焼き立てクッキーとお引き換え
宝石箱に入れてあった五百円玉が、姿を消した。
ネックレスやブレスレット、ビーズの指輪、とにかくすべてのものをひとつずつ取り出し、空っぽの宝石箱を穴が開くほど見つめる。
(――ない)
大きく息を吸い込んだところで呼吸を止め、強く目を瞑った。にじんできた涙を強制的に引っ込め、一気に息を吐く。再び息を吸い込み、
「将太っ!」
ほのかは家中にきこえるような大声で怒鳴ってから、部屋を飛び出した。
向かいの部屋でテレビゲームをしていた亮太が、振り向きもせず答える。
「っるせーな。将太なら朝、兄ちゃんと出掛けたよ」
(逃げられた……!)
ほのかには兄が三人いる。
一つ年上で中学二年生の将太とは、常にケンカが絶えない。と言ってもほとんどの場合、将太が先に手を出してくるのだが。
この前は、学校のロッカーに置いてあった絵の具セットを勝手に持ち出され、新品同様だった絵の具のチューブはすべてぺちゃんこ、パレットと筆はかくも悲惨な状態と成り果ててしまった。
だから高校は絶対に違うところへ通おうと、ほのかは固く胸に誓っている。
お小遣いを盗まれたことなど、数え切れない。その度に財布の隠し場所を変えているのだが、何故かいつもバレてしまうのだ。
あの五百円玉も、将太に盗まれたに違いない。
「あのバカ男、どこに行ったの」
思ったよりも低い声が出た。震えは隠しきれない。
一秒、二秒。
……返事はない。ゲームに夢中なのだ。
亮太は高校一年生。将太とはほぼ正反対の性格だ。お互い無関心で、普段からろくに会話も交わさない。
「ねえってば!」
「しつけえな! んなこと知るかよ」
唇を噛みしめて、亮太の背中を睨み付ける。
どうすれば良いかわからなくなり、とりあえずどたばたと階段を駆け降りたところで、ほのかは立ち止まった。がちゃりと鍵が開く音。
亮太の舌打ちがかすかに聞こえたけれど、そんなことはまったく気にならなかった。
「ただいま」
「お兄ちゃん……と将太!」
ちょうど家に帰ってきた将太、そして一番上の兄、蓮哉と鉢合わせになったのだ。
「将太! あたしの五百円、返しなさいよ!」
声が裏返って将太が笑ったけれど、ほのかは黙ってにらみつけた。
スニーカーを脱ぎ捨てながら、将太は言う。
「ぎゃあぎゃあうっせえな。そのうち返すって」
「もう使っちゃったの?」
「さぁどうでしょう」
わざとらしく首をすくめる将太。
今ごろは、コンビニのレジの中だろうか。ゲームセンターの両替機の中かもしれない。
まったく悪びれてもいない将太に、蓮哉は叱りつけるように言った。
「将太、ほのかの小遣い、盗ったのか?」
「借りただけ」
「他人の財布を勝手にいじるのは最低だぞ」
すると将太は、バカにするように鼻で笑った。
「財布なんていじってませーん。こいつ、宝箱に金しまってやんの」
「宝箱?」
「あれは宝石箱よ!」
言い張るほのかに見向きもせず、将太は階段を二段飛ばしで上がりだした。
「要は宝物入れてる箱だろ? 宝箱は、見つけたら即開けて中身を手に入れるのが常識ですぅ」
「いいから早く返してよ!」
ほのかの怒りは最高潮に達していた。
しかし将太の返事はない。代わりに、少し乱暴にドアを閉める音が聞こえた。
感情が急に冷めていく。
爪がくいこんだてのひらに、初めて痛みを感じる。噛みしめていた奥歯が緩んだ。
次の瞬間、ほのかはこの場からいなくなってしまった将太を、心の中で罵倒した。
しゃがみこんで将太のスニーカーをそろえ直す蓮哉。その背中を見つめ、この二人きりの状況を打破する方法を考える。
しかし頭は混乱しきって、空回りを繰り返すだけだ。
程なく蓮哉は立ち上がり、ほのかの方に視線を向けた。
同じ家に暮らしているにもかかわらず、こんなに近くで蓮哉を見たのは久しぶりかもしれない、とほのかは思った。
(背、伸びた……?)
