序章
静岡県御殿場市
富士の裾野にいただくここ御殿場市は富士山や箱根観光への交通拠点の高原都市というだけでなく、豊かな自然も有名だった。駿河湾や相模湾からの湿った空気が富士山付近で雲になりやすいため、降水量は多く、太平洋側気候だが、標高が高いため冷涼で、その独特な環境が富士の自然を豊かに成形してきた。
その秋も深まる富士の裾野。そこでは不釣り合いな乾いた破裂音が断続して響いていた。時折響く雷のような爆発音は空気を震わせ、山に反響している。初めて訪れる者ならば何事かと思うところだが、ここでは日常的な陸上自衛隊の訓練だった。富士山が世界文化遺産となってからは来訪者や登山者などの観光客も増え、自衛隊が訓練を行うことへの関心と批判も高まっていた。
だが──
「なんで俺たちはゴミ拾いしてんだ」
富士山へ続く道路の路肩をそれぞれ一列で進む迷彩服を着た若い男たちのうちの一人がぼやいた。秋の始まりとはいえ、ゴミ袋を片手に黙々とゴミを拾っていては汗をかく。額に浮かんだ汗を迷彩服の袖で拭った那智有希は天を仰いだ。
那智は今年陸上自衛官になって四年目になる。
世界遺産に登録されようとゴミを平気で棄てる輩はいる。登山者や観光客が増えるとそうした輩の割合も自然と増えてくるようだ。今年の春にも那智たちの小隊はこの道の清掃を行ったばかりだが、路肩や側溝にはゴミが散らかり、自衛官たちが持つゴミ袋はいっぱいになっていた。
最初は変わったゴミが見つかるとはしゃいでいた若さ溢れる自衛官たちだったが、もうこの頃になると黙々淡々。時折隊員のゴミ袋を回収にやってくる高機動車、通称コウキに乗る幹部(士官)の涼しい顔さえ、苛立ちが沸く。
──自分たちが楽しむのもいいが、ちっとは足元の地球にも優しくしろや。
那智はゴミをポイ捨てしていった名も顔も知らない者たちに心の中でぼやいた。
そのくせ、自衛隊の訓練は環境破壊だと喚くから始末が悪い。富士山が“まだ”綺麗なのはこうして自衛隊や県の職員、ボランティアたちが定期的に整備をしているからだ。
──自衛隊だって訓練後は片付け、整備をしていくのに。
そんなことを悶々と考えていた那智の前に同じくゴミ袋を引っ提げた隊員たちが山の方の道を下ってきた。
「おっす。取り残しはないな」
下りてきた隊員を率いていたのは星井孝介三等陸曹だった。星井は那智の二期先輩に当たる。後輩の面倒見がよく、那智も頼りにする模範的な先輩陸曹であった。
「はい。一番の大物は便器でした」
「それ、完全に不法投棄レベルだろ」
星井は苛立ちや不満なども見せずに笑いながら無線でゴミを捨てに行った車輛に乗る小隊長と連絡を取る。
「那智班長。やっと終わりましたね」
上から下ってきた分隊の先任士長(陸士の最上級者)である樫原陸士長が声をかけた。樫原は中肉中背の体格だが、トレーニングが趣味でその戦闘服の下には逞しい筋肉を持つ。陸曹候補生試験の結果待ちという身分で、最近は特に素行態度も大人しく、真面目だった。
「おお。ゴミの分別するか」
那智は疲れは見せずに路肩の林に入って陸士たちにゴミを分別させ、休憩させた。星井の呼んだ迎えの車が来るまで待機だ。
那智たちが歩いてきた方から道路を登ってきた観光バスの乗客が物珍しそうにこちらを見ている。そしてそのバスとすれ違うようにオープンカーに乗り、髪を染めたカップルの車が猛スピードで道を下っていく。
「いいなぁ、彼女とドライブか。やっぱり休日はそうでなくっちゃ」
若い陸士の一人が呟いた。今日は日曜日だった。
「ここじゃまず彼女も出来ねぇよ」
その陸士の同期が言う。那智たちが所属するのは富士教導団普通科教導連隊だった。駐屯地は東富士演習場に程近い滝ヶ原駐屯地。近くに年頃の若い隊員たちが望むような街はない。
「那智班長、練馬を希望してたんでしたっけ?」
樫原が聞いた。那智は昨年三等陸曹に昇任したばかりだった。陸曹になると転属の希望も出せる。東京の練馬駐屯地には同じ普通科──いわゆる歩兵科の第1普通科連隊が駐屯している。首都圏の目と鼻の先。交通の便もよく、休日の外出を楽しみにする者たちには憧れだ。
「あれは冗談で、ホントは習志野に行きたかった」
「空挺かぁ。那智は本当にストイックだな」
禁煙を始めて煙草が恋しそうな星井が苦笑する。千葉県の習志野駐屯地には日本で唯一の空挺部隊である第一空挺団が駐屯する。第一狂ってる団とも揶揄されるほど訓練内容は過酷で、陸自の精鋭だった。
「せっかく普教連に来たんだ、自分の限界を見てみたいしな。それに海外にも行ける」
普通科教導連隊は全国の普通科部隊の範となるべく創設され、戦術の研究や仮想敵など教育支援などを行う部隊だ。規律も厳しいが、戦技研究のために陸自の中では一番進んだ訓練を行っていた。
一方で第一空挺団は陸上総隊直轄部隊である。海外派遣に参加する確率は高く、また海外派遣を前提とした中央即応連隊へ進む道も開けるのだ。
「自分よりも他者のために。自衛官の鑑ですね」
「馬鹿、そんなんじゃない」
那智は囃す樫原の肩を肘で小突いた。そこへ迎えの高機動車が二輛やって来た。
高機動車は米軍が運用する多目的高機動車を参考に開発された。一個分隊十名の普通科隊員を輸送できる他、トレーラーや重迫撃砲を牽引することができ、四輪駆動で、不整地ではタイヤの空気圧を変更して走れるなどその名に恥じない機動性を誇り、操縦手からの評価は高い。
「お疲れ。さあ、乗れ。帰るぞ」
高機動車の助手席に乗った幹部の石狩二尉が言った。相変わらず涼しい顔をしている。
「乗車」
那智や星井たち陸曹は隊員たちに声をかけて急かす。隊員たちもてきぱきと各車に乗り込んでいった。
「これで駐屯地に戻ったら訓練後の整備か。休む暇もないですね」
高機動車の荷台に乗り込んだ樫原が声をかけた。
「最近代休消化する暇もないもんな。働きづめで嫌になっちまう」
「那智班長は仕事が恋人じゃなかったんですか」
「馬鹿言うな」
那智は正面に座る樫原の半長靴を長い足で蹴りつけた。