三年間、閉店後の私のカフェの前に立ち続けていた幼馴染に「もう関わらないで」と言ったのは私じゃない——あの日あなたが選んだのは親友だったはずなのに、どうして今さら「お前が泣いてる気がした」なんて言うの
——ねえ、知ってた? あの灯りが消えない夜は、誰かが泣いてるんだって。
◇ 第一章「消えない灯り」
また、いる。
雨粒が窓ガラスを叩く音に混じって、私の心臓が嫌な音を立てた。閉店作業の手を止めて、カウンター越しに外を見る。街灯に照らされた歩道。その端に立つ、長身の影。
高城涼介。
三年前、私の初恋を粉々にした男。
「……なんで」
声にならない声が唇から漏れる。雨に濡れたスーツ姿で、彼はただ立っている。傘も差さずに。こっちを見ているのか、見ていないのか、この距離じゃわからない。でも、わかる。彼が見ているのは、この店だ。私が灯りを点けている、この小さなカフェ。
手が震えた。蛇口を閉め忘れていたことに気づいて、慌てて水を止める。
——馬鹿みたい。
三年だよ、三年。あの日、美咲と手を繋いで歩く二人の背中を見てから、もう三年。「涼介と付き合うことになった」って、親友の口から聞いたあの日から。
私は関係ない。もう関係ない。
なのに、どうして。
どうして私は、灯りを消せないんだろう。
◇
『桐谷珈琲店』——親から継いだ、たった十二席の小さなカフェ。築四十年の古いビルの一階で、最寄り駅から徒歩七分。立地は最悪、内装は昭和レトロ(聞こえはいいけど、要するに古いだけ)、メニューは定番しか置いてない。
それでも、常連さんが来てくれる。お母さんの代から通ってくれてる人たちが、私のコーヒーを「お母さんの味に近づいてきたね」って笑ってくれる。
それで、十分だった。
恋愛なんて、もういい。傷つくくらいなら、最初から期待しない方がマシ。私には、この店がある。この灯りを守ることが、私の全部。
……そう決めたはずなのに。
「いらっしゃいま——」
ドアベルが鳴って、反射的に顔を上げた。
誰もいない。風でドアが揺れただけだ。
時計を見る。二十二時十五分。とっくに閉店時間は過ぎている。外を見れば、さっきと同じ場所に、同じ影。
……何がしたいの。
胸の奥がぎゅっと軋む。怒りなのか、悲しみなのか、それとも——いや、やめよう。考えたくない。
エプロンを外して、厨房の片付けを再開する。グラスを拭く。カップを棚に戻す。床を掃く。いつもの作業を、いつもより丁寧に。時間をかけて。
理由なんてない。ないったら、ない。
二十三時を回った頃、ようやく私は壁のスイッチに手を伸ばした。
パチン。
店内が暗くなる。窓の外を、見ないようにして。
でも、わかってしまう。硝子に映る歩道から、影が消えていくのが。
音もなく。まるで最初からいなかったみたいに。
◇
——それから、一週間。
彼は毎晩来た。
雨の日も、曇りの日も、珍しく晴れた日も。二十一時を過ぎると、決まってあの場所に立っている。店の中には入ってこない。声もかけてこない。ただ、私が灯りを消すまで、じっと立っている。
そして、灯りが消えると、消える。
何それ。怖いんだけど。ストーカーなの? 通報した方がいい?
……でも、できなかった。
警察に電話しようとして、スマホを手に取って、でも結局、画面を見つめたまま固まってしまう。だって、彼の表情を思い出してしまうから。
街灯の下で、じっとこちらを見ている彼の目。
三年前より、深い。暗い。どこか——壊れている。
あの涼介が? いつも冷静で、感情を見せなくて、何を考えているかわからなかった幼馴染が?
『涼介と付き合うことになった』
美咲の声が、頭の中で再生される。
『……そっか。おめでとう』
笑顔で言えた自分を、今でも褒めてあげたい。泣いたのは、二人が見えなくなってから。家に帰って、布団に潜って、声を殺して。
——あのとき、私は留学の話をもらっていた。
イタリアのバリスタ養成学校への短期留学。カフェの先代である母が昔お世話になった人のツテで、半年間だけ。夢のような話だった。
でも、行かなかった。
理由は——なんだったっけ。
お母さんの体調が悪かったから? 店を任せられる人がいなかったから? それとも、もう何も頑張る気力がなくなったから?
