幽霊船
東シナ海
『間もなくです』
CH-47JAチヌーク輸送ヘリの機内でうたた寝していた霧島鋭一は耳元に響いたその声で顔を上げた。
機内では同じように頭を傾けた男たちがシートに座っている。隊員たちはパイロットの声で意識を覚醒させていたが、まだ動かなかった。風防越しに外を見ると暗く、天気の悪い海に浮かぶ一隻の艦が見えてきた。
うらが型掃海母艦《ぶんご》だ。うらが型は機雷戦担当艦だが、掃海ヘリコプターの運用能力と機雷敷設能力に重点を置き、個艦での対機雷戦能力は備えていない。しかし基準排水量五千七百トンと大型で、大型ヘリコプターが着艦可能な飛行甲板を後部に有していた。
チヌークは《ぶんご》と交信し、すぐに着艦態勢に移る。
ただしチヌークはタンデムローターという構造上、機首側のローター回転半径内が危険域になるので機首を艦と同じ方向に向けずに尻を向けて降りなくてはならない。後ろは物理的に見えないので機上整備員による指示でパイロットは機体を操り、飛行甲板に降りなくてはならなかった。
チヌークは陸自のヘリだが、それを操る第1ヘリコプター団、第102飛行隊のパイロットは難なくこなす。第102飛行隊は特殊作戦群専用のヘリ部隊だ。この飛行隊のマークは特殊作戦徽章をモチーフにしていてほかの飛行隊では行わないような訓練を行っている。そして当然ながらそのチヌークに乗り込んでいる霧島たちは特殊作戦群の隊員だった。
特殊作戦群は陸上自衛隊の特殊作戦専門部隊だ。その任務は対テロなどの不正規戦といわれているが、徹底した作戦機密保持が行われ、情報はほとんど公開されておらず、一般人はおろか自衛官ですらどのようなことをしているのか、またその存在についても詳しくは知らない。
特殊作戦群は唯一、自衛隊内で卓越したミリタリーの技能と知識を使う事の出来る政治的作戦部隊である。単に戦術的に事態に対処するのではなく、政治の求めに応じて“情勢”に対応して無理難題とも思える任務を遂行する柔軟な運用思想によって設立された戦略部隊だ。
霧島は着艦するまでに自分の荷物を持ち、機上整備員の合図と同時に後部のランプウェイからヘリを降りると、目の前に広がったシャッターの開いた上部構造物の格納庫へと向かう。
三十六名の隊員が降りるとチヌークはそのまま飛び立ち、もう一機、随伴したUH-60JAブラックホーク多用途ヘリが着艦する。
格納庫ではホワイトボードが並び、机が設置されて通信機やラップトップなどが拡げられ、仮設の作戦指揮所となっていた。
艦内にいた海上自衛官たちがやってきた霧島たちを緊張した面持ちで見つめていた。霧島は武器の収まるケースや背嚢を床に置くとそこで指揮を執っていた海自の幹部の元へ向かって姿勢を正す。
壮年の、それでいて一般人にはない威厳のある強面の一等海佐が振り返った。
「Sの霧島一尉です。これより現場の指揮を執ります」
特殊作戦群はSpecial Force Group──SFGpと略され、自衛隊内ではただ単にSや特戦などと称される。特殊作戦群の士官はたとえこの現場にいる最高責任者の階級が上だったとしても、その指揮を引き継ぐことができる権限を持つだけの能力を有する。
「本艦艦長の館石一佐だ。霧島一尉、よろしく頼む」
「はい」
霧島ははっきりと答えると「現状は?」と短く尋ねた。
「SBUの羽住一尉、こちらはSSTの影山二正」
羽住一尉は背が高く、水泳選手のようなアスリート体系で、精悍な顔つきをしているが、まだ青さの残る若さだ。黒に近い濃紺の戦闘服とボディアーマーなどに身を包んだ完全武装で、レッグホルスターには弾倉が装填されたH&K社製の自動拳銃、USPが収まっている。
影山二等海上保安正は指揮官らしく、似たような濃紺のBDUを着てSSTのキャップを被り、シューティンググラスをかけている。細面だが、目つきは鋭く、周囲を睨みつけている。
SBUとは海上自衛隊で創設された自衛隊初の特殊部隊で、海上警備行動時における不審船の武装解除及び無力化を主任務とする特別警備隊だ。そしてSSTとは海上保安庁の海上テロ事案、シージャック事案(船舶に対するハイジャック)、海上犯罪、爆発物処理などの特殊警備事案に対処する特殊部隊、特殊警備隊。両方とも略すと特警隊だが、海上保安庁では特警隊というと海上保安庁の機動隊である特別警備隊を示す。
