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初恋Reading  作者: 養生
7/11

第4話 (1/2)

 今まで友達と呼べるほど親しい関係の存在がいたことはない。だから、誰かと仲違いした経験も今までなかった。こういう時、普通の人はどうやって相手とのわだかまりを解消するのだろう。

 いや、そもそもこれが仲違いなのかさえおれはよく分からない。今おれと花村の間に漂っているこの何とも言い表し難い微妙な空気は、果たして仲違いと呼ぶものなのだろうか。

 おれ達は親しくもない、友達でもない、ただのクラスメイトなのに。


 その日の朝、下足箱の前で上履きに履き替えていると、不意に誰かが隣に立った。ちらと横目で見た瞬間、思わず小さく息を呑む。花村だった。

「はよ」

 花村はおれの方を見ないで、自分の上履きを床にぽいと投げ落としながらそっけなく言った。

「……おう」

 素早く周囲を見回しても、昇降口付近に同じクラスの生徒は見当たらない。ほっとしてまた隣を見た時にはもうそこに花村の姿はなく、見つけられたのは廊下を挟んだ向こう側にある階段を上っていく背中だけだった。


 昨日の昼休み、花村は『後でメッセする』と言った。だからおれはずっと待っていたのに、結局花村からのメッセージは来なかったのだ。

 午後の授業中も、帰りのバスの中でも、家で宿題をやっている時も、風呂に入ってる間さえも、おれはスマートフォンを目の届く場所に置いて、ずっと花村からメッセージが送られてくるのを待っていたのに。

 眠りにつく前、布団の中でスマートフォンの画面を見つめているうちにいつの間にか寝落ちしていて、明け方になって目が覚めた瞬間にあわててメッセージアプリの通知を確認したけど、やっぱり何も届いていなかった。


 こういうことは、よくあることなのだろうか。

 後で連絡するよと言われたら、必ず連絡が来ると思うのが普通のことだと思うけど、世間ではそうではないのだろうか。あれは実は社交辞令のひとつみたいなもので、後で連絡が来ることを本気で期待する方がおかしいのかもしれない。

 メッセージのやりとりをするような関係の友達がいないから、何が普通で何がそうでないのか分からない。こんなふうにおれがあまりにも世間の常識に疎いせいで、今までも気付かないうちに花村に嫌な思いをさせていたのかもしれない。今のこの微妙な空気は、おれの無知が原因なのではないか。

(……朗読の約束、どうするんだよ)

 今日の放課後、駅前で待ち合わせ。まだそれしか決めてないのに。

 教室に入ると、既に来ていた花村はもう友達といつものように喋っている。おれが席に座ってもこっちをちらりとも見ない。

 いつも以上に憂鬱で居心地の悪い一日が始まった。


 *


 今日も、いつもと何も変わらない一日だった。相変わらず花村は友達とつるんでいておれに話しかけてこないし、目を合わせようともしない。それどころか、おれのいる席の方を気にするような素振りも見せない。

 昼休みもいつものようにA棟の非常階段へ行って一人で過ごしていたけど、花村は来なかった。もしかしたら花村がまたやって来て玉子焼きが食べたいと言うかもと思ったから、いつもは一切れしか弁当に入れない玉子焼きを今日は二切れ入れてきたのに。普段なら一食につきひとつしか食べない玉子焼きの甘さは、ふたつ目ともなるとさすがに少しくどく感じる。砂糖入れ過ぎたかな。

(……何やってんだろ、おれ)

 いつも同じようなおかずばかり詰めているせいか、食べ慣れた弁当が今日はやけに味気なく感じた。そろそろ別のメニューも試してみるか。


 別に、険悪な何かがあったというわけではない。言い争うような諍いがあったわけでもない、おれと花村の間には何のトラブルも起こってはいない。

 それなのに、今のこの空気は何なんだ。

 しかし、原因と思われる出来事に全く心当たりがないわけでもなかった。おそらく昨日の昼に高瀬舟の話をしていた時の、あれが原因だろう。


『自分が死んだ後、一人になった喜助がどんな気持ちになるかは考えないのに? ずいぶん自分勝手だよね、それ』


 弟の気持ちについての、ちょっとした解釈の違い。果たして本当にそれだけだったのだろうか。花村が機嫌を損ねた理由はそこではなくて、何かもっと別のところにあるような気がする。それが何なのかはいくら考えても分かりそうにないけど。

