黒幕
「レイ……ア……」
遠くから彼が消滅した様子を見ていた氷華は吐息のような声を漏らした。
「彼も消えた…… もう私達には成す術が無い……」
鏡は冷え切った声で現実を突きつけた。
「そんなぁ…… こんなところで死んじゃうのぉ……?」
咲神は言葉通りのことを思っているのか不思議なほどに緊張感の無い呑気な声を上げていた。
「…………」
亜空間は空間が削り取られた虚空から目を離し、三度氷華を捕えるためにあたりを見渡し始めた。
その時、亜空間の背後の虚空が小さく揺らいだ。その揺れは段々と大きくなっていき、やがて空間そのものが捻じ曲がり始めた。亜空間はまだそれに気が付かない。
空間の歪みは大きくなる一方で、一向に収まる気配はない。捻じ曲がり過ぎて黒点と化した虚空にピシリと音を伴って蜘蛛の巣状のひびが走る。その音によって亜空間は振り返った。
「まさか……」
亜空間は生唾を飲み下し、冷や汗をかきながら口角を釣り上げて笑っていた。
ひびは広がり続け、やがて―――
パリィィィィィィィン!!!!
その空間が破砕音とともに砕け散った。
これは比喩ではない。本当に空間が硝子のように砕け散ったのだ。
「ッ……おいおい、こんなことは初めてだぜ…… 一度消し飛ばした人間が戻ってくるなんてよ……」
砕けて元に戻った空間には消し飛ばされたはずのレイアが俯き立ち尽くしていた。
「壊……す……」
レイアは顔を上げつつ小さく呟いた。
髪の色は白と黒が混じり合った中途半端な色。瞳は白色で虚ろだった。
「壊す……」
するとレイアの背が闇色の光を放ち始め、一瞬にして翼のようなものが形成された。
右翼が白、左翼が黒の実体の無い半透明な翼。
「時を、壊す、壊す、壊す、壊す、壊す、壊す」
何度目とも知れぬ《壊す》の声。その瞬間にレイアは亜空間の目前に出現していた。
「ッッ!?」
亜空間は驚愕ながらも一歩後退し、レイアに向けて指を向けた。
「キヒッ……」
しかしその直後、いや亜空間が指を向ける直前だったかもしれない。レイアは亜空間の背後で不気味に笑ったのだ。
先程からの常軌を逸した移動速度。その様子はさながら時間が飛んだような印象を見ている者に与えた。
「なんなんだッッ!?」
亜空間はすぐさま振り向き空間を消し飛ばす漆黒の波を放とうとした。
「羽根……?」
だが攻撃の意思は亜空間とレイアの間に浮遊する一枚の羽根によって削がれてしまった。
あまりに場違いな美しい黒羽。更にその上から純白の羽根が舞い落ちてくる。
そして黒の羽根と白の羽根が触れ合う直前、亜空間の全身を凄まじい怖気が襲った。
「ッッッ!!」
亜空間は自身を黒い揺らめきで包み、その場から消える。
次の瞬間、亜空間が先程まで、コンマ一秒前までいた空間に穴が開いた。
漆黒の、どこまでも深く感じられる穴。されどその穴は穴ではなく空間に入った歪だ。
触れれば最後、この世界に存在するものならば何もかも消し飛ばされてしまうだろう。
遠方に退避した亜空間は目を見開いてその光景を見ていた。背中に何か冷たいものが伝う。
久々に感じた生物として根源的な恐怖。亜空間は長らく感じることのなかった恐怖という感情に一抹の喜びを得ていた。
「いいねいいね…… 油断した方が消える、そんな命と命のぶつかり合い。オレはこれを望んでたんだ!!!」
亜空間は両腕を広げて高笑いを上げる。楽しくて仕方が無いかのように狂笑する。
その最中、亜空間の周囲に黒い羽根が浮遊を始めた。それを追うように白い羽も舞い始める。
亜空間は後方に飛びながら口を動かす。
「力比べといこうぜ」
亜空間は大きく開いた両腕を勢い良く閉じ、両掌を叩き合わせた。
「《亜空崩壊》」
漆黒と純白が交わろうとした瞬間、その一点が左右に発生した二つの黒い揺らめきの球体に押し潰された。
だが羽根同士の接触によって発生する空間の破壊現象は止められない。挟み込んできた二つの球体にすらひびを入れてしまう。
「ハハハ!! 壊れろ、壊れろ、壊れろ!!」