「状況は?」
「救難信号を出して漂流していた該船ですが、五時間前に海保の特別警備隊の保安官が乗船して立入検査を実施したところ、何者かの襲撃を受け、乗船した四名全員との連絡が途絶えています」
影山二等海上保安正が答えた。時間の経過はすでにホワイトボードに張り出されていた。
「該船は韓国船籍の貨物船|《ヒョンヨン号》、韓国海洋警察に問い合わせたところ、無届けで出港したようです」
霧島は頷く。
「《ヒョンヨン号》の詳細は把握している。四名はどのような装備で臨検を?」
「全員、拳銃、警棒で武装。防弾ヘルメット、ボディアーマーなども着装しています。乗船は複合艇で接近後、梯子をかけて乗り込み、船橋構造物内部からブリッジへ前進中に連絡を絶ちました」
影山が無線を録音した内容を再生する。
途切れ途切れでプレストークボタンを押しているのか、ざくざくと雑音が入る。黙って聞いているとどうやら走っているようで足音が聞こえ、荒い息遣いが聞こえる。ガツンという音が聞こえて突然、音が鮮明になる。
『新村は!?』
ようやく声が聞こえた。切羽詰った、焦りが窺える声だ。
『どうした?何があった、状況を報告しろ』
こちらは海上保安庁の巡視船側からの呼びかけだ。無線はそれには応答しなかった。
『見えないぞ、どこにいる!?』
声は遠のいていた。突然、乾いた破裂音が響く。銃声だ。一回、二回、三回。眉間に皺を寄せて耳を寄せたとき、銃声さえ遮るような絶叫が響いた。
『あ……わあぁああああああ──ッ!』
激しい足音が聞こえ、得体のしれない呻き声とそれに続く悲鳴。無線機に再び激しい音が聞こえると無線は途絶えた。
「……今のは」
霧島の副官である進藤誠司二尉が険しい顔で呟いた。
「分かりません。今のところ、該船は静かです。巡視船を周囲に展開させていますが、動きはなく、船橋にも人影はなし」
「船内で何があったのか突き止めなくてはならない」
霧島はすぐさま作戦を組み立てた。
「我々とSBUで作戦は実施する。SSTは可能な限り、これをバックアップしてもらいたい」
「本来なら我々の任務ですが……」
影山は不満そうだった。同じ海上保安官が攻撃されたのだ。彼らを助けてやりたいはずだ。
「そうは言っても政府の決定だ。気持ちは分かるが、ここは我々に任せてもらいたい」
「……仲間をよろしく頼みます」
霧島は頷いた。集まった部下たちとともに格納庫の隅に集まる。
「船内の図は頭に叩き込んだな?これより制圧と救出作戦を実行する。我々の乗ってきたロクマルと海自のSHで十六名を甲板および船橋に降下させる。船橋に降りたA班は船橋を掌握し、甲板に降下したB班を援護。B班は海保がかけた梯子を確保して複合艇からSBUを乗船させろ。B班とSBUが合流後、A班、B班ともに機関室をそれぞれ別ルートで目指しつつ、船内検索を実施。行方不明の海上保安官を救出するとともにそれを妨害する敵対勢力を無力化しろ」
ルートや船内の検索要領などを細かく打ち合わせる。SSTはSBU乗船後、乗り込み、負傷者などの後送のために甲板の確保を援護する。
「榛村と江崎はバーナーを持っていけ。敵が溶接して封鎖している場合は焼き切って進め。船内では可能な限り破片手榴弾の使用は避けるように。攻撃手榴弾で制圧しろ。無抵抗の者がいても確実に無力化して確保、自決防止と猿轡を」
手際よく作戦をまとめると装備を準備する。
実弾を装弾済みのプラスチック製弾倉をマグポーチに詰め、銃を点検する。特殊作戦群が使用するのは国産装備に限らない。M4A1カービンやそのM4A1を強化・改良したドイツH&K社製のHK416カービン銃が調達されており、霧島もHK416Dカービンを装備している。
ほかにも同じH&K社製のMP7A1を持つ隊員もいる。MP7A1は短機関銃ではなく、個人防御火器《PDW》という新しい分類の銃で、非常にコンパクトで軽量だが、拳銃弾を防ぐボディアーマーも貫通する特殊な4.6mm小口径高速弾を使用する。
