死の足音
永田町、総理大臣官邸
深夜にも関わらず総理大臣官邸には続々と閣僚たちが集まっていた。一様にその顔は険しく、不機嫌そのものだ。彼らは首相官邸に設置された国家安全保障会議室の席についていく。
国家安全保障会議とは国家の安全保障に関する重要事項・重大緊急事態への対処を審議する目的で内閣に置かれ、首相の政策決定や政治的判断をサポートする。総理大臣、官房長官、外務大臣、防衛大臣が柱となり、副総理、総務大臣、財務大臣、経産大臣、国交大臣、国家公安委員長が主たるメンバーだ。
今回は緊急事態大臣会合として召集され、大臣以外に統合幕僚長ら制服組自衛官も関係者として参加している。
国家安全保障会議のメンバー全員が揃うと部屋の照明が落とされた。内閣官房の審議官が立ち上がる。
「それでは、現在までに分かっている内容及び経緯をご説明いたします」
当該船舶から発せられた救難信号を元に海上保安庁が出動し、立入検査を実施中に起きた事件。韓国機関からの協力は得られず、やむを得ず自衛隊を動員し、極秘裏に事件を片付けるべくして行われた作戦の結末。そして現在までに分かった調査結果だ。
突入した隊員たちを襲ったのは調査の結果、すでに死亡した者たちだった。そして機関室で発見され、まだ動いていた海上保安官もすでに死亡しており、現在、感染防止策を講じたうえで国立感染症研究所へ運び込んで調査を行っているとのことだ。
船内に突入した自衛隊、海上保安庁の隊員たちは感染の恐れがあるために隔離され、中央特殊武器防護隊が船内の調査及び消毒を実施している。
そこまで説明したところで驚きの声が上がった。
「つまり何か?死んでいたはずの“死体”が隊員たちに襲い掛かってきたというのか?」
官房長官のぶっきらぼうな声に審議官は固い表情で頷いた。
「にわかに信じがたいと思いますが、事実です。またその“動く死体”一体を確保、現在感染防止を行った上で調査中です」
話を聞くだけでは現実とは思えなかった。資料映像がプロジェクターで映し出される。
船内らしき暗い部屋で銃を持った自衛官たちが一人の男を囲んでいる。下半身が失われ、腸が飛び出した紺色の制服の男が手を使って床を這おうとしているが、首を刺股で押さえつけられている。
「う……」
その凄惨な光景に思わず何人かが顔を背けた。海上保安官だった男はカメラに向かって憎悪の形相で歯を剥き出しにしている。
「これが確保された遺体です。他は自衛隊が制圧、無力化しました」
「なぜ動ける?ウィルスなのか?」
「具体的には分かっていませんが、その可能性が高いと思われます。現在、例の新型狂犬病との関連性を調査中ですが、新型狂犬病の正体である可能性は大です。米国のCDCがすでに調査チームを日本へ派遣。WHOの衛生当局も日本へ調査チームを派遣するそうです」
「韓国国内でこのウィルスが広まっている?」
「ソウル市内での暴動を見る限りではそうだと思われます」
ソウルを中心に韓国各地で起きている暴動がこの感染症によるものだとしたら。宮津にとっては悪夢でしかない。
「深刻な問題ですな。この事態を伏せておくことはもはや不可能です。遅かれ早かれ国会への報告が必要となります。対応を誤れば野党からの批難や追及は必至です。これは揉めますね」
宮津は田原経済産業大臣の言葉にこめかみをぴくりと動かした。この男にとっての懸案は人命ではなく国会対応らしい。
「各野党については事前に国対委員長の方から──」
「いま議論すべきことは国会対応か?日本存亡の危機が迫っているんだぞ」
宮津は腰を上げて同席している崎島厚生労働大臣を見た。
「感染がもし発生した場合の対応としては感染地域の隔離・封鎖だったな?現在判明している事項を加えた対応策を直ちに行ってもらいたい」