レイアは笑い声を上げながら壊れたおもちゃの人形のように同じ言葉を連呼していた。言葉を紡ぎながらレイアは翼を羽ばたかせて飛翔。空中から無数の羽根を弾丸の如く放ってきた。
「てめぇ、いかれちまってんのか……?」
亜空間は空間を破壊するほどの羽根が迫ってきているにも関わらず、笑い続けるレイアを見て呟いた。
「そんでもまぁ……」
亜空間は腰を低くして脚に力を溜め、一気に開放する。亜空間は爆発のような勢いで、あえてレイアの方向へ跳んだのだ。
羽根をギリギリのところで回避しながら空を切ってレイアに接近していく。回避し切れないものは一瞬にして黒い揺らめきで何重にも覆い尽し、ほんの一秒程度破壊を遅らせていた。たった一秒でも、超高速移動を行っている彼にとっては大きな一秒となる。
「消し飛べよ……」
亜空間は右手をレイアにかざし、五指を握った。それに連動するようレイアの周囲に五つの黒い揺らめきの球体が出現し、迫っていった。
レイアはそれに対して全身を回転させ羽根を振り撒きながら上昇した。
球体と羽根がぶつかり合い相殺する。
「がぁぁぁぁ!」
レイアは滑空の要領で亜空間へと急降下。翼を羽ばたかせて羽根を振り撒きながら亜空間に降り注ぐ。
「チッ……」
亜空間は憎々しげにレイアを睨みつけ、右手をかざして黒い揺らめきの球体を生み出す。
レイアはその寸前で滑空を停止し、両翼を前方へ突き出した。
翼に触れた球体は硝子玉のように一瞬にして砕け散った。
「仕方ねぇ、《贖罪開》」
亜空間は呟きながら右掌を上に向け、
キィィィィィィン!!!
しかし、それは金属を切り裂くような細く甲高い音によって打ち止められる。
亜空間は打って変わって自身を黒い揺らめきの球体で包み隠した。
「ぁぁぁぁッ!!」
滞空しているレイアも翼をもがれたの如く、叫び声を上げながら地に落ちた。
「「ッ……」」
「何よぉ……」
氷華達はその甲高い音に脳漿を揺さぶられ、床に倒れ伏していた。
「亜空間、それを地の果てで使うのは駄目だ」
その落ち着いた声音は氷華達の背後から放たれた。それは近くにいるのに遠くで聞こえるような、不思議な声だった。
「ッ…… 黒刀……白夜……!!」
氷華は倒れながらも懸命に顔を持ち上げ、声の主 黒刀白夜の姿をその双眸に捉えた。
「無理に動かない方がいい。三半規管が破壊されているんだからね」
「あなた……絶異者だったのね…… 一体どんな能力を……」
鏡は黒刀の発言によってそう悟った。
「御名答、私は絶異者だ。まぁ説明したところでもう君達に対策を立てることはできないから教えてあげるよ。私の能力は」
言葉の直後、黒刀の視界を人影が埋めた。それは先程まで亜空間と対峙していたレイアであった。そして彼は黒刀に向けて羽根を放った。
「完全に暴走しているようだね……」
黒刀はレイアの現状を見て冷静に分析した。空間を破壊するほどの羽根が放たれようというのに酷く冷静だ。それだけ自分の能力に絶対的な自信があるのだろう。
「壊す……」
レイアは口角を限界まで吊り上げた不気味な笑みを湛えつつ黒刀を消しにかかる。
黒刀はそんな彼に向かってゆっくりと右手をかざした。
「丁度いい。見せてあげよう、これが私の異能の一端……」
黒刀は迫るレイアを穏やかな瞳で見つめ、呟く。
「《幻音反響》」
直後、剣先のように鋭い高音がレイアの頭部を貫いた。それと同時にレイアの身体が大きく後方に傾き、羽根が黒刀の頭上数メートル地点の空間を破壊した。
「私のシナリオでは君の覚醒はまだまだ先のはずだったんだけどね…… まぁ手間が省けたから良しとしよう」
黒刀は納得したようにそんなことを呟きながら墜落したレイアを視界に捉える。
「だけど今は邪魔だから大人しくしていてもらうよ」
再び鋭い高音がレイアを貫き、彼の身体からゆっくりと力が抜けていった。眠るように仰向けで横たわるレイアは虚ろに開いていた瞳を閉じていた。瞳が閉塞された後、レイアが首から下げている鴉羽のネックレスがほんの少し浮かび上がり黒い輝きを放った。
