四
晴れわたっていた空は、日が没すると、黒く分厚い雲で敷き詰められていた。
ポツリ、ポツリ、ポツリと、粒が落ち始め、時計が進むにつれて群れを成すようになる。
父が会社の残業を終えて家に帰宅したときには、天上が落ちてくるような土砂降りの様相を呈していた。
わたしは明かりも点けない自室で、雨音まで避けるように毛布の鎧にくるまり、外界を拒絶していたのだけれど、尿意を催し、トイレにいくため毛布お化けになる。
部屋を出てフラフラ浮遊するような不確かな足取りで廊下を進んでいると、父の小さな声が耳に届き、歩みを止めた。
声はリビングルームからである。
モザイクガラスが嵌めこまれた戸から差し込む明かりに誘われて、暗闇の中を近寄って行くと、出入り口付近で息を潜めて耳をそばだてた。
「……溜め池で靴が片っ方、見つかったんだそうだ……」
「……まぁ……」
父と母が会話をしている。
テレビは消えているので、コチコチと時を刻む壁掛け時計の音とともに、二人の声はよく通ってきた。
話題は早瀬に関するものである。
どうやら父が捜索情報を仕入れて来たようだ。
わたしは身をいれて聴き入る。
父はつい今しがたまで、早瀬の行方知れずのことは不認知だったらしい。隣市の勤め先から車で帰路につき、家までもう少しとなった溜め池で、はじめてそのことを認知したのである。
降りしきる雨の中、溜め池の外周の草地には、警察・消防の車両がいくつかとまっていて、活動拠点となるテントも張られており、池の周りは工事で使用されるような大型のライトで囲まれていた。
ナイター球場のように爛爛と照らしだされていたそうだ。
シェパード犬を率いたり長い棒を持ったりした捜査員が水際を歩いており、水面にはゴムボートがあって、水中ではダイバーが潜っている。――これは何事かと、父は車から降り、作業の進展を見守っていた消防団を捕まえて、一件を知り得たのだ。
日中に、早瀬の靴(片方のみ)と釣竿が発見されたことで、溜め池への捜査に力が注がれることになったらしい。
わたしは下校途中に目撃した溜め池の人山を思い出した。どうやら、あの時から集中捜査が着々と進められていたようである。
そして『釣竿』という言葉から、早瀬が釣具を持って帰らなかったことに気付かされた。そういえば彼は、わたしと問答を繰り広げていた最中いきなり機嫌を損ねて手ぶらで走って行ったのだ。意表を突かれてからあれよあれよの内に河童絵の目玉が動いたため気が動転し、彼の所有物どころではなかった。
けれども、早瀬が両足に靴を履いていたことはしっかり網膜に刻まれている。さすがにそれは彼と対面していたら判ることだ。したがって、早瀬の靴の片割れが溜め池から見つかったということは、わたしが這々の体で家まで逃げ帰って来たあとに、彼が再び引き返してきたことを意味している。おおかた、釣り道具を忘れてきたことに気づいて戻ったのだろう。
――たぶん、そのとき、早瀬は看板の怪によって隠されたのだ。
【わたしに窘められた早瀬は、一旦は溜め池から立ち去ったものの、わたしが帰ったのを見計らうと、こそこそ戻ってきて釣りを再開させた。その後、足場から滑るなどして池に落ちてしまい、深みにはまって溺れてしまった】――というのが、現場でなされていた大人たちの予想である。
早瀬の普段の素行の悪さがそういう推定を導き出させたのだろう。
溜め池侵入の常習犯だった彼は、犯行現場をおさえられて、「そんな所に入っちゃいけないよ」と、わたしのみならず大人からも説教をうけることが、しばしばあったようなのだ。
父が話をうかがった年配の消防団員も声をかけたことがあったそうだが、早瀬は、――
「ああ~、今、ここで人を待ってるだけなんですよぉ」
などと、巫山戯たことを抜かしては、はぐらかし、留まり続けていたようである。
「こうならないように、もっと厳しく言い聞かせておけばよかったなぁ……」
と、消防団の人はとても悔やしそうだったらしい。
大人の人々が口にするように、おそらく、早瀬は溜め池で溺れてしまい、水の底に沈んでしまっているのだろう。
しかしそれは、危惧されていた不運な事故などではなく、看板に潜むあやかしの仕業なのである。
彼は怪しい力によって、仄暗い水の底へと引きずり込まれたのだ。
