悪女のあなたは死にました
ドアを開けると、むせ返るような香りがした。薔薇の花を煮詰めたかのような、甘くて芳醇な女の香りだ。
「もう戻ってきたの?」
クスリと女が小さく笑う。しっとりと耳に響くハスキーボイスだ。
女はベッドの上で身じろぎをして来訪者を見る。そして、思っていたのと違う男が立っていることに気づき「あら」とつぶやいた。
「侯爵様のお知り合い?」
「ゼータといいます」
ゼータはこたえながら、女をまじまじと見た。
まばゆく輝く金髪のウェーブと雪のように真っ白な肌、ピンクダイヤモンドのような透き通った瞳の持ち主で、左側には涙ボクロがある。シーツからは豊満な裸体が見え隠れし、男を惑わす色香を感じた。
(なるほどな)
と思いながら、ゼータは黙ってベッドサイドの椅子に座る。女はゼータに向かって微笑むと、ベッドからゆっくりと身を起こした。
「ゼータ、ね。どうしてこんなところに来たの? ここはあなたのような子どもの来る場所じゃないと思うけど」
クスクスと笑いながら、女はゼータの両頬を覆った。胸元を隠していたシーツがずり落ちるが、女は気にする素振りもない。ゼータは真顔のまま女に向き合うと、ほんのわずかに目を細めた。
「アンさん、というそうですね」
「そうよ? あなたのパパから聞いたの?」
女――アンはそう言ってニコリと笑う。
「侯爵様に生き写しね。そのサラサラした黒い髪も、緑色の瞳も、真面目そうな顔立ちも、とってもよく似ているわ」
「――真面目な人間は、こんな形で女性を囲ったりしないと思いますが」
「あらそう? でも、別にいいじゃない。ねえ、あなたもあたしと遊びたいの?」
アンはゼータにしなだれかかる。ゼータは「いいえ」とこたえると、アンを優しく押し戻した。
「ただ、興味があっただけです」
「ふーん」
アンは首を傾げつつ、ゼータに向かって目を細める。
その日から、アンとゼータの奇妙な関係がはじまった。
「――すごい量のドレスですね。父からの貢物ですか?」
ゼータは数日置きに、父親がいない時間帯を見計らってアンのいる邸宅を訪れる。この日アンはベッドの上や床にドレスを広げ回り、鏡の前で一人着替えを楽しんでいた。
「半分はね。もう半分は別の――前の男性からいただいたものよ」
アンはそう言って満面の笑みを浮かべる。ゼータはアンとドレスとを交互に眺め、微かに顔をしかめた。
「赤がお好きなんですか?」
「別に? あたしが自分で選んでいるわけじゃないもの。だけど……そうね。一度だけでいい。いつか、白いドレスを着てみたいわ」
アンはどこか遠くの方を見つめながら、そんなことを言う。
「父に強請ればいいじゃないですか。きっと喜んで贈ると思いますよ」
「どうかしら? 頼んでみてもいいんだけど」
アンはクスクス笑いながらゼータの頬をそっと撫でる。
「かわりにゼータへお願いしようかしら」
「僕にですか?」
冷笑を浮かべるゼータに向かって、アンは満足げに目を細めた。
侯爵――ゼータの父からアンに与えられた邸宅は、王都の外れにある小さな一軒家だった。目立たぬよう見た目は地味にしてあるが、中は高価な調度類で溢れている。美しいシルクの絨毯に、小さな邸宅に似合わぬ大きな壺、有名画家に描かせた絵が何枚も飾られており、アンのためにどれだけの金が費やされたのか計り知れない。
けれど、いつ来てもアンの部屋はとっ散らかっていた。何百万もするであろう宝石が、脱ぎ捨てられた服やゴミと同列に放り投げられている。
「そろそろ片付けをしたらいかがですか?」
「片付け? そんなの、そのうち誰かがしてくれるわ」
ゼータの問いかけに、アンは気だるげにこたえた。
「最初はね、毎日誰かが来ていたのよ。片付けやら食事の世話やら、あたしを着飾ったりするためにね。だけど、すぐに頻度が減ってしまったの。どうしてかしら?」
心底不思議そうにアンが言う。ゼータにはそのこたえがわかる気がした。
(嫌なんだろうな。アンさんの生活を目の当たりにするのは)
アンは自分ではなにもしない。仕事をすることもなければ、自分自身の世話をすることすらない。
それでも、欲しいものはなんでも手に入るし、なにをしたって、しなくたって許される。真っ当に働いて金を稼ぎ生活をしている人間からすれば、こんなにも不公平なことはない。
「アンさんは外で働いてみたいと思ったことはないんですか?」
「働く? なぁにそれ? なんのために働くの?」
アンはそう言って首を傾げる。
