13.マキトの過去(1)
4月。23歳。大学3年生になり化学科のゼミに入った。ちなみに1年を2回、2年を2回経験している。あまりにもバイトが忙しかったせいだ。
だが、目標のものも買えたし、残りの2年はゼミに入って研究にでも明け暮れたやろう。そんなことを思っていた矢先のことだった。
「学校に無理を言って、買ってもらったんだよね。パ・ソ・コ・ン!」
そう言いながら教授は、モニターに体を乗せて撫で回している。パソコンと言っているが、おそらくワークステーションだ。価格は数百万。そりゃ自慢げにもなるか。
「でさ。これって3Dグラフィックが使えるんだけどさ。君、パソコンとか興味ある?」
1993年。まだWindows95も発売しておらず、パソコンもほとんど普及していない。だが、俺はパソコンをすでに所持しており、パソコン通信やゲームを嗜んでいた。
「ええ。あります」
その答えに教授は大喜び。
「よし! なら君に大事な仕事を与える」
「3Dグラフィックで、化学式を表現してくれ!」
「あの球と棒で表した分子モデルを3Dで作れってことですか?」
「そのとおり! やってくれるか!」
プログラムに興味があったし、3Dポリゴンにも興味があった。何より、家のパソコンとは段違いの性能を持つワークステーションを触りたい。なので俺は二つ返事でOKした。いや、してしまった。
地獄の日々だった。
まず、モニター上に3Dモデルを表示させるだけでも、数週間かかり、それなりに自分の思ったとおりに動かせるようになるまで、2ヶ月はかかった。
まだ世の中はポリゴン黎明期。まともなマニュアルもなく、お手本も少なく、試行錯誤で三歩進んで二歩下がると言った状態だった。
みんなが実験をしている横で、毎日カタカタ、パソコンとにらめっこ。
でも、データ入力にパソコンを使うので、そのたびにどかされる。が、当時パソコンを使いこなしている人はおらず、ブラインドタッチが出来る人なんてゼミ、いや学校を探しても私くらいだった。
そのため、他の人がパソコンを使うときも入力係として使われるようになる。
そんな感じで学校にいる間は、ほぼパソコンの前から動くことのない生活となっていた。
しかし、半年も経つと、だんだんとストレスを感じてくる。
実験結果に一喜一憂するゼミ仲間たち。俺は関係なく、カタカタカタカタ。
監獄に閉じ込められ、檻の前で看守たちが酒盛りしている。
ずっとそんなイメージを持っていた。
後悔の日々を過ごしていたが、あるとき、ふと思った。
あれ? これを使ってゲームが作れないか?
俺は、分子モデルを使った簡単なゲームを作ってみた。
簡単と言ってもワークステーションで作ったものを家のパソコンで動かすためには、とんでもない時間が必要だったが……。
でも、性能の壁、OSの壁(家はウィンドウズ3.1、学校はUNIX)、これらの壁を乗り越えようやく完成したのは、1993年の除夜の鐘が聞こえたときだった。
球と棒が画面に表示され、球に棒を差し込みながら、指定された科学式の分子モデルを完成させる。というゲームだ。
正直、面白くも何とも無い。だが、当時は3Dのゲームなどほとんどなかったため、左クリックをしながら、画面上のポリゴンがグリグリ動かせる。と、その一点だけで評価されたゲームだ。
そして、このゲームがパソコン雑誌の付録CDに掲載されることになった。
謝礼金は5万円。
最初は嬉しかったが、いざお金を貰うと、不快感が沸いてくる。
学校で労働みたいなことをさせられ、その報酬が8ヶ月で5万円?