「はい、ですが、現状としては感染症法で対応し、各都道府県の──」
「政府が主体となって対応する。この対応を誤れば感染拡大を防ぐことはできない。関係機関には周知させておく必要がある」
宮津が語る中で折口統合幕僚長がもの言いたげにこちらを見ていた。宮津が発言を促す。
「自衛隊は現在、防災派遣態勢を維持・強化していますが、この感染症が国内で広がった際の対応を考えればこれでは不十分です」
「その話はもうすでに済んでいます。残念ながら事が起こる前に自衛隊がそれ以上の対応を取ることは許されません」
井崎が折口の言葉を遮って言った。
「現在、訓練の名目で弾薬などを移送中です。事後承諾になりますが、それらの“訓練”を追認していただきたい」
「なんですって?」
井崎にとっては寝耳に水だったようだ。
「それは訓練だ。自衛隊の隊務・運用は防衛省に任せる。我々はそれを周知している、それでいいかね」
折口は頷いた。だが、心の底ではまだ不満だろう。
「発覚すれば野党から突き上げられますよ」
井崎が宮津を信じられないものでも見るかのような顔で見つめる。
「今は政局を気にしている場合ではない。危機が迫ってるんだ」
宮津はそうした意味の言葉を何度も繰り返していたが、その内心では胃の痛みが増していた。この危機を果たして乗り越えられるだろうか、というものではなく、自分の政治家人生を考えての痛みであることを腹立たしく思った。
東京、池袋
東京消防庁の救急隊員である春川は通報のあった現場に到着し、息を飲んだ。繁華街からは少し離れた裏通りに大勢の人だかりができており、それをかけ分けていくと、そこには血だまりの中に倒れる背広姿の男の姿があった。先に現場についた警察官がその男性の傷口をタオルなどで押えて止血しようとしている。男の顔からは血の気が引き、意識はない。
男に傷を追わせた容疑者は逃走したらしく、警官たちは物々しい雰囲気のまま無線でやり取りしている。
救急車を春川が誘導する間に隊長と機関員が患者に応急処置を実施し、春川は直ちにストレッチャーを運び込んだ。
「患者は左肩の外傷より大量出血。ショック状態。ロード&ゴーを実施する」
ロード&ゴーの宣言はとにかく生命に関わる外傷などの観察・処置のみを行い、ほかの観察・処置はすべて省略し、五分以内に現場の出発を目指すということだ。
直ちに救急車に患者を収容すると受け入れ先を探す。近くの病院が幸い受け入れ可能だとの回答を受け、救急車はサイレンを鳴らしながら直ちに病院へ急行する。春川は男の様態をチェックし続けていた。バイタルサインは次第に弱くなる一方だった。ショック状態で体温が下がったために電気毛布を用意して被せる。春川にとっては初めて対応する重傷患者だった。
「血圧は65の43、脈拍微弱!瞳孔左右反応ありますが、鈍いです」
「くそ、急いでくれ……」
受け入れ先の病院に救急隊長が電話で報告を続ける。瀕死の重傷を負った患者の傷口に当てられた滅菌ガーゼはすぐにあふれ出た血によって染まっていく。
──神様、神様がいるなら、どうかこの人を救ってください。
春川は祈るような気持ちだったが、この男に待っていた運命は春川が想像するよりも悲惨なものとなることは誰も知る由もなかった。
滝ヶ原駐屯地
休日だというのに若い隊員たちは外出できず、体力錬成で駐屯地内を走るか筋力トレーニングに勤しんでいる。
那智はというと会議室として普段は使われている隊舎内の教場を解放し、部下たちとともに武器整備を行う準備をしていた。
古森とともに武器庫から自分の銃を出す。すべての銃が頑丈な武器庫の中でさらに施錠された銃掛に収めてある。
那智は管理番号が銃床に書かれた自分の89式小銃と9mm拳銃をその中から出した。