「あー……もう。何なんだよ」

 教室へ戻る途中、無意識のうちについ声に出してぼやいてしまった。はっとして周りを見ても、おれの小さな声に気が付いた奴は一人もいなかったようだ。


 なんかおれ、変だ。

 この程度のことで、どうしてこんなにイライラしてるんだろう。

 花村が機嫌を損ねようが、そんなのおれにはどうだっていいことだろ。花村がおれに絡んでこないのなんて、今までだってずっとそうだったし。

 そうだ、これが通常の状態なんだ。今日の放課後、花村に朗読を聞かせたら、もうそれで何もかも終わるのだから。あの日、花村が昇降口でおれに話しかけてくる前の状態に戻るだけ。以前と何も変わらない日常に戻るんだ。


 *


「花村ー、今日これからつっちーのバイト先行くけど、花村も来るだろ?」

「あー、悪い。今日ちょっと用事あるから、俺はパス」

「ええ~またかよ? なんか花村、最近付き合い悪くね?」

 ホームルームが終わり、席でカバンに荷物を詰めていると、教室の前方からはしゃいだ声が聞こえてきた。わざわざそっちを見るまでもなく、いつも花村とつるんでいる数人の友達が珍しく不満そうな声で花村に詰め寄っているのが分かる。

「ごめん、今日はどうしても外せない用事でさ。また今度連れてってよ」

「いいけどさあ……彼女できたんならちゃんと言えよ。言ってくれればそのへんはオレらもハイリョするしー」

「だから違うって」

「配慮って、お前その言い方が既に刺々しいだろ」

「妬くな妬くな」

 はしゃぐ友達を笑って見ている花村は、こっちを気にする様子もない。

「……」

 おれは席を立つと、下を向いたまま足早に教室を出た。


 今日の放課後、駅前で待ち合わせ。

 たったそれだけの口約束が、待ち合わせなんて呼べるわけないだろ。そもそも花村の方から一方的に取り決めたようなものなのだから、おれがそこまで付き合ってやる道理はない。自分の要求を呑まないのなら朗読動画のことをバラすと言っていたけど、きっと花村はそこまでするつもりは最初からなかったのだろうと今なら何となく分かる。

 このままさっさと帰ってしまえばそれで何事もなく終われる、そんなこと分かってるのに。


『あー、今から楽しみ。早く明日になんないかな』


 でもあいつは、おれの朗読を褒めてくれた。おれの朗読が好きだって言ってくれた。

 誰かに褒めてほしくてやってるわけじゃないとか、どうせおれの自己満足だとか、一人で朗読してた時は確かにそう思ってたけど、今は少しだけ違う。

 花村をがっかりさせたくない。

 きっとおれは緊張して上手く朗読できないだろう。分かっていても、このまま花村との約束を放り出して逃げるなんてできない。

 おれの朗読を花村に聴いてほしい。

 やっと分かった。他の誰かじゃなくて、花村だけに聴いてほしいんだ。


 駅へと向かう脚は少しずつ速度を上げていった。いつもみたいにゆっくり歩いているのがもどかしくて、自然と早足になってしまう。大通りの信号待ちをしている間もじっとしていられなくて、そわそわと小さく足踏みしてしまう。この信号、こんなに長い時間変わらなかったっけ?

 ようやく青信号に変わる、横断歩道を渡ってしまえば駅はもうすぐそこだ。駅前のバスロータリーを過ぎて、駅のコンコースへと続くエスカレーターの横まで来るとおれはようやく足を止めた。

 この駅はうちの学校の生徒の大半が利用している。こんなところで突っ立っていたらクラスの奴らにすぐ見つかってしまうだろうけど、かと言ってここ以外に花村が気付いてくれそうな場所はない。

(あ、そうか。メッセージ送ればいいんだ)

 誰かと待ち合わせをした経験に乏しいせいで、そんなことも思いつかなかった。あわててカバンからスマートフォンを引っ張り出すと、まるで見計らったようなタイミングで画面に一件の通知が表示された。

 花村からのメッセージだ。

『うしろ』

 たったそれだけ。

(……後ろ?)