もちろん、パソコン雑誌に罪はない。しかし、何となくやりきれない思いになった私は、思い切って会社を立ち上げることにした。
「3Dグラフィックスハンディマン」
これが最初に立ち上げた会社だ。途中からハンディマンに社名変更した。
ハンディマンとは手作業の何でも屋。という意味だ。とにかく3Dグラフィックスが物珍しい時代だったので、学生が立ち上げたとは思えないほど多くの依頼が来た。
これには驚いた。何の当ても伝もない。だから、3Dグラフィックが活用できそうな会社にFAXを送りまくった。ダメで元々という気持ちだったが、早速、2件の注文を受けることができた。
バーチャファイターやリッジレーサーなどのフル3Dポリゴン、テクスチャマッピングの技術を使ったこれらのゲームが人気を博し、本格的な3D時代がやってきた時代だった。
バブルの弾ける音が聞こえてはいたが、まだまだこの界隈は元気だった。
そのため、高額の依頼も多かった。
まだ、警備が緩かった時代なので、夕方までは教授の仕事。そして夜になると、こっそり学校のワークステーションを使って依頼をこなす。
5件ほど依頼をこなしただけで、銀行には数百万の貯金が出来ていた。依頼は止まらない。スケジュールの都合で断ることも多かった。
俺は思った。
「これは、今、すぐにでもやらなければいけない」
思い切って銀行に融資をお願いした。
バブルが弾けた後だったが、これまでに作った作品を見せたところ、将来性を期待され、2000万の融資を勝ち取ることができた。
もう、後には引けない。
融資額のほとんどを使い、Onyxという最高級の化け物マシンを購入した。
この市場は、あっという間に膨張する。
だから、今のうちから投資をして、人材を育成しなければならない。
目論見は成功した。
映画会社やゲーム会社、テレビ制作会社など、映像を取り扱う業界からひっきりなしのオファーが届く。
やはり、Onyxのパワーは絶大だった。
この頃、すでに100社以上3Dグラフィックスを扱う会社が存在していたが、小中規模の会社でOnyxを使っているのはウチくらいだ。
莫大な電気代とソフト代がかかり、2000万円の融資は簡単に飛んだが、それ以上に依頼が多かった。
さらに、人材の方もOnyxがなんとかしてくれた。
Onyxで3DCGを作りませんか? と募集をかけると山のような応募が来るのだ。
それくらい当時の3D界隈ではこのハードの名前が強力な武器になった。
そして、俺にとってもっとも大きなOnyxの恩恵が、顧客レベルの向上だ。
正直、5件ほど依頼をこなした。と言ったが、本当はもっと多くの会社から問い合わせがあった。しかし、当時はWindows3.1の時代。会社にパソコンがあると言っても、3DCGを動かせる環境にはない場合が多かったのだ。
中にはキレる人もいた。
「パソコンはあるんだから、出来るだろ!」
性能という概念を持ってない人が多かったのだ。パソコンは機種によって性能が違う。そのことさえ知らずに俺に依頼してくる。そんな人ばかりだった。
しかし、Onyxを表に出して宣伝をすることで、Onyxを知らなければ依頼しない。Onyxを知っている人は、3DCGについて最低限の知識がある。こうして、依頼、人材、顧客のレベルが、たった1台のスーパーマシンで解決してしまったのだ。
まさに「それでもOnyxなら、Onyxならきっと何とかしてくれる」状態だった。事実、我が社のOnyxには、このミームに該当する某バスケマンガの1コマが貼られていた。
とにかく必死に働いた。また、社員たちも未来が明るい業界で働いているためか、熱量が異常に高かった。そして、小規模な会社だったことが功を奏し、社員間での情報共有が盛んに行われ、社員、それぞれが3DCG業界では一騎当千の猛者となっていった。
すでにバブルが弾け、終わらない不景気に突入していたが、俺の会社だけは、不夜城と化していた。
1年が経つころには、会社の規模もかなり大きくなっていた。
社員も育ち、俺はエンジニアとしての仕事よりも経営の仕事で時間を追われ始めた。
24歳。社長としての威厳はまだまだ備わっていないが、業績だけは伸びているので、銀行への返済もすでに終わっている。
私はここで大勝負に出た。埼玉にある潰れた倉庫を購入したのだ。
倉庫の大きさは700平米。これだけあれば、かなり事業が大きくなっても耐えられる広さだ。
しかも、平屋というのが良い。倉庫なので天井も高く開放感が素晴らしい。その上、いつでも2階のスペースを作ることも可能だ。しかも大きな冷凍施設もある。ここにワークステーションをぶちこんでおけば、電気代の節約にもなる。
大きな借金を抱えてしまったが、これも成功だった。
敷地面積が広がり、社員をどんどん雇えるようになる。
2年が経った。1996年。私は26歳になった。この間も3DCG業界は花盛りで、業績は伸び続け、2台のOnyxに40台のINDYが動いている。
正直、この設備は圧倒的だ。大手にも引けを取らない陣容である。
そのため、新規の大口契約の際は、相手を我が社に呼ぶようにしている。
この設備を見て、断った会社はいない。いや、それどころか、依頼が止まらない。
設備もそうだが、社員のレベルが頭一つ飛び抜けているそうだ。
たしかに、我が社に来ると、だんだんと会社の色に染まっていき、半年もしないうちに、全員が3DCGオタクになってしまう。
会社で飛び交う会話は、新しい技術の話、また、仕事中に見つけたテクニックの話。
しかも、そのたびに全員が手を止め、座談会や講習会が始まる。これらの情報伝達により、社員の技術は底上げされる。
見た目はオンボロ、中に入れば最新設備。しかも社員は超一流。
灯りが消えることのない不夜城なのに、聞こえてくるのは笑い声。
そんな会社になった。
Onyx1台から始めた会社は、たった3年で、3DCG業界で確固たる地位を築くにいたった。今や取引先は、日本のみならず海外にまで広がっている。
私は成功したのだ。あまりにも順調に。
そう思った瞬間、からっ風が吹いた。
(あれ? 私はこんなことがしたかったのか?)
