代償 ~リーブ・ブリーズ~
僕と奏刃の瞳がそれを正確に捉えたのは同時だった。
僕達が捉えたもの、それは雨粒程度の大きさの水竜の大群であった。一体一体は極小だがあの大群の水竜に喰らいつかれれば奏刃の身体などすぐに喰らい尽くされてしまうだろう。
「ッッ!!」
そう考えた僕は一瞬で跳躍し、奏刃に迫ろうとしている上空の水竜の大群を掌で消そうとした。しかし先程発生した水飛沫の全てが対象となると僕の能力では捌き切れない。このままでは本当に奏刃は死ぬ。だが僕の能力ではどうにもならない。
「ッ……! 消えろッ!!」
僕はやけになって右手を大きく振り上げて右から左へと切り裂くように払った。
刹那、赤黒い靄が空間自体を切り裂くように発生して雨粒程度の水竜群を消滅させていった。
「!!」
僕はその現象に驚愕していた。今までこの掌で触れたものしか能力を通すことが出来なかったが中距離まで攻撃範囲が広がっている。これは能力が進化したととっていいのだろうか。
「《改変!!》」
これが改変というものか。対象となった水竜群の一部がまるで時が戻ったかのように逆流していく。だがそれでも全ての未来を改変することは出来ないようだ、
「シンくんッッ!!」
水竜群が奏刃に食らい付く寸前、蘭の大声と共に奏刃を中心とした巨大な竜巻が発生した。
僕が新たな能力で水竜の大群を消滅させ始めた直後、蘭の大声と共に奏刃を中心に巨大な竜巻が発生した。それは奏刃に向かっていく残りの水竜を弾き、ただの水滴へと戻していった。
「へぇ…… 君も一緒だったのか。奏刃慎羅のク」
ブォォォォン、と竜巻は蒼海の言葉を意図的に断つかのように風音を立てて消え去った。
「ランくん!」
竜巻が消えた位置には奏刃を抱えた蘭が現れており、美來はそちらに声を放っていた。
「ぐッ……」
「シンくん!」
「大丈夫だ…… ギリギリ……治せるレベルの……傷だ……」
奏刃は息も絶えだえに言いつつ、紋様が明滅している瞳で自分の脇腹を見つめた。するとみるみるうちにあたりに飛び散った血肉が巻き戻るように奏刃の元へと集まり始めた。
「面倒な力だな。まぁもう当分動けないだろうからいいか」
呆れたように呟いた蒼海は奏刃から目線を外し僕へと向けた。僕はその温度の低い視線によって遠方にいるにも関わらず身構えてしまった。
よく考えてみたらこの状況は相当にまずい。美來は戦闘向きの能力ではないし、蘭の方も蒼海と渡り合えるとも思えない。
なら僕か。否、それも無理だろう。まだ蒼海は力の半分も出していない。
僕は身構えた身体を更に強ばらせた。
刹那。天空が一閃、凄まじい轟音と共に地上に紫電が降り注いだ。
「くッ……」
この場の全員が目を瞑っている中、僕は顔を腕で覆いながら雷が落ちた地点を視認した。
そして目を疑う。なんと雷が降り注いだ地点には人影があったのだ。僕は目を擦りもう一度見直してみる。しかし見間違いなどではなく確かにそこに浮遊しているのだ。
「蒼海…… いつまで遊んでいるつもりなの」
現れた人間は女だったらしく美しく透き通った、それでいて酷く冷たい声を放った。
「まだ大丈夫でしょ? そいつの本気もみてみたいし」
蒼海は僕に目を向けながらそんなことを言った。それを追うように、現れた女は空中で身体ごと僕の方へ振り返った。
「ぁ……」
そして絶句。こちらに振り向いた女はどこか別の世界の住人なのではないかと疑うほど超然とした美しさを備えていた。
切れ長の目に整いすぎている顔。曇天のような灰色の髪を膝裏まで伸ばしており、硝子玉のような瞳は髪よりも濃い灰色だった。左目の下の頬には灰色の彼岸花のような紋様が刻まれている。身長は女性にしては高い方で蒼海と同じくらい。神聖すぎる容姿から年齢のほどは全く分からない。
振り返ったことにより翻った髪と灰色寄りの白いコートが彼女の神聖さをより際立たせた。
「……最後の《刻鴉》。時の破壊者……」
彼女は僕を数秒間見詰めて認識すると口を開いた。その時の瞳はまるで全てを見透かすような嫌な感じがした。
「ぁ……」
そんな中、どこからか小さな声が漏れてきた。その声の主は美來で、灰色の髪の女を視界に捉えたまま硬直していた。
「……《天空》」
僕が訝しんで声をかけようとしたのと同時にたった一言、美來の口から言葉が零れた。