 そろそろと振り返ると、バスロータリーの向こうに花村の姿が見えた。

「あ……」

 ぽかんとしてその場に立ち尽くしていると、花村はスマートフォンを片手に握りしめてこっちに向かって駆け寄ってくる。おれの前まで来ると、花村は肩で息をしながらおれを責めるように睨んだ。

「だから、歩くの速いって」

「なんで……」

「本当にこのまま帰っちゃうんじゃないかと思って、急いで追いかけてきたのに。全然追いつかねーんだもん」

 こんなに息が上がってるってことは、ずいぶん長い距離を走ってきたのだろう。

「いつから、追いかけてきてたんだよ?」

「……別にいいだろ。いつでも」

 花村は不機嫌そうにそっぽを向いてしまった。

 まさか、学校を出た時からずっとってことはないよな。途中で信号待ちがあったのだから、いくら距離が空いていたとしてもそこで追いついていたはずだし。

 友達の誘いを断るのに時間がかかっていたのかもしれない。おれが先に一人で帰るかもと心配して、急いで追いかけてきてくれたんだ。

「走ったから喉渇いた。早くカラオケ行って何か飲も」

「……うん」

 まだ少しぶっきらぼうな態度で歩き出す花村の後を、少し遅れてついていく。


 おれとの約束、ちゃんと覚えてたんだ。

 友達と遊びに行くのも断って、おれを追いかけてきてくれた。


 昨日からずっと胸の中で渦巻いていた昏い気持ちが、まるで雨雲が晴れるようにすっと引いていくのが分かる。おれは何をあんなにくよくよと思い悩んでいたのか、ほんの数分前の自分の気持ちですらもう分からない。

 今まで自分を難儀な性格だと思っていたけど、おれは自分で思うよりもずっと単純だったのかもしれない。

 この程度のことが、こんなに嬉しい。

 悔しいし認めるのは癪だけど、花村がおれとの約束を守ってくれたという事実におれは舞い上がっていた。


 *


 朗読が上手くできるかという不安より先に、おれは生まれて初めて入るカラオケにすっかり緊張していた。ついきょろきょろと落ち着きなく店内を見回してしまう。一方、花村は慣れた様子で店員と話し、あっさりと受付を済ませている。

「部屋、二階だって。行こ」

「え? あっ、うん」

 緊張しているのを花村に悟られまいとあわてて落ち着き払った声で返そうとしたものの、失敗して声が少し上擦ってしまう。でも花村はおれの様子を特に気に留めるふうでもなく、さっさと店の奥へと歩き出した。

 いけない、まだ店に入った段階でこんなに緊張してどうする。少し落ち着かないと、上手くいくものも上手くいかなくなってしまう。


 部屋に入ると、花村はカバンを投げ出してボックスソファにどさりと腰を下ろした。

「突っ立ってないで、湊も座んなよ」

「う、うん」

 カラオケの客室なんて、ドラマや漫画の中でしか見たことがない。部屋の照明は意外と明るく普通の飲食店とさほど変わらない雰囲気で、もっと薄暗い部屋を想像していたおれは少し拍子抜けしてしまった。

 けど、思っていたよりも部屋が狭い。少人数向けの客室ならこんなものかもしれないけど、どこに座ったらいいものか迷ってしまう。花村の隣に座るのはおかしいよな。でも、わざわざドアから距離のある向かいのソファに座るのもそれはそれで不自然だし。

「ああ、ごめん。カバンが邪魔か」

 ソファに投げ出したカバンのせいでおれが座らないと思ったのか、花村は自分のカバンを持ち上げると向かいのソファに移動させた。

「ん。ほら」

 おれの方を向いて、自分のすぐ隣の座面をぽんぽんと手で叩いている。仕方なくおれは花村の隣にそうっと座った。

 まずい。こんな狭い部屋で、こんなすぐ横に花村が座ってる状況で朗読するってことか。でも今から座る位置を変えたりしたらあまりにも不自然だ。まるでおれが意識してるみたいになってしまう。