「……釣竿は池の岸辺で見つかったようだけど、靴の見つかった場所が少し変だったな……」
「……変っていうと?……」
リビングから興味深い会話が耳に入ってきて、わたしは聴取力を高める。
「……靴が落ちていたのは、池を囲むフェンスのすぐ側だったらしいのだ。それも内側ではなくて外側の方で、――ほら、『ここで あそぶな!』というような危険を訴える台詞が書かれた看板があっただろう。怒った顔の河童が水面から身体を出して、岸辺でイヤがる男の子の腕をつかんで水中に引っぱり込もうとしている絵の入った。その看板のすぐ下だよ……」
「……看板のところなんて、それはちょっと妙ねぇ。――それとお父さん、あそこの看板に書かれてるい言葉は『はいっちゃ ダメ!』で、絵は可愛い河童ちゃんが水面から単に身体を出してる絵よ……」
「……ん? そうだったかな。まあ、看板の柄はこの際なんでもいいのだよ。どこにあるのも似たようなものなのだし。いちいち覚えてないさ。それに、要点にしていたのは看板の下に靴があったということなのだし、釣竿が岸にあったということは、やっぱり、なぁ――……」
思わず「あっ!!」と声を上げそうになって、わたしは全力で口元を押さえた。
要点は看板の柄である。
――早瀬は、池ではなく看板に落ちたのだ。
注意看板の河童絵によって、水の中ではなく看板の中に引きずり込まれたのである。
父と母の会話を盗聴し終えたわたしはリビングドアの陰から静静と立ち去り、催していたおしっこを済ませると自分の部屋に戻った。
電気を点ける間も惜しんで暗室の中をベッドまで進み、クマさんのぬいぐるみを胸で抱えて座ると、看板河童の出現と早瀬の消失についての考察に移る。
結論から言うと、――
看板の河童絵は、溜め池の主なのだ。
そして主は早瀬に激怒していた。
彼が溜め池(主のテリトリー)への度重なる侵犯行為に及んでいたからである。
平穏を荒らされた主は、昨日ついに耐えかね、河童絵として体現し、罰を下したのだ。
ここで遊んだ報いを受けろと連れ去ったのである。
『はいっちゃ ダメ!』という文面の看板は主の意志により、掲げられるべくして掲げられていたメッセージだったのかもしれない。
と、――
〈おいで おいで♪〉
暗がりの中で、はずんだ明るい声が生じた。
〈こっちにおいで♪〉
はじめは、わたしの居る右側から聞こえ、藪から棒のことにドキリとし、即座に頭を右へ向けると、今度はすぐに左側から同じ声音がする。続けざまに頭を振ると、
〈いいものをみせてあげる♪〉
正面から含み笑いとともに届いた。
わたしはベッドの枕元に置いていた室内灯のリモコンを手探り、スイッチを押す。
瞬時に闇は消滅し、物という物の形は露わになった。
しかし声主の輪郭はどこにも見当たらない。
〈こっちにおいで♪〉
眉間に皺をつくって空隙を睨んでいると、壁一枚を隔てたザーザー降りの屋外から幽かに漏れ聞こえてくる。
〈おいで♪ おいで♪ おいで♪ おいで♪ ……〉
ベッドから飛び降りて直ちに窓を開け放っても、姿形はぼんやりとも認められず、水浸しの庭と夜の帳があるのみで、「おいで」と軽快に呼ぶ声は、まるで誘っているかのように、生垣の向こうへ向こうへと段々に遠ざかり、終いには夜陰に紛れてしまった。
わたしよりももっと幼い女の子のような、アニメに出てくる無邪気なキャラクターが喋っているような声色である。いずれにせよ、その可愛らしい声は、溜め池の看板に内在している主の、河童絵が口にしたらピッタリだなと思った。
わたしは両親に気取られないよう冷静沈着、かつ、可及的速やかに玄関から長靴を取り出してくると、部屋に飾っていた沢山のぬいぐるみたちを掻き集め、布団の中に突っ込む。自分が寝ているように偽装工作を施し、タンスから雨具を引っぱり出して颯爽と身にまとうと、窓の外へと躍り出た。
ぺしゃんこに押し潰されそうだったあれほどの不安と恐怖は、すっかり霧散していた。
――溜め池に行かなければ。
使命感のようなものに、ただただ心は突き動かされていたのだ。
***
家を出たとき、時刻は夜九時を回っていた。
夜更けまではまだ時間があるけれど、この頃になるとわたしの住む小さな町はもうグッスリと死んだように寝入っている。生き生きしているのは大雨の田んぼで歓喜するアマガエルくらいだ。