そんなことを思っていたからだろうか。一瞬、反応が遅れた。
真正面。まともに視線が絡まる。
蓮哉は前髪を掻きあげながら、ため息をついた。
「困ったもんだな、将太も」
ほのかはとっさに斜め下を向き、乱れていない前髪を直した。かすかに触れただけの手に、顔の熱さが伝わってきた。
呼吸の音さえも聞こえてしまいそうな空間。そっと深呼吸をしたら、喉がひっくと鳴った。
ごまかすために無理に鼻をすすっては、軽い咳払いを繰り返す。
「……ほのか?」
腰を屈めて、蓮哉はほのかの顔をのぞきこんだ。
囁くような、少しかすれ気味の声。
この声をきくだけで、自然と涙があふれそうになる。
(――どうしよう)
怒りのせいもあり、頬も目も真っ赤になっているに決まっている。
口を開いたところで、まともに言葉をつなげられる自信はなかった。
次の瞬間、ほのかは家を飛び出した。
サンダルを突っかけるのにてこずった一瞬、肩に手が触れた気がした。
何度か名前を呼ばれたが、走り出した足は止まらなかった。
幼い頃からほのかの遊び相手になってくれたのは、意地悪な将太でも、無愛想な亮太でもない。
おもちゃのアクセサリーを買ってくれたり、二人きりのババ抜きに夜中まで付き合ってくれたのは、蓮哉だった。
もちろん、ほのかはそんな蓮哉が大好きだった。ほんの四、五年前までは、「お兄ちゃんと結婚する」と言い張り、両親を苦笑させ、将太からはひどくからかわれていたものだ。
兄弟同士は結婚できないという事実を知った後でも、妹という立場を疎ましく感じたことはなかった。むしろ特権だとさえ思っていた。自分が妹である以上、兄である蓮哉は、いつまでも無条件で、自分のものだと信じていた。
けれど。
自分に向けられる笑顔と、他人に向けられるそれに、違いを見出そうとしたのは、いつの頃からだろう。
頭をなでる蓮哉の手に、何か特別な意味が込められていないかと期待し始めたのは、いつの頃からだろう。
蓮哉に彼女がいると知ったのは、去年の今頃だった。蓮哉が通う高校の学校祭に行ったときだ。
あふれかえる人の中で、ほのかは二人を見つけた。
蓮哉は彼女の手をひき、人ごみを縫って、立ち尽くしているほのかのところへやってきた。
立ち止まっても、二人の手は繋がれたままだった。日焼けした蓮哉の手に絡まる、白い指と赤い爪。
視線を感じて顔を上げると、蓮哉の肩に軽く首をもたげる彼女は、まるで品定めをするようにほのかを見ていた。
胸元まで伸びた髪はくるくるとカールし、少し茶がかっている。
作り物のようになめらかな白肌に、黒目が強調された大きな目。長いまつげは綺麗に上を向いている。桜色のつややかな唇は、どこか不機嫌そうだった。
よく来たね、などと言いながらにこにこ笑う蓮哉を前に、ほのかは曖昧な表情を保つのが精一杯だった。
友達とはぐれたのかと尋ねられ、ただ小さくうなずいた。
嘘だ。一人で来たのだ。蓮哉と一緒にまわって歩くために。
「ほのか、クッキー買っていってよ。兄ちゃんのクラスで売ってるから」
頭の中でいろいろなものが絡まりあっていて、何を言われたのかすぐに反応できないでいた。
「ほのか?」
優しい声と共に、その横に立つ彼女からかすかな苛立ちの気配を感じ、ほのかはわけもなく首を横に振った。
本当はわめき散らしたい気分だった。
一瞬の間をおいて、蓮哉はごく自然に、彼女と繋がる手を離した。何か言いかけた彼女にかまうことなく、財布から五百円玉を取り出すと、それをほのかに握らせた。
「いっぱい買って友達と食べなよ」
うつむいたまま、はっきりとしない態度のほのかに、
「……蓮哉」
急かすような彼女の声。
その瞬間、ほのかは踵を返して走り出した。
何人とぶつかったかわからない。ただ、すれ違う人すべてが、とても羨ましく思えた。
いつから付き合っているのか、同じ学校の人なのか、気になることはいくらでもあった。
が、それを蓮哉に尋ねることはしなかった。よりによって、蓮哉の口からその答えをきくことだけは避けたかったし、それと同時に、ほのかは蓮哉自身を避けるようになった。
目的のないショッピングに蓮哉を誘うことはしなくなったし、長々とくだらないおしゃべりをすることも今ではありえない。