89式小銃は文字通り1989年に自衛隊に制式採用された、北大西洋条約機構規格の5.56mm弾を使用する自動小銃で、7.62mm弾を使用する64式小銃の後継として現在の陸上自衛隊の主力小銃となっている。
有事の際に米軍と共同作戦を取るために米軍が採用するM16系統の小火器と弾薬、弾倉は共有できる。ガスピストン方式で動作の信頼性や射撃精度は高く、高性能だ。実戦経験はないが、少なくとも自衛官たちからはある程度の信頼は得ている。
安全装置をかけ、武器庫から教場へ移動した那智はそれを並べる。
「全員、出したか?」
星井三曹が顔を出して聞いた。
「はい、津田で最後です」
集まったのは八名で、那智や古森の所属する小隊の隊員が主だった。
「一時間程度を目安でやろう。じゃあ始めようか」
早速那智たちは銃の分解を始めた。
64式小銃は工具を使って分解しなくてはならないが、89式はほぼ手だけで分解・結合が可能だ。部品数も少ない。
「照準具付けっぱなしのやつは電池とかも点検しとけよ」
古森が声をかけた。小銃に取り付けられている照準補助具は照準を銃と合わせる零点規制が行われており、最近はいちいち外さずに格納されていた。
「那智班長のやつはいいですね、アコグでしたっけ?」
樫原が那智の89式小銃のマウントベースに装備された先進型戦闘光学照準器を見て聞いた。
「まあ、そうも言うけどエイコッグが正しい」
那智の銃に取り付けられているACOGはTA31 M150 RCOという米軍で採用されている4倍率の光学照準器だ。官給品ではなく、那智がひと月分の給料をはたいて購入した私物で、外付けの採光用の光ファイバーによってサイト内のレティクルを照らし、光の無い場所では内蔵したトリチウムが発光する上、近接戦闘用にACOGの上部には無倍率のRMRドットサイトが備わった優れものだ。私物でも米軍が採用する本物のため、いわゆるミルスペックと呼ばれる軍用規格を満たしており、使用を許可されている。
「いいですね、それ。電池いらずで」
「高いぞ。陸曹になれたら買うんだな」
那智はせいぜい見せびらかすと分解を続ける。
那智は他にも自分の小銃にAFGやマグウェルなどを装備していた。
被筒部下部に装備したレールマウントを介して取り付けたAFGは射撃時の保持をサポートしてくれるアタッチメントだ。即座に銃を構えるときなどにも使える。マグウェルとは弾倉を込める部分に取り付けるパーツで、弾倉交換をよりスムーズにするために取り付けていた。今は取り外しているが、銃口付近にフラッシュライトをつければ那智が普段訓練で使っている状態になる。
「結構、ガス溜まってるなぁ……」
空包射撃といえど発射ガスは銃内部を汚す。激しい訓練の後は特に銃内部は激しく汚れていた。那智が持っていた整備用のブラシはたちまち真っ黒になる。
「結構撃ったもんな」
古森は拳銃から分解整備をしている。
陸上自衛隊で採用されている9mm拳銃はSIG SAUER社のP220自動拳銃のライセンス生産品だ。装弾数が9発と軍用には中途半端だが、日本人の手に合う大きさだということだけは評価されている。今までは無反動砲手や戦車乗員、幹部くらいにしか拳銃は行き渡っていなかったが、MOUTやCQBが重要視されていくにつれ、普通科部隊には普及しており、普通科教導連隊でも陸曹以上の隊員が持つほどの数が配備されていた。
「テレビつけてもいいですか?」しばらく黙々と作業を続けていると樫原が尋ねた。
「しょうがねぇな」
そう言いつつ、古森は教場にあるテレビをつけた。チャンネルを回して早々、軍隊かと疑うような装備の中国公安部の人民武装警察たちの姿が映った。
