救出作戦
東京、お台場
百里基地を飛び立ったUH-60Jペーブホーク捜索救難ヘリの機内で黒岩真申二等空曹は窓部分に取り付けられた自衛用のミニミ軽機関銃にベルトリンクに繋がれた5.56mm弾を込めていた。
眼下に見渡す首都圏は今や混乱の最中にあった。闇を焦がすようにあちこちから黒煙が上がり、街の明かりがその黒煙を照らしている。本来火災を消すべき消防はこの混乱のなかで現場に臨場することはできず、延焼を続けていた。
東京湾もまた混乱の中にあった。巡視船やタグボートに釣り船などの船がひしめき、洋上に生存者を避難させようとしている。レインボーブリッジでは警察車両の赤色灯が横に並んで道を封鎖していて、それよりも北では多くの車が渋滞に巻き込まれて立ち往生していた。
『品川方面で感染が拡大中!』
『市民より救難要請……』
無線は錯綜している。お台場も感染が拡大しつつあり、感染媒介体となった不死者が走り回っていた。
『地上は危険だ』
機内通話装置でコ・パイロットの新城二尉が言った。黒岩が振り返るとコックピットの左側に乗る新城もこちらを振り返っていて視線が交差した。整った鼻梁に、長い睫毛の奥の瞳が不安に揺れている。
「大丈夫です」彼女の不安を払拭し、自分に言い聞かせるように黒岩は言った。
『せめて武器の使用が認められていれば……』
機上整備員の榎並一曹が無念そうに呟いた。
『怖気づいているのか』
機長の笹谷三等空佐の声に黒岩はぎくりと肩を震わせた。
『この救出活動に当たっているのは俺たちだけじゃないんだぞ。非武装の消防や警察の救助員は丸腰で戦ってる。装備に頼るな。今まで培った自らの技量を信じろ』
目の前に座る無口な板垣三等空曹がその言葉を聞いて力強く頷いた。消防士や警察官、ともに市民を助けるという同じ志を持った仲間たちが今も戦っている。それほど心強いものはなかった。
『黒岩、誰も残すな。一人残らず助け出せ』
笹谷三佐が鋭い声で呼び掛けた。
「……はい!」
黒岩は答えると榎並一曹と準備を代わり、相棒の板垣と共にホイスト降下に備えた。
黒岩の乗るシーガル03に与えられた任務は孤立者の救出。
空自の救難員は有事の際、交戦空域での戦闘救難を想定しており、陸自のレンジャー訓練を受け、高いサバイバル技術を有し、どんな過酷な状況下でも人命を救うための訓練を積み重ねてきた。自分に出来なければ他の誰にも出来ない任務だ。血に餓えた亡者たちの真っ只中に降りることになっても必ず助ける。
That others may live.
黒岩は心の中で繰り返した。他者を生かすため生きる。航空自衛隊の救難員のモットーだ。今ここにいる自分が出来る最善を尽くす。黒岩は覚悟を決めると窓から眼下を見つめる板垣の顔を見た。
板垣は優秀な男で、大学ではライフセービング部で予備自衛官補、大学卒業後に航空自衛官となり、航空救難員となった。過酷な生存自活訓練や陸自の精鋭第1空挺団での空挺レンジャー課程での教育で首席の成績を納めており、将来期待の新人だった。
「板垣、これはお前が使え」
本来メディックは携行火器を持たないが、基地警備隊より9mm拳銃を一挺だけ預かっていた。脱落防止用のランヤードをサバイバルベストにつけて拳銃をベルトにねじ込んだ板垣は頷く。たった一挺の拳銃だけとは心細いが、無いよりはましだ。
これを貸してくれた基地警備隊の隊員からは必ず返せと念を押されて言われている。生きて戻って返さねばならない。
『要救助者確認!右旋回、ツーオクロック、パレットタウンビル』
新城が声を上げた。
『こちらに気づいてる……今、フレアを焚いた』
黒岩はドアを開け放つ。ビルの屋上では発煙筒を焚いてこちらに向かって助けを求める人々の姿が見えた。
『サバイバーは少なくとも二十名。他にもいると思われる。なお屋上には室外機やアンテナなどがあり、着陸は不能。ホイストで収容する』
新城が早口で報告する。迅速に、しかし念入りに旋回して周囲を確認する。ビルの合間に見える道路をうごめく人影を見て黒岩は小さく息を呑み込んだ。亡者が確実に生存者に迫っている……!
