ったようであった。
「くッ……」
これが薬の拒絶反応。
僕は凄惨な死体から目線を逸らして辺りを見渡し、そして僕は言葉を失う。
地の果ての至る所に赤々とした点が見て取れた。その全てが罪の子だったものなのだ。
「あ? こりゃハズレだな、殆どが薬に拒絶された」
先程の遅効性の方は身体に馴染んで覚醒率が上がると言っていたがそれでもこの確率だ。今氷華の手の内にある即効性の薬はどれだけ低確率なのだろうか。
「レイア、もう飲むしかない……」
亜空間に抵抗するのは今のままじゃ絶対に不可能だ。覚醒したとしても九割以上の確率で殺されるだろうが、絶対に不可能ということはなくなる。
氷華は決心をしたようであったが、その声音は小さく震えていた。
「別に俺の邪魔をしなければ殺しはしねぇよ。刻鴉の回収、それが済めばすぐにでも帰るさ」
場の全員の視線が氷華に注がれる。
「ッ…… 氷華を……」
先程も言っていたことだ。刻鴉を、氷華を迎えに来たと。
「そいつを大人しく引き渡せ。抵抗すんならここにいる人間を全て消すぞ……?」
殺気を纏った亜空間の冷徹な声は僕達の肌に突き刺さった。
それから数秒間、亜空間の殺気が楔の如く突き刺さったのか誰一人として身動きを取れるものはいなかった。しかし、そこでたった一人動いた人物がいる。氷華本人だ。彼女は手に持った試験管を捨て、落下と共に一歩前進した。
「私があなたについていけば、誰も傷つかなくて済むのね……?」
「あぁ、その通りだ」
亜空間は氷華の数メートル前方に立ち、その問いに答えた。
「おい、氷華……」
氷華は僕の声を無視して亜空間の方へと歩を進めていく。
「やめろ……!」
「レイア……」
氷華は僕の数歩前で一旦立ち止まりこちらに振り返る。
「私が行けばここの全員が助かるのよ。私一人のために大勢の命が危険に晒される必要なんてない」
僕は心の何処かで氷華の意見を肯定してしまっていた。そんな自分に無性に腹が立ち、強く強く歯噛みする。
「賢明な判断だな」
一人のために多くの命が失われるよりはその一人が犠牲になった方がいい。
氷華は僕にそう告げるだけ告げて、再び亜空間の方へと足を動かし始めた。
「氷ッ……」
僕には彼女を呼び止めることすら出来なかった。
これでいいと納得してしまっているのだろう。僕と氷華の付き合いなどただ向かいの牢で会話を交わしていた程度のものだ。そんな関係の人間を救うために命を賭す意味などないのだ。
僕はそんな最低の考えを巡らせながら遠退いていく氷華の姿を見詰めていた。
「そうだ、いい事教えてやるよ」
亜空間は氷華が自身の元に辿り着くや、口を開いた。
「お前らいつかは地上に出ると思うが、出ただけで身体が汚染されるような世界にはなってねぇ。まぁ安全かどうかは保証しねぇけどな」
「はやく行きましょう……」
氷華は亜空間を急かすように囁いた。
「あぁ、行くか」
氷華の言葉に首肯した亜空間は自身の前方に身長を倍するほどの黒い揺らめきを出現させる。
そして亜空間は氷華を伴い、一歩一歩近づいていった。
「ッ……」
動け……
動け……
僕は念仏のように心の中で呟き続ける。だがそれでも僕の身体は言うことを聞かない。
動け……
動け!!
