06.カイエル
シン、と静まり返ったホールに響くのはワルターの荒い呼吸のみ。皆がハッと息を戻したのはドロテアがワルターに駆け寄ってからだ。
「ワルター! 大丈夫!?」
声掛けに返事はない。勿論生きている。ただその意識がドロテアに向けられていないだけで。
まだ激しく上下する体をのそりと起こす。カイエルを見た瞬間、ワルターの喉がヒュッと鳴った。だがその恐怖心を押し込め、涙の膜が張る瞳で怨みがましく睨みつけた。
「俺が公爵になる筈だったんだ……っ。それなのにお前が」
声の勢いはない。だが、周囲には十分聞こえる音量だった。
ペトラもカイエルも彼の夢を知っていた。だから発言に驚く事はない。しかし他はどうだろう。ペトラは耳を澄ませる。やはり困惑している声が多い。
「本気で言ってたりする?」
ペトラは呆れたように瞬きをした。
「なれるわけがない。私がいるのに。まさか男だからなれるとでも? この国は女王陛下が治める国なのに?」
そして最後に溜息をひとつ落とす。
正直、ペトラはこれでも理解出来ないかもしれないと思っていた。だがワルターはそこまで馬鹿ではなかったらしい。小さく力無い声で「あ、」と呟くとガタガタと震え出した。
一方彼の恋人であるドロテアは理解出来なかったようでキョトンと首を傾げる。ドロテアは可哀想な程震えているワルターの様子を見て、何か違うと思い始めたのだろう。不安げに瞳を歪め、忙しなく周囲を見回した。
彼らに対して数多の瞳は優しくはない。まるで汚物を見るような視線にドロテアの体は一気に震え始めた。そしてその震える指でワルターの服を掴む。床にいるワルターは辛うじて座位を保っているようだった。
「でも、それでも俺は」
力無い声が大理石に落ちて、吸い込まれる。ワルターが何を言おうとしたのか。その言葉の後に何が続くのか。ドロテアの顔がドンドンと青ざめていくのを見ていたペトラにはどうでも良い事だった。
(終わった)
ペトラは下品にならない程度の深呼吸をした。身構えていた事とはいえ、疲れは別だ。少し離れた友人達に視線をやり、笑みを作る。きっとそれだけで何もかも察してくれる筈だ。
もうカイエルの胸に納まらなくても問題はない。ペトラはよいしょと遠慮なしにカイエルから抜け出した。小さな抵抗はあったが、問題なく外せる程度だった。
首をゴキゴキと鳴らし、カイエルを見る。心なしか不貞腐れて見えるのは見間違いか。ペトラは「ん?」と瞬く。
「どうしたの?」
「騒がしいと思ったらお前か、カイエル」
そう訊ねるのとほぼ同時によく通る声が響いた。
声がした方を見れば、人々が次々と道を開け、首を下げている。その出来た道の中央を往々と歩いている人物にペトラはギョッとし、自らも静かに腰を折る。
皆が頭を下げる中、カイエルはただ一人直立を保っていた。そしてあろう事か、そのまま挨拶をした。
「これはこれは女王陛下。本日もお日柄がよく」
そう、その人物とは今回の主賓である女王陛下である。
この国の最高権力者に対してカイエルはなんと軽い挨拶をするのか。イラっとしたペトラはカイエルの靴にヒールをカツンとぶつけた。しかし、意図は伝わらなかったようで彼が頭を下げる気配はない。
「変な挨拶はよせ」
「女王陛下の仰せのままに」
一瞬の間の後、女王は短く笑った。
「時にカイエル」
女王のドレスがカイエルの足を掠る。下げた頭のまま二人を覗き見れば、女王がカイエルの耳元に口を寄せていた。
胃の痛みは増し、自然と目に力が入る。その時、女王と目が合った。
「婚約したようだな、ベルガー公爵の娘と」
自信溢れる瞳にペトラの空が揺れた。大きく跳ねたのは名前を出されたからか。いや、それしか理由はない筈だ。腰に回されたカイエルの手は温かかった。
「そうなんです、ありがたく」
女王が頭を上げるよう促す。ペトラはゆっくりと顔を上げた。
間近で見る女王は遠目で見るよりも少し幼く見えた。だが萎縮してしまう程の威厳がある。
ペトラは口角を固定し、喉の奥から名前を練り出そうとした。しかし、それよりも早く女王が話し出す。
「ペトラだったか、お前も何もこんな旦那を選ばなくとも」
女王は呆れ声を出し、カイエルを指差した。それにカイエルが笑う。
「こらこら」
確かに否定は出来ない。しかし、また婚約を破棄する事などペトラは微塵も考えていない。
女王の覇気さえも感じる笑みに釣られ、ペトラも目尻を下げた。
微笑み合ったのはほんの数秒。女王はゆっくりと体の向きを変えた。その表情にもう笑みはなく、凍てつく氷のような瞳がある一点を見つめていた。一歩、ヒールの音がホールに響く。それは聞く人によれば破滅の音だっただろう、女王の足元には縮こまるワルターがいた。
「だがまあ、これよりはマシか」
その声色にペトラの背筋にひやりとしたものが伝う。
ワルターもドロテアも、もう言葉も出ないようだった。力ない体はただ絶望しか享受せず、色はない。
女王は二人をじっくりと見た後、視線をペトラ達に戻した。表情も笑顔に戻り、ポンッとカイエルの肩を叩く。
「仲良くやるんだぞ」
そう言って女王は手をヒラヒラさせて壇上へと戻っていく。やっと息が吸えると気を抜いた瞬間、「あ」という声と共に女王が振り返った。
「そういえばこの間、魔塔主から連絡があった。お前を返せと」
女王は軽く笑った。
「国政にちょっかいを出されては敵わん。顔を出してやれ」