自分と出掛けるよりも、彼女とデートに行く方が楽しいのではないか。自分と話している暇があるくらいなら、一分でも一秒でも多く彼女と話したいのではないか。
今までだって何食わぬ顔をして、心の中では煩わしい妹だと思われていたのでは――などと、卑屈な考えにまで至ってしまう。
その一方で、だんだんと大人びてくる蓮哉の、例えばすっきりととがった顎に、例えば伏した目の濃い睫に、ほのかは胸の奥がざわめくのを感じた。
そして文字通り、直視することさえ難しくなってしまったのだ。
(……でも)
考えに考え抜いて、ほのかはあることに思い至った。
(少なくともあの時は、あたしを優先していた――)
学校祭の、あの時。いつまでもほのかにかまっている蓮哉に、彼女は確かに苛ついていた。蓮哉だって気付いていたはずだ。彼女を優先したなら、ただの妹に過ぎない自分なんか放っておくはず。
そう思い込むことで、自らを支えてきたのだ。
その証が、あの、五百円玉だった、のに。
あの人の顔がちらついて不安になるたびに、五百円玉を握りしめていた。一瞬でも優位に立った自分を確認したかった。
そんな気休めさえも、今は失ってしまったのだ。
顔をあげると、砂場の砂は、クリーム色に変わっていた。
砂の面影はまったくない。どろりとしていて、甘い香りが漂ってくる。
「えっ……」
ぎょっとしてほのかは立ち上がった。
先ほどまでは誰もいなかった公園に、いつのまにかたくさんの人があふれていた。皆、ほのかと同じくらいの年頃の女の子だ。それぞれ、せっせと作業に勤しんでいる。
(あれって……クッキー?)
何人かは砂場のふちに立ち、長い木の枝で全体をかき混ぜ、その隣では大きなテーブルを囲んで、生地を伸ばしている。そのまた隣のテーブルでは、型抜き作業に没頭していた。
その流れ作業を目で追っていくうちに、違和感は徐々に消え始めていた。この異質な光景が、日常に溶け込みだしている。
「あなた、暇ならちょっと来て」
びっくりして声のしたほうを向くと、女の子の笑顔と出会った。
フリルたっぷりのエプロンドレスが、よく似合っている。
ほのかは手をひかれるまま歩き出した。
これは何かの制服だろうか。公園内にいる人は皆、同じ格好をしている。
(給食当番のエプロンも、このくらい可愛かったらいいのに……)
そんなことをぼんやり思っていると、彼女は立ち止まって振り向いた。
「この中でクッキーを焼いてるの」
そう言って、白い大木を見上げる。幹には、小さな扉がついていた。
「焼き上がるまで、話し相手になってくれる?」
彼女は大木の根に座り込み、ほのかにも座るように促した。
「やわらかい……」
思ったよりも座りごこちがよくて、ほのかは思わず笑みをこぼした。
「……爪、可愛いね」
彼女は、ほのかの爪を指さし、そう言った。パールがかったチェリーレッドの爪。
「え……ありがとう」
改めて見ると、まだぷっくりと子どもっぽいほのかの手に、それはあまり似合っていなかった。
「雑誌に、載ってたから」
言い訳するようにほのかは言った。
「雑誌?」
「そう。女子高生の間では、この色がいちばん人気あるって」
「あなたは高校生?」
「ううん、中学生。でも」
(あの人は……お兄ちゃんの彼女は、高校生だから)
言葉には出せない。対抗しているというよりも、一人でむきになっているようで、何だかみじめに思えた。
「でも?」
「早く大人になりたいの。もっと早く、大人に……」
「背伸びしたいのね」
「……そうかも」
「誰かに追いつきたいの?」
「……そう、かも」
「少しは追いついた?」
ほのかは力無く首を横に振った。
途端に気まずい沈黙が流れ、何か無いかと辺りを見回す。
「あの……どうしてみんなでクッキーをつくってるの?」
ほのかは思い切って尋ねてみた。
みんな、そうすることが当たり前のような顔をして作業に勤しんでいるので、なかなか切り出せなかったのだ。
「クッキーはお金なのよ」
彼女は、何でもないことのように答えてくれた。
「クッキーが、お金?」
「そう。自分たちでつくったクッキーは、自分の欲しいものと交換できるの」
「……何でも?」
「何でもと言うわけではないけれど、それに見合ったものならば。あなたは、何か手に入れたいもの、ある?」
