花男
貴船家の令嬢の縁談がまとまったという噂は、すぐに肖介の耳にまで届いた。聞くところ、貴船の家にはおよそ相応しくない、にわか成金の男であるという。信じがたいのは、令嬢も納得しての話であるということだ。
貴船家に親子で仕える下男の肖介には、もとより令嬢の縁談など、その身には関わりのないことである。しかし肖介は納得できなかった。幼い頃から、年の近い肖介と令嬢は、身分を越えて交流する仲であった。令嬢の母をはじめ大人達は快く思わず邪魔をするものさえあったが、令嬢は全く意に介さず、同じ家柄の子女達と遊ぶこともなく、肖介と共に過ごすことを選んだ。童というには大人びた後も、令嬢と肖介は密かに約束を交わし、人目を忍んで逢うようになっていた。令嬢の学友たちが嫁いでいっても、令嬢に全くその様子がないのは、令嬢が自分を想い、多くある話を断っているのだと肖介は思っていた。やがて令嬢は自分の妻になるものと思っていた。
肖介と令嬢の逢瀬には、昔から幾つかの約束があった。肖介から声をかけないこと、肖介から令嬢に触れないこと……。主従の隔てがあるようにも思われるが、そうはいっても、令嬢は折さえあれば肖介に逢うことを望んだし、肖介の頭や胸に触れて慈しむ様子さえ見せていた。肖介に不満はなかった。それどころか肖介を喜ばせることには、令嬢は常に肖介の心の美しさを褒めた。
「お前は心の清らかな人」
「お前の真っ直ぐな気性はどんな貴族様にだって負けはしない」
そう言われているうちに、肖介は、自分が心の清い、立派な気性の人間だと思うようになった。そして、令嬢は、そのような自分にこそ相応しいのだと。
令嬢の縁談の話から、肖介はひどく悩み、意気消沈したかと思うと妙に興奮するという有様で過ごした。令嬢の姿を見ることはあっても、涼しい顔からはその心がうかがうことができない。こんな時に限って、なぜか令嬢は逢おうとしない。肖介から声をかけることなど、できようはずもない。肖介は独り当惑し、しまいには人々の心配する声にも、怒鳴りつけるほどに荒れた。
肖介の我慢も限界という頃、令嬢から逢瀬の声がかかった。夜が更けてから、それまでのように庭園の端の崩れかけた東屋に、肖介は待った。少し遅れてきた令嬢は、何事もない顔である。百合の花が匂ってくる。
「あの話は本当なのですか」
令嬢に詰め寄り、黒目がちの瞳を覗き込んで尋ねた。
「ええ」
令嬢は罪もなく答えた。その様子が肖介をいらだたせた。
「相手はにわか成金の男だというじゃないですか。つまらない男に違いありませんよ。使用人まで噂して……お嬢さんは身売りするんだッて」
派手好きで浪費家の令嬢の母の行状が災いしたのか、貴船の家は、もはや名ばかりの名家となっていた。それでも、慎みのある家中の者たちによって、からくもかつての面目を保っているのである。成金の男が望んだのは、貴船家の名誉以外に考えようがなく思われた。しかし、家の恥ずべき事情を突かれても、令嬢は眉ひとつ動かすことはなかった。弁解もしない。
「それじゃあ、それじゃあ、今までこうして逢っていたのは何だったんです」
思わず令嬢の肩を掴み、感情のままに揺さぶった。令嬢の細いからだが耐えられようはずもなく、崩れるようにその場にしゃがみこんだ。その乱れ髪のまま言うには、
「肖介、私はどうも人の心を信じぬくことができません。どんなに心の綺麗な人でも、その底はどろどろと汚れているように思われてなりません」
「それが、どうして訳のわからぬ男と添うことになるんです」
「私も貴船の家の娘。誰であれ信じられぬ人を夫にするなら、せめては家のためになる人が良いだろうと」
肖介は返す言葉がなかった。下男の自分を夫にしても、貴船の家も令嬢も世の笑いものになるばかりである。しかし、自分の心の美しさは、それでも令嬢を引き止めうるように思われた。そうだ、令嬢は混乱しているに違いないのだ。
「私の心を見せられたら。そうすれば、お嬢さんに信じてもらうことができるのに」
肖介は探るように言った。
「本当でしょうか」