装備が整うとヘリへ向かう。着艦したままだったUH-60JAは燃料補給や整備などを受けてすでに準備が整っていた。A班の隊員九名が乗り込み、UH-60JAは飛び立つと続いて海上自衛隊のSH-60Kシーホーク対潜哨戒ヘリが飛行甲板に降り立った。そこへ残りの九名が乗り込み、再びSH-60Kは発艦する。
SBUはRHIBと呼ばれる十一メートル級の特別機動船二艇に乗り込み、貨物船を目指す。
《ぶんご》の格納庫に設置した作戦指揮所からオペレーターたちがその様子をモニターしていた。巡視船の機関砲の照準器が捉えている映像やヘリが搭載するカメラの映像、《ぶんご》の艦橋にいる狙撃手が撮影している映像など。
霧島はオペレーターたちから情報を聞きながらシーホークの機内から貨物船を見下ろしていた。灯火もほとんど灯っていないうえ、航海用レーダーもスイープしていない。
妙な胸騒ぎを覚えた。
ブラックホークとシーホークは旋回し、貨物船の船尾側に回ると地を這うように低空から一気に接近。シーホークは貨物船の直上に躍り出た。
『シーゴブリン、降下地点を占位』
シーホークのパイロットが告げる。
『ダガーはシーゴブリンを援護する』
シーホークからロープが垂れ、船橋の屋根に落ちる。それを確認するとシーホークから次々に特殊部隊員が船橋へとファストロープ降下を開始した。
「ゴー、ゴー、ゴー!」
シーホークに乗り込んでいた霧島もまたロープに掴まり、握力と摩擦の力だけで速度をコントロールして船橋の屋根へと降りる。その間、ブラックホークに乗り込んだ狙撃手と側面窓のミニガン多銃身機銃を構える機上整備員がそれを援護している。
「アルファ、降下完了!」
『シーゴブリン離脱』
先に降下した隊員たちはスタングレネード──非殺傷の閃光音響手榴弾を船橋に放り込むと屋根からウィングへ降りて船橋へと突入していた。
屋根に降り立った霧島はH&K HK416Dカービンを伏せ撃ちで構え、もう一人の狙撃手とともにB班の降下を援護する。B班を載せたUH-60JAが旋回し、船橋の制圧を待っている。
『アルファ、ブリッジ制圧』
『了解、アルファ。ブラボー、降下する』
ブラックホークは旋回を止めて露天甲板の上空でホバリングした。機体の両側からロープが垂らされ、八名の隊員が甲板へと降下する。そこまで来ても敵の動きはなかった。
妙に静かだ。
霧島はブラックホークが離脱し、援護に回るとブリッジへと降りた。
張り出しからブリッジの中へと進むとA班の班員たちが絶句していた。そしてその光景を見て霧島は胸騒ぎの正体に気付いた。
「なんだこれは」
小奇麗であったであろうブリッジは血の海だった。床だけではない。飛沫した血は壁や窓まで赤く染めている。床に飛び散った血はどす黒いものから脂を含んだものまであり、凄惨な虐殺現場となっていた。
血溜まりの中には靴や帽子、衣服の切れ端や千切れたボタン、髪の毛などが散乱している。
「……酷いな」
吐き気が込み上げてくるが、皆動揺を隠して銃を構えていた。
「ブリッジはクリア。だが、中は血の海だ。殺されたのは一人じゃないだろう。複数の人間がここで殺されたようだ」
A班を率いる真壁一曹が淡々と無線に報告する。
『生存者は?』
「なし。死体もない」
『了解、引き続き捜索せよ』
船橋から甲板を見るとSBUの隊員たちが乗り込んでくるところだった。
『バッドボーイズ、ボーディング完了』
船橋構造物の外側にある階段からSBUの隊員四名がブリッジへと登ってきた。そしてその光景を目の当たりにして固まる。
「なんですか、これは」
「分からん。しかし気を付けろ。銃を使った形跡がない」
隊員たちがそれぞれ言葉を交わす。
「血の跡が廊下に続いています」
真壁一曹が言った。羽住一尉が廊下を覗く。電気のつかない暗い通路から階段へと血痕は続いていた。さらに血の足跡などもある。壁には血が擦った後で残っていた。返り血を浴びたか、重傷を負った人間が船橋を後にして進んだらしい。
「ホラー映画か」
「勘弁してくれ、あの手は苦手なんだ」
羽住一尉の弱音を無視して霧島はHK416Dに取り付けたフラッシュライトを点灯する。五百ルーメンの強力な光だ。
『B班、これより船内へ突入する』
「B班待て。船内から合流する」
霧島はHK416Dと同じH&K社製の個人防御火器であるMP7A1を持った真壁を呼ぶ。