 いや、違う。意識って何だ。

 おれはただ少しでもリラックスした状態で朗読に臨みたいだけで、別に花村を意識してるわけではない。そうだ、初めて入るカラオケの雰囲気に緊張してるだけで、さっきからやけに早いこの動悸も花村には関係ない。

「ワンドリンク制だから先に飲み物頼もっか。湊はなに飲む?」

「の、飲み物? あー、えっと……」

 急に聞かれて、またしても返事に詰まってしまう。

「甘いの平気ならはちみつレモンとか、どう? はちみつって喉にいいみたいだし」

「あ……うん。じゃあ、それで」

「分かった。すぐ持ってきてくれるから、朗読はその後な」

 花村は慣れた様子でスマートフォンから飲み物を注文した。こういう場所で遊び慣れてる奴には大したことじゃないかもしれないけど、おれにはその時の花村がひどく大人びて見えた。こんな些細なことでも自分が世間の常識に疎いという事実をまざまざと見せつけられているようで、花村に対する劣等感が更に強くなっていく。

 なんでおれって、こうなんだろう。


 花村の言ったとおり、注文してから何分も経たないうちに店員が飲み物を持ってきてくれた。冷たいはちみつレモンをひと口飲むと、その優しい甘酸っぱさが渇いていた喉に心地良くて、思わずほうとため息が出る。いくらか緊張も解けたかもしれない。

「湊さ、さっき一人で帰ろうとしてただろ」

「え……」

 ぎくりとして固まってしまう。花村は自分のグラスをテーブルに置くと、座ったままおれの方をまじまじと見ている。

「そ、んなことは……ないけど」

「うーそだ、絶対帰ろうとしてた。なんか昨日から微妙な感じだったから、今日の約束すっぽかして帰るつもりだったんだろ」

「微妙って……」

 驚いた。そう感じていたのはおれだけじゃなくて、花村も同じように感じていたのか。

「昨日、俺が湊のこと、喜助の弟にそっくりとか言ったから怒ってんだろ?」

「別に……怒ってはいないけど」

「じゃあなんで今日ずっと俺のこと避けてたんだよ。目も合わせようとしないしさ、感じ悪い」


 おれは花村が何を言っているのか分からなかった。

 避けてた? 避けてたって、おれが?

 何言ってんだ。避けてたのはお前の方だろ。


「……それは、お前の方だろ」

 膝の上でぎゅっと両手を握りしめる。手のひらはじっとりと汗ばんでいた。

「なんだよ」

「おれのこと避けてたのは花村の方だろ。いつも友達とつるんでおれの方なんて見ようとしないし、昼休みもA棟に来なかったし。後でメッセするって言ったくせに、結局送ってこなかったじゃねえか。おれはずっと待ってたのに」