ペーブホークはそのまま屋上に向かって滑るように飛ぶと機首を上げて制動し、高度を下げていった。
『このポジションを維持!』
榎並一曹がパイロットの笹谷に指示する。パイロットからは直接見ることが出来ないため、ベテランの機上整備員からの指示が頼りとなる。
『屋上に感染者は認められない』
彼らは一見すると感染者も負傷者もいないようだ。今、彼らを救えるのは自分達だけだ。自然と肩に力がこもった。
『イーグルネスト、こちらシーガル03。救助活動を実施する。──黒岩、板垣、行って来い』
新城が報告の合間に語気を強めて言った言葉に黒岩は無言で頷いた。
「ホイストで降下する」
黒岩は宣言すると機体から身軽に降りた。ホイストに吊られて屋上へとするすると降りていく。笹谷三佐は機体をうまくコントロールし、ホバリングしていた。吊り上げ用ウィンチ装置から伸びるロープに支えられて屋上に降り立つと黒岩はガイドロープを屋上にあったパイプにかけて固定し、こちらに駆け寄ってきた人を見た。紺色の制服を着たベテランらしい警察官で、手には車に積む発炎筒を持っている。
「航空自衛隊です!救助に来ました!」
黒岩がヘリの騒音に負けないよう声を張り上げる。警察官は感動したように頷いた。
「何名ですか」
「二十三名です!女子供が十二名!けが人はいません!」
「女子供からヘリに収容します!」
「分かりました!ヘリは来ますか!?」
彼はペーブホークにここにいる全員を収容することが出来ないことは分かるらしい。
「大丈夫です!必ず助けます!」
彼はその言葉を聞くと離れて待っている民間人の元へ走っていった。ホイストを用意しながら頭上に合図し、板垣が降下してくる。
「機に収容しろ。援助する」
「了解」
板垣は頷くと準備にかかった。小学生程度の子供だろう。泣きはらした目で黒岩を見つめる少年を確保すると合図を送る。
ガイドロープで下からも支えられながらホイストでの揚収が始まった。
「下の階から奴らが来る!」
屋上に二人の若い制服警官が飛び出してきて叫んだ。一人は女性警官だが、二人ともすでに拳銃を抜いてハイレディで保持している。上にヘリがいる中ではそれを咎めたかったが、黒岩はそれどころではない。市民たちに動揺が走った。
「出入り口を塞げ、急げ!」
板垣のそばで補助をしていたベテラン警官が叫ぶと二人は市民と協力して出入り口のドアをバリケードで塞ぎ始めた。黒岩は予備のスリングロープを投げ、ドアを結んで固定するように指示した。収容を終えた板垣が再び素早く降下してきた。
「よし、次はあなただ」
一人、また一人とヘリへ収容されていくが、時間はかかった。
『女子供だけでも全員収容して離脱したい。黒岩、板垣はその場に残り、サバイバーを保護しろ』
笹谷三佐の言葉に黒岩は喉を鳴らした。自衛用の武器は板垣に渡した9mm一挺だけだ。市民を守れるか……?
女性警官を除く、最後の女性が収容された。ガイドロープが解かれる。
『黒岩、板垣、必ず戻ってくる。……死ぬなよ』
新城の声が無線に聞こえ、黒岩は思わず頷いた。
「市民を守ります」
『シーガル03、離脱する』
ペーブホークは頭上から離脱したが、残された者たちはまだ冷静だった。バリケードを組み、迫る感染者の来襲に備えて各々が武器になりそうなものを持っている。
ヘリはどれくらいで戻って来れるだろうか。黒岩が険しい顔をしていると板垣が肘でつついてきた。
「先輩、駄目ですよ。皆が不安になるような顔をしては」
黒岩は顔を引き締めると頷いた。板垣も不安だろうが、相変わらずのポーカーフェイスで冷静さを保っている。その時、バリケードで固めた屋上の入口に何かが激突した。大きな音とともにドアが震える。
「……来たか」
「ドアが持つことを祈ろう」
ベテランの警官が呟き、携帯していた自動拳銃をホルスターから抜く。
「警棒を貸してください」
黒岩はSIGザウエルSP2022自動拳銃を構える女性警官に声をかけた。二十代前半の、まだ制服姿が新入社員を連想させるような若さだが、その横顔はすっかり凛々しい警察官の顔をしていた。こんな若い女性でも、警察官としての義務を果たそうとしている。
自衛隊の宣誓は、自らの危険を顧みずに専心職務に励む、などという内容だが、警察官は、自己の良心に従い、誠実に職務に従事します、という宣誓で、自分の命を優先するなどと黒岩は聞いたことがあったが、今の自分たちの市民を守るという使命感に職の違いはないと黒岩は感じた。
「……これを」
三段式の警棒を渡された黒岩はそれを握りしめる。
「ありがとうございます」
黒岩はそれをしっかりと伸ばして固定する。