「B班が突入しなくては挟撃できませんが」
真壁が戸惑いの声を上げた。
「真壁、よく聞け。……何かいる」
真壁はバラクラバの下で顔を歪めた。下の階層から呻き声のような音が聞こえる。その音があまりにも不気味で背中から汗が噴き出るのを感じた。
まさか。と霧島は思う。特殊部隊員として自分は想像を絶する訓練を耐え、強靭な精神を持っているはずだった。その自分が生理的な拒絶反応を起こしている。呼吸で心拍数を整えるとハンドサインで合図し、霧島は真壁の後に続いて静かに前進した。それに羽住が続く。
血の跡を追って階段を下りていく。やがて血の跡が階段から離れ、通路に伸びていた。その先にあるのは食堂のはずだ。
羽住の後に続くSBU隊員が唾液を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。壁にはやはり血が飛び散り、誰かがここで倒れたのだと分かる量の血が溜まっていた。靴が片足のものだけ転がっていて立てかけられた写真立てのガラスが割れて血がこびりついている。
壁には血のついた手で懸命に壁を叩いたらしく、血の手形が無数についている。
真壁が再び前へ進む。
通路を進むと真壁が止まるように合図した。真壁がハンドサインで霧島に合図し、霧島は姿勢を低くしたままそっと前方を窺った。
真壁の銃に取り付けたライトが照らし出す先に投げ出された足が見えた。
お互いにカバーしあいながら進んでその全体を見る。
頭を割られた男の死体だった。服装からして船員だろう。その頭にはバールのような金属片が突き刺さり、顔面の肉が抉られ、一部骨が見えている。さらに腹には鉄パイプが突き立っていて、それは貫通していて死体が床から若干浮いていた。左腕は千切れて骨が見え、首筋の皮が無い。白濁した目を虚空に向けている。
「……死体です、トラップ無し」
真壁が報告する。
「アルファ4、食堂フロア、一名の死体を発見。船員と思われる。送れ」
『CP、了解。アルファ4、ブラボーが突入待機中、指示を乞う』
「ブラボーは待機だ。様子がおかしい」
その時、何かが倒れる音がその先の食堂から聞こえた。素早く真壁と霧島は銃を構え、羽住は背後をその部下とともに見る。
ギリギリとドアが軋みながら開き、人影がゆっくりと出てくる。その手に武器が握られていないことを確認すると真壁はフラッシュライトで眩い光を浴びせた。
「動くな!」
相手が武器を持っていないと判断した真壁が声を張るとその人影は振り返ると目晦ましを受けた様子もなく突然、こちらに向かって走り出した。
ライトに照らし出された男の顔を見て霧島は「止まれ!」と怒鳴った声を引きつらせた。
向かってくる男は血まみれでその顔面は皮がなく、左半分は骨がむき出しになり、骸骨に目玉が嵌っているような様になっている。
声にならない声を上げて突進してくる男に向かって真壁がMP7A1を単射で発砲する。足を撃ち抜かれた男が勢いよく転倒する。
大動脈など主要な血管を外して足に4.6mm弾を撃ち込んだ真壁はそれでも油断しない。男は枯れた悲鳴のような呻き声を上げながら再び立ち上がろうと手足をばたつかせている。
「接敵!」
羽住が叫んだ。同時に羽住ともう一人の隊員が発砲する。通路に銃声が鳴り響き、食堂からは新たに数人の男が飛び出してきた。
「止まれ、撃つぞ!」
韓国語で怒鳴るが、構わず男たちは向かってくる。霧島たちは即座に警告から射撃に切り換えた。単射で撃ち、銃声が通路に鳴り響き、銃火の閃光が暗い通路を照らす。
「下がれ!」
四人は撃ちながら階段へと後退する。最初に射撃を受けた男も再び起き上がり、あり得ないことに足の傷を忘れたかのように突進してくる。
発砲するたびに銃火が男たちの顔を照らす。
単射だが、連射に近い勢いで弾丸が吐き出され、向かってくる男たちの急所を外して撃ち抜いていくが、男たちは狂ったように突っ込んできた。
「駄目だ」
霧島は即座に射方を変更する。
ダブルタップで胸に二発、間髪開けずにコントロールタップで頭に一発撃ち込む射方を繰り返す。
胸に二発撃ち込まれた船員の頭部にとどめの弾が撃ち込まれる。空洞現象で後頭部が爆ぜ、血と脳漿をまき散らして船員が倒れると真壁も羽住もその射方へ即座に切り換えた。
