01.不貞を見る
昨晩の内に張った薄氷がまだ完全に溶けずに残る曇天の午後。時折吹く風が寂しい木々の葉を揺らす、そんな色彩が乏しい冬の日。
とある一人の令嬢がひっそりと息を潜めていた。
外気により氷のように冷たくなった壁に白く細い指を這わせ、見つめる先はただ一点。
「わーお」
妖精のような見た目から発せられたとは考えられない間の抜けた声。ちぐはぐな言葉が風の中に消える。それでもそっと口元を隠したのは声が出た事に驚いたからか。キョロキョロと辺りを見回し、またそれに視線を向けた。
彼女の視線の先にあるもの、それは男女のキスシーン。それもただのキスシーンではない。遠目でも分かる程の濃厚なキスシーンだ。
令嬢はそれを瞬きもせずに見ていた。何故ならその男が自身の婚約者であったから。
令嬢の名はペトラ・ベルガー。この国の筆頭公爵家の一人娘である。
そして熱いキスの真っ最中な婚約者の名はワルター・アルスラン。彼もペトラと同じく公爵家の令息だ。
今にも致しそうな雰囲気を醸しているが、ワルターがキスをしている場所は渡り廊下から見える中庭。そこそこ人通りがある場所である。ペトラと同じようにひっそりと覗いている生徒は少なくない。
そのギャラリーの中にはペトラと親しい令嬢もいた。令嬢はペトラがへなへなとしゃがみ込むのを見て、慌てて駆け寄る。しかし、それを制止したのは他ならぬペトラだった。
顔は上げず、力なく指先だけ左右に動かす。声はなくともこれ以上の近寄るなと暗に言われ、令嬢は動きを止めた。
いつも朗らかな公爵令嬢の柔らかな拒絶。それに今のペトラの絶望が見え、令嬢の顔がくしゃりと歪んだ。
「ペトラさま……」
呟いた声は二人だけが盛り上がる空間に静かに落ちる。悔しさを滲ませた表情で令嬢はワルターを睨みつけた。そしてパタパタと遠ざかっていく。
俯いているペトラの表情は見えない。他人を拒絶するように垂れる色素の薄い金髪が鎧のようだ。しかし、ふるふると震える肩には悲壮感が見える。
はらり、風が吹きペトラの髪が揺れる。そして微かに見えたのはペトラの口元。その口角は何故か上がっていた。
(これは決定的な証拠ね)
ペトラは顔に掛かっていた長い髪をばさりと振り、掻き上げる。泣き顔とは正反対な表情は婚約者への情など何一つ見えない。それはそうだ、ペトラは婚約破棄をずっと望んでいたのだから。
ペトラは涼しい顔でポケットから魔導具を取り出すと迷いなく婚約者のキスシーンを写真に撮った。ぺらりと印刷された写真を満足そうに見ると、またついでの様に写真を撮る。その間もキスは止まらず、ギャラリーも増えるばかり。
(よくもまあ)
ペトラは大きく溜息を吐きたい気持ちを我慢しつつ、足元に落ちた写真に視線を向ける。不快でしかないからか眉間の皺が更に深く刻まれた。
ギャラリーのヒソヒソとした声がペトラの耳に届く。それは主にワルターのお相手への苦言。それは良い、そういう言葉が出るのは自然だ。それとペトラに対しての同情の視線。それを向けられるのも自然な事だろう。
(嫌な視線。でもまあ、そうよね)
だから仕方がない事なのだろう。当事者でなければ自分だってその反応をする。ペトラは大きく溜息を吐いた。俯いたまま、暫くそうしていると不意に微かな歌声が鼓膜を掠った。
よく聞けば聞き覚えのある鼻歌である。ペトラは声の方へ視線を向け、すぐに顔を下す。
だが、それはわざとらしくカツンと靴音を鳴らしながら足を止めた。
ペトラの口がくの字に歪む。仕方なしにゆらりと頭を上げた。
その男は紫色の瞳を細め、へらりと微笑んだ。
この国では見た事がない色の瞳は綺麗だが、底が見えず不気味だ。いつも笑っているから緩和されているようなものである。
「ペトラの婚約者は露出プレイが性癖?」
魔術師特有の、いや彼自身の個性である言動にペトラは固く目を閉じる。乱暴な言葉を口から出さない為だ。しかし、目を閉じてすぐに睫毛に風圧を感じ、仕方なしに瞼を上げた。ペトラの鼻先に男の手がゆらゆらと揺れていた。
あまりのうざったさにペトラは険しい顔で男の手をパチンと叩き落とす。
「カイエル」
カイエルは叩かれた手を摩りながら、短く笑った。ペトラの機嫌など気にしていないのか、口元に笑みを浮かべたまま散乱している写真を手に持つ。
