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とさつ場の子豚

作者: 山中幸盛

 邦彦がかつて勤めていた旧市営とさつ場では、朝になるとカラスが八方から集まって来た。カラスは賢くて「針金の先端をかぎ状に曲げて餌の容器をつり上げ餌を食べた」との英学者の実験例があるほどだ。

 それに比べると豚はまるでアホである。係留場の柵の中では繁殖豚のオスがメスの尻を追い回し、事故畜解体場ではナイフで大動脈弓を突かれて倒れている豚の横で、まもなく同じ運命をたどる豚が足下に流れる血をぺろぺろなめてノドの渇きを潤している。

 繁殖力が旺盛で発育の速度がべらぼうに早く、産まれた子豚が百㎏以上の体重になるまでに半年しか要さない。食肉用として出荷されるのは主に百十㎏から百二十㎏に成育した豚だが、他にも大貫と呼ばれる雌雄の繁殖豚が搬入されてきて食用にもなる。


 九月初旬の朝、邦彦が朝礼の後で事故畜解体場の横を通りかかると、柵の外に大貫のメス豚が一頭横たわっている。ここに運ばれてくる豚は膿毒症で廃棄処分される豚や、足の骨折などで自力歩行が困難なため解体ラインに乗せられない豚なのだが、そいつの尻のところに脱糞にしては大きな物体が一個転がっている。もしやと思って近づいてみると、やはり産み落とされた子豚だった。

 ごくまれにあることで、昨年も、孫のペットにすると言っておばさんの一人が引き取って育て、時々職場に連れてきたのでその可愛らしさを同棲している彼女に話したところ、「飼ってみたい」とねだられていた。やっとその念願に応えられるかと妙に緊張する。

 そこに運良く、食肉衛生検査所検査員の鳴海が通りかかったので大声で呼び止めた。

「こいつ、飼いたいんだけど」

「どれどれ」

 と鳴海はやってきて、子豚を一目見て「いけるかもしれない」と邦彦に希望を持たせ、近くに落ちていたビニール紐を拾って熱湯でさっと洗い、手際よくヘソの緒を縛ってナイフで切り離し子豚を邦彦に差し出した。

「一番上の乳房が一番乳の出がいいはずだから、子豚の口を当ててやって」

 邦彦はその乳首に子豚の口を当てがってみるが子豚はくわえようとしない。母豚は右頬をコンクリートの床に預けたままじっとしている。ウィンストン・チャーチルの『犬は我々を尊敬し、猫は我々を見下しているが、豚は対等に見てくれる』という名言通りの、とても人間的で哲学的な眼差しだ。

「マッサージしてみるから、そのままにしててよ」

 獣医資格をもつ鳴海は両手でその乳房を揉みしだきながら教えてくれた。

「人間の抗体の場合は胎盤から胎児に移るんだけどね、豚の場合は初乳の中に含まれているから乳を飲まないとヤバイんだよね」

 と鳴海が言い終わらないうちに、乳首からじわっと白い乳が流れ出てきた。すると子豚が反応し、自分で乳首をくわえてコクコクと飲み始めた。

「おっ、こいつ見所あるよ」

 と言って鳴海は立ち上がり「分からないことがあったら検査所まで聞きに来て」と言い残して仕事に行ってしまったが、邦彦は子豚が飲み疲れるまで見守るしかなかった。

 邦彦の朝一番の仕事は、冷蔵庫にびっしり吊されている豚や牛の枝肉を、せり分や出荷分ごとに分けて手で押して移動させたり、トラックの荷台に担いで積み込むことだ。

 邦彦は班長を見つけて頼み込んだ。

「この豚、飼いたいんで、ちょっとお願いします」

 同僚たちも仕事を中断して集まって来た。「久しぶりだがや」「どうせ三日坊主だからやめとけ」「餌代が大変だぞ」等と囃し立てるがどの表情も例外なく好意的だ。『殺戮の職場』で『生かす行為』を咎めるものは誰一人としていないのだ。班長と同僚たちが「急げよ」と言ってくれたので邦彦は子豚を抱きしめて更衣室まで走った。

 ロッカーからバスタオルを取り出して子豚の体を拭き、それをポリバケツの底に敷いて子豚を載せると小刻みに震えている。もう一度母豚の元に戻って乳を飲ませた。

 その後も仕事を抜け出して二回母乳を与え、昼休みには薬局に行って人間の赤ん坊用の粉ミルクと哺乳瓶を買いそろえた。仕事を終えてアパートに帰るとメールで知っていた彼女が歓声をあげて子豚を迎え入れてくれた。

 しかし、子豚をアパートで育てるには限界がある。いかんせんこいつは食肉用の大ヨークシャー種をベースにした改良品種豚だ。そのため成長が著しく早く、一か月が過ぎて離乳させる頃には約七㎏にも育っていた。

 では、今後のこいつの運命はというと、前例のように近々どこかの畜産農家に引き取ってもらうことになるだろう。ちなみに、その肉質は脂っぽくてマズイそうだ。合掌。

                              (文芸同人誌『北斗』同人)



*『東海志にせの会』発行「あじくりげ」2009年(平成21年)12月号【味・ショート・ショート】に掲載

*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ  http://12393912.at.webry.info/   



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