着込んだレインコートを叩く無数の雨音を引き連れて、わたしはまばらに建つ家屋の灯りを頼りに、街灯も満足に無い道路を黙々と進んでいく。すれ違う車も人も無い。
溜め池の近隣まで来ると、路肩に立つ樹木の背後に身を潜めた。
父が話していたところによると、今日は夜を徹して早瀬の捜索活動が行われるそうである。現に、溜め池は夜に頭を出した太陽みたいに眩く発光していた。警察と消防の車両も確認できる。けど、目を凝らして見ても、その界隈を含め、光の中に人の動く影は一つも無いし、ボートも出ていない。
より一層に激しさを増してきた豪雨のため、捜索活動を中断し、雨が弱まるまでテントや車の中で休憩しているのだろう。
看板のある位置は幸いにしてテントから離れており、ライトで照らし出されてはいるものの、死角となっていた。
誰かの目に触れたならばたちどころに強制退去させられるだろうと思い、身を屈めた細心の警戒でもってフェンスへと忍び寄っていく。
ざんざん振りの雨と、カエルの合唱が目眩ましとして大いに役だってくれた。
そうこうして、わたしは昨日の夕刻と同じく看板の真向かいに立ったのである。
注意看板の模様が変わっていた。
水面から上半身を出した愛らしい河童絵から、飾り気のない文言だけの看板に戻っていたわけではない。かといって、父が言っていた「岸辺にいる男の子を河童が水の中に連れ込もうとしている柄」でもない。
『たすけて!』
白地の看板の天辺には、大きく赤字の横書きで、叫びが書かれてあった。両端にあった『はいっちゃ ダメ! ○○小PTA』の字は消えている。『ここで あそぶな!』という文も見当たらなかった。だけど、看板上部には確かに、男の子が描かれていた。
しかしながら、すでに岸辺には立ってはいない。
男の子は溺れていた。
大口を開けて喘ぐ顔を水面から必死で出し、両手を万歳をして高く突き上げている。波紋をあらわす輪っかが頭を中心にして数個広がってもいた。首から下の領域も白地であるが、そこからは水中を意味しているのだろう。丸い水色の気泡が、看板の下端から縦にいくつか連なって描かれていた。彼が着用している服はTシャツとハーフパンツで、色柄も含めて昨日の早瀬と同じ格好である。そして、
男の子の片足には靴が無い。
白いくつ下が剥き出しになっていて、その脚を可愛らしいデザイン河童が水かき付の二本の手で捕まえている。河童は自ずと看板の下部に位置する構図になっていた。身体が横向きで描かれているので、背中一面を隠す大きな亀の甲羅をしょっているのが見受けられる。微笑みを浮かべたどんぐり眼で男の子を見上げ、綱引きのロープよろしくの脚を引いているのだった。
わたしが隈無く観察していると、看板に異変が起こる。
一時停止させられていた映像の再生ボタンが押されたかのように、板面の絵が一様にリアルタイムで動き出したのだ。漫画がペラペラと一定速度でゆっくり捲られているみたいにである。音も無くスローモーションで刻一刻と変化していく。
両耳脇から頭上に伸びていた腕が開かれ、男の子は藻掻き出す。それに伴って水色の輪っかが放射状に拡散していく。目はギュッと結ばれ、口がパクパクと開閉する喘ぎ呼吸になっている。水面下では胴体がクネり、捕縛されていない片一方の足が白地の水を一生懸命押しのけて、浮上体勢を保持しようと悶えていた。
そんな死に物狂いの彼を、河童は力など全然入っていないという風に容易く捕らえているのである。スクーバダイビングをする人が装着するヒレのような足を優雅に揺るがせていた。頭のノコギリ刃のような髪がふわふわと微動し、口元は相変わらずのスマイルだ。
さながら、白い一枚板に投影されたパラパラ漫画風のアニメーションを見ているかのようである。そう思っていると、ふいに、男の子を見上げていた河童の顔が45度回転し、正面を向く。
――わたしと目が合った。
ところが、昨日その円い瞳から感じた不快な印象は、不思議と一切背筋を駆け登ってくることはない。むしろ今は逆に、ゆるくて愛くるしい河童の見た目通りの、心が安らぐようなほんわかとした暖か味を感じた。
パチッ☆
唐突に、河童の片目がウインクをしたように閉じる。