「たくさん撮ったね。証拠にするの?」
まじまじと写真を確認し、カイエルは中庭へと視線を向けた。
流石にもうキスは終わっており、お互いの顔をべたべたと触っている。此処で致さない常識はあるのだな、とペトラは冷静に思った。
「そのつもり。これがあれば問題なく婚約破棄出来るでしょう」
「今まで出来なかったのに?」
「感情論と証拠ありきの説得は違うでしょ」
「まあ、そうか」
こうしてはおれんとペトラは床に落ちた写真を回収する。証拠は温かい内に見せるのが一番だ。それに今日、ペトラの父親は宮中晩餐会で夜不在になる。残された時間は少ない。
「急ぎ? 送ろうか?」
カイエルが自身が拾った写真をペトラへ渡しながら言う。ペトラは一瞥もせず返事をした。
「魔術師って暇なの?」
最近良く会うというのもある。会う度に面倒臭い絡まれ方をされるものだからペトラは少し辟易していた。
カイエルは考える素振りも見せず即答する。
「今は暇だね。休暇中だから。復帰したら滅茶苦茶忙しくなるよ」
忙殺されるくらいにはね、と胸を張るカイエルにペトラは鼻で笑った。
「そんな魔塔の魔術師じゃあるまいし」
そんな無礼なペトラの反応にもカイエルは腹を立てない。それどころか「で、どうする?」と訊ねた。
ペトラは何の問いかと思ったが、直前の申し出を思い出し素早く首を振った。
「大丈夫。馬車呼べばすぐ来るから」
「でも僕が送った方が早いよ?」
「いい、いい。転移術怖いもの」
最近初体験した転移術はペトラにとってトラウマになった。術者も同じカイエルであれば、もう絶対に無理だ。
「怖くないって」
尚も引き下がらないカイエルにペトラはうんざりとした視線を向ける。
「ねえ」
「ワルター、本当にあの人と結婚しちゃうの」
ペトラの声が子猫のような声と混ざる。ん?と声がした方を見ればワルターとキスをしていた令嬢の声のようだった。
令嬢の言う『あの人』とはペトラの事だろう。帰る気で半分以上壁から出ていた体を再度隠し、ペトラは耳をそばだてる。
「不本意だけどな。あっちがどうしても結婚したいって言うからしてやるんだ。本当は俺だってドロテアとしたいよ」
不本意なのはペトラも同じである。ペトラは婚約破棄をしようとしているのだが、ワルターは結婚はする気らしい。
真横からカイエルの強い視線を感じたが、気にせずペトラは会話に集中する。
「権力で人を言いなりにさせるなんて酷い」
「それがベルガー公爵家のやり方なんだ」
まるで悲劇の主人公のような言い草にふつふつと苛立ちが湧いてくる。だが、ペトラはワルターのように理性なく動く事はしない。ぐっと拳を握り締めて怒りを逃した。
そして慰めの為か、謎のイチャイチャが会話に入る。もう会話という会話はしないかもしれないとペトラが思い始めた時、ワルターが陽気な声を出した。
「でも、良い事もある」
良い事とか何だ。こちらに利は何もないのに、とペトラは更に息を潜める。
「結婚すればその権力も俺のものになる。俺がベルガー公爵になるんだからな」
ペトラの瞬いた目が固まる。
「この国で一番偉い公爵になるんだ、俺は。そしたらあんな変人は物置に押し込んで、君をあの屋敷に住まわせるよ。ドロテアが公爵夫人になるんだ」
今度は体も固まる。
「やったあ! 嬉しい! 夢みたい!」
楽しそうな声に固まった筈の体がぐらりと揺れた。
夢みたい、とは何なのか。その発言は間違いなく夢でしかない。
ちょん、とペトラの体に何かが触れる。それが合図となり体の固まりがパンッと解けた。ゆるりと視線をあげれば紫色の瞳と目が合う。
ん?とこちらを伺う瞳はもうペトラの考えている事を理解しているように見えた。
ペトラはぎゅっとカイエルの服の裾を引っ張った。
「やっぱり今すぐ帰りたい。家まで送って」
パチクリと瞳が見開かれる。だがすぐにそれは三日月型に変わった。にんまりと微笑んだカイエルの腕がペトラの肩に回される。
「喜んで」
――――パチン
カイエルが指を弾く。その瞬間、内臓を掻き混ぜられるような不快感に襲われ、ペトラはぎゅっと目を閉じる。ペトラの体をがっちりと支えるカイエルの手はとても冷たかった。
読んで頂きありがとうございます。
面白かったら評価、いいねをお願い致します!