「!!」
身体の硬直が解け、僕は氷華が捨てていった試験管に手を伸ばした。栓を抜き錠剤を一つ手に取る。しかし、ここまできて僕はまだ決断できずにいた。
これを飲んだら殆どの確率で死ぬ。だが飲まなければ氷華を助けることなど叶わない。
自分でも何故こんなに必死になっているのかは分からない。どうしてこんなにも彼女を失いたくないのだろうか。
そんな想いが過ぎっているにも関わらず、悪魔の囁きが脳内を駆け巡る。
そこまでして彼女を助ける必要性があるのか。
「うるせぇ……」
彼女は僕が命を賭してまで救う価値のある人間なのか。
「うるせぇ!!」
悪魔の囁きを自身の叫びで掻き消し、僕は薬を飲み下した。
「……」
僕のその行動を、亜空間は微かに振り返り左目だけで睨めつけた。
「ぅ……ぐ……」
瞬間、僕は心臓を何か冷たいものに締め付けられるような感覚に陥った。
いいや、違う。これは本当に心臓を締め付けられている。その証拠に亜空間の右手首から先が黒い揺らめきによって消失している。
「もう充分楽しんだんだよ。今更ザコと戦ったら興醒めだ……」
亜空間は冷めきった瞳で僕を睨む。その手で僕の心臓を握りながら。
「即効性の効果が現れるのは約十秒後。九十九パーセント、お前は死ぬ」
たった一パーセント。即効性の確率はそれほどまでに低かったのだ。そんなものを僕は飲んでしまった。これでは自殺と同義ではないか。
十秒。
ドクンッッ!!、と
「ガッ……」
僕の心臓が跳ねるように一度脈動し、段々と脈拍が弱まり始めた。
「覚醒……じゃねぇな。かといって拒絶でもねぇ、何だ……?」
亜空間は覚醒でも拒絶でもない反応に不思議そうな表情をしていた。
そんな中、僕の感覚すべてが遠退いていく。これが死の感覚なのだろうか。
ふざけるな。
弱者である僕がようやく覚悟を決めたというのに何なんだ。覚醒でも拒絶反応でもない、こんな訳のわからないまま終わるのか。
ふざけるな。
ふざけるな。
「ふざ……けるな……」
僕はぼやけている視界に亜空間を捉えて言葉を継ぐ。
「お前も……僕の運命も……」
自らの瞳に憎悪の念を込め、言葉にあらん限りの殺気を乗せて放つ。
「全て……壊してやる……!!」
「ッッ!!」
亜空間は僕の憎悪と殺気に気圧されたのか、咄嗟に僕の心臓を握り潰した。
「ぐッ…… ガハッ……」
吐血。滝のような膨大な量の血液が口から溢れる。
「ッ!! レイア…… レイアァァァ!!!」
氷華の絶叫は地の果て全域に響き渡り、しかし木霊する彼女の声は儚く消えていった。
こんなところで僕は死ぬのか。
やはり弱者は弱者のままなのだ。
力を持たぬが故に力を求め、この様だ。
自分自身すら守れない人間が他人を救おうなど思い上がりも甚だしかったのだ。
「ハハッ……」
すると突然笑いが込み上げてきた。心臓を潰されて苦しいどころの騒ぎではない筈なのに僕は口角を釣り上げ笑う。
何かを嘲笑うように。
きっとその対象は自分自身なのだろう。
亜空間はいつの間にか黒い揺らめきから手を抜きさっており、僕の血に塗れた掌を握っていた。
そして僕の視界が闇に落ちる。視界だけではなく全ての感覚器官が機能を停止しようとしていた。
絶命への秒読み。全身のありとあらゆる力が無い失われ、地面に顔から倒れ臥す。
終わりだ。すぐそこまで死という概念が迫って来ているのが感じ取れる。
意識が完全に途切れる寸前、僕の記憶全てが再生され始めた。これが走馬灯なのだろう。
僕の記憶という記憶が再生され、そこにはもちろん両親の死の記憶も存在していた。
「ッッ!?」
僕はそこで欠落していた記憶の欠片を取り戻した。
それは両親を殺害した犯人の記憶だ。
最強を殺せる最強。
その正体は――
そこで僕は絶命した。なんとも呆気ない最期であった。