するとレイアの周囲に羽根が舞い散り、髪の色素がだんだんと戻っていった。閉じてはいるが瞳ももとの漆黒に戻っているのだろう。
黒刀は亜空間でさえ手を焼いた暴走状態のレイアをいとも簡単に鎮めてしまった。
一体どれほどの能力を有しているのだろうか。
「さて…… 亜空間! いつまでそうしているつもりだい?」
その声に反応したのか、亜空間を包んでいる黒い揺らめきの球体が消えていく。
「そんなこと言ったって、あんたの力は見境がねぇんだから仕方ねぇだろ」
そしてその返答は黒刀のすぐ横から聞こえてきた。亜空間はいつの間にか黒い揺らめきを経由して黒刀の元に現れていたのだ。
「見境が無いんじゃなくて、見境をつけるのが面倒だからだよ」
「それ見境がねぇよりタチ悪ぃだろ……」
亜空間は呆れたように溜息をつきながら呟いた。
「そんなことより時間がかかりすぎだ。彼女一人を連れてくるだけなのに何故戦っているんだ」
「まぁ最初はオレが吹っかけたけどよ…… こんな力を持った天能者がいるとは思わなかったんだよ」
「彼も《刻鴉》だからね。鍛えれば君を超える可能性もある」
「!? こいつもかよ、そりゃ強ぇわけだ」
亜空間は黒刀の言葉に嘆息したように言った。
「まぁ今は彼女を連れていくことが先決だ」
黒刀はレイアを見て笑みを湛えた後、氷華に視線を向けた。
「《刻鴉》の一人、時の封印者。 本当に利用価値があるのか? 能力を発現している自覚もないみてぇだし」
「ッ……」
氷華は亜空間の発言に息を呑んだ。自分が異能を発現しているなど、確かにそんな自覚はない。だが少し考えてみると常人とは異なる力が自分にあるということを悟った。
事象を予感として感じ取れる力。
「……!」
記憶の底をひっくり返しているうちに氷華は地の果て崩壊後に目を覚ました時のことを思い出した。自身を守るように牢の内側が氷のような黒い結晶に覆われていた。今思えばあれが能力の一端だったのかもしれない。
「そのうち見れることだよ 。今は地上への空間を開いてくれ」
亜空間は仕方なさそうに前方に手を突き出し、そこに黒い揺らめきを出現させた。
それを確認した黒刀は氷華に向けて指を鳴らした。
「ッ……」
三半規管の異常が回復したのか氷華は起き上がり、片膝をついた状態で呟いた。
「何故……」
氷華は何故黒刀が自身の拘束を解いたのか理解出来なかった。地上に連れいてくのならば動けない状態のまま連れていく方が簡単だったはずだ。
警戒する氷華に対し、仮面のような笑みを張り付けた黒刀は手を差し延べた。
「ついて来い、と言うことね…… もし嫌だと言ったら?」
「君は来る。私の力で強制的にもできるが、その場合は彼を壊すよ……?」
黒刀は細く開いた狐のような目でレイアを捉えながら言う。
「ッ…… 分かった…… 抵抗せずについていくわ……」
氷華は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべながらも差し出された黒刀の手を取った。
「それでいい…… 亜空間、行くよ」
黒刀は氷華をエスコートするように立ち上がり、亜空間の生み出した黒い揺らめきに向かって歩き出した。
「じゃあ、地の果ての皆さん。またいつか地上で出会うことがあれば……」
黒刀は言い終えるや、高々に右手を振り上げ指を鳴らした。決して大きくはない、だがその音は地の果て全域に響き渡った。それは三半規管を破壊した能力を解除するものだったらしく、倒れ伏していた面々がゆっくりと立ち上がり始めていた。
そして音の反響が終わり、皆が立ち上がる頃には黒刀と氷華、亜空間は消え去っていた。
全ての黒幕、黒刀白夜の登場により戦いは去った。しかし数百人の命が失われ、地の果て最強の絶異者である緋ノ都京夜と覚醒した覇魔黎鴉が敗北した。この事実は地の果ての人間を絶望の底に叩き落とすのに十分過ぎるものだった。