全部、言い訳だ。本当は、ただ逃げたかっただけ。失恋から。涼介と美咲が幸せそうにしている世界から。
結局私は、どこにも行けなかった。
◇ 第二章「すれ違っていた真実」
七日目の夜。
閉店作業を終えて、私はいつものようにカウンターに突っ伏した。腕を枕にして、目を閉じる。店の灯りは点けたまま。消さなきゃ、と思うのに、体が動かない。
最近、眠れない。
眠ろうとすると、窓の外の影がちらついて、結局こうして店で仮眠を取ることが増えた。背骨が痛い。首が凝る。こんな生活、体に悪いってわかってる。
「……はぁ」
ため息をついた瞬間、スマホが震えた。
ディスプレイに表示された名前を見て、心臓が跳ねる。
『白石美咲』
三年ぶりの、親友からの連絡。
なんで、今?
震える指でタップする。LINEのメッセージが表示された。
『澪、久しぶり。突然ごめんね』
『話したいことがあるの。電話してもいい?』
話したいこと。三年間音信不通だった親友が、今になって話したいこと。
嫌な予感がした。
でも、『いいよ』と返信していた。
数秒後、着信。深呼吸をして、通話ボタンを押す。
「——もしもし」
『澪……久しぶり。声、変わってないね』
美咲の声は、あの頃と同じように華やかで、でもどこか震えていた。
「美咲も。元気だった?」
『うん。……ううん、嘘。元気じゃなかった。ずっと』
沈黙が落ちる。
私は何も言えなかった。何を言えばいいのかわからなかった。
『澪、あのね——』
美咲が息を吸う音が聞こえた。
『涼介とは、付き合ってない』
「……え?」
『最初から。一度も』
頭が真っ白になる。
言葉の意味が、わからない。わからないふりをしたい。
「……何、言って……」
『あの日、あなたに言ったこと、全部嘘だった。涼介にそう言えって、頼まれたの』
心臓の音がうるさい。
『「澪の夢の邪魔になりたくない」って。「俺がいたら、あいつは留学に行かない」って。だから、俺のことを諦めさせてくれって。涼介、あなたに……好きな女ができたって、思わせたかったの』
美咲の声が、遠くなっていく。
『私、あのときすごく迷った。でも涼介が、本当に必死で……泣きそうな顔で頼んでくるから。断れなかった。最低だよね、私。親友を裏切った。ずっと謝りたかった。でも顔向けできなくて——』
「——待って」
声が震えた。
「待って、美咲。それ、どういう……だって、私、あの日、二人が手を繋いでるの見たよ。駅前で——」
『あれも演技。涼介が無理やり繋いできたの。あなたがあそこを通るって知ってたから』
……嘘でしょ。
『澪、私たち、一度も付き合ってない。涼介はずっと——ずっと、あなただけを見てた。三年間、あなたのSNS、ずっとチェックしてたの知ってる? 私に「澪、最近眠れてないみたいだ」とか「また一人で店閉めてる」とか、連絡してきてた』
スマホを持つ手から、力が抜けそうになる。
三年間?
ずっと、見てた?
——私が閉店後に載せた、カウンターに突っ伏して眠る自分の後ろ姿の写真。『今日もお疲れ、私』なんてキャプションをつけた、あの投稿。
あれを、涼介が。
『澪、ごめん。本当にごめんね。私——』
「美咲」
自分でも驚くほど、静かな声が出た。
「ありがとう。話してくれて」
『澪……』
「ちょっと、整理させて。また連絡する」
『うん……うん。待ってる』
通話を切った。
スマホを握りしめたまま、窓の外を見る。いつもの場所に、いつもの影。雨が降り出していた。傘も差さずに、びしょ濡れで立っている。
——ねえ、涼介。
私たちは本当に、同じ過去を生きていたの?
