参
目を覚まし、窓からさしこんでくる日差しを浴びる。
気持ちよく背のびをした直後、瞼の裏に河童絵が滲んで、心に霞がかかった。
……結局、昨日の怪奇現象については、なにもわからず仕舞いである。
朝食時に、母から前日の言動について言及されるかと思ったのだけど、わたしが通常通りのお淑やかな振る舞いを見せていたためか、「宿題はちゃんと終わったの?」とだけしか触れられることはなく、無用な言い訳を造作せずに済んだ。もちろん、昨夜発した宿題とはその場しのぎのでまかせであり、出題などされていなかったので、親指を立てて「バッチリよ」とだけ言いさえすればよかった。
新聞を読んでいた父の目には、両膝頭に貼りつけた絆創膏が気になったようであるが、走って転んだと告げると、「またか……。気をつけなさい」と、短く嘆息し、新聞に目を凝らす作業へと戻った。
深く追求されることなく安心する。
わたしは食いっぱぐれていた昨晩のご飯とともに朝食を平らげると、足取り重たく家を出た。
***
学校への道すがら、あの注意看板には、どうしようもなく囚われてならなかった。
溜め池が迫るにつれて心臓がバクバク高鳴る。
眼球は、怖いもの見たさの好奇心と理解不能の恐怖心がせめぎ合い、フェンスの方へ視線を移そうとする動きと、それを戻そうとする動きで、激しく微動を繰り返した。
『見ちゃダメ、見ちゃダメ、見ちゃダメ、……』
必死で念じたおかげか、最終的には好奇心より恐怖心が勝る。
溜め池前の通り道は全力で顔を伏せて視線を落とし、なにも見ないように黙々と歩き過ぎた。
その判断は正解だったのだと思う。
横切り終えたわたしの背中には、何者かに凝視される視線がひしひしと突き刺さっていたのだった。
***
学校に着くと、友人からの威勢のよい「おはよう!」の挨拶や、わらわらと駆けまわるみんなの声で気持ちが落ち着き、だいぶ楽になる。けれども、5年1組の教室のドアを開けた瞬間、今の今まで完全に失念していた大事を思い出し、ハッとした。
懸案事象はもう一つあったのだ。
――早瀬にクマさんパンツを見られた件である。
すでに彼の手によって公表され、晒し者になっているのではと懸念しつつ、ロボットのようにぎこちない不審な挙動で廊下から教室に頭を入れ、中を覗き見た。
黒板は昨日の日直によって清掃されたままで、チョークによる告発文などは記述されておらず、小奇麗である。教室内の雰囲気も平時と相変わらずで、各々仲良しグループに分かれてテレビ番組やゲームなどの話題で談笑していた。座席についている友人は、わたしを見つけると笑顔で手を振ってくる。
――ホッとした。誰も噂話などはしていない。
教室後方のスペースでは、軍手と箒を使って野球ごっこをしていた男の子らが「あ、委員長が来たぞっ」と、怒られることを危惧し、道具を隠した。彼らはわたしを挑発する問題児の早瀬が傍に居ると便乗するクセをして、先導者が不在であると借りてきた猫よろしく従順である。なので、早瀬がクラス内に居ないことがその態度から判断できた。
「みんな、おはよう」
わたしは気丈で快活に発言し、入室した。
自分の席につくと、そつなく適当に友人と対話しながら改めて周囲をチェックする。
教室内にはやはり早瀬の姿は見当たらない。ロッカーにはランドセルが入っていなかった。友人にもそれとなく彼の所在を尋ねたが、今朝はまだ見ていないとのことである。
どうやら早瀬は登校前らしい。常ならわたしよりも登校時間が早いので珍しく思う。
通学してきたならば、誰かが話しかける前に、即刻、口に封をしてやる必要がある。
「心結ちゃんは、彼氏の居場所が気になるのかなぁ?」
「彼氏? 誰のこと?」
「またまたぁ。早瀬くんのことに決まってるじゃない!」
「はい?」
わたしが早瀬の姿を求めると、まるでわたしたちが恋仲であるように冷やかされる。これは今に限らず、ままあることである。
――どういう訳か、皆が皆、勘違いをするのだ。
わたしと早瀬が犬猿の仲であり、相容れない間柄であることは火を見るより明らかである。日常生活を共にするクラスメイトなら日々繰り返される早瀬との舌戦を目にしているはずなのだ。……にもかかわらず、仲良しと称し、あまつさえ、つき合っているとまで嘯くヤカラもいる始末。誠に可笑しなことであり、実に心外だ。