「あとで返してくださいよ」
女性警官はこんな状況で気が利いた冗談でも言おうと微笑んだつもりだったのだろうが、その顔は不安と緊張でなおも強張っていた。
「ちゃんと返しますよ」
黒岩は勇気づけるように笑顔で頷いて見せた。その間もドアに体当たりする音は続いている。ドアの窓はひび割れ、中からは呻き声が聞こえてきていた。ガラスから突然、手が突き出され、ガラス片に皮膚を切るのも構わず手を滅茶苦茶に振り回している。ホラー映画の中でしか見ないような光景だが、これは現実だった。
もう一人の若い警察官が構えたH&K P2000自動拳銃を発砲した。乾いた破裂音とともにドアの向こうで血飛沫が上がる。サラリーマンの一人が情けない声を上げた。
血飛沫は上がっても手を伸ばす本人には当たっていなかったらしく、手は相変わらずドアに血糊を飛び散らせながらバンバンと狂ったように叩き続けている。ロープでがっちり結んだドアノブが変形し、ドアが動いている。
「くそ、ドアが壊れる」
警官と板垣がバリケードからドアを押さえる。他の男たちもドアを支えようとバリケードに取り付いた。
「ヘリはまだか……?」
周囲ではほかにもヘリが飛び回っていたが、こちらに向かってくる様子はない。警官が再び発炎筒を焚いた。
『こちらヘリオス22。救難要請を受信した、位置を知らせ』
トランシーバーに聞こえた声に思わず黒岩は飛びつきたくなった。
「こちらPJ03、パレットタウン、ビルの屋上!市民十一名、およびメディック二名、至急救援を!」
『こちらヘリオス22、当機に収容可能な人数は少ない、だが持ちこたえろ』
ヘリオス22では回収しきれないと言っているが、今ここで救援が来なければ全滅は必至だ。
やがてヘリオス22の機影が近づいてきた。海上自衛隊のSH-60K対潜哨戒ヘリだった。
SH-60Kは旋回せずにまっすぐ降りてくると機体の側面をビルの屋上に向けて接近してくる。
「あのアンテナを退けろ!」
板垣が警官に怒鳴り、警官が室外機によじ登ってアンテナを急いで蹴り飛ばす。ヘリオス22は機体側面を屋上につける形でホバリングした。
「急いで収容を!」
しかし我先にと逃げ出したのではバリケードが持たない。互いに目を見合い、中年の男性が一番若い男を顎でしゃくると若い男は頷き、頭を下げて急いでヘリへ向かって走った。
ローターブレードがアンテナを支えていたワイヤーを弾き飛ばし、火花が散る。一瞬、上昇したSH-60Kは今度は高度を落とすかと思ったが、立て直し、再び同じ高度でホバリングを実施する。乗り込んでいたセンサーマンが手を伸ばし、若い男の手を掴んで機内に引き込む。
「急げっ!」
男たちは一人ずつバリケードを抜けてヘリへ走った。ドアノブが完全に圧力で破壊され、ドアはもうバリケードの支えでなんとか閉まっている状態だった。
警官が拳銃で何度も撃ち、バリケードの向こうにいる亡者たちを退けようとする。その時、蝶番がついに壊れ、ドアが外れた。
「マズイ、ドアが……!」
途端にSH-60Kは離脱する。バリケードを越えてゾンビたちが屋上に躍り出ようとしていた。板垣が9mm拳銃を抜き、撃つ。黒岩も警棒を構えるとバリケードの上をよじ登ってきたゾンビの頭に向かって横からフルスイングした。
頭蓋骨を殴打した激しい衝撃が手に走る。ゾンビの首が曲がり、そのゾンビは動かなくなるが、さらに別のゾンビが襲い掛かる。
婦人警官がSP2022でそのゾンビの頭を撃ちぬこうとしたが、弾は肩に突き刺さるにとどまった。そのゾンビが頭をもたげた瞬間、黒岩はその口めがけて警棒を振りかぶった。
『入口から離れろ』
突然、スピーカーで声が響いた。振り返ると離脱したと思っていたSH-60Kは再びホバリングしていてセンサーマンの一人が74式車載機関銃を構えていた。バリケードを支えていた男たちが慌てて逃げ出すと74式車載機関銃の弾幕がバリケードに降り注いだ。曳光弾が混ざっていて激しい火花と跳弾した弾の光が屋上出入り口で爆ぜる。
SH-60Kが弾幕を張り続ける中、ようやく船に民間人を下ろしたシーガル03が駆け付けた。
『こちらシーガル03、収容作業を再開する……!』
新城の声が女神の声に聞こえた。シーガル03は射線に入らない位置からホイストをおろし、収容を試みようとした。
「笹谷三佐、機体を屋上の横につけてください、もう時間がありません!」
シーホークのダウンウォッシュで舞うケーブルなどがあり、危険だったが、事態は一刻の猶予もない。シーホークの弾幕が途切れればゾンビが屋上にあふれかえるだろう。
