強者
「「ッ……」」
そこは先程までいた不気味な研究室ではなく、瓦礫に埋もれた牢の天井であった。
「大丈夫……?」
僕と氷華の間にいる声の主、鏡白愛は心配そうに聞いてきた。しかし表情の起伏はあまり無かった。これでも心配しているのだろう。
首を横に振って否定する。僕達は首を絞められた以外は特に何もされておらず、大した怪我はない。
「京夜。二人は無事よ」
鏡は返答を聞くや、目線を僕達の背後に向けて誰かにそう伝えた。
「そうか、ならお前はあいつの治療に戻ってくれ」
背後に立っていたのは緋ノ都であった。一瞬僕達に小さな笑みを向けたもののどこか遠くに視線を移した。すると緋ノ都の雰囲気が変質する。一見冷静に見えるが、その表情には隠しきれない怒りが滲み出ていた。
「分かったわ」
鏡は立ち上がり、緋ノ都の後方へと向かっていった。そちらの方向には数人の絶異者と咎人全員が集まっていた。
「大牙! 大丈夫なの!?」
その艶っぽい声は咲神のものだ。彼女が心配そうに覗き込んでいるのは僕達の目の前で吹き飛ばされた叛燐であった。
「大丈夫だって…… そんな顔……すんなよ…… 姐さん……」
叛燐はあれほどの一撃を食らってまだ意識を保っていた。亜空間の拳は常人の身体であればバラバラになっていてもおかしくない威力だったはず。さすがは覇魔の分家の血筋だ。
「ど、どうみても大丈夫じゃないわよ……」
「そうだよ。話すのだって辛そうじゃないか」
咲神の背後に立つ刺城と餓島は叛燐の姿を見て彼の発言を否定する。
確かに今の叛燐は誰が見ても大丈夫ではない。満身創痍で指一本動かすのも困難に見える。
「そうよ。貴方の傷は身体が原形を留めているのが不思議なほどのもの」
鏡は咎人達の会話に割って入り、叛燐のそばにしゃがみ込んだ。
「ハッ…… 身体が丈夫なもんでな……」
「強がらないで。このまま放って置いたら死ぬわよ……」
鏡は冷徹に言い放つ。
「嫌よぅ~! 大牙ぁ~」
咲神はそんな鏡の言葉を聞くと真珠のような涙を零しつつ、叛燐に抱きついた。
「ぐぁ…… 姐さん……流石に洒落になんねぇから…… 柔らかくても今は痛ぇから」
叛燐は本当に死にかけているのか疑問に思うような事を口にしながら咲神を拒否した。
次の瞬間、咲神の姿が消えた。消えたというより叛燐から離れた場所に移動させられたというのが正しいだろう。
「え!? 何!?」
「貴女は少し大人しくしていなさい……」
鏡は咲神の方に掌を向けた状態で額に手を当て、呆れたように呟いた。
「そんなぁ~」
先程からの瞬間移動。これが鏡の絶異者、いや天能者としての能力なのだろうか。
「私が今から貴方を治療する。だからじっとしていて」
鏡は叛燐を諭すように氷のように冷たく、しかし優しげな声をかけた。
「君達も向こうに行っていてくれ。俺の近くにいたら危険だ……」
緋ノ都は僕達にそう告げた。しかし緋ノ都の目は僕達を捉えていない。どこか遠くに敵を見据えているような鋭い眼光。
僕達は緋ノ都の言う通り鏡達の集まる場所へと足を運んだ。すると今まさに鏡の治療が始まろうとしていた。
「どうするのぉ?」
咲神は下唇に指を当てつつ不思議そうに首を傾げた。
「私の能力は全てを《うつす》力。今から彼の傷を映し出す……」
鏡はこれから行う治療の説明をしながら左手で叛燐に、右手で地面に触れた。
「《破壊転移》」
その声と共に叛燐の身体がうっすらと輝き始めた。すると叛燐の輝きが強まり、その光が鏡を経由して地面へと伝わっていく。
「くッ…… なんてダメージなの……」
鏡が顔を歪めて小さく呻く。
「貴女、苦しそうだけど大丈夫なの?」
そんな鏡を見て咲神が声をかける。
「大丈夫…… 彼のダメージを私を介して地面に映し出しているだけだから…… 蓄積したら死んでしまうかもしれないけど……一瞬通しているだけだから問題……無い」
問題ないようには見えない苦しみ方だ。それほど叛燐のダメージをは大きなものなのだろう。
「もうすぐ……終わる」
言葉の次の瞬間、鏡が右手で触れている地面にビキッッと巨大なクモの巣状のヒビ割れが起こった。その範囲は牢の上部だけでは収まらず、下の地面の十数メートル程先まで広がっていた。基準はわからないが叛燐のダメージが壮絶なものだったという事だけは伝わってきた。