(本当になにも知らないんだな)
とぼけているのではない。アンには働くという概念がないのだとゼータにはわかった。
ゼータはおもむろに部屋を片付けはじめる。
「ねえ、人はどうして働くの?」
「そうしなければ、生きていけないからです」
アンの質問にゼータがこたえる。アンは目を丸くした。
「生きていけないの?」
「ええ。働かなければお金がもらえません。お金がなければ食事をすることも、服を買うことも、家を借りることもできません。……まあ、物貸しなんかもいますが、それだって管理が必要ですし、まったくなにもせずに生きていける人間はそういませんよ」
「……それじゃあ、どうしてあたしは生きているの?」
アンが尋ねる。ゼータに対してというより、自分に対して問いかけているようだ。
「……アンさんは着飾ることが仕事なのかもしれません。他にも、父に対して笑いかけたり、その身を提供したりしているでしょう?」
「ゼータは優しいのね」
アンは返事をしながら、ゼータの隣に移動した。ゼータがゴミを拾う様子を見て、自分も彼と同じことをする。
「みんながあたしを悪い女だって言うの。だけど、あたしにはどうしてかわからないのよ。母もあたしと同じだったもの」
「お母様がいらっしゃるんですか?」
「過去形だけどね。ある日突然帰ってこなくなってしまったの」
アンは懐かしそうに目を細めた。
「今思えば、母もあたしと同じでどこかの貴族の愛人だったのよ。ちょうどこんな感じの小さな家に二人で暮らしていたの。まあ、あの人はあたしを置いてしょっちゅう遊びに出かけていたんだけど。今から十五年前、あたしが十歳ぐらいのときだったかな……母が帰ってこなくなってしまって。しばらく経ってから、養護院の人間があたしを迎えに来たのよ」
「養護院に行ったんですか」
ゼータは驚く。
「ええそうよ。でもね、あたしが引き取られて数日後にとある貴族が養護院へ慰問に来たの。彼はあたしを見て『養女にする』と言って連れ帰ったわ。だけど……」
続きは言わずにアンが微笑む。
(そんなにも幼い頃から、愛人生活を送ってきたのか)
手本となるような人間もおらず、教育を受ける機会にも恵まれなかったのでは、善悪の区別がつかないのは当然だし、常識もなにも知らないだろう。けれど、アンは人々から悪女として扱われる。ゼータは彼女を気の毒だと思った。
「……その貴族というのが僕の父親だったんですか?」
「違うわ。あのときの貴族とは数年間一緒にいたけど、奥様にあたしを囲っていることがバレてしまってね。それで、家を追い出されたんだけど、すぐに別の貴族に声をかけられたの。……ずっとその繰り返しよ」
アンはそう言ったきりしばらく黙っていたが、やがておもむろに口を開いた。
「ねえ、侯爵様にここへ来ていることを言ってないんでしょう?」
「そうですけど?」
「もうやめたほうがいいんじゃない? バレたらきっと面倒よ」
アンがそっと目を細める。ゼータは無表情のままアンを見つめる。
「そうかもしれませんね。けれど、別に構わないでしょう?」
ゼータの問いかけにアンは目を丸くすると「そうかもね」と返事をした。
それからアンは少しずつ、身支度や部屋の片付けを自分からするようになった。加えて、前回来たときよりも部屋からものが減っていることに気づいたゼータが理由を尋ねると「処分した」のだという。
「ドレスも宝石も、持っていたって使う機会がないんだもの。あたし、めったに外に出ないし。だから、前の男性からいただいたものは思い切って処分してもらったの」
「売りに出したんですか?」
「わからないわ。処分をお願いしたときに『好きにしていい』って伝えたら喜んでいたけど」
アンはどこかスッキリしたような表情でそう言った。ゼータもつられて目を細める。
「かわりにね、本を買ってみたのよ」
「本ですか?」
「そうよ。だけど、あたしって字がほとんど読めないのよね。仕方がないから挿絵を追って、内容を想像して楽しんでるの」
アンはそう言って一冊の本をゼータに見せた。分厚くて難解そうな読書家向けの作品で、まったく初心者向けではない。
「貸してください」
「読んでくれるの?」
「ええ。次はもっと初心者向け――というか、児童書を選ぶようにしてください。アンさんにはまだ早いです」
「あらひどい」
そう言いながら、アンはとても嬉しそうに笑う。ゼータはつられて笑顔を浮かべそうになるのをグッと堪えた。
***
二人が知り合ってから三年が経った。
