05.ワルター
カツンとヒールが鳴る。
ひそりとした声の後、管楽器や弦楽器がこちらを歓迎するように大きくなる。その演奏を邪魔するのはホールを揚々と歩くペトラの靴音だけ。
談笑していた人達は息を呑み、ペトラを見ていた。それは何に対しての驚きか。きっと理由は複数だ。
沢山の瞳を挑発するようにペトラは笑みを深めた。長い睫毛に作られた陰が妖しく目元を彩り、真っ赤なルージュは挑戦的な唇を際立たせる。
これだけで誰もが理解するだろう。ペトラの意図を。分からないのはきっと酷い顔でペトラを見ているワルターだけ。
「ほら見て。顔真っ赤にしてこっち見てる」
声を潜め、ペトラは一瞬視線を上げた。僅かに笑いが含まれた声にカイエルもペトラを見る。
「本当にワルター君は予測しやすい」
そしてほんの少し身を屈め、ペトラの耳元でそう笑った。至近距離で微笑み合う。その時、漸くホールに騒めきが戻り、あちらこちらでペトラの名が聞こえ始めた。そのどれもに笑みを返したかったが現実的に無理な話だ。
ペトラとカイエルは注目される中、賓客である女王に礼をすると壁際へと身を寄せた。
少しカイエルと話そうか、そう考えていたペトラだったがそれよりも早く同窓達に囲まれる。
登校がなくなってからもたまに茶会で会ってはいたが、当然婚約破棄の事は勿論、カイエルの事も伝えていない。だからこの状況が気になって仕方がないようだ。
「ペトラ様! どういう状況ですの!? なんでカイエル様がパートナーに? もしかしてアレとはもう婚約破棄を?」
「確かにペトラ様はカイエル様と仲良しでしたものね! よくお話しされているところを見掛けましたわ!」
「あら、もしかしてカイエル様の瞳の色って紫? まあ! ドレスと同じ色だわ!」
実に姦しい友人らに笑顔を向け、しかしその細められたペトラの瞳が見るのは会場の一点。
肩を怒らせ、人の合間を無遠慮に突き進む男。勿論ワルターである。
来た来たと思いながらペトラはカイエルのジャケットの裾を摘む。カイエルも分かっているのだろう、摘むペトラの手に自身の指を絡ませた。
ズンズンと近付いてくるワルターの気配を友人達も気付き、振り向いた。見えたワルターの形相に何人かが小さく悲鳴を上げる。そして心配そうにペトラを見た。
ペトラは問題ないとゆるりと頭を振る。だが無意識にカイエルと繋いだ手には力が入った。
「おい! ペトラ! お前何故そんな男と一緒にいる!?」
友人達を乱暴に退かし、ワルターはさも此方が悪いように指を差した。自分はドロテアを引き連れているにも関わらずだ。
発言の歪さにペトラの口端が上がる。
「それに何だ! そのドレスは! 贈ったものを着なかったのか!?」
「ああ、あのドレスですか? てっきりお婆様へのプレゼントかと思ったのでお婆様に差し上げました」
あんまり喜んでいなかったですけど、と一言付け足せばワルターはカッと更に顔を赤くした。
「何処に婚約者の祖母にドレスをプレゼントする奴がいる!? そんなわけないだろう! 普通に考えろ!」
「まさにあなたがそういう人なのかと思いましたけど。あんな何十年も前に流行った形のドレス、まさか私宛とは思わないじゃない?」
言葉に詰まり、ワルターはチラリとドロテアを見た。それがどういう意味なのかペトラは考えない。どうせ二人で考えたのだろうとは思っていたから。
「ふふ」
カイエルは堪えきれず小さく笑った。誤魔化す為か、笑ったと同時にペトラの髪を撫でる。
ワルターは悪意満ちた表情でカイエルを指を差した。
「まあ、ドレスは良い。問題はお前の浮気だ。これをベルガー公爵家はどう俺に償う? まさかこの期に及んでしてないとは言わないよな?」
その言葉にペトラは吹き出しそうな口を押さえ、カイエルを見た。カイエルは少し驚いているのか目を丸くしている。それもそうだ。ペトラを糾弾するワルターの片腕にはドロテアがくっついているのだから。
実に面白い光景である。
ペトラは口元当てた手から笑い声が漏れる。ワルターはペトラの声に眉を顰めた。
まだ笑いが残る声でペトラがゆっくりと話し出す。
「ご存知じゃないかもしれないけど、あなたとの婚約はもう破棄済みなんですよ?」
ワルターはきょとんと二度だけパチパチと瞬きをし、動きを止めた。ペトラは自らの頬に手を当てる。
「だから浮気じゃないんです。こちらが償うって何を償うんです? 何も契約していない人に対して」
言葉終わりにコテンと首を傾げた。赤い口紅が鮮やかにワルターを射抜いた。
時が止まったかのように動かないワルターの唇がはくりと動く。何度か口は動いたが音はない。そんなワルターのジャケットの袖をドロテアが引っ張る。すると弾かれたようにワルターがドロテアを振り払った。
「お、おれは知らないぞ!」
キャッとふらついたドロテアは頬を膨らませてワルターを見上げた。
しかし爆発しているワルターには見えていない。
「嘘を言うな!」
ただの怒り一辺倒な反応にペトラは段々と飽きてきた。げんなりとした気持ちを隠すのも面倒な程に。だがそんなペトラとは違い、カイエルは楽しそうに目を輝かせていた。
ペトラが見ている事に気付いたカイエルが視線だけでお伺いを立てる。ペトラはゆっくりと一度瞬きをし、それを了承した。
パッと顔を輝かせるとカイエルは同じ事を繰り返すワルターの言葉を遮る。
