02.証拠
転移術は瞬く間もなく、目的地に到着する便利な魔術だ。しかしペトラにとってはもう二度と使いたくないものである。
「ヒィ! 気持ち悪かった! この内臓がもにょっとする感じどうにかならない?」
腹を摩りながら呻くペトラとは対照的にカイエルは涼しい顔をしていた。
「こういうのは慣れだからね。どうにもならないよ」
「これに慣れるわけ無いわ。うえっ」
「大丈夫?」
心のこもっていない心配にペトラはジロリと眼球を動かした後、大きく新鮮な空気を吸い込んだ。少しだけ緩和された不快感を飲み込み、目の前の扉を見る。
(何も此処に落とさなくても)
カイエルが転移した先はベルガー公爵邸の門でもなく、玄関でも無い。まさかの執務室前であった。
確かにペトラは早く帰りたいと言ったが、此処まで最短な場所に落とされるとは思っていなかった。ペトラの頭の中にありがた迷惑という言葉が過ぎる。ちらりと真横に立つカイエルに視線を向ければキョトンと目を丸く見開かれた。ペトラは何も発さず、ただ扉と床を指差した。それだけでカイエルは理解したようで、ポンと手を叩くと小首を傾げる。
「部屋の中じゃないだけマシだと思うけど」
「そんな事したら大騒ぎになるわ。公爵家よ?」
それはそうだがそうじゃない。ペトラは呆れ顔を片手で覆った。その時、ふといつも部屋を警備している騎士の存在を思い出す。
(そういえばいない。あれ? 来た時はいたような……)
次の瞬間、視界の端から影が現れた。ペトラがハッと気付いた時には既に遅く、風を切る音と共にカイエルの首元には剣の切先が突き付けられる。
へらりと笑みを浮かべているカイエルの喉仏がごくりと剣すれすれを動いた。カイエルが緊張したのは剣のせいか、はたまた騎士の鋭い眼光か。ゆっくりと降参のポーズを取る。
それでも笑みを絶やさないのは流石である。ペトラは切先を向ける騎士に首を振り、剣をおさめさせた。
「大丈夫。刺客じゃないわ。ただの常識知らずな人よ。あと学園長の知人でもあるから悪い人でもない、と思う」
騎士はペトラの制止する手を見た後にカイエルへと視線を移した。へらりとした笑みをどう捉えたのか、騎士の眉根がグッと寄る。しかし「ね?」とペトラが促すと騎士の眉間から皺が消えた。
「承知致しました。……お嬢様がそうおっしゃるのなら」
「ありがと」
騎士が下がったのを確認してからペトラは大きく溜息を吐いた。流石のカイエルも少し緊張していたようだ、ふうと息を吐いて微笑む。
「次からは玄関がいいかな? それとも庭園?」
そういう問題でもない。返事をするのも億劫で、ペトラはカイエルを無視し、目の前の扉をノックした。
恐らく此処のやり取りが聞こえていたのだろう、返事よりも前に扉が開く。
「おかえり、ペティ。早くて騒がしい帰宅だね」
部屋の主、自らのお出迎えにペトラは少し動揺した。扉の前でスタンバッていたのだろうか。
「ただいま帰りました。あの、お父様、お話したい事があるのですが」
動揺を引き摺り訊ねれば、快く部屋へ通してくれる。勿論カイエルもだ。しかし、ベルガー公爵は娘が連れてきたカイエルを一瞥もしない。
整えられた執務室。その内扉で繋がった簡易的な応接室には少しだけ硬いソファーが設置されている。それに父親が腰を下ろしたのを見て、ペトラも向かい側に腰掛けた。
「それで話とは?」
ベルガー公爵はペトラだけを見て、腕を組む。多忙な父親の時間を割いている自覚がある為、ペトラはポケットに入れていた写真をローテーブルに並べた。
撮りたてなキス写真にベルガー公爵の眉間に皺が寄る。何枚もある写真の中で一番自分に近いものを手に取るとすぐにテーブルに戻した。眉間の深さは変わらない。だが部屋の空気は重さを増したように感じた。
「ワルター、いえ、アルスラン公爵子息は堂々と不貞行為をしてます。これを理由に婚約を白紙、あるいは破棄したいのですが」
空気の重さからすると不快に思っているには違いない。少なくともペトラはそう思った。しかし、ベルガー公爵は足を組み替えただけだった。何も言わず、ただペトラを見るのみ。ごくりとペトラの喉が上下に動く。
こんな証拠があっても婚約を無くすというのは難しいのだろうか。ペトラは頷かない父親の態度に納得が出来ず、更に言葉を重ねた。
「何で頷いてくれないんです? 私に公衆の面前でキスをするような愚か者と結婚しろと?」
「そういう訳じゃない。可愛い娘には幸せになって欲しいと思っている」
ペトラはローテーブルから身を乗り出し、父を睨みつけた。
「なら! 私の幸せを思うなら破棄してくださいよ!」
そして最後にドンッと机を拳で叩いた。僅かに揺れた机上で写真が踊る。
ベルガー公爵は静かに目を閉じた。その意図を図れず、ペトラはゆっくりと体勢を戻す。しかし目は鋭いままだ。
細い息を吐いたベルガー公爵がゆっくりと瞼を上げた。
「幸せは祈っているが、婚約は契約だ。こちらの立場が上でも簡単に反故にはできない」
それはペトラにも分かっている。だからこそのこのキスシーンの写真だ。
ペトラは写真に視線を移す。よく撮れた写真で何もかもがよく分かる。二人の密着や、ワルターのやらしい手の位置だって。