「ッ……」
治療を終えた鏡がしゃがみこんでいる状態から横に倒れそうになる。
「大丈夫じゃないじゃないの」
それを咲神が受け止め小さな笑みを浮かべる。
「大牙を助けてくれてありがとぉ」
天女のような微笑み。それに対して鏡が口元だけを綻ばせる。女神の邂逅。そのような表現に見合うほど二人の絶世の美女の太陽と月のような輝きは、この光景を人間の住まう世界ではないように感じさせる。
「絶異者ってホントに凄いんだね」
餓島が子供のような感想を述べた。本当に子供ではあるのだが。
「望んで手に入れた訳では無いのだけれどね……」
僕にはその呟きが鏡の心の叫びのように思えて仕方なかった。
何故彼女は《先天性異能疾患症》という病を患い生まれ、若くして一度命を散らさねばならなかったのか。
その意味を知る者などこの世界には誰一人として存在しない。有るのは残酷な現実だけだ。
ただ偶然に病を患い生まれ、ただ偶然に死んだという現実が。
偶然に意味など無い。意味ある偶然は必然へと昇華する。
鏡の悲惨な人生は偶然が重なり合い生まれてしまったものだ。故に彼女はその憎悪をどこへも向けることが出来ない。神様の悪戯などと神学的な話を持ち出してしまえばそれまでだが、憎悪を神に向けたところでどうにもならない。だから彼女はその感情を自分の内に秘めてしまっているのではないだろうか。
そんな憶測をしていると、僕は誰かに肩を叩かれ現実に引き戻された。
「レイア、これのことなのだけど……」
僕の肩を叩いたのは氷華だった。彼女は自身の手の中の試験管に視線を落としていた。
「なんだよそれ?」
試験管内にはなんだか良く分からない黒い錠剤が詰まっている。
「これは」
「「ギジャァァァァァァァァ!!!!」」
耳を劈くこの世のものとは思えない咆哮が氷華の声を音波ごと断ち切った。
「なん……だ」
あまりの爆音に脳漿が振動するような感覚を得る。不快極まりない感覚だ。
「京夜、あれ……」
鏡は遠方を指差す。緋ノ都もそちらを見ていたようで小さく頷く。
僕もそちらに目を向けてみるとそこには黒い揺らめきが十数個出現しており、亜空間と先程の部屋で見たクローンらしきものが相対していた。しかし三十体近くいるクローンの半数は白から黒へと変化しており、糸で縫われたような口を張り裂けそうなほど目一杯広げて叫びを上げている。
化物。彼らを見た感想はそれに尽きた。そんな化物の軍勢を相手に亜空間はたった一人で戦っていた。特に劣勢というわけではない。亜空間は次々と化物を殺している。
「グググ……ギャァッッ!!」
殺される一方である化物の数体が奇声をあげてこちらに跳躍してきた。
「俺が相手だ」
緋ノ都は僕達を守るように立ち、化物達を睨みつけた。
「落ちろ」
瞬間、向かってきていた化物達がまるで吸い寄せられるかの如く、一斉に地面に叩きつけられた。
「グギャァ……」
「なんなんだこいつらは…… 敵対しているところを見ると奴が連れてきたわけではなさそうだな」
緋ノ都は大気に圧縮されている化物達と亜空間とを見て怪訝そうな顔をした。
「……」
僕は答えられない。あれが鏡のクローンであるという真実を緋ノ都に伝えられないのだ。それに今この場に当事者である鏡もいる。
「それらはクローンよ」
そんな逡巡をしていた僕の隣からあっさりと真実が話された。
「クローン?」
「えぇ。そこの天能者、鏡白愛の」
「「!?」」
緋ノ都と鏡の顔が驚愕の色に染まる。
「何故……」
緋ノ都は声を震わせて氷華に問う。
「地上での第三次世界大戦への派兵のため。それに絶異者は」
「氷華……」
僕は氷華の腕を掴んで次の言葉を制す。それは聞かれていないのだから伝えなくてもいいことだ。
「とにかく、地の果ては絶異者や天能者の研究をしてクローン体を作り出していたのよ……」
「ッ……」
緋ノ都はその事実を知り鏡のクローンであるという化物への加重を緩めてしまった。
生じた一瞬の隙。数体が緋ノ都に襲いかかってきた。
「勝手に死ぬなよ」