「手に入れたいもの……」
真剣に考え込むほのかを見て、彼女は小さく笑った。
「ものに限らず。こういうふうになりたい、だとか」
言われて思い描くのは、あの人のことだ。
「……髪、変えたいな。くるくるさせたい」
やっと鎖骨まで伸びたまっすぐな髪をもてあそびながら、ほのかは言った。
「あと、もっと早く伸びてくれたらいいんだけど」」
「今のままでは困るの?」
「困るっていうか……」
蓮哉の隣にいた、思い出したくもないあの人は、思い出すたび美化されて、どんどん差が開いてしまうのだ。
「髪が変われば、解決?」
ほのかはすぐに首を振って否定した。
「お化粧もしたい」
「お化粧?」
「そう」
「あなたは何を手に入れたいの?」
ほのかは、彼女のまっすぐな瞳にとらえられた。そらしてしまえないほど、真剣な瞳。
「何のために、変わりたがってるの?」
見て欲しい、から。
「ほんとうに?」
一番に、なりたいから。
お兄ちゃんの隣にいる、あの人のように……。
「あの人に取って代わりたいの?」
それは違う。
あくまで見て欲しいのは、自分だ。
「そう言うあなたは、誰を見ている?」
……お兄ちゃんよ。
「違うでしょう? あなたは逃げているだけ」
逃げている……?
「変わりたがっているくせに、変わるのが怖いのよ」
自分が変わっても、他が変わる保証がないから。
そしていつまでも過去の希望にすがり付いている。
過去に希望なんてあるはずないのに。
顔をあげると、目の前に焼きたてのクッキーが並べられていた。
「……あたし、寝てた?」
「どうかしら」
まだ柔らかいクッキーを割って冷ましながら、彼女は笑う。
(あ、お金割ってる)
と思った瞬間、頭の中にあの五百円玉が思い浮かんだ。
「クッキーがお金なら……、とっておけないってこと?」
「そうね」
「じゃあ貯金もできないの?」
「できないわ。けれど、ずっと自分の手に握りしめておくことに、価値はないでしょう? 現状維持のまま、何も変わらないもの」
曖昧な相槌を打ちながら考え込むほのかに、彼女はさらに続けた。
「お金と違ってクッキーは食べられるし」
「食べてもいいの?」
「クッキーだもの」
さもおかしそうに彼女は笑う。
「とっておいても、かびていくだけで、もったいないでしょう? ためこむのは損なのよ。使うべきときに、使い道に合わせた使い方をして、それでこそ価値があるの」
「……とっておけなくて食べてもいい? そんなものがお金になれるの?」
「ええ」
「それで何が買えるの?」
「何があるかしらね」
「何がって……」
「あなたには、見えていないものかも」
「……たとえば?」
彼女の口調を真似て、ほのかは言った。
「そうね、たとえば……今」
「今?」
「ええ」
彼女は小さくうなずき、半分に割ったクッキーを口に入れた。それを飲み込むまでのあいだ、ほのかは探るように彼女を見ていた。
「今日をとばして明日に行くことはできないでしょう? 未来ばかりを見て今をないがしろにすると、未来も今も共倒れになってしまう。失わなくていいものまで、失ってしまう」
ほのかは、彼女の言うことがすぐには飲め込めなかった。
「両手を出して」
しかし考える間を与えないかのように、彼女は言う。
言われるまま差し出した両手に、彼女は何個かクッキーを乗せた。
まだ温かい。
「何を買うかはあなたの自由」
何を手に入れるかはあなたの自由。
「その結果どんな自分になるかも、あなた次第」
自分をもっと、見てあげて。
その時ほのかは初めて、彼女の顔を見た。
それは、鏡で何度も見たことがある顔に似ているようで、けれど、視界が、歪みだす。
何故ここにいるのか、何をしているのか、一秒前の記憶さえ、あやふやで。
それでも、無意識に握りしめていたクッキーの温かさだけは、確かに、感じていた。
顔をあげると、砂場はもちろん砂場だった。
空はすでに茜色に染まり、ほのかは相変わらず、ひとりでベンチに座っていた。
いつもは賑やかなこの公園に、今日は誰も来なかったようだ。
ほのかはゆっくり立ち上がって、軽く体をほぐした。どのくらいの間、ここに座っていたのだろう。
(……あたし、寝てた?)
