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それは、恋ではなく

作者: 藍田ひびき

「うふっ…………。悪い方ね、婚約者を放っておいて」

「今は可愛い君との時間を楽しみたいんだ」

「ああ、ヴィジリオ様……」


 半裸の男女が睦みあう様子を、アンジェリカ王女は呆然と眺めていた。吊り上がった目と震える両手からは、否が応でも怒りが伝わってくる。

 

 こんな屋外にも等しい場所で()()()()行為を行っている事自体が、清廉な彼女にとっては信じられないことだ。

 この温室は亡き父が妻のために造らせたもので、アンジェリカにとってお気に入りの場所だということも、また許しがたい。

 

 しかし何よりも彼女の心を打ちのめしているのは――あられもない姿を晒している男女の片割れが自分の婚約者という事実だった。


「姫様っ、あのようなものをご覧になってはなりません!そこの侍女、すぐに姫様をお連れしろ」

「は、はい。さあ姫様、広間へ戻りましょう」

 

 護衛騎士と侍女に引っ張られ、アンジェリカは呆然としたままその場を後にした。



 ◇ ◇ ◇


 大陸の東に位置するレラベール王国は代々女王が治めてきた国だ。その国王ベアトリスの第一子が、アンジェリカ王太女である。

 母親譲りのうねるような金髪に白い肌、均整の取れた身体。容姿が美しいだけではなく努力を怠らず、学問に礼儀作法、音楽、武術に至るまで完璧にこなす才媛。未成年ながら既に公務に携わっており、文官からの評価も高い。


 貴族たちは口を揃えて言う。


「アンジェリカ殿下が女王となれば、この国は安泰だ。ただ一つの欠点を除けば」


 たった一つの欠点。それが将来は王配となるべく定められたアンジェリカ王女の婚約者、サアラム王国第8王子ヴィジリオだった。


 アンジェリカが10歳の頃、この婚約は結ばれた。両国の結びつきを強めるため……と言えば聞こえはいいが。サアラム国王には12人の王子がおり、8番目ともなればどこかへ婿に出すくらいしか使い様がない。そこで、まだ婚約者のいないアンジェリカ王女へ婚約を打診したのである。

 

 まずは顔合わせということで連れて来られたヴィジリオは、異国人らしい浅黒い肌に黒い瞳のエキゾチックな美形だった。

 幼いながらもどこか色気を漂わせ、優雅にアンジェリカをエスコートする少年。アンジェリカはすっかり彼へ夢中になってしまった。

 

 女王としては、他にも婿候補はいるしまあ顔合わせくらいは……と考えていたのだが、まさかのアンジェリカの一目惚れ。年齢の釣り合いは取れているし、当人同士の相性も良さそうということで婚約が決まった。

 

 王宮に居を移したヴィジリオとアンジェリカは共に学び、遊んだ。

 ずっと一緒だった。部屋を抜け出してお気に入りの温室で遊び、二人揃って教育係から酷く叱られたこともある。アンジェリカにとっては、それも大切な思い出だ。


 そんな楽しく優しい関係が変わったのは、思春期と呼べる年齢に達した頃。


 最初は男爵家の令嬢だった。

 とある貴族家のパーティで姿を消したヴィジリオが、令嬢と身体を寄せ合っている所を発見されたのである。

 それを知ったアンジェリカは当然怒ったが。「異性に興味を持つ年頃だ。魔が差したのだろう」と周囲に諭され、渋々と矛を収めた。

 

 しかしヴィジリオの浮気はその後も続いた。

 フィッツロイ子爵令嬢、ハミルトン伯爵家の出戻り令嬢、アイヴォリー伯爵家の未亡人……。

 

「どうしてそんなに怒るの?」


 激高してヴィジリオを詰るアンジェリカに、彼は不思議そうに問うた。


 サアラム国は一夫多妻制で、ヴィジリオの父である国王は後宮に20人もの側室を抱えている。

 高貴な男ほど、沢山の女性を抱える。彼にとってはそれが当たり前のことらしい。


「レラベールでは一夫多妻は認められてないわ。妻は一人だけよ」

「それは分かってる」

「だったら」

「だから、この国の男性は愛人を持つんだろう?」


 その答えに、アンジェリカが絶句したのは言うまでもない。

 確かに、貴族男性の多くは愛人を持っている。

 

