コントロール・オルタネート・デリート (続・河童ノ棲処)
――中学に入学し、新生活が幕を開けた桜の季節、僕は初めて恋をした。
「平倉星一くんは居ますか?」
登校後の騒々しいクラスで、座席について友達と駄弁っていると、教室の出入り口から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
誰だろうかと振り向いてみると、出入り口付近にいたクラスメイトの男子がこっちを指し示している。彼の隣には女生徒が立っていて、差し出された指を追って、僕のことを認めた。
その女生徒が声の主であるようだけれど、見覚えのない知らない子だ。うちの学校はセーラー服のスカーフが学年によって色が異なり、彼女は一年生が着用する緑色を巻いているので、同じ新入生ということは判断できた。
女生徒は、両手を股の上に重ねた丁寧なお辞儀を級友にすると、背筋の通った歩みで、僕の居る方へと近づいてくる。
生徒心得どおりに黒い紐で結ばれた二本のおさげと、眉にかからない所で切りそろえられている前髪がサラサラと揺れる。赤い上縁フレームと細めのレンズの眼鏡が理知的な印象を与えた。
座席まで来ると「おはよう」と挨拶をされたので、僕は条件反射で「……おはよう」と返す。
「君が平倉星一くんね」
「そう……だけど?」
やはり、名前も知らない女の子で、面識はない。
訪ねられる覚えはないはずだけれど……。
疑問に思っていると、彼女はスカートのポケットからおもむろに生徒手帳を取り出す。
僕の前に差し出すと、くるりと反転させて裏面を提示した。
「あっ」
生徒手帳の裏は透明フィルムの窓になっていて、顔写真付きの身分証明書が確認できるようになっている。そして彼女が手にしていた生徒手帳には、僕の顔が載ってあった。
「落としたでしょう? 今朝、自転車置き場で拾ったの」
「全然気づかなかった。どうもありがとう」
通学カバンの小物ポケットに入れていたのだけれど、確かめてみたらチャックを閉め忘れてあって、それで落ちてしまったようだ。
「朝の会で名札と生徒手帳の持ち物検査されたときに困るかと思って、バタバタしているけど、今のうちに届けようと思ったの」
「あー、ありがとう。わざわざごめんね」
「それじゃ、チャイムが鳴るから行くね、バイバイ」
「あ、バイバイ……」
女生徒が身を翻すと、僕はとりわけ何事もなかったかのように、「それでさぁ」と友人に向き直って途切れていた会話を逸早く再開させた。
戻っていく彼女の後ろ姿をジッと目で追ったりなどして、「なになに、あの娘が気になった?」と、冷やかされないようにするための予防である。もしそんな質問をされたならば、へどもどしてしまい、うっかりボロを出しそうな状況だった。
彼女が去り際に「バイバイ」と手を振ったときに咲かせた笑顔で、僕はすっかり心臓をぶん殴られてしまっていたのだ。世に言う一目惚れというやつだと思う。女生徒に興味関心を持ったことを友人に気取られて、これから先、誂われたりすることのないように努めたのである。
友人と言葉を交している間、女生徒の左胸に付けられていた名札の漢字を忘れてしまわないように、頭のなかで形をイメージし続ける。そして、朝の会のチャイムが鳴り、友人が座席から離れていくと、僕は瞬発的に筆箱を取り出し、彼女から手渡された生徒手帳に彼女の名前を書き記した。
神楽田 心結
「カグラダミユ」と、言うようだ。
その日の放課後、飛んで帰ってから、入学式で配布された栞を引っぱり出して、新入生の名簿一覧から彼女の正式な読み仮名を知り得た。
出身校も掲載されていて、僕らと同級生となるはずだった男の子が二年前に行方不明になった小学校の出身ということもわかった……のだけど、それ以外の情報は不明である。
もっと神楽田さんについて様々なことを知りたいと想いながら眠りについて、目を覚ました次の日、奇しくも再び接点をもつことができた。
委員会活動の各クラス役員を決める際、不人気だった図書委員会に、たまたま手を挙げていたことが幸いしたのである。
僕は図書委員の初当番で、放課後の本の貸し出し作業に従事していた。
人の出入りはまばらで、利用者は少なく、楽なのはいいけど暇。
貸し出し終了の時刻を気にしつつカウンターでウォーリーを探して時間を潰していたのだった。
すると、
「返却お願いします」
「あっ」
そこへ本を返しに現れたのが神楽田さんである。
僕は本を閉じ、即座に居住まいを正した。
「あら、平倉くん」
「昨日はどうも」
カウンターには、貸し出し限度である五冊の書物が積み上げられている。どれも見た目が同じで、古くて小豆色をしたハードカバーだ。背表紙には作者と思しき人名だけが入っている。ほぼすべて知らない名前だったけれど、一番上にのっていた『太宰治』だけは、かろうじてわかったので、文学作品を収めたシリーズなのだと思った。