正しくいえば、「●」黒円から「V」の字を横倒しにした形状に変わったのだ。顔の横の白地には星マークとともに、「パチッ」と、黒字で書かれてた擬音語が瞬間的に現れ、看板に溶けこむように透過していく。
それから河童は、あがく男の子の足から片腕を離すと、指と指の間に薄い膜が張られた手をいっぱいに広げ、身体の脇で左右に振りはじめた。それは、「おーい、ここだよ」と、わたしに存在を知らせているようでもあり、「さようなら」と、別れの合図を送るかのようでもある。手を振り終えると、顔を男の子へと向き直らせて、足を一挙に引いた。
バシャンッ
派手な水しぶきと擬音を跳ねあげ、男の子が泡を群がらせて白い水中へ呑み込まれる。そこへ、するするっと縫うようにして河童が背後へと回り込み、慌てふためく彼を羽交い絞めにしてしまった。看板の中程で男の子に取り憑いたのだ。
するとようやく、男の子は、頑なに閉じていた瞼を開く。
{委員長!?}
漫画絵化されている男の子、すなわち、早瀬は、刮目し、ついにわたしを認めたのだ。
目を丸くしている彼の頭の横には、黒く縁取られた白い風船フキダシが出現して、台詞が括られている。
{助けて! ここから出して!}
看板内では水域となっている所に居るはずであるが、早瀬は呼吸に苦しむ素振りは見せず。そればかりか、フキダシで言葉を扱えるようだった。
{なんなんだよこれ! どうしてこんなことするんだよ!}
激情している彼は自分の背中にしがみついている河童に向かって訴える。
すると、皿を載せた饅頭顔が沈黙を破り、早瀬の肩越しにアヒル口を開いた。
あどけない字体によって紡がれた文章が、窓を滑り落ちる雨粒のように白い板に流れ出す。
〈君が言うことを聞かない悪い子だからよ♪ せっかく、あたしがニンゲンドモを使って『はいっちゃ ダメ!』って警告をしていたのに♪ 無視をして、あたしの縄張りであるこの神域を何度も何度も犯したじゃない♪ 君を真似て後に続く者まで出てくるし♪ だからね、元凶を断つことにしたの♪ 君みたいなイケナイ子には、あたし自らの手で裁くことにしたの♪〉
音符記号を末尾に付属させた台詞がとうとうと空間を埋め尽くしていった。
わたしの考察はズバリ正確に的中していたのだ。やっぱり、河童絵は溜め池の主なのである。そして早瀬に罰を与えようとしているのだ。
一丸となって空白に浮かんでいた早瀬と河童姿の主が、看板の底へとゆっくり沈み始めた。
{お願いだよ、委員長! 助けて!}
くしゃくしゃに壊した顔で彼は助力を求めてくるが、わたしは首肯しない。
淡々と頭を横に振ると、早瀬は仰天し、今にも泣き出しそうになる。
{どうして!?}
と、興奮の度合いを示すような刺々しい巨大なフキダシが飛び出したあと、わたしは早瀬に粛々と答えてあげた。
「看板の中からあなたを助け出す方法なんてわからないし、それに――助けたくもないもの」
絵になっている彼に、こちらからの声が届くかどうか不確かだったけれど、早瀬の顔色が一気に絶望色に染まったのを見て、ちゃんと聞こえているようだと、安心する。
じわりじわりと沈下をする彼の足先が、看板の底辺に消えはじめた。枠外から実体化して出てくるような様子はない。此処ではない何処かの異次元世界に通じているのだろう。
これで早瀬は完全に持って行かれるのだ。
今生の別れになると直感し、わたしは思いの丈を告白することにした。
とても清らかな気分だったので、ハキハキと明朗に笑顔で聴かせてあげる。
「ねぇ、早瀬くん。わたしね、あなたのことが大・大・大嫌いなの。理由は山のようにあるわ。こんなにも容姿端麗なわたしに『ブス』なんて非道なことを吐きかけて汚すし。毎日毎日飽きもせずに意地悪ばかりしてきて困らせる。学級会はあなたが悪ふざけをするから全然お話にならずに、まとまらない。やめてと言えばやるし、やってと言えばやらないし、天邪鬼ぶりにはほとほと愛想が尽きていたの。あなたがわたしのことを嫌いだということも、学級委員長から貶めようとしていることも、全部わかっているんだから。――」
{違う! 委員長、違うんだよ! そうじゃないんだ!}
わたしが赤裸々に露見させていく真実を、早瀬は醜くも断固として否定しようとする。