UH-60Jは黒岩の進言に従ったのか、高度を下げてくる。室外機のパネルが飛び、機体に激突するが、笹谷三佐は構わず機体の側面を屋上につけた。
「飛び乗れ!」
ミニミを構える榎並一曹が叫ぶ。民間人や警官たちがUH-60Jへ走った。
板垣は警官の一人と拳銃を構えながら後退する。弾幕を抜けたゾンビが一体、板垣に向かって全力疾走で迫ってくる。二人の拳銃が火を噴き、9mm弾を受けたゾンビが体を一回転させて屋上に転がる。二人はそれを見るとヘリに向かって走ってきた。
「板垣、走れ!追ってきてるぞ!」
シーホークの弾幕が途切れた。ゾンビが屋上にあふれ出し、板垣と警察官を追う。それを気にしながら黒岩はUH-60Jのキャビンに飛び込んだ。
「代われ!」
榎並がほかの民間人や警察官の収容を援助する。黒岩はミニミのグリップを握ると安全子を解除し、引き金を引いた。曳光弾の光の束が板垣と警官の頭上を越えて迫るゾンビの一群に吸い込まれる。撃ち抜かれたゾンビたちはその場に倒れるが、それを越えて次々にゾンビたちが迫った。
警官が飛び乗り、板垣が続く。その板垣のブーツをゾンビが飛ぶ寸でに掴んだ。
「あ……!」
板垣の声が聞こえたかと思うと板垣はヘリに飛び込む勢いを失い、黒岩の視界から消えた。黒岩はそれを目の隅で捉えながらもゾンビたちを退けるために軽機関銃を撃ち続けた。
ペーブホークは離脱し、屋上を離れる。そのペーブホークを追ってゾンビたちが屋上から飛び降りていった。
キャビンを振り返ると女性警官が9mm拳銃を真下に構えている。見るとキャビンで民間人たちに手を掴まれた板垣がヘリからぶら下がり、その板垣の足をゾンビが掴んでいた。板垣は必死にゾンビを蹴りつけて落とそうとしている。
「板垣!」
黒岩は軽機関銃を向けようとするが、俯角が取れない。女性警官を支えてゾンビを撃たせようと試みる。女性警官が二発発砲、ゾンビは背中を撃たれると手を離し、落ちていった。警官と民間人の手によって板垣が引き上げられる。
「噛まれてないか?」
黒岩は引きずり込んだ板垣の足などを見る。けがはなかった。
「死ぬかと思いましたよ」
板垣は表情こそ平静だったが、顔は青ざめていた。機内にいる民間人たちは皆、安堵で力が抜けたようだった。
『よくやったぞ、黒岩。板垣もだ。ヘリオス22も無事離脱した』
新城一尉が正面を向いたまま呼びかけた。黒岩はようやくほっとして床に座り込む。狭い機内で男たちは肩を寄せ合い、生きて脱出できたことを喜び合っていた。そんな中、黒岩は先ほどの女性警官と目があった。
「ありがとう、おかげで仲間が助かった」
「いえ……、全員無事で何よりです。本当に助けていただいてありがとうございます」
女性警官はそう言って優しく微笑んだ。
「ああ……」
黒岩は風防の外に見える光景は目にしないようにした。東京の街は燃えている。
「……警棒、返す?」
ゾンビの血糊と脂がべっとりとついた警棒を見て女性警官は苦笑してそれを丁寧に断った。
お台場 臨海副都心
若洲海浜公園には大勢の民間人が集められ、助けを待っていた。彼らはすでに消耗し、疲れ切っていた。周囲にいる警察官や消防士たちもそれは同様だったが、彼らはまだ使命があった。
今年十九歳になったばかりの大学生である今川涼子は痛めた足首をさすっていた。ハイヒールなど二度と履くかと何度思ったことか。逃げるために走っている最中、何度も足をひねり、命からがら警察官に助けてもらった。あの狂気の混乱の中からよく自分は生きて脱出できたものだと思う。
普段、警察官は陰湿で市民を守るよりも見張っているような印象があった。だが、あの現場で彼らは文字通り必死に市民を助けるために命を賭して戦っていた。
まだ大学二年生の今川にとって今は彼らが頼りだった。一人で外出している最中にこの事態に出くわした。周りには家族も不安を打ち明け、励まし合える知人もいなかった。ブランド物の鞄から役に立たないスマートフォンを取り出す。昼間は音楽プレイヤー代わりやゲームなどをしていたため、ただでさえ消耗が早いスマートフォンの充電はなくなっている。しかし周りで携帯電話やスマートフォンをいじる者はもうほとんどいなかった。
この混乱でやはり電話が集中し、電波が繋がりにくくなっているらしい。災害伝言板ダイヤルで自分の無事などを知らせている者もいた。
日本は本当にいい国だな、と今川は他人事のように思った。泣き叫び、怒りや不安を周りにぶつける人間もおらず、限られた物を奪い合って争う様子もない。震災の時、諸外国を驚かせた日本人の気質は誇れるだろう。