「婚約とは家同士の契約だから、本人の意思がなくても破棄は出来るよ」
場違いな声にワルターの目玉が取れるのではないかという程開かれた。怒りでもそんなに目が開くのだな、とペトラはどうでも良い事を思う。
ワルターはただでさえ近かった距離を更に詰め、カイエルの胸倉を掴んだ。
「婚約者同士の話に口出すな!」
ペトラはワルターの手を叩く。指輪の石が敢えて当たるように叩いたからか、乱暴な手はすぐに離れ、ワルターは途切れなく声を荒げた。自分から乱暴な事をした癖に此方に非をこじつけようとする姿勢が煩わしく、ペトラも言葉を遮る。
「あなたが先に手を出したのでしょうが。それにもう婚約者同士ではないですよ。元婚約者です。間違えないように」
あと、とペトラは付け足すと、カイエルと繋いでいた指を解いた。そしてギュッと腕に抱きついた。
「今の婚約者は彼です」
「どうも。婚約しました、カイエル・ヴァルネスです」
くっついた体を更に寄せ、二人で笑顔を作る。ワルターが婚約者時代には決して見せなかった笑顔にポカンとワルターの口が開いた。
「は……?」
空気のような声の後、ワルターの顔が青白く変わる。漸く本当に婚約が無くなった事を理解したようだった。しかしこれで諦める男ではなかったのか、わなわなと震え、顔を赤く戻した。
何か言うかと思ったが、此方を睨みつけるだけで何も発さない。そのままフェードアウトするかと思いきや、それを引き戻したのは空気が読めないカイエルだった。
「でもワルター君も次の婚約者いるみたいでよかった。彼女といると対みたいな服で素敵だよ。おめでとう」
悪意はあるだろう、しかしそれを全く感じさせない明るさにペトラは苦笑した。
「お、おれは、俺は受け入れないぞ!」
受け入れる受け入れないもない。事実婚約は破棄されたのだから。ペトラはカイエルにだけ分かるように息を吐く。カイエルはペトラを見はしなかったが猫が喉を鳴らすように頭に頬を擦り寄せた。
「あはは、面白い。もう婚約破棄の手続きは済んでるのに受け入れないってどういう事? 受理済みなのに」
いや、猫はペトラなのかもしれない。すりすりと顔までも触れられ、思わず目を細める。気持ちが良いわけではない。やりすぎだと思ったからだ。
やられている本人がそう思う程だ。見ている側は見るに耐えないだろう。
「お前! たかが魔術師風情が!」
ワルターの激情に呑まれた腕がカイエルに伸びる。その腕の先には拳があった。
ペトラは拳を認識しても動けずにいた。自分の頭のすぐ上に置かれたカイエルの頭が打たれればペトラとて無傷ではおれないだろう。身構える事なく振り下ろされた暴力を避ける技術はない。
拳がカイエルの眼前を捉えた。鼻先が触れた。と思った瞬間、拳がシュンと消える。
「へ?」
間抜けな声を発したのはペトラだったのか、ワルターだったのか。
次に聞こえたのは息を呑む周囲の声。その声と共に視線が上がった。釣られてペトラも宙を見る。
「ええ……」
なんと宙に人がいた。へっぴり腰のワルターがふよふよと浮いていたのだ。
何故浮いているのか。ペトラはふらりと足元から力が抜けそうになる。ワルターが縦になったとて足は地面には到底届かない距離。きっとワルターには会場の隅々まで見れている事だろう。
ペトラは大きく深呼吸し、これをしたであろうカイエルを見た。
「何度でも言うよ。僕がペトラの婚約者だ、もう君ではない」
口元は笑みを浮かべている。声も柔い。だが瞳だけはワルターを射殺すように冷め切っていた。
「わかる?」
カイエルは口元の笑みも消した。じとりと睨みつけるようにワルターを見上げる。だが、ワルターはただただ自分の置かれている状況に喚くのみ。返事は悲鳴のみだった。
「うわあぁぁあ! なんで! なんで!」
その反対にカイエルの瞳にはワルターしか映っていない。
「ねえ、わかる?」
きちんと整えられた髪も服も乱れ、細長い悲鳴は女々しくホールへ響いた。カイエルの冷たい声もかき消すように。
返事がなく、再度カイエルは指を回す。そしてまた一回転。
きっと返事をするまでやり続けるつもりなのだろう。ペトラは吐きそうなワルターを見て、粗相されては敵わないとカイエルの胸を叩いた。
カイエルが視界にペトラを入れると、やわりと目元を緩めた。そして大きな声で「わかる?」と再度ワルターに訊ねた。
「わかった! わかったからおろしてくれ!」
返事というより叫び声に近い。カイエルはペトラを見た。ペトラがすぐに頷くとドサリとワルターが床に落ちる。その瞬間、蛙が潰れたような音がした。
「理解して頂いて何より」
ペトラが胸にいなければ今にも礼をしそうであった。いつも笑顔の男の平坦な声は恐ろしいものがある。ワルターはカイエルの声に倒れながらもビクリと体を跳ねさせた。床に放り出された指先が小刻みに揺れている。顔は隠れていて見えないが、きっと怯えきった色をしているだろう。
だがその気持ちは大いに分かる。ペトラはワルターへ向けていた瞳をカイエルへと移した。
魔術を無詠唱でするところもそうだが、いざとなれば簡単に決断して人を害しそうな恐ろしさがある。今まで普通に接していたのは大丈夫だったのか?と不安になるくらいには。
読んで頂きありがとうございます。
面白かったら評価、いいねをお願い致します!