うつむいていた令嬢が、くっと顔を上げ、肖介の目を真っ直ぐに見た。その黒い瞳が鏡のようであったので、肖介は戸惑った。
「……勿論です」
肖介の動揺が隠せたのかはわからない。令嬢はしばらく思案している様子であったが、やがて口を開いた。
「お前が証を見せてくれるなら、見てみたい。お前の心が本当に清いものなら、私だッて、お前の妻になりたいのに」
その言葉は肖介を狂喜させた。
「証を見せます。いくらでも見せます。しかし、どうしたらお嬢さんに信じてもらえるのか」
崩れ落ちたままの令嬢の前にしゃがみこんで、肖介は食いつくように言った。令嬢は、やはり表情を変えることもなく、ひとつ方法がありますと言う。そして、着物の胸元から取り出したのは、小さな別珍の巾着であった。
「これは、お父様からいただいた花の種」
すでに世を去った令嬢の父は、植物学の博士で、人間嫌いの変人であったと聞く。博士ということだけを見込まれて貴船の家に婿入りしたが、人付き合いはもとより、夫人と口をきくことすら少なく、死ぬ間際まで瓶や書物が雑然と並べられた書斎を研究室と呼んで篭っていた。博士の研究がどんなものであったのか。ただ、一人娘の令嬢だけは研究室に入ることを許され、父の膝に乗って折々の時間を過ごしていたのは、肖介も知るところである。肖介の親も、博士が世を去って間もなく亡くなった。
そんな昔のことを思い返しつつ、肖介は巾着を受け取り、開いた。黒い漆塗りに蒔絵が施された器が入っていた。その蓋を開けると、狐色をした軟膏のようなものが見えた。
「これが種ですか。それで、これで証ができるんですか」
いぶかしげな肖介の問いに、令嬢が答えるには、それは目にも見えないような細かい花の種なのだと。ただし、土に蒔くのではなく、人間の肌に塗りつけるものなのだという。
「肌に塗るんですか。そうすると、どうなるんです」
令嬢が語るには、これを塗り薬のように肌に塗ると、目に見えぬ小さな種が毛穴の一つ一つに落ち着いて、やがて芽を出し、花を咲かせるのだという。ただ塗りつけるだけで手入れもいらず、痛みも苦しみもない。そして、この種の不思議なことには、人の心を栄養として育ち、時期が来て咲く花は、その心を映したものなのだという。
「なるほど、その花が美しければ、私の心を信じてくれると言うんですね」
おそるおそる種に顔を近づけると、なんともいえぬ良い匂いがした。今まで嗅いだ、どの花の匂いでもなかった。しかし、百花の匂いを集めて固めたように濃密であった。令嬢の話を信じたわけではなかったが、毎晩体に塗りつけることを約束した。
床に戻って、肖介はさっそく器を開けた。少し手の甲に塗って、しばらく様子をみた。なるほど、違和感はない。今度は多めに取って、手の届く限りの肌に塗りつけ、そのまま横になった。令嬢の話どおりなら、令嬢の婚礼の朝に花が咲くという。花が美しければ、婚礼は止めて肖介と家を出て行くと。その晩は令嬢の夢を見た。
翌朝いつも通りに目覚めた肖介は、自分の体からなんとも芳しい匂いがすることに気づいた。使用人仲間からも、随分いい匂いがするじゃないかと構われ、これはきっと美しい花が咲くと確信した。それから毎晩種を塗りつけることが、肖介の習慣になった。令嬢とはあの夜以降逢わずに居たが、毎晩のように夢に見るので、不満はなかった。花が咲けば、もう気兼ねすることもなく逢うことも触れることもできる。婚礼の前の晩、ちょうど器は空になった。
婚礼の朝、肖介は床から起きてこなかった。腹を立てた女中が起こしに行くと、床に姿はみられなかった。ただ、肖介の横たわっていたであろうあたりに、見たこともない草が花を咲かせていた。その花の色は、赤でもない青でもない、かといって白でもない。ちらちらと光を受けて色を変える様子は、蛋白石(※オパール)によく似ていた。
令嬢の手に持たれた花の名を、夫となる人は知ろうとしなかった。その立ち姿を見て、
「花束ですか。そうしていると、西洋の花嫁のようですな」
と評した。令嬢が答えて言うには、
「お父様の花ですのよ」