出会ったときは幼さの残っていたゼータも成人し、今では立派な青年だ。
「もうここに来ちゃダメって言ったでしょう?」
「覚えてますよ」
ここ最近ゼータが家へ来るたびに、二人はこのやり取りを繰り返している。出会った当初にもこういったやり取りはあったが、今は真剣度が違う。アンに分別がついたからだ。
ゼータと知り合ったことでアンは様々なことを学んだ。やっていいこと、いけないこと。するべきことと、しないほうがいいこと。本来ならば当たり前だと言われることだ。
加えて、アンは愛人の息子であるゼータとは関わり合いにならないほうがいいことを本当の意味で知った。そもそも身分が違うし、変な噂が立てば、仕事や結婚に影響もでる。
当然、二人の間に体の関係はない。けれど、倫理的に考えて、ゼータがアンのもとに通っているのはよろしくない。共に生きていけるはずもない。アンは胸が苦しくなった。
「今日はアンさんに贈り物があるんですよ」
「贈り物?」
怪訝に思いながらアンは首を傾げる。ゼータはアンにビロードの小箱を差し出した。中身は大きなダイヤモンドのブローチだ。
「アンさんに似合うと思ったんです」
「あたしに? ……無理よ。あたしみたいな女が白を身につけるなんて。似合わないし、恐れ多いもの」
受け取れないとアンが言うと、ゼータは机に小箱を置く。
「でしたら、捨てておいてください」
ゼータはそう言って部屋をあとにした。
次の日のこと、アンは深夜に家を抜け出した。けれど、外に出てすぐ背後から誰かに呼び止められる。
「こんな時間にどこに行く気だい、アン?」
黒髪の中年男性が笑う。ゼータの父親であるフィネガン侯爵だ。
「以前から何度も話していたでしょう? この関係を終わらせたいの。だけど、あなたは認めてくれなかった。だから……」
「出ていこうというのかい?」
フィネガン侯爵は目を見開き、アンを凝視する。
「……なんでだ? 他に男ができたのか?」
「いいえ、違うわ。これまでとは別の生き方をしたいと思っただけよ」
「君が? 今さら無理だろう! 一度も働いたことがない見た目だけが取り柄の人間に、一体なにができるというんだい?」
侯爵の言葉にアンの胸がズキズキ痛む。そんなこと、言われるまでもなくアンが一番よくわかっていた。侯爵との関係を断ち切ったら自分は生きていけないであろうことも。
「なにもできないかもしれない。それでも、あたしは――」
その瞬間、ドッ!と大きな音が響くとともに、アンの胸のあたりに衝撃が走る。見ればそこにはゼータがいた。彼の手には鋭利なナイフが握られており、アンの服がみるみる赤く染まっていく。
「なっ、ゼータ……どうしてここに?」
「父をたぶらかす悪女め……」
「そんな、なんてことを! あ……あぁ……」
侯爵はうろたえながら、ゼータとアンを交互に見た。それから、急いでその場を走り去る。
(ああ、ようやく願いが叶ったのね)
アンはそう思いながら、ゆっくりと目をつぶった。
***
ずっとずっと、終わらせたいと思っていた。
アンは自分が嫌だった。悪を悪とも思わない過去の自分を強く恥じていた。
きっと自分の母親は誰かに殺されてしまったのだろう――そう気づいたのは、ゼータと出会って一年後ぐらいのことだ。
(こんな生活、送るべきじゃない)
誰かに依存して生きるのはもうやめよう――そう思ったものの、アンにはどうすればいいかわからなかった。生まれたときからずっと、こんな生き方しか知らなかったのだから当然だ。
『一度だけでいい。いつか、白いドレスを着てみたいわ』
――はじめてゼータにそう伝えたとき、どうしてそんなことを言ったのか、自分でも理由がわからなかった。
けれど昨日、ゼータにダイヤモンドのブローチをもらったときに、ようやくその理由がわかった。
アンは自分を終わらせたかったのだ。ドロドロとした愛欲にまみれたアンに白は似合わないから。だったら、別の人間になるしかない。母親と同じ道を辿る他ないのだろう、と。
(生まれ変わったら、白が似合う女になれるかしら)
とそのとき、唇になにかが触れたのがわかった。――誰かに口づけされたのだ。
(こんな優しいキス、あたしは知らない)
あまりにも温かく慈しむような感触に、アンは涙が零れそうになった。
「アンさん、そろそろ起きてください」
次いで、そう声をかけられる。
目を覚ますとアンは見知らぬ場所に寝転んでいた。白塗りの壁に色とりどりのステンドグラスから光が差し込む、小さな教会のようだ。