韓国で数年前、フェリーが転覆した事件をなぜか思い出した。修学旅行中の学生が大勢亡くなった悲惨な事件だったが、被害者家族や遺族たちは怒り狂い、泣き叫び、関係者たちを非難し、責任の所在を探していきり立っていた。落ち度のない、学校関係者に水をかけ、視察に訪れた大統領に非難の怒号を浴びせる。日本では考えられない。
ここでそんな喧噪があったら、とても平常心を保っていられる自信はない。
上空をまたヘリコプターが通った。機首のライトを照らしながら東京都心の方へと飛んでいく。ビルには明かりがついていたが、どのビルも普段より灯っている照明は少ない。
水上バスや観光船まで動員して避難は続いていたが、ここから逃げ出した者たちはどこに向かっているのか今川には分からなかった。
人々の間を若い女が歩いていた。二十代中盤だろう、肩まで伸びた黒髪を海風になびかせながら姿勢の良い歩き方で周囲を見て回っている。活発な雰囲気の顔だち、服装もデザインよりも機能を意識したような恰好で、カーゴパンツを履いている。どうやら医療関係者らしく、手当てが必要な人などを探しているらしかった。
彼女が今川のそばまでやってきたとき、今川の足を見てかがんできた。
「大丈夫?」
面を食らった今川が「……はい」と答えると彼女はさすっていた足を見た。
「足をくじいたの?」
「ちょっと痛めちゃったみたいです。こんな靴履いてたから……」
ハイヒールを忌々しく摘み上げる。
「冷やしたほうがいいかもしれないわ。何かないか探してくるね」
女は親切身のある顔で微笑むとどこかへ歩いて行った。他の大人たちもそんな様子を見て立場の弱い老人や子供を気遣い始めた。寒くはないか、喉は乾いていないか、などと聞き、ジャケットや上着を貸したり、持っていた飲み物のペットボトルを回したり。今川にもお茶のペットボトルが回ってきた。それを大事そうにずっと持っていた中年の会社員の男性にお礼を言って今川は口を若干湿らせるだけ口に含んでよく味わうようにして飲んだ。おばさんが持っていたのど飴をくれる。
やはり、日本は良い国だ。こんな事態だが、自分は幸運なのだと今川は自分に言い聞かせた。
やがて女が戻ってきたが、その血相は変わっていた。その手に握られていたのは缶ジュースでよく冷えていた。
「ありがとうございます」
今川がお礼を言うと彼女は頷きながら後ろをちらちらと振り返っていた。
「どうしたんです?」
「もしかしたらここまで来たのかもしれない、奴らが」
声を潜めた女の声を聞いて今川は息を呑んだ。正体ははっきりとは分かっていないが、皆、あれはゾンビだと言っていた。ほとんどそれは共通認識だった。ゾンビがここまで生者を求めてやってきたのか。
警察官たちも慌ただしく警戒線の方へ走っていく。不安を感じ取った赤ん坊が泣きだすと周囲の大人たちもざわめき始めた。
やがて乾いた破裂音が鳴りだす。ここは危険だ。そう思ってもここは船でも来ない限りどこにも逃げられない場所だと思い出す。
「どうしよう……」
「パニックになっては駄目よ。冷静に」
そうは言われても何をすればいいのか分からない。迫ってくる恐怖と何もできない不安に今川は体が震えた。
誰か、助けに来て……
自分たちの頭上を迷彩に塗られたヘリが無情にも通り過ぎて行った。
東京湾、LCAC
ホバークラフト型エアクッション揚陸艇、通称LCACの車両甲板で笠間英作三等海尉は壁にしがみつき、89式小銃を握って降りかかる水飛沫と四基のガスタービンエンジンからの騒音と排気に耐えていた。LCACは名称の通り、ホバークラフトで推進用シュラウド付大型プロペラの力を使って四十ノット(時速七十五キロ)もの速度で進む。全通式の貨物や車両などを積み込むための車輛甲板となっており、機関は艇の左右に分けて搭載されていて、笠間はその車両甲板にいた。
笠間はノルマンディー上陸作戦の最中にいる兵士のような気分だった。ライアン上等兵を探す任務をひと仕事終わった後に任されそうだ。本来は水飛沫などから人を守るためにPTM《人員輸送用モジュール》を搭載するのだが、その暇すらなかった。事態は一刻の猶予も許さない。
笠間は背後の隊員たちを振り返る。七名の海上自衛官が笠間の背後には控えていた。全員、護衛艦付き立入検査隊の隊員で、黒に近い濃紺の戦闘服の上から防弾衣やACHを身に着け、89式小銃と9mm拳銃を持っていた。
もちろん、この災害派遣に武器使用は認められていない。だが、笠間たちの母艦である《あつみ》の艦長は乗員や民間人の生命を守るために自らの責任で武器と弾薬の携行を命じていた。
今、多目的輸送艦は最大船速で東京湾を北上している。《あつみ》は災害派遣による出動で艦載ヘリコプターなどもほとんどが動員されて都内の民間人の救出に当たっている。
