終
溜め池の主に持って行かれてしまった早瀬は、結局、見つけ出されることはなかった。
大人たちによる捜索活動はその日から何日間も継続され、張り紙も町の至るところに貼りだされたのだけれど、すべてにおいて功を奏さなかったのである。
わたしは嬉しくて嬉しくて涙がちょちょぎれた。
早瀬が視界から永劫に外れて欲しいという予てからの願いが成就したのだ。その事実を回顧するたびに、腹を抱えて大いに笑い転げた。これほど有頂天になったことは生まれてこの方なかったことである。
早瀬の消失直後のわたしのテンションはすこぶる高かった。突き抜けたように元気溌溂としていて、勉強から家の手伝いまで何事にも旺盛に取り組んだ。
しかし、――
わたしの浮かれている姿は、どういう訳か、周囲の人間には『浮かれている』とは捉えられなかったのである。一体なにを間違ったのか、『早瀬が居なくなったことで悲しみのあまり半狂乱になっている』という認識だったのだ。悲しむべき根拠など皆無にも関わらずである。
そろいもそろって何ともはやユニークな発想をするのだろうと、わたしはdド肝を抜かされた。
「泣きたいときには泣いてもいいんだよ……?」
ぽっかり空いた早瀬の席をボンヤリと見て、もう彼に悩まされることはないのだと満足感に酔いしれていたとき、友人が哀調を帯びた顔つきで、そんな突拍子もないことを口にしたのだ。
途端に度を越した可笑しさが胃の底から込み上げてきて、わたしは両手でマスクのように顔の下半分を覆い隠した。
なんとか笑いを堪えようとして息がつまり、ゴフゴフと大規模に咽せ返ってしまう。さらには、目尻から可笑し涙がポロポロとこぼれ始め、身体まで振動してくる。これは始末に終えないと、腕で顔を隠す体形で机にうつ伏せた。
そうすると友人は、よしよし、と、わたしの背中を撫でて、慰めるような仕草をするのだ。
「心結ちゃんの気持ち、よくわかるわ……。私も悲しいけど、心結ちゃんはもっともっとずっと悲しいはずだもの……」
わたしは机の臭いを鼻腔の奥に吸い込みながらニヤリと笑った。
――何をわかったつもりだろう?
――何を覗いたつもりだろう?
わたしの心を覗いたはずが、自分の心を覗いてしまっていることに気づかないのだ。
みんなは、所詮、他人の心の内なんてわからないのだろう。
早瀬が忽然と姿を眩ませてくれたおかげで、わたしを取り巻く環境は、はからずもパラダイスと化した。
悩みの種の一切が、滅したのだ。
こんなに喜ばしいことはない。
これもきっと溜め池の主のご利益なのである。
まず、――
うんざりするほど通いつめていた溜め池に足を運ぶことはなくなった。児童らが溜め池の主の祟りを怖がって寄りつかなくなったのだ。
「看板に描かれていた河童の目がいつの間にか笑っている」という噂がどこからともなく立ち昇り、それが事実だと知って気持ち悪がっていたかと思うと、直ぐに、「溜め池に入ると看板の中から河童が出てきて人を攫って行く」と言う怪談が誕生していた。そして、「先陣を切って何度も入り込んでいた早瀬が見せしめとして連れて行かれた」と囁かれるようになり、誰しもが臆していったのである。
大人は歯牙にもかけなかったけれど、子供たちは真相を突き止めたのだ。
それから、――
眉目秀麗なるわたしに、「ブス」などと暴言を吐く者は居なくなったし、学級委員長の仕事は滞りなく円滑に進むようになった。リーダーを欠いた男子たちは手のかからない子供となり、女子たちはわたしを悲劇のヒロインのような目で見て同情し、いつも味方で居てくれる。うちの母も然りだ。先生方からはまとめ役としての能力を評価してもらえるようにもなった。
思うがままに統制をとれ、見事、わたし中心の平穏無事な生態系が確立されたのだ。
そして、――
これらのなによりにも勝る、祝うべきことがある。
それは、――
わたしがクマさんパンツを穿いていることを、みんなに知らされずに済んだことである。
(おわり)