ただ一人雪原に立つ
俺の父はこの国の将軍の一人だった。
母も居た。しかし、病でこの世を離れた。
父は殺された。
暗殺である。父は何も罪を犯してなどいなかった。
ただ、高官に疎まれただけだったと聞く。
白銀の世界で血の海に一人立ち尽くしたことを覚えている。
ただ、何もできなかった。その悔しさは忘れたことなど無い。
忘れてはいけないのだ。
その国は腐っていた。
役人の賂が横行するのは、当たり前。
狡猾な者が富む。
民は税を搾り取られ、虫けらのように命を奪われる。盗みはどの街でもあるものへと、変化していた。
どこでこの国は間違ったのか。
吐き出す息は白い。
身体からは微かに湯気が立ち上っている。
「進、後ろにいるのは分かっている。出てこい。」
一人のまだ少年と言えるほどの男子が姿を現す。
「狼格様。季は来たのではございませんか。」
着衣をしながら、狼格は口角を不敵に上げた。
「ああ、季はきたようだ。自ら……な。」
数年前の年の暮れのことである。
元々、狼格にも主君が居た。現王の劉蔡である。
幼王に献身的に仕えていたのだが、妬む者も居る。
桃家の李毅がその一人で最も権力を手にしていた。
この男は財政も、民政も分からぬ頭が足りない男だった。
反乱を企てて、王に成り代わろうとしている、と現王に囁いた。判断力はまだまだ未熟な幼王。
その玉座を失うことを恐れたのだ。捕縛され、牢城に入れられた。
自分は出来うる限りで、劉蔡王に仕えてきた。
しかし、この扱いはなんだ?
政治を手掛けつつ、学ぶ手伝いをしたつもりだった。
軍についても、狼格は軍規を厳しく締めて鍛え上げた筈だった。
幼王をないがしろにした者達をこの手で社会的に抹殺してことも。
全ては主君の為と思い、行ってきたのに。
静かな怒りは胸を焼いた。怒りのままに暴れれば、看守に酷く殴られた。
そのまま、雪の降りしきる中放って置かれた。
牢城の外である。
怠惰な看守は致命的な誤りを犯した。
狼格は生きていたのだ。
しかし、死はすぐ傍まで迫っていた。
それもいいかもしれない。死んだ後のことは関係がない。独りの俺には。
ふと、温かな手がのばされた。それを意識を手離す直前で見た気がした………。
火が燃えている。頬に感じる空気は暖かなものだった。
浄土に来たのか。
ふと、そんなことを考えた。なら何故痛みを感じる?目を開けば、木造の天井が見えた。
しばらくの間ただぼうっとしていた。
「…………目が醒められましたか?」
高く澄んだ少女の声。耳に快い。扉を閉めながら、尋ねられる。
黒髪は艶やかで癖がない。年は十か、十一。
「何故助けた?」
「雪の中で意識を失っていれば、凍死してしまいます。」
「そなたは厄介者を抱え込んだだけに過ぎん。」
「……此処はのどかな土地です。あの牢城を除けば。あんな所に死人がいれば、人々は安心して暮らせなくなります。」
ふと、少女は目を瞑る。
身なりはみすぼらしいものではない。
口調から領主の娘だろうか、考えた。此処の領主はどの一族だ……?
「名は。」
「貴方こそ御名を教えて下さいませ。」
それなりに少しは頭は働くらしい。自分が何処の家の者か、簡単には答えない。
「此処に暫くの間邪魔する。」
「先程とおっしゃることが違いますが。」
「ならば追い出せば良い。」
彼女は頭を振った。
その日から二人の奇妙な共同生活が始まった。その土地の者達は、少女を「姫様」と呼ぶのだった。
互いに干渉せず、その存在は認めている。それは簡単であるようで、難しい。
春の訪れが野に新芽が出てきたことによって伝えられる。そんな日の朝方。
「ご存命で何よりでございます、狼格様。」
「進か、久しいな。ああ、この国の綻びがある故に私は生きている。」
「民は疲弊しております。新しい国を求めています。桃家の横暴ぶりに高官もあきれ果てて、その躍らせられる王にもまた。」
世の中は目まぐるしく変化し、時を刻む。
民の為に、と立ち上がった者の血を受け継ぐ者が民を苦しませる。
繰り返される行為。それでも民衆は“王”を求める。何故求めるのかは解らない。
考えたこともない。
「始めようか。」
「長くなります、きっと。」
「礼を言ってくる。」
誰にとは言わない。知らないのだから、仕方ない。
頭を垂れた進に背を向ける。
地と草を踏みしめる音がやけに大きい。
「世話になった。」
光を宿した漆黒の瞳がこちらを向く。
「行ってしまわれるのですか?」
「ああ。……名は?」
「何故?」
「知らなければ、迎えに来れないだろう。『姫様』?」
「……つです。」
小さな何処か動揺している声だった。
「聞こえなかった。」
「雪です!」
ふと笑えば、彼女の白い頬にほんのり赤みが差す。
「雪、必ず迎えにくる。いい女になって待っていろ。」
抱きしめた体は細く、女らしい丸みはない。
腕を解き、背を向けた。彼女の視線を感じていた。
だが、振り向けなかった。振り向かなかった。
ここの生活は心地良かった。穏やかで柔らかで。
向かう道とは真逆の方向だ。殺伐とした世界は寒々としているに違いない。
それでも進まなければいけない。
俺は一人雪原に立っていた。
「雪、会いたいな。」
俺は桃家一門を処罰した。新しい王として。
彼女の名は、桃雪と言う。
もう全ては後の祭り。
雫が雪を溶かした。