「班長、こんな艇に民間人を載せるんですか」
すでにずぶ濡れになりかけた渡邉一等海曹が尋ねた。騒音に負けないように怒鳴るように声を張る。
「仕方ない。ビニールシートを自力で持ってもらって凌ぐしかないな!」
「そりゃあ大変だ」
渡邉は肩を竦める。渡邉はベテランで、すでに四十を超えているが、若々しい肉体で短艇競技ではいまだに活躍していた。その渡邉の背後にいた白石三等海曹が大事そうに私物のコヨーテブラウンの大げさな大きさのバックパックを抱えているのが目に入った。
「白石、そりゃあなんだ?」
「酒保(艦内売店)で買ったお菓子です!きっとおなかを空かせてる子供がいるだろうと思って!」
白石は若く、その性格は温厚で優しいが、残念ながら精悍で強面な女受けしない顔だちで生まれてこの方彼女がいない。
「喜んでもらえるといいな!」
渡邉に声をかけられ、白石はその強面で親しみを覚える笑みを見せた。
上空のヘリから笠間の乗り込む9号エアクッション艇に上陸地点の指示が飛ぶ。本来ならBMU――上陸誘導班が上陸地点を選定して安全に上陸できるのが望ましいが、その班を送り込んでいる余裕もなかった。
「若洲海浜公園だ、数百名の市民が孤立、取り残されている!感染者がすぐ近くまで迫っている」
笠間に向かって艇の左舷側にある見張所にいる海曹長が怒鳴った。どうやらゆっくり市民を収容している余裕もなさそうだ。渡邉や白石の表情が曇る。
「了解!」
笠間は返事をすると再び隊員たちを振り返った。
「武器使用は正当防衛、もしくは民間人の生命が危険に晒された場合に限る。だが使うなとは言わない。必要だと判断すれば自己の判断で撃ってよし」
自己の判断で撃ってよし──その言葉を強調した。全員、厳しい教育を受けて海上阻止行動を想定し、不審船などに乗り込んで立入検査を行う立入検査隊、つまるところ世界の軍で言う臨検隊員となった。自制心や判断力を笠間は信頼していた。
「間もなく着上!」
「各員、銃点検」
隊員たちが一斉に89式小銃の槓桿を引いて遊底を後退させて止めた。薬室に装弾されていないことを確認し、照準補助具などを点検する。
「総員、安全装置、弾込め」
小銃に実弾の込められた弾倉を込め、弾倉の底を叩き、しっかり込められたことを確認すると槓桿をわずかに引いてスライド止めを解除し、遊底を前進させた。
「弾込めよし!」
「全員、着上に備えろ」
笠間は喉を鳴らした。簡単な任務だ、人を載せて艦に往復すればいいのだ。笠間は何度もそう言い聞かせた。
銃声や怒号が飛び交い、人々が助けを求める中、今川は先ほどの女性とともにしっかりと立っていた。
女の顔にも不安の色が浮かんでくる。ここは見捨てられたのかもしれない。警察官だけであの化け物の群れを食い止めることができないのは今川の目からでも明らかだ。
全員、ここで死ぬ。血に飢えた化け物どもの刃にかかり、生きたまま食われる。その恐怖は周囲にも伝染していく。
「みんなここで死ぬんだ……」
誰かの呟きがその場に大きく響き渡った。
その時、その声をかき消す爆音のような騒音の塊が海岸に突進してきた。振り返るとその正体は大型のホバークラフトで艇内からサーチライトが浜に向かって浴びせられる。無線機を持った機動隊員がそれに向かって駆け寄ろうとする市民の押しとどめた。
「自衛隊だ!」
誰かが叫んだ。自分たちはまだ見捨てられたわけではなかった……!
ホバークラフトは器用にも海岸に乗り上げて上陸するとゆっくりと萎み、前部のランプウェイを開け放った。
中から降りてきた数人の人影が機動隊員に駆け寄り、何やら話し出す。その間も警察官たちは誰もホバークラフトに近づけようとしなかった。
機動隊員たちが降りてきた者たちとともにこちらに走ってきた。
「女子供、老人を優先して乗せろ!急げ!」
その声を合図に警察官たちはすぐに人々を誘導し、ホバークラフトへ向かわせた。降りてきた人影のベストの背中に書かれている文字を今川は見た。海上自衛隊だった。
「ここにいる者たちの中でけが人は!?」
「負傷者はまとめてある!感染の恐れのある人間は隔離した!急いでくれ」
警察官が声を張り上げる。銃声はもうすぐそこまで迫っていた。
「渡邉、二名連れて警察を援護しろ。他は誘導を急げ!」
指揮官らしき自衛官が声を張る。人々は急いで上陸したホバークラフトへ向かう。
「私は良いから先に若い人たちを載せてあげて」
六十代の女性が警察官に言う。老人たちが不安そうに警察官を見る。
「いけません、自力で避難できない人を優先します」