早瀬はわたし限定で、日課のように嫌がらせをしてくる忌まわしき仇敵なのである。委員長として日毎彼の悪さを正そうとするわたしに、相当な憎悪を抱いているのは疑いのない事実なのだ。まかり間違っても告白などされるわけがないのである。
キーン コーン カーン コーン
朝の会の予鈴が鳴っても、早瀬は教室に姿を現さなかった。
小学校入学からの皆勤賞が唯一の取り得である彼も、ここでついにアウトか、などと冗談半分に思っていると、たちまちに本鈴が響いてしまう。
馬鹿は風邪をひかないというけれど、ついに風邪をひいたかのかもしれない。
チャイム後まもなく、担任の男性教諭が登場した。
だが、様子がおかしい。
年がら年中スマイルを絶やさず元気印の先生がえらく厳粛な面持ちなのだ。
張りつめた空気を身にまとい、教卓に手をつく。
クラスのみんなも物々しい佇まいに気圧されてか、静かに固唾を呑んだ。
みなさんに大切なお知らせがあります、と、担任は前置きし、重苦しく通知する。
「早瀬くんが行方不明です。昨日から家に帰っていません」
――ついと、昨日別れたあと夕闇通りをひた走る早瀬の後ろ姿が脳裏によぎった。そして、彼の影を追うかのごとく眼目を動かした河童の絵が、脳味噌の表層に浮上。わたしの心臓を不正に脈打たせる。
寝耳に水の発表により、室内は驚きに満ち満ちた。
瞬時に静寂が弾けて騒々しくなる。
早瀬の親友が居ても立っても居られないとばかりに教壇に切り込んでいき、担任が言葉を繋ごうとするが煩さに遮られて敵わない。あたふたとするばかりだ。
わたしも心中穏やかではなかったけれど、学級が混沌とする今だからこそ学級委員長の仕事を果たさなければならない。
机の天板を両手で叩いて全員の耳目を集めた。
「みんな静かに。冷静になって、どういう事情なのか、黙って先生の話を聴きましょう」
まごつくことなく端然と訴えかけることで、動揺の伝播を断ち切る。
このような無秩序状態にあるとき、平常ならば、わたしが制止をするのを早瀬が混ぜ返してしまい、余計に混迷を深め収集がつかないようになってしまうものだけれど。皮肉にも彼が居ないことによって足並みがそろい、水を打ったようにピタリと沈静化したのだった。
担任曰く、早瀬は昨日、学校から帰宅し「裏山の沢で釣りをしてくる」と母親に告げ、道具を携えて家を出たきり、そのまま戻って来なかったそうである。
日が沈んでも一向に帰って来なかった早瀬を心配し、何かあったのではと気が気ではなくなった彼の母親は、懐中電灯を手にする。仕事から帰着した父親をスーツ姿のまま引き連れ、山へと分け入った。それから二人で沢の近辺をヘトヘトになるまで探しても見つけることができず、ようやく助けを求めてクラス担任に連絡が入れたのが、明け方になろうかという時分だったそうである。
早瀬の両親の狼狽ぶりから息子への慈愛のほどがいたく伺えるが、それでもやっぱりまずは一度平静さを取り戻して逸早く学校へ通報するべきだった。もし仮にそうしていたならば、緊急連絡網によって、わたしの家に早瀬の行方を尋ねる電話が回ってきた際に、彼が出掛けに告げていった「裏山の沢で釣りをしてくる」というメッセージが、真っ赤な嘘であると、すぐにわかったからだ。
「みなさんの中で、昨日の放課後、帰り道などで早瀬くんを目撃したり、一緒に遊んだという人は居ませんか?」
担任が欲していたのは早瀬の足取りに関する情報である。
友人らが「お前は見たか?」「見てない? お前は、どう?」などと互いに尋ね合う中、わたしは整然と挙手し、前日に溜め池で早瀬と遭っていたことを明言した。
例の溜め池は、今のような夏場には、学級通信でも特にしつこく危険地帯として取り上げられる区域である。そんな立ち入りを禁じられている場所に行って釣りをするなどとは言うことができないため、早瀬は裏山の沢に行くと母親にデタラメを与えたのだろう。
わたしと別れたあとに彼が裏山に行った可能性は完全に否定できないけれど、かなり低いと思った。おそらく、溜め池から自宅までの帰路で、早瀬の身に不測の事態が生じたのだ。
「そうか……」