『香港で今日未明、暴動が発生したと新華社通信が伝えました。新華社通信によると香港で今日未明発生した暴動は激化し、中国治安当局は装甲車などを投入して鎮圧に当たっています。暴徒化した市民は公安局庁舎や病院などを襲撃し、現在までに一千名を超える死傷者が出ています』
武装警察の装甲車が香港の市街地に向かって走っていくシーンや武装警察が発砲するシーンなどが流れ、皆、それにくぎ付けとなる。
「新彊ウィグルでのテロに続いてこれか。中国もいよいよ混沌としてきた」
古森が呟いた。
「他人事じゃない。次に起きるのはガス抜きの反日キャンペーンだ。今度は漁船が衝突してくるだけじゃ済まなくなる」
「もうそのガス抜きも限界だろ。――お、あれは95式だな」
武装警察の持つ武器に古森は興味津々だった。
呑気な……と那智は呆れつつも目を細めてニュースを注視する。中国での暴動の影響でさらに景気は悪化し、株価の低迷、原油価格の高騰など、市場には大きな影響が出ているらしい。
『群馬県の陸上自衛隊相馬原駐屯地に所属するオスプレイ四機が、事前告知なしで移動したことに関し、相馬原駐屯地前で今日午前、抗議集会が行われました。主催者側の発表によりますと市民ら五百人余りが参加、ビラを配るなどし、自衛隊及び政府への抗議活動を行ったとのことです。防衛省は相馬原飛行場に配備されている八機及び佐賀飛行場に配備されている二十機のオスプレイを同時に運用した訓練の実施を計画し、その準備を行っていると今朝、会見を行いました。木更津駐屯地でも同じく抗議集会が予定されており──』
「あんな田舎の駐屯地によく五百人も集まったな」
那智は苦笑した。相馬原駐屯地は群馬県の中でも榛名山嶺の山側にある空中機動旅団と呼ばれる第12旅団の司令部がある駐屯地だ。元々管轄地域に山岳地帯が多いため、第12旅団は師団から旅団への改編に伴って戦車大隊を廃止し、ヘリを使った空中機動を重視していたが、肝心のヘリの数が足りておらず、調達が開始されたオスプレイを取得し、その空中機動力を底上げして近代化している。
元々群馬県は沖縄負担軽減のための在日米軍のオスプレイを使用した訓練も受け入れる方針だったため、すんなりと自衛隊のオスプレイも配備されたのだが、それに対する批判は凄まじいもので、配備が開始されてから数年立つが、未だに抗議行動は盛んだ。
「春くらいの山林火災でやっぱり相馬原のヘリ隊が朝から出動しただろ、それにも抗議とか非難が殺到したらしいぞ。やっぱり目の敵にしてる人たちからしたら何やってても変わらないんだろうな」
古森は呆れ顔で語った。都道府県などの自治体の要請で出動しても抗議の矢面に立つことになるのは自衛隊だ。
「凄い嫌われようですねぇ……」
「震災の後はだいぶ評価も上がったんですけどねぇ」
陸士たちも思わず呟く。
「まあ、俺は嫌われ者でいいと思うぞ、自衛隊なんて。どんな手段を尽くしてでも国と人を守れれば良いんだからな。富士で訓練してて批判もあるけど、必要なことをはしっかりやるべきだ」
抗議団体から抗議があっても必要な訓練は行うべきだと那智は断じた。今は喫緊する課題が蓄積している。世情は不安定で、いつ自衛隊に出動の命令がかかるか分からないのだ。集団的自衛権容認のために在外邦人救出時の他国軍との連携はスムーズになり、法整備も進んでいるが、シビリアンコントロールによって縛られる自衛隊は常に厳しい状況に置かれ、その環境の中で最善を尽くすことが求められる。たとえ危険な目にあっても法は遵守しなくてはならず、その中で任務を遂行するためには高い練度が必要だ。
撃たれるまで撃つな。そんな交戦規則で派遣されたイラク復興支援において陸上自衛隊はその交戦規則を遵守するために、まず撃たれない環境を整備した。