「私はどうせ長くないの。お願いよ」
老人は避難を頑なに拒んだ。他にも同じことを言いだす老人がいた。逆に中には早く艇に乗ろうとして警察官に取り押さえられるような者もいる。現場は混乱を極めた。
「すみません、この子、けがをしているんです。手を貸してください」
女が指揮官の隣で自動小銃を持った自衛官に声をかけると自衛官は目を守るためのクリアなサングラスの奥の瞳で射るように今川を見た。蛇に睨まれた蛙のように今川はすくんでしまう。
「噛まれたんですか」
「いえ、ハイヒールを履いていて足を挫いたらしくって」
それを聞くと自衛官は何も言わずに今川の肩を掴むと抱きかかえて浜に向かって走り出した。自衛官は力強く、有無を言わせなかった。乗り込む列にいた若い女子高生くらいの少女に自衛官が声をかける。
「この人に肩を貸してやってくれ」
「分かりました!」
女子高生は真剣な顔で答えると今川の脇に首を突っ込んで肩を貸してくれた。自衛官は礼を言う間もなく、元の場所に戻ってしまう。
上空を飛ぶヘリが戻ってきた。迷彩色ではなく、水色とオレンジの警察のヘリだった。ライトで地上を照らしている。
今川を運んでくれた女子高生の隣に今川は座る。艇は思ったより大きく百名以上を収容できた。
「発進すると排気や水飛沫が降りかかります!今からは渡すビニールシートを皆さんで支えて屋根にしてください」
自衛官がダークグレーのビニールシートを渡す。皆、文句も言わずに指示に従った。
追いつめられている。笠間はそう感じた。無理やり詰めても二百五十人から二百八十人ほどしかLCAC一隻には載せられない。だが、ここには六百名以上の民間人がいた。
迫ってくるゾンビの姿に初めは恐怖したが、震えている暇も戸惑っている暇もなかった。建物の間を縫って突進してくるゾンビに向かって警察官たちが拳銃や短機関銃を撃つ。しかし弾薬は乏しく、ポリカーボネイトの盾と警棒を使って戦っている機動隊員もいる。
89式小銃を構えて警察官に襲い掛かるゾンビを撃つ。動く目標を撃つ訓練など雀の涙ほどしか経験していない。頭を狙うどころか当てるのが至難の業だ。人間やればできるもんだ。笠間は撃ちながらそう思った。渡邉と二名の隊員も警察の後退を援護していた。下がる一方でゾンビたちはどんどんこちらに迫っている。
艇から先ほどの海曹長がもうこれ以上載せることはできないため、一度離脱するとの無線連絡が入った。答える間も惜しく、ジッパーコマンドで応答すると浜に上陸していたLCACがプロペラを逆回転して海に戻っていく。
まだ残された市民たちが悲鳴を上げ、泣き叫んでいた。
「このままじゃマズイ」
渡邉が呟く。銃声が鳴れば鳴るほどゾンビが集まってきている気がする。上空を飛ぶヘリの一機が高度を下げ、その騒音でゾンビを引き付けようと試みていた。警察のヘリだ。
《あつみ》やその他の護衛艦、海上保安庁の巡視船などから向かってきた内火艇やRHIBなども続々と到着するが、それらが収容できる人数など限られている。めいっぱい載せてそれらは離れていった。それらは接舷できない海上保安庁の巡視船や徴用された漁船に人々を載せて戻ってくる。だが、そのピストン輸送は時間がかかり、とても残りの人数を脱出させるには間に合いそうになかった。
警察官に犠牲者が出た。最前線で盾と警棒で戦っていた機動隊員が組み伏せられ、ゾンビの大群の中に飲み込まれた。断末魔の悲鳴を聞きながらも隊員たちは撃ち続けた。
二隻目のLCACが向かってきた。先ほどのLCACではなく、《あつみ》が抱える三隻のLCACのうちの一隻だ。
あれが上陸できればここにいる民間人は収容できるだろう。市民たちは新たに見えたその希望にすがっていた。
その脱出を許さないようにゾンビたちが次々に押し寄せる。防衛線を突破したゾンビが無防備な市民を追って走る。
「防衛線を突破された、あいつを撃て!」
誰かが叫ぶが、市民と射線が重なり、撃てない。逃げ遅れた老人がゾンビに襲い掛かられた。
「くそ!」
白石が駆け出し、ゾンビを撃つ。撃たれて振り返ったゾンビの頭を白石は吹き飛ばし、老人を助け出すが、その老婆は首を噛み切られて虫の息だった。
「ヤバいぞ、ゾンビが!」
別の警戒線を突破したゾンビたちが市民に襲い掛かろうとしていた。
「こっちだ、化け物ども!」
一人の機動隊員がMP5A5を連射してゾンビを数体、地面に転がすが、ゾンビたちは一心不乱に市民を目指す。何体かが機動隊員にも襲いかかってきた。機動隊員に向かってきたゾンビを渡邉一曹とともに隊員たちが撃ち倒す。襲われた市民がそこらへんにあった資材で抵抗していた。警察官が警棒を持ってゾンビを殴り倒し、盾で滅多打ちにしている。