事の次第を言い聞かせてあげると、担任は一時間目の授業の自習を指示し、沈痛な面持ちで退出していった。
無論わたしは、注意看板に突如として現出した河童絵については一言もふれることはなかった。母に教えた時のように、正気を疑われるだけに違いないからである。
ゆえに、【溜め池で釣りをしていた早瀬を注意していると、彼が何か急用を思い出したかのように一目散に走り去った】という事実を開陳したまでである。
担任が姿をくらますや否や、ドッと心持ちが悪くなり頭をかかえて戦々恐々と打ち震えた。
早瀬の最後の目撃者ということで、間髪入れず、男子に取り囲まれて質問攻めにあったのだけれど、かまっていられない。
そんな中、血吸ヒルのように群がっている彼らを、ありがたいことにも女子の皆様方がひっぺがして排除してくれた。
「アナタたち、心結ちゃんの気持ちを考えなさいよ!」
「そうよ! 好きな人がいなくなったのよ!」
「心結ちゃん、大丈夫だからね、早瀬くんはすぐに戻ってくるわ」
彼女たちは、机に突っ伏して丸くなり憂いているわたしの背中を摩ってくれたり、しゃがんで優しく声をかけてくれたりするのだけれど、――何か甚だしく思い違いをしている。
でも、もはやその誤りを訂正する余力は残っていなかった。わたしは我が身の無事を祈ることで一杯一杯だったのだ。他人のことなんて考えている暇はない。
とても嫌な予感がしていた。
一連の流れから慮るに、早瀬の失踪には看板の怪異が一枚噛んでることは否めないと思う。
河童絵が如何なる動機でそうしたかなどは、ひとえに計り知れず、知る由もないが、早瀬はきっと、…………持って行かれたのである。
――そして次は、わたしなのだ。
悪寒が総身を貫く。
昨夕の溜め池での一コマのように、早瀬に向いていた二つの黒目玉が、わたしに向き直ったような気がした。
***
この日の授業はとうとう最終まで自主学習となった。
担任は早瀬の捜索活動のために狩りだされたのだろう。各授業時間には別クラスの先生らが代わる代わる監督に来ていた。
正午には、町の各所に設けられた防災行政無線のスピーカーから早瀬の目撃情報を募る放送が木霊し、間隔をあけて何度も繰り返されるようになる。
放送開始のチャイムが反響するつど、いずれわたしの消息も同様にして追跡されるのかと、絶望的になり、吐き気を催した。女の子たちは誤解したまま、いたたまれないといった面差しで気遣ってくれた。
男の子たちの会話は時間経過とともに、早瀬の安否を気にしするというよりは、彼の身に何が起こったのかを当てっこするようなものへと変容していく。やがては神隠しに遭ったのではないかとまで話は飛躍する。
「馬鹿なことを言っているんじゃありません!」
クラスを訪問し、指導にあたっていた女性教諭が厳しく叱りつけたが、男子らもたまには的を射たことを言うものだと、わたしは密やかに思ったのだった。
***
放課後は、事件性に配慮したためか、集団下校である。
捜索活動は一段と本格化してきていた。
道々では法被を着込んだ消防団の人とすれ違い、パトカーや消防車も交通安全週間のように慌ただしく通過していく。
わたしの報告によって注目の対象となったのか、溜め池にもガヤガヤと人溜まりが形成されてもいた。
朝と等しく、わたしは俯いたまま溜め池から漂ってくる得体の知れない視線をかいくぐったのだった。
***
家に到着したわたしは、自室の隅っこでクマさんのぬいぐるみを抱きしめ、河童絵の影に怯えた。
そうして日も暮れるころになると、パートタイムで働いていた母が帰宅する。
母は、打ち震えているわたしを見つけるなり、驚きと苦悶の顔つきで迫って来た。
「早瀬くん、昨日から姿が見えないって言うじゃない!?」
早瀬が行方不明という重大ニュースは、既に母の知るところとなっていた。町の防災行政無線でさんざん呼びかけがあったので、否応なく耳に入っていただろう。
絆創膏を貼りつけてあるわたしの両膝を指して、憂いを含んだ母が問う。
「心結、あなた昨日、溜め池で早瀬くんに会ったって言ってたじゃない? ……そんな傷も付けて帰って来るし。……何か知っていることはないの?」
まさか、「溜め池の注意看板に描かれている河童が諸悪の根源なの!」などとは宣言できまい……。