僕はその言葉の意味を理解するのに数秒を要した。
そして理解する。言葉の意味と現状が悪化したことを。
理解してしまったが故、それは絶望へと変貌を遂げる。
《蒼海》《天空》。間違いなく今この世界においての最強クラスの異能を有する絶異者が二人揃って僕達の目の前にいる。これを絶望と呼ばずして何と呼ぶのか。
「あぁ、彼が覇魔だったのか。通りで人間離れしているわけだ」
「えぇ」
紫電。
「そんなことより早く戻りなさい」
天空は言葉の合間に一瞬にして蒼海の隣の空中へと移動した。その時、彼女の身体には紫色の雷が迸っていた。
「まだ大丈夫だろ? 今のところこいつら五人が揃わない限り封印は解けないんだから」
蒼海は僕達を指差しながらそんなことを言っていた。
しかし五人とはどういうことだ。ここにいるのは僕、美來、奏刃、風の四人だけだ。
「いいから戻りなさい……」
そんな僕の思考を掻き消すかのように天空が地を這うような威圧感のある声を放った。
「ッ…… 分かったよ」
蒼海は天空の言葉に気圧され、渋々了承した。すると天空は蒼海から視線を外して空を仰いだ。瞬間、彼女の身体から膨大な量の紫電が発生して空に浮かぶ雲を貫いた。
その閃光で視界を奪われている間に天空は姿を消しており、残ったのは雷の残滓と空にぽっかりと空いた穴だけであった。
「はぁ…… あの人恐いんだよな…… 今もボクの目の前で雷使うし」
残された蒼海は頭を掻きながら、溜息を吐きながら呆れたように呟いた。そして言葉を終えると眼下の僕達に目を向けた。
「水が無い海を移動するのは面倒なんだよな…… 君達、死なないでよね」
何をする気だ。
僕は蒼海の言葉から危険を察知して身構えた。
「《贖罪開放》」
蒼海は瞳を閉じて呟いた。直後、蒼海の身体を包み込むように水の球体が形成された。それは数秒間形を保ち、すぐに弾け飛ぶ。
そして中から水で出来たような蒼い衣服を纏った蒼海が現れた。
足元までを覆う裾、波を模したような両袖、そして背中には絹のような水が輪を形成している。それは神の背にある光円のようで、今の彼の姿はまるで水神か何かのようであった。
「!! まずいよ!」
上空の蒼海の姿を見て蘭が叫んだ。
「全てを飲み込め……」
そんな中、蒼海は言葉を紡ぎながら瞼を持ち上げた。
「《大海創生》」
蒼海は右手を前方に突き出して一言。すると彼の人差し指から一滴、水が滴り落ちた。
それはゆっくりと、ただゆっくりと重力に逆らうように落下してきた。
風を除く僕達はその水滴をただただ見つめていた。蘭だけは何やら焦燥した表情で美來や奏刃の元へと奔走している。そんな彼を横目に水滴が地面に触れるようとした瞬間、僕は気付く。これは蒼海の攻撃なのではないかと。
しかし遅い、遅すぎた。
ぴちゃり、と音を立てて水滴がはじけた。
「ハマくんッッ!!」
その時、蘭が僕の掌を掴んだ。刹那、僕の身体を途轍もない浮遊感が襲う。蘭の力によって僕の身体が遥か上空へと吹き飛ばされたのだ。
そんな僕の視界には美來と奏刃を担いだ蘭も並行して上昇していっている。
「くッッ……!」
浮遊感が穏やかになり僕達の身体が空中に留まり始めた時、蘭が下方を見て唇を噛み締めた。僕も蘭の視線を追って下方に目を遣る。
「なんッッ……」
そして目を見開いて言葉を失った。いつの間にか僕達の下方はあるべき姿、全てを飲み込む荒れ狂う大海という姿を取り戻していたのだ。
これが蒼海の力だというのならば圧倒的、いや絶望的な力としか言いようが無い。
「なんなの……これ……?」
僕が戦慄していると風の腕の中の美來が切れ切れの言葉を零した。
それもそうだろう。先程まで普通に立っていた場所が大海へと変貌を遂げて荒れ狂っているのだから。
「なんだ、飲まれなかったのか。良かった良かった」
そんな声は僕達のすぐ横で聞こえてきた。蒼海が眼下の海を見ながら語りかけてきたのだ。
「「ッッ!!」」
「そんなに警戒するなよ。ボクはもう何もしない」
蒼海は両手を上げながら平然とそんなことを言ってのけた。だが今の蒼海には殺気が無く、言っていることが本当だと証明している。
「ボクはボクのいるべき場所に戻らなきゃならないからね。まぁせいぜい君達も辿り着きなよ」