自衛隊の宿営地は天幕の並びから車両の駐車まですべて一センチ一ミリという細かい単位で行われ、他国軍とは比較にならない厳しい規律を求めてその鉄壁の練度を見せつけることによって敵の攻撃する意思を挫いた。
自衛隊は政府の方針・命令に従い、成すべきことを成すだけだ。平時からしっかりと訓練ができないようではそれこそ本当に有事に対応できる姿を失う。そのことに那智は危機感を持っていた。
資料映像で流れるオスプレイは佐賀に配備されている水陸機動団を運ぶMV-22J輸送機だった。奄美での水陸機動団による訓練の様子で低空飛行を行うオスプレイの映像を集中して流すあたり、不安を煽っている作意があるようにも思えて顔をしかめた。専門家も暗に二十四機ものオスプレイを同時に運用した訓練には疑問を呈している。
ニュースは天気予報へと変わり、気象予報士が天気図を背景に語り出す。
『大気の状態が不安定になっており、九州地方では明日から雷を伴った大雨になる恐れがあります。週間天気予報は……』
対馬沖合
第七管区海上保安本部に所属する巡視船《あそ》は対馬の北、東シナ海から日本海へ抜ける西水道にいた。
天気予報通り九州地方の天候は悪く、海は大荒れだった。それでも警備体制の強化に伴い、《あそ》は西水道にとどまり、監視を続けていた。
最近、韓国船籍による不法な領海への侵入が相次いでいた。海上保安庁や水産庁の取締船を見ると一目散に逃げていくが、違法操業などではなく、どうやら不法入国を狙っているらしい。
──厄介だな……
《あそ》船長である飯山は額に浮かんだ汗を拭いながら心のうちで呟いた。波に煽られ、船体は激しく揺さぶられている。日本海の荒波にも耐えられるように設計された《あそ》だが、今日は台風並みに天候が悪く、船首は次々に波を被った。
「該船、なおも領海に接近!」
水上レーダーを監視するレーダー員が叫ぶ。
「ガードチャンネルで呼びかけろ」
「了解……!」
該船はレーダーの反応から見て漁船クラス。真っ直ぐプサンから対馬を目指して向かってきている。
「相手も無茶だな」
「この天気の中、無謀ですね」
副長も賛同する。舳先が荒波を切り裂き、船体がバウンドした。乗員たちも思わず顔を引きつらせる。
「見えました!」
見張り員が叫ぶ。やはり漁船だ。荒波に揉まれ、激しく動揺しながら進んでいる。
「警告しろ!」
飯山が怒鳴り、汽笛が鳴らされる。該船はそれに気付いたようだったが、それでもなおこちらに向かって来ようとしている。
「該船の甲板に……人が!」
見張り員が叫ぶ。
「人!?」
「大勢乗ってます!」
飯山も首から下げていた双眼鏡で確認する。漁船の甲板には人が溢れていた。皆、ポンチョやカッパを着て身を寄せ合っている。
「なんだ、あれは……?」
副長が思わず素で呟いた。あれだけひしめくように乗り込んでいても救命胴衣を着ているのはほんの数人だ。
「あれはただ事じゃないぞ……」
飯山がそう呟いたときだった。横からの大波がその漁船を襲った。波を受けた漁船の甲板で人の山が崩れる。何人かが落水したのが見えた。
「マズイ!」
「人が海に落ちた!」
副長と見張り員が相次いで叫んだ。
「機関全速!救難隊に連絡しろ!落水者の救出、急げ!」
《あそ》が速力を上げ、慣性によって船橋にいた乗員たちは揺さぶられる。汽笛とサーチライトを点灯させて落水者を探す。漁船はさらに襲ってきた波に呑まれ、傾きだした。船内に浸水したのだろう。甲板はパニックになっていた。落水した人を助けようとする人間や傾いた漁船の少しでも高い位置に登ろうとする人間が揉めている。その間に漁船の姿はどんどん小さくなっていった。
「最悪だ……!」
飯山は呻きながら第七管区海上保安本部に自ら状況を伝え、救難要請を行うため、無線機の送受話器を取った。