河童絵の妖術かなにかで記憶を操作されていて、あの怪奇看板が普通であると思わされている母に向かい、ありのままを主張したところで、徒労に終わるのは目に見えている。溜め池から七転八倒して逃げ帰り、ケガの手当をしてもらったときのように、「何を言っているの?」と、顔を歪められるだけなのだ。下手をすれば頭のお医者さんに連れて行かれる。
だから母に対しても担任に教えたときと同じく、【溜め池でわたしと別れたあとの帰路で、早瀬の身に何事かがあったのではないか】と言うにとどまった。
身体に付いた傷は、もちろん、河童絵に一驚を喫して逃げ帰ったときのものだけれど、看板に関する一連の出来事は、昨夜、怖い話として処理してしまったため、辻褄合わせのための言い訳を考えなければならなず……しょうがないので、
【溜め池で釣りをし続ける早瀬のことを、力づくで引っ張りだそうとしたわたしは、侵入防止フェンスを越えようと試みた際、運動音痴が高じて転落。負傷してしまった】
と、いうことにした。半ば早瀬のせいで手傷を負ってしまったようにも聞こえるけれど、しっくりさせるには致し方ない。
「そうだったの……」と、母が哀しそうに八の字眉を拵える。「昨日、怖い話って言って、下手なお芝居でケガのことを誤魔化そうとしたのは、ケガの原因を作った早瀬くんのことを想って、庇うためのものだったのね……。私が早瀬くんのことを怒ると思って、あんな作り話をしたの?」
……はい??
母はわたしの説明に納得してくれたようであるが、なんだかわけのわからないことを言い出した。単にわたしがケガをしただけの話が、勝手な独自解釈と補完によって、母の脳内ではどういう訳か、わたしが早瀬のことを庇う話に変換されたようである。
母の質問は意味不明だったけれど、とりあえず納得さえしてくれれば後はどうであろうとよかったので、「……うん」と頷いておいた。
今は一刻も早く看板河童の魔の手から逃れる最善の方策を考案しなければならないのである。それ以外の事に頭の容量を割いている余裕はない。
次は、わたしなのだ。
対策を講じないと、早瀬の二の舞になって、わたしも持って行かれてしまうのである。
と、
ぎゅっ
「……え? ……どうしたの、お母さん?」
差し迫っている危機に慄いていると、突然、そうするほかに仕方ないとばかりに、母がわたしの震える身体を温和に包み込んだ。
「心結は優しい子なのね……」
「??」
とっぴな発言に顔をしかめて母を見やると、やるせないような気色を露わにしている。
「よりにもよって、あなたと会った後に居なくなるなんてね……。ショックでしょうけど、早瀬くんはきっと大丈夫よ。なんともないはずよ。きっとすぐに元気な姿を見せるんだから……。そんなに心配しないで……ね?」
「…………」
わたしを抱きしめながら、よしよし、と、赤子をあやすように背中を撫で擦ってくる母であるが、――どうも何か勘違いをしているようだ。
わたしは元より早瀬のことなど毛ほども心配してはいない。
落ち着きを欠いているのは正体不明の奇奇怪怪との衝突を畏怖しているからである。
頭の中は保身のことでパンパンなのだ。
第一、早瀬の身を案じる義理など何処にあるというのだろう。
むしろ、わたしと敵対する最大かつ唯一と言っていいほどの厄介者が蒸発してしまったことだけにピンポイントで焦点をあてたならば、それはそれは好都合なことで、喜ばしいことなのである。
母はクラスメイト並に、又はそれ以上に、わたしと早瀬が不仲であると熟知しているはずなのだ。なぜならば、彼と軋轢が生じるたび、ストレスの発散のために愚痴をこぼして、母に聞いてもらっていたからである。
もう毎日のお決まりのように「今日、早瀬のヤツが……」「また早瀬のヤツが……」「やっぱり早瀬のヤツが……」と、ヤツの品行愚劣さを逐一事細かに語り聞かせていたのだ。
それなのに、わたしが早瀬のことを心配していると想像するとは……母も母である。
(……ああ、息が苦しい)
呼吸を楽にしたかったので、とっとと解放して欲しかったのだが、それからしばらくの間、母に拘束され続けた。
腕のなかで、わたしは自分が生き残るための術を模索したけれど、妙案は出ず。溜め息の数が増えるばかりだった。