「ゼータ? どうして……」
「どうしてもなにも、あのままあの場所に放置するはずがないでしょう?」
「そうじゃなくて! あたし、死んだんじゃなかったの?」
涙を流しながらアンが尋ねる。
「ゼータが来てくれて、あたし嬉しかった! ゼータはあたしの望みをちゃんと知ってたんだ、叶えてくれたんだって、そう思ったのよ? それに胸がすっごく痛くて。これはもう、死んだんだって、そう思って……」
ゼータは困ったように笑ったあと、アンを優しく抱きしめた。
「そうですね……悪女のあなたは死にました」
ゼータの言葉に、アンは大きく目を見開く。
「もうあなたは悪女ではない――ただのアンさんです。どこにでも行けるし、なににでもなれます。これからいくらでもやり直せるんですよ」
ゼータが言う。アンの瞳から涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「だけど……」
「少しだけ、僕の話を聞いてくれますか?」
ゼータの問いかけにアンがうなずく。ゼータは穏やかに微笑んだ。
「僕の母はとても厳しい人でした。教育熱心といえば聞こえがいいですが、ヒステリックで束縛がひどい上、常に僕の存在や人となりを否定するような女性でして。僕は母のことが大嫌いでした」
「ゼータ……」
アンは「それ以上言わなくていい」と目で訴える。けれど、ゼータはそっと首を横に振った。
「アンさんに近づいたのは、母への復讐に利用できるかもしれないと思ったからです。夫だけでなく息子まで愛人のあなたに奪われた惨めな女――そんなふうに母を貶めてやりたかった。ただ、それだけだったんです。けれど、アンさんを知れば知るほど気の毒だと――哀れに思って」
「知ってるわ」
知っていたが、アンは別にそれで構わなかった。自分は悪い女なのだから、とことん利用すればいい。憐れまれたって仕方がない。こんなふうに打ち明けてもらう必要もない――ゼータに罪悪感なんて抱いてほしくなかった。
「いいえ、アンさん。僕は今この瞬間も、あなたのことを利用しているんです」
ゼータがアンに畳み掛ける。
「僕がアンさん――自分の愛人を刺しただなんて、父にはとても受け入れられなかったはずですし、絶対誰にも知られたくない。貴族はそういった醜聞が大好きですからね。おまけに、僕もアンさんも現場から忽然と姿を消し、生死も行方もわからなくなっている――というのが現在の状況です」
自分の状況を客観的に説明され、アンは「そうなのね」と小さく頷く。
「父は積極的に僕たちのことを探そうとはしないでしょう。息子は死んだ、愛人など最初からいなかった――そう扱うと思います。つまり、僕はあなたを利用して自分自身の自由を――あなたと共に生きる未来を手に入れたんです」
ゼータはそう言って、もう一度アンを強く抱きしめた。
「――やっぱりあたしは悪女ね。あなたには輝かしい未来が待っていたはずなのに」
「先ほども言ったでしょう? 悪女のあなたはもう死んだんです。ですから、アンさんはもう自由です。どんな自分になってもいい――幸せになっていいんですよ」
ゼータが今にも泣きそうな表情で笑う。
そのとき、アンは自分が家を出たときとは別の白いドレスを着ていることに気づいた。純白のレースや刺繍の施されたシンプルだが愛らしい一着で、アンは思わず感嘆の声を上げる。
「綺麗……」
「よく似合っていますよ。新たな門出にふさわしい、とても爽やかなドレスでしょう?」
アンはうなずきながら、自分自身をギュッと抱きしめる。
「そういえば、どうしてあたしは生きているの? あのとき、確かに強い痛みを感じたのに」
「ナイフに細工をしていたんですよ。アンさんの血はほとんど流れていません。それに……」
ゼータはそこで言葉を区切ると、胸ポケットからおもむろになにかを取り出した。見ればそれは、ダイヤモンドのブローチだった。事件の前日にゼータがアンにプレゼントしてくれたものだ。
「これを着けてくださっていたでしょう? ドレスの内側に隠していらっしゃいましたが、胸元が不自然に膨らんでいたので、そこめがけてナイフを振り下ろしたんです。おかげで、予定よりもアンさんの傷が浅くて済みました」
ゼータの表情がまるで、いたずらが成功した子どものように輝いている。
「……悪い男ね」
「少し前まで悪い女の側にいましたからね」
二人はクスクス笑い合うと、口づけを交わすのだった。