福岡市内
ホームレスが公園で暴れているとの通報を受け、福岡県警自動車警ら隊に所属する長峰巡査部長はパトカーを走らせていた。最近、福岡市やその他近隣で異常な殺人事件が相次いでいた。警備態勢強化が命ぜられ、福岡空港には特殊強襲部隊が常時張り付くような事態になっている。
同僚の高山巡査が緊張した表情で周囲の車に道を開けるよう促していた。市内ではほかにも救急車や警察車両がサイレンを鳴らして走っており、いつになく緊迫した空気が漂っている。
通報のあった公園の駐車場にパトカーを止めた長峰は無線で報告を入れる時間も惜しみながらパトカーを降りると高山とともに現場に急ぐ。
「どこだ……?」
通報にあった場所に駆けつけてみるが、そこには通報者はおろか被疑者や被害者の姿はなかった。
「……いたずらでしょうか?」
ライトで周囲を照らす高山が不安そうに聞いた。
「……見るけん、血じゃ」
人がもつれ合ったような足跡が確かにあり、血痕があった。高山が息を呑む。足跡の先を長峰はライトで照らしていく。血痕もその足跡に続いていてその先の公衆トイレの方へ伸びていた。ライトをその先へと照らしていくとぼろきれのような服をまとった人間の背中が映った。
「そこのあなた!」
長峰が呼びかけるとライトで照らされた主はゆっくりと振り返った。
「少しお話を──」
長峰が事情聴取するためにそう話しかけたその時、ライトに照らされた主が突然突進してきた。面を食らった長峰が警棒を抜こうとするが、男は隣にいた高山にぶつかって行った。
「うわああっ!」
高山が情けない声を上げて地面に押し倒される。
「っく!」
慌てて長峰は男を高山から引き離しにかかった。しかし異常な力で男は暴れ、高山に襲い掛かっている。
「暴れるな!」
長峰は怒鳴りながら逮捕術でかなり強引に地面に押し付けながら後ろ手に手錠をかける。男はそれでもなお敵意を剥き出しにして噛みつこうとしてくる。
「公務執行妨害で現行犯逮捕する!……おい、高山、大丈夫か?」
「痛ぇええ……噛まれました、痛い……」
高山は顔をしかめ、手を押さえている。右の掌が真っ赤に染まっている。
「くそ、ヤク中か……?」
奇声を上げながら暴れる男を押さえているとようやく応援の警察官が到着した。
「どうした、大丈夫か?」
「高山が男に襲われてけがを。男は言葉が通じません。噛みつこうとしてくるので注意を」
「うわ、手に負えないな、これは」
「薬物検査をしよう」
到着した二人は長峰よりもベテランの巡査部長だった。長峰に代わって男を押さえる。長峰はパトカーから持ってきた救急品袋を取り出し、高山の手当てをした。
「消毒するで。人の口の中はバイ菌がいっぱいやからな」
「うう、マジで痛いです」
消毒液をかけると高山は悲鳴を上げた。消毒液で血を洗い流すと歯型どころではなく、肉が深くえぐられている。
「病院に行かないとヤバいなぁ」
「ええ……縫うようですか?」
「多分な、こりゃ酷い」
「最悪や……」
泣きそうな高山の肩を長峰は叩いた。他にも警察官たちが続々と集まってくる。
「この男が被疑者か?」
「分かりません。この男が被疑者なら通報者と被害者を探さないと。足跡と血痕が」長峰は男を取り押さえた経緯を説明した。
「とにかく長峰は高山を病院に連れて行け。あとは任せろ」
「了解です」
長峰は敬礼すると急いで高山をパトカーへと連れて行った。最寄りの病院を備え付けのカーナビで探すと目的地に設定する。
「気分はどうや?」
「最悪です、痛くて死にそうですよ」
「待ってろ。すぐナースさんとこ連れてってやるからな」
そう言いながら長峰はパトカーを発進させた。
「美人のナースがいるとこでお願いします」
高山は脂汗をかきながら苦笑交じりに答えた。