これでも難しいというのか。
「こんな事をしているのに?」
「不貞といってもキス程度では法的には児戯扱いだ。裁判になればこちらが負ける。だから破棄に対しては慎重にならざるを得ない」
「そんな……」
そもそもこの婚約だってベルガー公爵家が望んだものではない。アルスラン公爵家が泣き落としでお願いしたようなもの。
契約したらこちらの身分のせいで破棄出来ないなんて詐欺と同じだ。
「ちょっと宜しいですか?」
冷たい空気が重く充満した部屋の中、不意に跳ねる声が響いた。
その声を聞き、そういえばとペトラは俯いていた顔を上げる。いつの間に座ったのか、カイエルが笑みを浮かべながら手を挙げていた。
「カイエル」
忘れていたわけでは無い。いや、正直に言うとペトラは忘れていた、彼の存在を。
ペトラは相変わらず空気が読めない魔術師に対してスンと目を細める。カイエルはペトラの視線に気付き、ウインクをした。
「君は……」
ベルガー公爵もペトラと同じような視線をカイエルに向けていた。普通であれば震え上がるだろう眼光に対し、カイエルはケロリとしている。口角を上げ、カイエルは言葉短く自己紹介をした。
「カイエルと申します。見ての通り魔術師です」
カイエルはそう言うが、魔術師と分かる格好はしていないし笑うところでもない。ペトラは気付かれぬ程度の音量で鼻を小さく鳴らした。
「学園長の知り合いなの。だから身分はきっとしっかりしてる、はず」
ペトラの言葉にベルガー公爵はぐるりと視線を巡らせ、ゆっくりと顎に手を当てた。
「さて、そんな魔術師殿が何故我が家に?」
カイエルは更に目を細め、微笑んだ。
「見て貰いたいものがありましてね」
そう言ってカイエルがベルガー公爵に見せたのは小さな、親指の先程の大きさしかない水晶玉だった。よく見ればその水晶玉には文字が刻まれており簡易的な魔導具だと分かる。
「これは?」
見た事がない魔導具にベルガー公爵は片眉を上げた。カイエルはまるでクッキーでも摘むようにそれを作動させる。
すると何もない空間に映像が流れ始めた。それもワルターのキスシーン。写真よりも生々しい映像にベルガー公爵の溜息が聞こえた。
「もう少々お待ちを。あと少しで……、あ、ほら」
カイエルが指差す映像、その次の展開をペトラは知っている。だからこそ息を呑んだ。
『俺がベルガー公爵になるんだからな』
まるで目の前で発しているかのような臨場感。あの時の衝撃が真新しいものとなって再びペトラを襲った。何も疑っていない顔がいっそ哀れである。
ペトラは視線を落とし、父親を見た。これでもかと深く刻まれた眉間の皺は骨まで到達していそう。だが、映像の中のワルターが喋る程、その皺は平坦になっていく。
そして、ぷつりと映像が消えるととても楽しそうに笑った。
「ははは」
それを何と表すればいいのかペトラには分からなかった。楽しそうな声に優しい笑み、しかし肌で感じる感情にはそれは含まれていない。
見た事がない父親の怒りにペトラの背中が粟立つ。理性が許すならば部屋から出ていきたいくらいだった。
「あれはこれ程までに馬鹿だったか」
呟かれた言葉は独り言のように絨毯に落ちる。
「彼の頭はまだ何百年も前を生きているようですよ」
それを掬い上げたのはペトラではなくカイエルだった。ベルガー公爵は大きく息を吐き、頭を抱えた。
「こちらの配慮を甘さと見る相手との付き合い程、馬鹿馬鹿しいものはない」
ペトラの沈んでいた心がふっと浮上した。
「じゃあ!」
出そうと思った音量よりも遥かに大きくなった声にペトラは少し驚いた。それでも乗り出した体は戻さず、決定権を持つベルガー公爵の言葉を待つ。
公爵は一瞬情けない顔をした。しかし、すぐに父親の顔を隠し頷いた。
「婚約破棄の手続きをしよう」
「やった!」
ペトラは少し前まで今回も駄目かもしれないと思っていた。決定的な証拠も父親の前では無力な紙となったから。
今回はカイエルのお陰とも言える。いや、そうとしか言えないだろう。まさかあの場面を映像で残しているとは思わなかった。そもそもそういう魔導具の存在をペトラは知らない。
小躍りでもしてしまいそうな気持ちを全面に出しているペトラに対し、ベルガー公爵はもう一度「すまなかった」と謝罪した。
そしてこれからの流れを話し出す。
「今日のうちに書面を作成して、あちらに送ろう」
「それで破棄は出来ますか?」
ペトラの質問にベルガー公爵は頷いた。
「恐らく早くて三日以内には手続き出来るだろう。これだけの証拠があるんだ」
そう言ってからベルガー公爵はカイエルの魔道具を指差した。
「君もありがとう。それは貰っても? もし渋った時の交渉に使いたい」
「どうぞどうぞ」
軽くカイエルはそれを手渡す。ころりと小さい球を公爵は一度掲げ、透かしてから手の中に握り込んだ。
もう話はほぼ終わりだ。ペトラはほくほくとした顔で退室しようと腰を上げようとする。だが座面から腰が離れるか離れないかのところで待ったをかけるような声が聞こえた。
「ではお礼を頂いても良いですか?」
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