「そういえば、昨日、わたしの自己紹介していなかったね。――神楽田心結っていうの、よろしくね」
彼女は個人名の入ったバーコードカードを、やんわり僕に手渡す。
幸運なことに、昨日の今日でお近づきになれてしまった。身体が踊り出しそうなほどラッキーだ。
「平倉くんは図書委員になったんだね」
「うん。たまたま。あぶれてたのに飛び乗って。――神楽田さんは?」
「わたしは学級委員よ」
「わお」
規律正しい外見のイメージに、実に符号している役割である。しかも、推薦されて嫌々させられたという風ではなく、自分がなって当然だとキッパリというようなあたりは、ひょっとすると立候補したのかもしれない。――と思って、聞いてみると予想通り的を射ていた。
彼女は小学校のときから学級委員をやっていたそうである。適材適所だ。
僕は本に貼られてある黒線のシールをバーコードリーダーで読み取りながら尋ねる。
「神楽田さんは小説が好きなの?」
「そうね。小さい頃から色々と読んでるわ。小学校と違って中学校は放課後も図書室が開くし、昼と違って静かだから、これから入り浸りになるかもね」
ニッコリ笑う彼女のレンズ越しのブラックホールのような黒眼に、僕はヒュッと吸い込まれそうである。
バクバクと鼓動が鳴った。
現時刻をもって、当番が割り当てられていない曜日でも他の図書委員の手伝いをするため、放課後には図書室へと赴くことに決まりである。
返却処理を終えると、彼女は小さな手を小さく揺らして、天井近くまで伸びる図書タワーの狭間に入っていく。
僕はウォーリーを探さないで見捨てておき、神楽田さんを見つめる作業に没頭した。
神楽田さんが本棚を移ると僕はキャスター付きの椅子を転がして追尾。彼女がカウンターから目の届かないところに行くと、返却されてある本を手に取り、本の整理整頓をしていますよ、という体裁を隠れ蓑にする。そうやって、彼女が人差し指をアゴにちょこんと当てながら本を眺める姿を、心をほかほかさせて眺めていた。
ある程度の時が経つと、神楽田さんは図書の塔の最上部近辺が気になりだしたらしい。
しばし、腕を組んで見上げたあと、ポンっと手を打ち、辺りをキョロキョロして踏み台を発見。満足気にその場まで引っ張ってきた。
……だがしかし、三段階段の踏み台ではあるけれども、女の子の身長では頂上の本を手にするのは厳しいようだ。
彼女が天辺に立って背伸びをしても、取りたい本の下端を指の先で触れるのがギリギリである。
待ってました!
僕は好感度上昇の好機と見て、すかさず駆け寄っていった。
「神楽田さん、それ僕が――危ないッ!」
「え? ……わっ!?」
出し抜けに声をかけたのがマズかったようだ。
僕に気を取られた彼女は、足元の注意が留守になり体勢が大きく崩れる。
台上でオロオロしているうちに雪で滑るがごとく、つんのめった。
予想外のアクラバティックな転倒様に驚愕しつつも、僕はケガをさせたくない一心で、神楽田さんの保護材となるべく落下点にスライディングを決め込んだ。
全身への衝撃で目を閉じると、重みが身体の前面に加わり続ける。
どうやら滑り込みセーフでキャッチに成功したようだ。ホッと安堵する。
「か、神楽田さん……大丈夫? 急に声かけて、ごめん」
「ん……んん……大丈夫……平気よ。わたしの方こそドジでごめんね。よく転んじゃたりするんだ」
のしかかる重みが退けたので僕は上体を起こしたのだけれど、――
バフッ
「ひゃひっ!」
顔面が柔らかいものに、めりこんだ。
と、同時に、アニメの女の子のような声音の可愛らしい悲鳴が上がる。
柔らかいものから鼻頭を引き抜くと、目の前は、クマさんだった。
白一色の雪原に、大きなクマさんの顔が浮かんでいたのである。
僅かばかり歪んで皺の寄っているその頭には、ネズミのごとき貧相な耳があり、魚のような無感情の目が顔の左右離れた位置にとりついていた。実に間の抜けた人相のクマさんである。
さては、びっくりして一声上げたのはこのクマさんか!?
……と、現実逃避を試みようとしている最中、ヒダヒダがあしらわれた黒いベールの幕が無慈悲に下ろされた。雪原のクマさんが消失してしまうと、そこはもう、スカートで覆われたお尻にしか見えない。
四つん這いになっていた神楽田さんが、上半身を起こして、横たわる僕に背を向けたまま、無言で立ち上がる。
仁王立ち状態で動かない。相当に怒っているのだろう。セーラー服の襟が垂れる小さな背中からは、禍々しい妖気が発せられているように思う。
こういうときは何て言えばいいのだろうか……。
下着を褒めれば、なんとかなるでしょうか?
「か、可愛いクマさん……だね」
僕が言い終えるや否や、神楽田さんは回れ右をし、一歩二歩と前進。スカートが鼻に擦れるまで近接する。
怖ず怖ず彼女を見上げると、僕を見下している彼女の目は、――フリーズしていた。
「見たな」
(了)