言葉を終えた蒼海の身体が足元から水の球体に包まれていく。
「この状況、どうにもならないわけじゃないはずだ。君がボクと同じことをすればね」
「!!」
蘭に視線を送ったのを最後に、蒼海は完全に水の球体に包まれた。そしてその球体は眼下で荒ぶっている海へと落下していった。
それと同時に、逆巻いた海水が竜の如く昇天してきて僕達を飲み込もうとした。
それを迎撃する形で蘭が手を大きく振り疾風を発生させた。それにより逆巻いた海水は打ち砕かれ、吹き飛ばされた。
「ボクに策がある」
波が粒になって舞う中、荒ぶる波の音にかき消されそうな声音で蘭は呟いた。
僕は蘭にその策とやらの概要を説明させようと視線だけで続きを促した。僕にはこの状況を打開する策など一つも浮かんでこなかった。蘭はどんなことを考えついたのだろうか。
「……僕の力でここから大陸まで飛んで渡るんだ。ハマくん達の目的である北東の大陸へ。まぁシンちゃんもそっちに行くことになるんだけど」
蘭は北東を指さしながら苦笑いしつつそう説明した。
確かにそれが出来るのなら最良の手段だろう。しかしそう簡単に事が運ぶだろうか。
「レイアの向かう先には蒼海がいるような気がする…… 行くのは構わねぇけど、そんなことお前にはできねぇだろ……」
僕の思考を代弁するように奏刃が言った。
「出来るよ。ボクだけが皆を救える」
蘭は一切の迷い無く断言した。
出会って間もない僕が分かるほど優柔不断でなよなよとした蘭がこれほどまでに言い切ったのだ。絶対的な自信、または覚悟があるのだろう。
「どうするの……?」
そんな蘭に対して半信半疑で美來は問う。
「大丈夫…… 任せて」
蘭は美來に向けて小さく微笑んだ。だがその笑顔は儚げで今にも消えてしまいそうだった。
「ッ…… 《贖罪開放》……」
蘭は爪が食い込むほど握り締めていた拳からふっと力を抜き、その掌を胸に手を当てた。そして小さく、だがはっきりと一言呟いた。
《贖罪開放》。
先程蒼海も口にしていた言葉だ。彼はこの言葉の直後に大海を創り上げた。蘭もあれに匹敵するような何かをしようとしているのか。
数秒の間。直後、蘭の身体がうっすらと輝き始め、微風が衣のように蘭へと纏わりついていった。
「おい蘭…… なんなんだよ、それ……」
奏刃は困惑しながらも冷静にそう聞いた。それに対して蘭は儚げな笑顔を貼り付けたまま説明を始める。
「贖罪開放。人間なら誰しも、どんな善人でも罪人でも心の奥底には七つの大罪が眠っている。 その自身の内に眠る大罪を懺悔して全て解き放つ事を贖罪開放と言うんだ。蒼海ほどの力は出せないけどこの状態ならボクでも皆を大陸まで飛ばせるよ」
この状況から抜け出せる策のはずなのに、何故蘭は今にも泣き出しそうな顔をしているのだろうか。
「!! 本当か!?」
「うん」
何かが引っかかる。蘭の表情、言動の端々にぎこちなさを感じるのだ。
説明の直後、四方から途轍もなく高い波が僕達に襲いかかろうとしていた。
「「!!」」
この場の全員が息を飲んだ。こんなものに飲まれたら確実に助からない。
「邪魔だよ……」
しかし蘭はそれらの高波を睨みつけて、今までで最も低い声音でそう呟いた。
刹那、蘭を中心に四本の刃のような風がそれぞれの高波へと放たれた。その刃は空間もろとも高波を断絶し、雨粒程度の大きさになるまで切り刻んだ。
美來も奏刃も言葉すら出ないようだった。僕もこの光景には驚愕しているのだが、何か腑に落ちない。これほどの力が何の代償も無く使用できてしまうものなのだろうか。
そんなことを思った僕は蘭に目を遣り、
「……ッ!」
「蘭! お前足が……」
気が付いてしまう。それは奏刃も同時だったかもしれない。微風の衣を纏う蘭の膝から下がなくなり始めているのだ。だがしばらく見ているとそれが間違いだということを理解した。
蘭の脚は、身体は無くなっているのではない。少しずつ風と化しているのだ。
「もしかして、それが贖罪開放の代償なの……?」
「ううん。普通の人間なら精神が磨耗するだけで済むんだけど、ボクみたいな存在は身体が持たないんだ……」
「どういう……ことだよ……」
絶句していた奏刃は何とか言葉を振り絞って蘭に尋ねた。
「だってボクはシンくんの……奏刃慎羅のクローン体のうちの一体なんだから」