こんなところで? 座ったまま、昼から夕方まで?
そんな疑問でさえ、すがすがしい気持ちに包み込まれてしまう。
急に風を切りたくなって、ほのかは駆け出した。リズムを刻む足音が心地よい。両手をいっぱいに広げて、風を抱きしめる。
風はどこか甘い香りを漂わせながら、ほのかの背中を押した。
「……ただいま」
玄関に将太のスニーカーはなかった。友達の家にでも行ったのだろう。
(うるさいのがいなくてよかった)
リビングに入った瞬間、ソファに腰掛けた蓮哉と目が合った。
「おかえり」
蓮哉はリモコンでテレビを消し、中途半端な場所に立ち尽くすほのかに、にっこり笑いかけた。
「心配してたんだよ、いきなり飛び出してくんだから」
ソファにもたれこみ、足を組んだこのポーズが、昔からほのかは気に入っている。
「ごめん、ちょっとね」
「クッキー」
「……え?」
「焼いてみたから食べて」
蓮哉の視線を追うと。
テーブルの上に、金網に並べられたクッキーがあった。
飾り気のない、シンプルなバタークッキー。
「お、お兄ちゃんが、焼いたの?」
「焼き立てだから。ほら、将太が帰って来ないうちに食べよ」
「……」
「どうした? そんなに不味くないから、ほんと」
素直になりきれなくて、込み上げそうになる嬉しさを抑え込んでしまう。けれど不自然にこわばった顔を見せたくなくて、ほのかは蓮哉の隣に座った。
「お兄ちゃん、クッキーなんて作れたんだね」
「去年の学校祭で、クラスのやつと作ったから。さっき急に作りたくなってさ」
「へぇ……」
「兄ちゃんの作ったクッキー、一回くらい食べてよ」
あやすような、やわらかい口調。
(好きだな……この声)
今更なことを、つい思ってしまう。
ほのかはひとつ、手に取った。
まだ温かい。
この感覚。何か思い出しそうで、もう少しで思い出せそうで、もどかしい。
(……そう言えば)
この前の社会のテストでも、このもどかしさと戦った。結局答えは思い出せなくて、見当はずれなことを書いてしまったけれど。
(まぁ……いっか)
思い出せないということは、思い出す必要がないということだ。
「うん……おいしい」
「だろ?」
「今度、教えて。一緒に作ろ」
一瞬、驚いたような顔をした蓮哉に、ほのかは気が付かなかった。
「これ、きれいな丸だね」
五百円玉よりひと回りほど大きいクッキーをつまみ、ほのかは言った。
あの五百円玉にこだわっていた今朝までの自分が嘘のようだと、ほのかは思う。
このクッキーと、それから、ちらりと横目で見やる。
(三十センチ、ってとこかな)
蓮哉との、この距離。
代償の割には、もっと、ずっと価値があるものを掴みかけている。
ほのかは蓮哉の横顔に、そっと笑いかけた。