先頭の三人の船員が三秒と立たずに撃ち倒されると後ろに続いていた者たちが倒れた男たちが蹴躓き、狭い通路で転がる。霧島は羽住の肩を叩き、同じ射方で撃ち続けながら後退する。移動間射撃でも外科手術並みに正確な射撃をとも行っていた。相手が撃ってこないなら全力疾走していても二人にとってはただの的に過ぎない。
『アルファ4、聞こえるか。応答せよ』
オペレーターの緊張した声が聞こえた。その場には十一名の船員と思われる男たちが血溜まりの中に倒れていた。
「こちらアルファ4。食堂デッキ。襲撃を受けた。十一名を制圧」
『ブラボー突入する』
「ブラボー待て。死体を検分する」
B班長の井関一曹は突入できないことに苛立っているだろう。
霧島は頭を撃ち抜かれて脳漿を壁にまき散らした韓国人の男の死体を見た。二発の弾丸がバイタルゾーンを撃ち抜いているが、それよりも気になったのが死体の様子だ。
「この傷は、噛み傷か」
首から肩にかけて服ごと噛み切られたのだろう。作業服が食いちぎられ、肩の肉が露わになっている。首の傷はどう見ても動脈を傷つけて大量出血を起こしていた。普通なら大量出血によるショック死か失血死だ。
「……最初から死んでいた?」
羽住が呟く。その言葉に全員が沈黙した。霧島はブーツで別の死体を仰向けにした。その死体は腸がはみ出していた。銃創によるものではない。やはり何かに肉をえぐり取られているようで、見ただけで臓器が足りていないのが分かる。はみ出した腸から排泄物の臭いが漂い、真壁が顔を背ける。
霧島には思い当たることがあった。例の新型狂犬病。あれは感染者が狂暴化し、死に至るなどという報告があったが、実際には逆だったのではないか。感染者は死亡し、そして……
「……捜索を続けるぞ」
食堂へと入る。そこはさらに凄惨な光景だった。血の海というよりも処刑場だ。引きちぎられた肉塊が転がっている。それの正体が人だと分かったのは服を着ていたからだった。
引き裂かれ、腹も胸もえぐられ、腕は両方とも欠損していた。首は引きちぎられかけていて首の骨が見えていた。
真壁はさすがにそれを見ていることができず、食堂から出た。
死体の服を見て霧島は絶句した。紺色の制服に羅針盤をモチーフにしたマーク。海上保安官だった。
*
ようやくB班も船内へと突入した。SBU、SSTも船内に入り、凄惨な虐殺現場となった食堂を海上保安官たちがすでに調べ始めていた。
機関室を目指す井関保一曹は手にしたMP7A1を即時射撃姿勢で保持し、取り付けたライトで真っ暗な通路を照らしながら進んでいた。血の臭いが鼻から離れない。通路に転がる射殺された死体の山を見て井関は重苦しい気分だった。
霧島の言う通り、あの死体は致命傷をすでに負っており、その様子からも死後数時間が立っていた。それが襲ってきたというのはにわかに信じがたい。
静かに船内を進んでいくとやがてハングルで機関室と書かれた部屋についた。そのドアノブを見ると赤い手形がついている。血だ。
後衛の須田三曹に合図し、井関はドアノブに手を伸ばす。須田三曹は扉の脇でHK416を下ろしてUSP自動拳銃を抜き、ローレディで構える。後ろから続く二名の隊員も援護する体制に入る。
井関と須田はアイコンタクトでタイミングを計るとドアを開けた。
しかしドアは勢いよく開け放たれることなく、途中で止まってしまった。中を慎重に窺うとドアの前には椅子や何かの資材が積まれてバリケードされていた。
ハンドサインで合図し、続く二名の隊員のうち、江崎二曹がバーナーを取り出すと蝶番部分を溶断していく。ドアを支える蝶番が完全に切断されると須田が扉をこちら側に引っ張り出した。
積み上げられた資材をどかして中に入ろうとすると突然、血の臭いが濃くなる。何かの呻き声がエンジンルームの方から聞こえてきた。
敵の射撃からも身を隠せる遮蔽物に隠れると銃を扉に向けて構える。
「誰か!」
誰何の声を上げると呻き声はさらに強くなった。エンジンルームの扉に何かがぶつかっている。四人が中に入ると井関はそこに薬莢が落ちていることに気付いた。9ミリ口径の拳銃弾の薬莢だった。
海上保安官のものか?