「……え」

 花村の戸惑った表情を見て、おれははっとした。しまった。おれは一体何を口走っているのか。

「待ってた、って……」

「あっ、いや、それは……違う! 今日の打ち合わせしないといけないのに、花村が何も言ってこないから……」

 ドツボだ。否定しようとすればするほど更に余計なことを言ってしまう。

 さっき落ち着いたばかりのはずなのにもう喉が渇いてきて、おれは残っていたはちみつレモンを半分くらい一気に流し込んだ。

 花村は何も言わない。しんと静まり返った狭い部屋の中、いつもより速く脈打つこの鼓動がすぐ隣の花村に聞こえてはいないかと、そればかりが気がかりで仕方なかった。


「……それは、謝るよ。ごめん」


 一体どれだけの間その重苦しい沈黙に堪えていたのだろう。花村は、か細い声でぽつりと呟いた。

「別に、謝るようなことじゃ」

「メッセするつもりではいたんだよ。でも、なんか……微妙な感じだったしさ。湊、怒ってるかなって思ったら、送れなくて」

「だからおれは、別に怒ってない」

 な、何なんだ。こんなにしおらしい花村、初めて見る。

 努めて冷静に答えたつもりだったけど、花村の顔をまともに見られなかった。

「でも、ずっと待ってたんでしょ」

「待ってたけど……おれの方からメッセ送ればいいのに、おれも送らなかったから。花村だけが悪いとは思ってないよ」

「本当に?」

「……うん」

 すると、花村は突然テーブルに顔を突っ伏して、盛大なため息をついた。

「よ……かったあ~」

「な、なんだよ。何が」

「だって、湊のこと本当に怒らせちゃったかなって思ってたから……今日ずっとどうしようって思ってたんだよ。湊が待ち合わせに来ないで帰っちゃったらどうしようって」

 今日一日の間に盗み見た花村の様子を思い返してみても、そんなふうに思っているような素振りは微塵も見られなかったと思う。少なくとも、おれの目にはそう映っていた。だからまだ信じられない。いつもクラスの中心でみんなに囲まれているような花村が、ずっとおれとの約束を気にかけていただなんて。

 テーブルに張りついたまま、花村は顔を少しだけこっちに向けた。

「……なんか湊って、あんまり思ってること言わないし、顔にも全然出さないから、すごくやりづらい」

 やりづらいって何が。

 そう言い返そうと思ったけど、声が出てこなかった。上目遣いにじっとおれを見上げる花村の目が、今までに見たどんな花村とも違っていたからだ。どこか不安そうで、まるで親とはぐれた子供みたいに気弱そうなその目は、縋るようにおれを真っ直ぐに見つめている。

「今までこんなこと、なかった。怒らせたかもって思ったんなら、さっさとメッセでごめんって言えばそれで済むのは分かってたのに、昨日はどうしても言えなくて。湊のことばっかり考えてた」

「……」

 おれは、ふいと花村から顔を背けた。あまりにも露骨すぎたかな、とは思ったけど、それ以上花村の目を見ていられなかったからだ。

 花村はもそもそと上体を起こしてソファに深く座り直し、ほとんど聞き取れないくらい小さな声で呟いた。

「ごめん」

「……だから別に、花村は謝るようなことしてないだろ」

「そういうこと言うから、やりづらいって言ってんの」

「どういう意味だよ」

 ぷっと小さく吹き出す声が聞こえて、恐る恐る隣を見ると花村は口元を手の甲で押さえている。目が合った途端、花村はばつが悪そうに笑った。

「あ、ごめん……笑うつもりは」

「本当にごめんって思ってる奴の顔じゃねえだろ」

「ひどくない? 顔で判断すんなよ」

 堪えきれず、おれも吹き出してしまった。


 何だか、あんなに思い悩んでいた自分がバカらしくなってくる。おれが昨日の花村の態度を気にしていたのと同じように、花村もずっとおれを怒らせたんじゃないかと不安だったんだ。本人の口から聞いてしまえばそれはあまりにもあっけなく単純なことだったのに、おれ達はどうしてこんなにうだうだと一人で悩んでいたのか。

 おれみたいな陰キャはともかく、花村の性格ならそういうことはもっとずけずけ聞いてくると思うんだけど。こいつでも誰かに気後れして話しかけられないことがあるんだな。

「おれって、そんなに話しかけにくいか……」

「ええ? 自覚なかったんだ」

 花村は歯を見せてきひひと笑った。もうすっかりいつもの花村だ、そう思うと何故かすごくほっとして、強張っていた全身から力が抜けていくのが分かる。


 よかった。今の調子なら、緊張しないで朗読できるかもしれない。自然とそう思える自分に自分でも驚いてしまう。今までこんなことはなかった。

「と、とにかく、そろそろ朗読始めるぞ。時間がなくなる」

「あっ、そうだね」

 家から持ってきていた教科書を取り出そうとすると、それより先に花村が自分のカバンから一冊の文庫本を取り出してこっちに差し出してきた。

「ほら、貸してあげる」

 それはこの前、図書室で花村と探した『高瀬舟』の本だった。わざわざ持ってきてくれたのか。

「お、おう」

「時間は気にしなくていいよ。延長するなら俺が払うから」

「いや、そんな長い時間かからないって」

 そっと本を受け取ると、花村はまたおれのすぐ隣に腰を下ろした。

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