心の中でも一人称が私になっている自分に気付く。
たった3年。26歳。
会社に可能性はあるが、自分の可能性はどうだ?
正直、今の会社に私の居場所はない。
もちろん社長としての役割はあるし、仕事もしている。
しかし、社長業に専念して2年間ですでに、スキルという面では社員に頭が上がらないほどの差が生まれてしまった。
このまま、この会社の経営者として生きるのか。
それとも、新たな門出へ進むか。
と、こんな思いが出たということは、私の中ですでに答えは決まっている。といことだ
そんなとき、大手ゲーム会社から買収のオファーが来た。
最初は冗談からだった。
「こんな何度も依頼するくらいなら、いっそのこと、狭間さんを買っちゃえば? って話が持ち上がってるんですよ」
「ははは。いいですね。それ、ウチみたいな小規模の会社にいるより、社員は喜ぶんじゃないですか?」
「いやいや、みんな仲がいいじゃないですか。でも、そうなったらいいですね」
「そのときは是非」
冗談だと思っていた。いえ、この話をした人も冗談のつもりだったと思う。
しかし、冗談は現実となった。
私は全社員に頭を下げ、休日出勤をお願いした。
「この会社に買収の話が来ています。大手のゲーム会社です。私はこの話、受けようかと思います。そこで、今日は丸一日、その件に関して話し合いを行いたいと思います」
「新しい会社で働くことになるんですか?」
「わかりません。でも、土地やこの倉庫も買収するので、ここを新たな部署として活用する予定だそうです。多少の人事異動はありますが、先方にはスタッフはそのままの場所で働かせてくださいとお願いしています」
「私たち事務方も新しい会社に行くんですか?」
「もちろんです。ここにいる社員全員、新しい会社で働けます」
「社長は何をするんですか?」
「決めていません。でも、今とは違う、まったく新しいことをしようかと考えています」
「給与や待遇は?」
「給与は変わりません。待遇はわかりません」
「俺たちがイヤだと言ったら?」
「当然、この話は流れます。しかし、私は最近、この会社が良くない方向に行っているような気がします。日本以外にも多くの国から仕事をいただいていますが、他国、特にアメリカは仕事が分業化され、ライティング処理やエフェクトの仕事ばかりです。これらの仕事は会社としては良い仕事ですが、あなたたちの技術には見合っていません。あなたたちは、職人ではなくクリエイター、アーティストです。ゲーム会社なら、グラフィックのすべてを任せてもらえるような仕事を受けるべきです。ですから、会社の仕事のために働かせるような今の状況を私は心苦しく思っていました。この買収があなた方の幸せに繋がるかどうかはわかりません。しかし、私自身は、買収されたほうが、皆さまの幸せに近いと思います」
皆、黙り込む。私の言葉に思い当たる節があるからだろう。
「わかりました」
誰かが言った。
「賛同します」
誰かが言った。
「ま、ゲーム作りたいしね」
その声に大きな笑い声が起こる。
「俺も作りたいかな?」
「だな」
「ならやってみるか」
一人の拍手が、やがて大きなうねりとなった。
「じゃあ、全員賛成でいいか?」
「おう!」
再び大きなうねりの拍手が倉庫内にこだました。
こうして、私はほぼ4年間過ごした会社を売却した。
売却額は9億円。会社の株は100%私が持っていたので、この金額が丸々私に入ってくる。
土地、建物、設備が2億円。会社の預金額が1億5000万円。社員の能力や会社のブランドが5億円。私への報酬が5000万円。という内訳だ。
私への報酬5000万円は現金。そして、残りの8億5000万は先方の株で支払うことで話は決まった。
また、ちょうど最後の仕事がこの会社からの依頼だったので、報酬はすべて社員の退職金に当てるようにお願いした。かなり大きな仕事だったので、社員全員で均等割して、一人300万円の退職金が支払われた。
当時、個人が設立したスタジオが9億もの買収額であったことも驚かれたが、もっと驚かれたのが、退職金の件だ。
「若き太っ腹社長」
そんな風にメディアから呼ばれるようになった。
そして、この噂が次の事業で功を奏したのは、もう少し未来の話。