魔塔。その単語にペトラの思考が止まる。
だが、それは女王には関係のない事だ。ニッコリと美人特有である圧のある笑顔を浮かべると、またカツンとヒールを響かせ去って行った。
「魔塔……?」
カイエルと魔塔が上手く直結せず、ペトラは呟いた。どういう事?とカイエルを見れば女王の背中を見ながら溜息を吐いていた。
「あの耄碌爺。まだ休暇中だよ、何が返せだ」
ペトラは脳の処理が終わるまで何度も瞬きをした。
静まり返るホールは考えるには持ってこいの環境である。
「ええと」
面倒臭そうに頭を掻いていたカイエルがペトラの声で此方を向いた。
難しい表情をしているペトラを珍しそうに眺めると首を傾げる。
「どうしたの?」
問われればペトラが聞く事は一つだ。
「カイエルって魔塔の魔術師だったの?」
「え!」
カイエルは驚いた後、静かに顎に手をやった。視線を上に向け、考え込む。そしてゆっくりと頷いた。
「確かに言ってなかったかも」
そう言ってカイエルは耳にかかっている髪を耳の後ろに掛ける。その掛けた髪の隙間からシルバーのピアスが見えた。
ペトラの瞳がこれ以上ない程、見開かれる。星のような矢車菊を守る鷲の翼の紋章、それは間違えようがない魔塔の証。
「嘘でしょ」
呆けるペトラを笑うように矢車菊が微かに光った。
その後の話だ。
魂が抜けたのではないかと思う程呆けてしまつたワルターは結局ドロテアと結婚をした。それも婚約期間を設けずに。婚約期間を設けなかった理由の一つは逃走が理由だとか。
ペトラも人伝に聞いたのであまり詳細は知らない。ただその結婚は誰も幸せになれない事はわかった。
そしてアルスラン公爵家も騒動の翌年、税を納められず降爵した。彼の父親はその責を負い、当主の座から退いた。
「帰ったよ」
「あら、今日もお早いお帰りで」
ノックもなしに部屋に入ってきたカイエルを一瞥し、ペトラは時計を見た。時計の短針が指す位置は数字の6。いつも通り18時ぴったりの帰宅にペトラは伸びをしてから腰を上げた。
「今日も今日とて農作物の計算?」
「それだけじゃないわよ。日照りが続いているからね、その対策案を練ってる」
「ああー、それはそれは」
カイエルは我が物顔でソファーに座るとペトラの休憩中のお供をパクリと食べた。
咀嚼音が部屋に響き、ペトラも同じ菓子に手を伸ばす。
「雨降らせてあげようか」
妙案だと言わんばかりにカイエルが人差し指を立てた。しかし、それはその場しのぎでしかない。ペトラはゆるりと首を横に振った。
ペトラとカイエルは2年間の婚約の後、籍を入れた。筆頭公爵家の次期当主の結婚式だ。それはそれは大規模な式となり、最後には爆発と見紛う大きな花火も打ち上がった。
まあ、それはテンションが上がったカイエルが勝手にやらかしたのだが。
婚約しても、結婚しても二人の関係は然程変わっていない。二人とも多忙という事もあるのだろう。ペトラは当主である父親の補佐をし、経験を積み、カイエルは魔塔で世界各地を回っている。しかし18時ぴったりにこの家に帰ってくるものだからカイエルが世界を飛び回っている印象はペトラにはあまりない。
ちなみにあの後、ペトラは父親にカイエルが魔塔である事を知っているのか訊ねた。答えは「イエス」。どうやら分かっていて婚約を結んだらしい。
どの国にも属さない実質最高権力である魔塔の魔術師を逃す手は無かったようだ。ペトラは我が父親ながら権力に貪欲だと呆れた。
「仕事やりずらくない?」
それはずっとペトラが疑問に思っていた事。婚約期間もそうだったが、結婚してからは更にカイエルは仕事よりも此方を優先している気がする。それがペトラにはずっと引っ掛かっていた。
「いや、別に。全然そんな事ないけど」
毎日顔を合わしていれば嘘はすぐ分かる。だからカイエルが本心でそう言っている事はペトラにも分かった。だが、どうもペトラには腑に落ちず、口をへの字にする。
「貴族との結婚って魔塔的には面倒臭くない?」
「なんで?」
「ほら、必要な行事には出てもらわないといけないし。上手くスケジューリング出来ない事もその内出てきそうじゃない?」
ここ数年はうまく調整出来ている。だがこの先何十年もある生活の中で調整出来ない事も当然出てくるだろう。
正直、ペトラは魔塔の仕事はよく分からない。だが、この世で一番の武力集団だという事は知っている。紛争地域の調停にも関わっているのを新聞でもよく眼にする。その新聞の中に自身の夫の名前を見つける事も。
ペトラは無意識に手に力を入れていた。膝の上に乗せた手の先は白くなり、爪が手のひらに食い込む程。そんな手を覆うようにカイエルの手が重なった。
「そんなことになったらペトラを優先するに決まってるでしょ?」
紫色の瞳が柔く、でも楽しそうに細められる。ポンポンと手を軽く叩かれ、ペトラの肩にカイエルの頭が乗った。
「出来る? だって魔塔よ?」
「僕はね、仕事よりもペトラが好き」
すぐ横から聞こえた声は耳から脳に痺れをもたらした。ペトラの手からじわりと力が抜ける。
「ペトラの夫が本業、魔塔で働くのが副業だと思って」
肩口でカイエルが笑った。
ペトラはそれに呆れ顔で微笑む。だが、その瞳には隠しきれない喜びが見えた。
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