彼は決して届きはしない手を、わたしに向かって伸ばしていた。後方では河童がアヒル口をしきりと動かしていて、「カカカカカカ」と、片仮名一つだけを使って表した笑いを漂わせている。
この間にも、早瀬と河童の絵図は看板の底へと埋没していき、彼の胸から下は消えてしまった。
「ずっと願っていたのよ。いつの日かこんなことが起こらないかって。あなたが居なくならないかなって。……そしてついに、今まさに夢の実現を目にしているところなの。わたしも溜め池の主と同じ気持ちよ。早瀬くんは数々の素行不良の償いをするために、きっちり裁かれるべきなの。だからね、――助けるわけ無いでしょ、バーカ」
{委員長、聴いてくれ! 俺は本当は! 本当は! 心結、君のことが――}
そこまで発言すると、早瀬の口唇はすっぽり底面に隠れてしまい、フキダシははたと失せて跡形もなくなってしまう。鼻も消え、水色の涙を目尻に溜めて最後の最後までわたしを見続けていた目も消え、足の先から頭の先まで丸呑みされ、藻屑にもならず、完璧に消失してしまった。
看板に残されたのは、『たすけて!』の赤い文字と、水面を表現する水色の歪な線のみである。
早瀬に「委員長」とではなく「心結」と、下の名前で呼ばれたのは、初めてだった。
彼が瀬戸際にわたしの名前まで呼んで何を言いたかったかなどは、容易に判ることである。
ヤツはもうこれが末路だと観念して最後に、「大嫌いだ!」と渾身の力で悪罵するつもりだったのだ。
「みなまで言われなくて、残念だったね」
わたしは、ほくそ笑み、静止した看板に向かってつぶやいた。
雨が降りしきる中、沈静化した看板をうっとりと眺めて余韻に浸っていると、おもむろに、板面に残されていた『たすけて!』という叫びと水面の色が霞んでいき、やがて白紙となる。
〈心結ちゃん、ありがとう!〉
溜め池の主の字体が浮き出た。
中央に一度、わたしに対する謝辞が提示されたあと、看板の上端から文字列の雨が降り注いでくる。
〈あの悪餓鬼を懲らしめることができたのは心結ちゃんのおかげなのよ♪〉
「わたしのおかげ?」
〈そう♪ 貴女がここへ来て、『制裁を与えたい』と日々強く願う心が、あたしの波長と同調してパワーをくれたの♪ あたしの棲む処から此方側に具現化して影響を及ぼすことができるほどにね♪ 昨日がまさに、その時、だったのよ♪〉
「スゴイ! わたしの願いは聞き届けられていたのね!」
〈イエス♪ それで、わたしに力をくれたお礼として、彼に処罰を課す瞬間を特等席で見てもらおうと、今夜、貴女をこの場に招待したの♪ いかがだったかしら、喜んでは貰えた?〉
わたしは感動し、武者震いをした。
「もちろんです! あんなに素晴らしいショーを観ることができて光栄でした!」
〈ふふふ♪ 満足してもらえたようね♪ それじゃあ、あたしは、あたしの居るべき処に帰るわ♪ それから、この日の記念として、あたしの化身である河童の絵をこの看板に残して行くことにするわね♪ バイバイ♪〉
長々と列挙された文書が払拭されると同時に、昨夕に初見した『はいっちゃ ダメ! ○○小PTA』と水面から上半身を出している河童絵が、徐々に浮き彫りとなっていった。ただ、昨日と二箇所だけ違うところがあり、それは目玉である。「●」黒ポチだった両目がUの字を上下逆さまにした「∩」となっていた。微笑んでいるような相貌から満面の笑みを浮かべたものへと変わっていたのだ。
まるでマジックのようなその光景を目にしつつ、わたしはアハハと笑い出す。
とんでもない勘違いをしていたのだ。
この可愛らしい河童の絵を恐れる必要なんてまったく無かったのである。
だって、なぜならば、わたしの救世主だったのだから!
それを悪魔のように思い込み、攫われるなんてビクビクしていた自分は、底抜けに滑稽であると思った。
と、――
「誰だ、そこに居るのは?」
自嘲する声が少々大きくなってしまったようだ。テントの中から出てきたと思われる捜索隊の一人に懐中電灯を向けられた。
もっと看板を鑑賞して、早瀬が消失したという幸福感を噛みしめていたかったけれど、叱られるのは嫌だったので、跡を濁さず早々に立ち去ることにする。
「あっ、ちょっと、君!」
「なんだ、なんだ? どうした?」
「今、そこに、カッパを着た子供が――」
追手が掛かる前に、わたしは雨降る闇夜へと紛れた。