あちこちでそんな光景が広がっていた。
新たに上陸したLCACに市民たちが統制を失って駆け込んでいく。降りてきた自衛官たちは感染者を近寄せまいと小銃を構えて時折発砲していた。
「後退しろ!ホバークラフトへ急げ!」
警察官たちも防衛線を引いて離脱を始める。笠間たちは殿を務めて撃ち続けた。バリケードを簡単に突破したゾンビが向かってくる。
「おばあさん!しっかり!」
白石がうずくまる老人に声をかけていた。老人のそばにはその家族だろう、まだ小学生ほどの少年が泣きじゃくっていた。
「どうした!?」
「ショックで発作を!」
そう声を上げた白石にゾンビが飛びかかった。白石はとっさに少年を庇って伏せる。白石に噛みつこうとするゾンビの首根っこを掴んで地面に引きずり倒すとその頭に銃床を何度か叩き付けて頭蓋骨を砕いた。
血のべっとりついた89式小銃を肩付けして新たに迫るゾンビを撃つ。
「噛まれたか!?」
「だ、大丈夫です」
「艇に戻れ!走れ!」
白石は動揺していたが、老人を背負い、少年の手を取るとホバークラフトへ走った。笠間は振り返って89式小銃を撃つ。警戒線を突破して集まったゾンビの群れが必死の形相で逃げる若い警察官の後を全力疾走で追いかけている。
発砲したが、数発撃ったところで槓桿が後退して止まった。弾切れだ。もう弾倉に残りはなかった。
笠間に突進してきたゾンビを89式小銃で殴り飛ばし、笠間も背を向けて逃げ出す。追いつかれた警察官が組み伏せられ、ゾンビに襲われる。絶叫が上がり、ゾンビがそれに群がっている間に、笠間はそれを囮にするかのように逃げ出した。
――すまん。
心の中で何度も浴びたが、彼の断末魔の声が耳から離れなかった。LCACはすでにエアクッションを膨らませ始めていて警察官たちを収容している最中だった。
「早く!班長、早く!」
すでに艇内に乗り込んだ仲間が小銃を撃ちながら叫んでいる。中には弾が尽き、拳銃を撃っている者もいた。
艇のそばでは若い女が避難誘導を手伝っていた。少年をその女に任せて白石が老人を背負ってLCACの車両甲板へ登っている。
「最後ですか!?」
「そうだ、君も早く乗れ!」
「あなたが先に!」
そんなことを言う女の襟を掴むと無理やりにLCACへ押しやる。女は時間がないため、それ以上抵抗せずに急いで少年を連れて登り始めた。そのわずかな間に至近距離までゾンビは迫っていた。全力疾走してきたゾンビに銃口打撃して地面に倒すと銃床を首に叩き込んで頸椎をへし折った。
「急いで」
子供は泣きじゃくりながらも女とともにLCACへ登ろうとする。それを支える女に横から突進してきたゾンビが襲い掛かった。
「危ない!」
笠間はとっさに女を庇ってゾンビにタックルして押し倒すが、不意に左腕の上腕に激痛が走った。若い男のゾンビが自分の腕に食らいついている。絶望的な激痛に頭の芯が沸騰した。
「あなた!」
砂浜に転がった女が声を上げる。笠間は食らいついたゾンビを蹴り飛ばして跳ね上げると再び素早い動きで襲い掛かってきたそのゾンビの顎を押さえる。
「早く登れ!早く!」
その笠間の必死な形相を見て女は慌ててLCACへ登る。サファリランドのレッグホルスターから抜いた9mm拳銃を自分に襲い掛かるゾンビの頭に押し付けて撃つ。血が顔に飛び散るが構わず次々に襲い掛かってくるゾンビたちに撃つ。装弾数は九発、残弾をカウントしながら撃つが、その手が震えた。噛み切られた左腕の上腕から夥しい血が流れているのを横目で見てしまい、笠間は顔をしかめる。
『班長……!』
「噛まれた、俺はもう駄目だ、行け!」
トランシーバーに入った渡邉の悲痛な声に怒鳴り返す。
LCACは笠間の収容を諦め、撤退にかかった。海浜公園には今やゾンビが溢れ、こちらに全力で向かってくる。
「くそ、俺もゾンビかよ……」
残り一発になった時、笠間は抵抗をやめた。このまま食い殺されて連中の仲間入りは御免だった。
自分は使命を果たせたのだろうか。一人でも多くの国民を守ることができたのだろうか。まだしなくてはならないことはいくらでもあったのに……。
笠間は悔しさと痛みで歯を食いしばりながら拳銃を握りなおす。
『いつでも撃てます』
渡邉の声を聞いて笠間は迷った。上から渡邉が狙っているのだろう。だが、部下に自分を介錯した責任を背負ってもらいたくなかった。LCACがエンジンを逆回転させて後退を開始した。風圧で迫ってきたゾンビが吹き飛ばされ、浜を転がる。
「部下を頼む」
それだけ言い残し、笠間は自分の頭に拳銃を向けると引き金を引いた。