「「!!」」
あぁ、そういうことか。これが違和感の正体だったのだ。
天能者のクローン。第三次世界大戦に派兵するために作られた人造絶異者。
地の果てでは鏡白愛をオリジナルとして複製されていたが、海の果てでのその役割は奏刃だったのだろう。だが鏡のクローンは皆人間のようで人間ではないものばかりだったはずだ。
目の前に存在している蘭という少年は肌の色も感情も、その全てが本物の人間のようで、むしろ僕なんかよりずっと人間味に溢れていた。
時に笑い、時に困り、温かい感情を出していた。
ほんの少しの間ではあったが蘭の人間味は僕にも美來にも伝わったはずだ。
「所詮大量生産のうちの一つ。たかだかその程度の存在のボクの身体は強すぎる力に耐え切れなくて、能力に喰われてしまうんだ……」
説明しているうちにも蘭の身体はどんどん風と化していき、既に下半身は無くなっている。
「それでもボクは皆を助けたい、そう思ったんだよ」
「てめぇふざけんなよ!! 誰が命を張ってまで助けろって言ったんだ!? お前が死んだら……皆じゃ、ねぇ……だろうが……!」
語気を荒げて怒鳴っていた奏刃は後半の言葉がどんどん萎んでいき、やがて消え入りそうな声音になってしまっていた。
「違うよ、ボクは君だ。君が生きてさえいれば僕は死なない。君の中で生き続けるんだ」
蘭は子供をあやすような優しい口調で言葉を紡いだ。
「くッ……」
一滴、涙が海面へと落下していき、しかしその途中で風に吹かれて消えていく。それでも一滴、また一滴と奏刃は涙を零し続ける。
「ラン、くん…… ひぅ……」
それにつられるように美來の大きく綺麗な芝美色の瞳からも涙が溢れた。
「二人とも……」
身体が風へと変換されていく中、蘭は奏刃と美來に慈しむような視線を送った。
「……蘭」
僕は淋しげな表情の蘭へと呼びかけた。すると彼は首だけをこちらに向けて言葉の続きを促した。
「早く僕達を大陸に飛ばしてくれ」
僕は淡々と用件だけ一言で述べた。ここで誰かが敵にならなければこのままずるずる別れを引き延ばしてしまうだけだ。
「てめぇッ!」
奏刃は激昂ながら空中を移動し、僕の元に駆け寄ってきて胸倉を掴み上げた。その僕を睨む彼の瞳には憤怒と哀愁が綯い交ぜになったような感情が渦巻いていた。
僕はその瞳を睨み返して奏刃の手を払いのける。
「お前は蘭がこのまま消えていいのか? こんなことをしている間にもあいつはこの世界から消えていってるんだ。あいつが命を懸けた意味を考えろよ……」
僕は冷静に、冷徹に、冷酷に現実を突きつけた。
「ッッ……」
奏刃は僕に返す言葉が無いのか、血が滲むほど強く唇を噛み締めて感情を抑え込んだ。それにより頭に昇った血が降下したのか俯いて言葉を紡ぐ。
「蘭…… 飛ばしてくれ。オレ達を、大陸へ……」
「うんッッ!!」
蘭は満面の笑みを浮かべて元気良く返事した。しかし身体の方はその笑顔とは裏腹にもう胸辺りまで風と化していた。
「三人とも手を繋いで。そして繋いだその手は何があっても絶対に離さないで」
「あぁ」
「うん!」
奏刃と美來が返事を返しながら手を繋ぐ。そして僕の右手を奏刃が、左手を美來が力強く握った。
「……シンくん、ハマくん、天時さん。ボクはここでお別れだけど、ボクの分まで必ず生きてね。さよ」
「さよならなんて言うなッ!!」
奏刃は蘭の言葉を乱暴に打ち切った。
「またいつか、別の人間として生まれ変わって出会うかもしれない、違う世界で出会うかもしれない。だから……またな!!」
「ッッ!! ……うん!」
今まで堪えてきた涙が溢れ出したのか、蘭はボロボロと泣き始めた。しかし落ちる涙すらも風と化してあたりに吹き抜けていってしまう。
「またね…… 《別離の旋風》」
涙でぐしゃぐしゃになった不自然な笑顔で蘭は呟いた。
その後、蘭の身体が全て風と化して消え去った。
しかしその暖かい風は僕達三人を包み込んで身体を浮き上がらせる。
高波の及ばぬ高度まで上昇した矢先、凄まじい速度で僕達の身体は北東方向へと吹き飛ばされていく。
ようやく、ようやく辿り着く。
自分一人では決して届かなかったはずだ。
彼女の、刻桜氷華の元へは。
待っていろ氷華。
僕を阻む全てを壊して救い出してやる。