声と共にクローン達の胸から上が消滅した。黒い揺らめきが地面と平行に展開されてクローン達の命を刈り取ったのだ。
「お前は……」
緋ノ都を救ったのは遠方にいたはずの亜空間だった。彼は敵ではないのだろうか。
緋ノ都は先程の躊躇いを振り払い、亜空間の殺気に勝るとも劣らない気迫を纏い相対する。
「オレは亜空間、とだけ名乗っとくぜ」
一言。そして亜空間はそのまま拳を構え、
「開け」
黒い揺らめきを出現させ、そこへ向けて拳を放った。連動するように緋ノ都の背後にも同じものが現れる。
「緋ノ」
僕が緋ノ都に忠告しようとしたその時、彼の背後に転がっていた瓦礫が物凄い勢いで浮上して亜空間の拳を弾きあげた。
「ッ……」
攻撃を迎撃された亜空間は腕を引き言葉を紡ぐ。
「お前なかなか」
しかし緋ノ都がそれを遮る。浮上した瓦礫が亜空間に降り注いだのだ。だが瓦礫が亜空間を押しつぶすことは無かった。瓦礫は彼の能力によって緋ノ都の頭上に転移させられたのだ。
「ッッ!」
緋ノ都は目を見開き頭上を仰ぐ。瞬間、瓦礫は緋ノ都を地面ごと叩き潰した。
「「……」」
僕と氷華、咎人達は絶句した。そんな僕達に鏡が告げる。
「大丈夫よ、京夜はあの程度ではやられない」
直後、亜空間の背後に影が揺らめく。
「速ぇな」
「潰れろ」
亜空間の背後の緋ノ都は下方に掌底を放つ構えをとった。同時に亜空間の身体が黒い揺らめきに包み隠され消える。そのコンマ一秒後、緋ノ都が下方に掌底を放ち、亜空間が一瞬前までいた場所の地面が割り砕け大穴が穿たれた。その様はまるで隕石によってクレーターが生じたかのようであった。
「……!」
緋ノ都は消えた亜空間が現れたのを認めた瞬間、そちらへと駆け出す。
「向かってくんのか? 来れるもんなら来てみろよ!」
亜空間は狂喜の笑みを湛え、無数の黒い揺らめきを出現させて緋ノ都を待ち構える。
何故先刻亜空間が緋ノ都を救ったのかが理解できた。彼はただただ戦いたいのだ。強者との戦いを渇望しているのだ。だから力を有していそうな緋ノ都と戦わないなどという選択肢は存在していなかったのだ。
「《亜空交錯》」
亜空間は呟き、今までと同じように拳を打ち込んだ。
しかし今までとは何かが違う。黒い揺らめきの個数だけではない。
それを緋ノ都は察知したのか、無言で瓦礫を浮遊させ始めた。その数は加速度的に増加していき、亜空間が出現させた黒い揺らめきに匹敵するほどの数となった。
同時、全ての黒い揺らめきから拳が出現して緋ノ都に襲いかかった。
「邪魔だ!」
緋ノ都の怒号と共に瓦礫が拳に向かって四方八方に吹き飛んでいった。
それらが放たれた拳一つ一つを迎撃し相殺していく。相殺を続けていくうちに、瓦礫が砕けて生じた煙塵により見通しが一気に悪くなった。
「ッ……」
これが絶異者同士の戦い。僕はこれまでの目まぐるしい攻防を見て実感した。この二人の力は絶異者の中でも群を抜いて強大なものなのだと。
地の果ての他の絶異者の能力も少しは見てきたが、この二人はまるで別格だ。
「ここも危険よ。もっと離れた方がいいわ」
鏡は言いつつ両手を差し出した。
「私に触れて…… そうすればここにいる私を含めた七人全員を同時に移動させられるから」
僕と氷華はその言葉をすんなり受け入れ彼女の左掌に触れた。咎人達は戸惑いながらも咲神、餓島、刺城の順に右手に触れた。
しかし叛燐だけはいつの間にか気を失っていたらしく手に触れることができないようだった。そのため鏡が他の三人の咎人に触れられている右手で叛燐の胸に触れた。
「飛ぶわ……」
鏡の声と同時に、僕達七人は揃ってその場から消えた。
次に目を開けた時には僕達は緋ノ都達からかなり離れた牢の上部に立っていた。
「わぁ、本当に一瞬で……」
餓島は目をキラキラ輝かせながらあたりの見渡していた。
僕は緋ノ都達の戦いの行く末が気掛かりだったため彼らの姿を探していた。それを察したのか鏡が右方向を指で示した。そちらに目を向けるとそこには凄まじい光景が広がっていた。
隕石が衝突したかのように大きく抉れた地面、浮遊する巨大な瓦礫群、虚空に突如として現れる黒い揺らめき。
それらの全ての要素がこの空間を現実から切り離されたもののように錯覚させる。