そう思いながらもエンジンルームへ据銃しながらその部屋を素早く調べ上げる。周囲にライトの光が浴びせられ、くまなく調べられたが、その部屋に人はいない。
血が飛び散り、誰かがエンジンルームに入った痕跡があった。そしてエンジンルームの手前に無線機の送受話器が落ちていた。送受話器は扉に挟まれてコード部分が切れていた。
「自衛隊だ!手をあげて出てこい」
井関は中に海上保安官がいることを確信した。けがを負って声が出せないのだ。扉を開けようとして手を伸ばしかけ、慌てて引っ込める。
この扉は押し開けるタイプで閉鎖ハンドルが下りていなかった。つまりこの扉は偶然向こう側から押されただけで閉鎖されている訳ではない。そしてその扉に無意味に誰かが体当たりしている。
それに気づいたのは井関だけでなく、残りの三人も同じだった。
「……扉から離れろ。開けるぞ」
声を張るが、返事はなく再び扉に誰かが力なくぶつかり、扉が音を響かせる。
井関は合図し、須田三曹が背負っていた攻城槌を下ろして握る。
「こちらは日本国自衛隊だ。武器を捨てて出てこい」
韓国語で呼びかけるが、呻き声とともに扉が揺さぶられる。反動でわずかに開くが、再び扉の向こう側にいる者はその扉にぶつかる。
「突入」
須田が振りかぶったドアブリーチャーを扉に当てた。扉が勢いよく開け放たれ、同時にスタングレネードが投じられる。
扉の向こう側にいた者は扉に撥ね飛ばされ、続いてスタングレネードの音と閃光を浴びる。井関がそのまま突入しようとしたとき、エンジンルームから何かが飛び出してきて井関に掴みかかった。
「よせ、やめろ!」
井関は声を張り上げる。自分に襲い掛かっているのは他でもない。海上保安官だった。
激しい憎悪をむき出しにして襲い掛かってくる若い海上保安官は口を大きく開き、噛みつこうとしてくる。覆いかぶされた井関はとっさに股間を蹴り上げ、海上保安官を投げ飛ばした。
海上保安官は受け身も取れずに床に叩き付けられるが、怯むことなく突進してきて再び井関を襲う。
「よせ……我々は自衛隊だ!」
海上保安官の目に正気はなかった。それどころか瞳孔は開き、目は白濁している。噛みつかれないよう、MP7のストックを噛ませて井関はとっさにレッグホルスターからHK45自動拳銃を抜くと海上保安官の腹に押し当てて発砲した。
二発の銃声が鳴り響き、海上保安官が床に転がる。
なんてことだ……井関は頭を振って立ち直る。
しかし、45ACP弾を至近距離から受けた海上保安官は起き上がると井関に向かって襲い掛かった。
井関が拳銃を構える前にその場にいた三人の隊員たちの火器が銃声を響かせた。三人からダブルタップで放たれた5.56mm弾と4.6mm弾に胸を撃ち抜かれて海上保安官は井関に飛びかかる前に床に倒れる。それで終わったと井関は思った。HK45をゆっくりと下ろそうとしたとき、再び海上保安官は床に手をつき、こちらを憎悪の目で見ながら立ち上がろうとしたのだ。
「なっ……」
井関が声を上げるが、須田と江崎が再び二発ずつ発砲してその場にくぎ付けにする。背中からバイタルゾーンを撃ち抜かれたはずの海上保安官は転がると、しかしまだ立ち上がろうとした。
「どうなってるんだ……!」
江崎が呟く。須田がとっさにその海上保安官の頭を撃つ。眉間から血が迸り、ようやく海上保安官は床に倒れた。
エンジンルームを覗くとそこに広がっていた光景は想像を絶するものだった。下半身を食われた海上保安官が一人、首から胸を食われた海上保安官が一人いて、そのうち下半身を失った海上保安官は腕だけで這って扉に近づこうとしていた。
呻き声を上げながら手で網状になっている床に指をかけて力任せに近づこうとしている。しかし腸が手すりに引っかかってそれ以上、動けずにいた。手をこちらに伸ばして呻く声を強くする。それは誰がどう見ても死体だった。
「……これは」
その光景を見た井関は言葉を失った。