◇ 第三章「閉店後の告白」
気づいたら、走り出していた。
エプロンのまま。スリッパのまま。財布も鍵も持たずに、店のドアを押し開ける。
「涼介っ!」
叫んだ。雨の中、全速力で駆け寄る。
彼が振り向いた。街灯の下、雨に打たれた顔。三年ぶりに、こんなに近くで見る。
「み、お……」
掠れた声。目の下の隈。びしょ濡れの髪から滴る雫。
ああ、本当に——壊れかけてる。
「なんで」
息が切れて、言葉がうまく出ない。
「なんで、毎晩ここに来てるの」
「……」
涼介は何も言わなかった。ただ、私を見ている。深くて、暗くて、でもどこか——縋るような目で。
「答えてよ! 三年だよ!? 三年間、私——っ」
泣いてた。あなたのせいで。あなたがいなくなったから。
その言葉は、喉の奥で詰まった。
涼介が、ゆっくりと口を開く。
「お前が……泣いてる気がしたから」
「——は?」
「お前のカフェの写真、いつも見てた。閉店後の。カウンターに突っ伏して眠るお前の、後ろ姿」
雨が、二人の間に降り注ぐ。
「お前、いつも一人で泣いてるみたいな顔で笑うから」
心臓を、直接掴まれたみたいだった。
「だから、毎晩来た。灯りが消えるまで、見てた。……消えたら、少しは安心できたから」
「何それ……」
声が震える。
「それ、意味わかんない。だったら、どうして——どうして、あんな嘘ついたの」
涼介の表情が、歪んだ。
「お前は、留学に行くべきだった」
「それは私が決めることでしょ!?」
「——俺がいたら、お前は行かない」
断言だった。
「わかってた。お前が俺のこと、好きだったことくらい。幼馴染だぞ。お前のことは、誰よりもわかってる」
「だったら——」
「だから、消えなきゃいけなかった。お前の人生から。お前の夢の邪魔を、したくなかった」
涼介の拳が、震えている。
「なのにお前は……留学、行かなかっただろ」
知ってたの。
「俺が消えた意味、なかったじゃねぇか……!」
声が、裏返った。
「俺は——俺は三年間、ずっと、お前が世界に羽ばたくの見届けるつもりだったのに……お前は、あの狭い店で、一人で——泣いてるみたいな顔で——っ」
雨の中、涼介の肩が震えていた。
泣いてる、と思った。泣いてるかもしれない。でも、雨でわからない。
「……馬鹿」
私の口から、言葉が零れた。
「馬鹿。大馬鹿。最低。サイテー」
涙が止まらない。雨なのか涙なのか、もうわからない。
「誰が、あんたのせいで留学諦めたって言った? 私が自分で決めたの! 夢を追うより、あんたに振られたことの方がショックだったの! 私の優先順位、勝手に決めないで!」
叫んだ。
三年分の想いを、全部。
「私はあんたが好きだった! 留学よりも、夢よりも、あんたの隣にいたかった! なのにあんたは勝手にいなくなって——勝手に私の幸せ決めつけて——」
涼介の目が、見開かれる。
「私を見なくなったのは、あんたの方でしょ……!」
◇ 第四章「灯りを灯す意味」
長い沈黙が、流れた。
雨音だけが、二人の間を埋めていく。
涼介がゆっくりと、手を伸ばした。私の頬に、濡れた指先が触れる。雨粒なのか涙なのか、わからないものを拭うように。
「……俺に」
掠れた声。
「もう一度、お前を好きでいる資格なんて、ないよな」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で何かが弾けた。
怒りでも、悲しみでもない。もっと、シンプルな感情。
——ああ、私、まだこの人のこと好きだ。
三年経っても、まだ。
「資格なんて」
涼介の手を、両手で掴んだ。大きくて、冷たくて、震えている手。私の手なんか、すっぽり隠れてしまう。
「最初から、いらないよ」
涼介の目から、涙が零れた。今度は、はっきりとわかった。雨じゃない、透明な雫が、頬を伝っていく。
「……澪」
名前を呼ばれた。三年ぶりに、私の名前。
「店、入れよ。風邪引く」
泣きながら、笑った。
「それ、私のセリフ」
◇
閉店後のカフェ。
薄暗い店内に、私たちだけ。濡れた二人分のタオル。温かいココア。カウンターに並んで座る。
何を話せばいいのかわからなくて、しばらく無言が続いた。でも、不思議と気まずくなかった。
「……涼介」
「ん」
「三年間、毎晩ここに来てたの?」
「……毎晩じゃない。仕事で遅くなる日は、来れなかった」
「それでもほぼ毎日じゃん」
「……」
「重い」
「……悪かったな」
「——ちょっと、嬉しい」
涼介が、私を見た。信じられないものを見るような目で。
「お前、変わったな」
「三年も経てば、ね」
強がってみせた。本当は心臓がバクバクしてるけど。
「……俺は」
涼介が、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「お前の傍にいる資格を、これから作っていく。だから——」
「だから?」
「——待っててくれ」
不器用だなぁ、と思った。回りくどくて、素直じゃなくて、でも。
「待たないよ」
涼介の顔が、強張る。
「もう十分待ったもん。これ以上待つのやだ」
「……じゃあ、どうすれば」
私は、カウンターに置かれた涼介の手に、自分の手を重ねた。
「明日から、開店前に来て」
「……開店前?」
「準備、手伝ってほしいの。人手、足りてないから」
涼介が、ぽかんとした顔をした。感情を見せないはずの彼の、珍しい表情。
「……それは」
「いや?」
「——いい、わけない」
涼介の手が、私の手を握り返した。大きくて、温かくて。
「毎朝、来る」
「うん」
「閉店後も」
「いいよ」
「……帰りたくない」
「——それは、ちょっと待って」
涼介が、小さく笑った。
三年ぶりに見た、彼の笑顔。目尻が少しだけ下がって、いつもの冷たい表情が嘘みたいに柔らかくなる。
……ああ、この顔だ。
私が好きになった、涼介の顔。
◇ 終章「開店前の約束」
翌朝。
朝日が差し込む店内で、私はいつもより早く開店準備を始めていた。コーヒー豆を挽く音。湯気の立つマシン。見慣れた風景。
でも、今日は違う。
カランカラン。
ドアベルが鳴った。
「……おはよう」
涼介が立っていた。スーツ姿。でも、昨日の夜より、どこか肩の力が抜けている。目の下の隈も、少しだけ薄くなったような気がする。
「おはよう。早いね」
「お前が七時に来いって言ったんだろ」
「六時五十分だけど」
「……十分くらい」
「誤差じゃないし」
涼介が、エプロンを手に取った。お母さんが使っていた、大きめの紺色のエプロン。
「……どうすればいい」
「まず、テーブル拭いて。あと、椅子下ろして」
「わかった」
不慣れな手つきで、涼介が動き始める。テーブルを拭く姿が、どこかぎこちなくて、思わず笑ってしまった。
「何だよ」
「ううん。なんでもない」
嘘。なんでもなくなんか、ない。
三年間、灯りが消えるまで外に立っていた人が、今、店の中にいる。私の隣で、エプロンをつけて、テーブルを拭いている。
「……涼介」
「ん」
「これから毎朝、手伝ってくれるの?」
「……閉店後だけじゃなくて?」
「うん」
涼介の手が止まった。私を見る。真剣な目で。
「お前の傍にいる理由が欲しいだけだ」
不器用で、回りくどくて、でもまっすぐな言葉。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。でも、痛くない。
温かい。
「……じゃあ、ずっといて」
「——は?」
「理由なんかなくても。ずっと、いて」
涼介が、目を見開いた。それから、ゆっくりと——本当にゆっくりと、笑った。
「……わかった」
短い言葉。でも、それで十分だった。
◇
開店時間が近づいてきた。
常連のおばあちゃんが、いつもより早く来店した。涼介を見て、目を丸くする。
「あら、澪ちゃん。彼氏さん?」
「えっと……」
「——はい」
涼介が即答した。私より先に。
「ちょっと、涼介!」
「違うのか?」
「いや、違くは……ないけど……」
おばあちゃんが、嬉しそうに笑った。
「よかったねぇ、澪ちゃん。ずっと一人で頑張ってたもんね。あなた、この子を大事にしてあげてね」
「——はい。もちろんです」
涼介の声が、やけに真剣だった。
……もう。恥ずかしい。
でも、嬉しい。
◇
その日の閉店後。
片付けを終えた店内で、涼介と二人、カウンターに並んで座っていた。昨日と同じ。でも、何かが違う。
「涼介」
「ん」
「消さないでいいよね、この灯り」
窓の外は、もう暗い。でも、店の灯りは点いたまま。
涼介が、私を見た。深くて、暗くて——でも、もう壊れてはいない瞳で。
「……ああ。消さなくていい」
その言葉を聞いて、私は笑った。
泣いてるみたいな笑い方は、もうしない。今夜からは。
——このカフェの灯りが消えない夜は、もう終わり。
だって今は、消したくない灯りが、隣にあるから。
私たちの恋は、三年遅れで、ようやく始まる。
◇
——ねえ、知ってた?
あのカフェの灯りが消えない夜は、誰かが幸せなんだって。
少なくとも、今夜は。