 しかしアンジェリカの両親はそうではなかった。政略結婚ではあったが二人は深く愛し合っており、父亡き後ベアトリス女王は王配を持たず、独り身を貫いている。

 妹クリスティアナはアゼルフェ国の第二王子と婚約しているが、顔合わせで意気投合したらしく『貴方の嫁いでくる日が待ち遠しい』と熱烈な手紙が頻繁に届いているそうだ。


 何よりもアンジェリカはヴィジリオを愛している。だから母や妹のように、愛し敬い合う関係になりたかった。


 何度も何度もそう説明したけれど、ヴィジリオは首を傾げるばかり。

 段々とアンジェリカは疲弊していった。

 

 ヴィジリオはアンジェリカを蔑ろにはしない。

 会えば「愛している」と情熱的に囁くし、頻繁に花束や贈り物が届られる。

 だから諦められないのだ。

 いっそ酷い態度で接してくれたなら、潔くこの想いを断ち切れたかもしれないのに。

 

 夜になると彼が他の女性と過ごしているのではと不安に駆られ、眠れない。

 ヴィジリオが令嬢と会話しているだけで、浮気を疑ってしまう。無実の令嬢を怒鳴りつけたことすらあった。



「婚約を見直した方がいいのではないか?」

「いいえ。私は、ヴィジリオ様がいいのです。諦めません。説得を続ければきっと、分かって下さるわ」

 

 女王や妹王女、重臣からも幾度となく「婚約を解消するべき」と助言されたが、アンジェリカは首を縦に振らなかった。

 皆が愛し合う自分たちを引き離そうとしているのだと、疑心暗鬼になりますます頑なになる始末。

 ついには公務にすら支障が出始めた。


 アンジェリカに好意的だった貴族すら、「アンジェリカ殿下は王太女に相応しくない」「クリスティアナ王女にするべきでは?」「いや、ファリントン家の公女の方が」と口々に噂した。


 

 あの日も、アンジェリカはいつものように夜会の場から姿を消した婚約者を探していたのだ。

 庭園の方に行ったとの情報を受けて温室へたどり着いたアンジェリカが目にしたのは、婚約者が他の女と睦みあう姿。

 

 流石のアンジェリカも限界だった。

 護衛騎士と侍女が不敬覚悟で引き離さなければ、あの場へ踏み込んで彼らを手討ちにしていたかもしれない。


 

「こんなものっ……!」

 

 自室に戻ったアンジェリカは、ヴィジリオから貰った贈り物を床に投げつけた。

 床中に散乱した残骸の上に涙がぽたりと落ちる。


 ヴィジリオに対する信頼など、とうに地に堕ちている。

 何よりあんな隙だらけの男を王配にするなど、自らの首を絞めるようなもの。誰が見たって、手を切った方がいいに決まっている。


 だけど幼いからずっと一緒にいたのだ。彼を恋慕った時間が、蓄積した思いが心の柔らかい場所に絡みついてアンジェリカを離さない。

 この心をポンと捨てられたら、どんなにいいだろう。

 

「そんな魔法のようなこと、出来ないわよね……」


 ベッドに倒れ込みながら呟いた声は、夜の静寂に溶けていった。




「それで、お姫様が私に何の用だい?」


 アンジェリカの前に座るのは、笑みを浮かべた老婆だ。

 老婆と言っていいのかどうか。皺のある顔と白髪は老女だと告げるが、しゃっきりと延びた背筋と張りのある声は年齢を感じさせない。

 

「姫様に向かって無礼な口を!」と詰め寄ろうとした護衛騎士を、アンジェリカは手で制する。


「東の魔女様にお願いがあって来ましたの。貴方、恋心を消すことが出来るのでしょう?」

 

 昨夜『魔法』と呟いたことで思い出したのだ。

 

 レラベール王国の東、すなわち大陸の東端に広がるエフェの森に住む魔女――通称「東の魔女」。彼女は報酬と引き替えに願いを叶えてくれるらしい。

 だからといって誰でもというわけではない。彼女を利用したり、あるいは害意を持って近づこうとする者は、エフェの森から弾かれてしまうそうだ。


 アンジェリカが魔女の元までたどり着けたのは、彼女に悪意が無く、また真摯な願いを持って訪れたからだろう。


「またか……」と魔女がしかめっ面になった。


「また、と仰ると言うことは。似たようなお願い事をする人が、多いのかしら」

「その通りさ。やれ恋人が冷たくなっただの浮気しただの。挙句にやっぱり戻して欲しいなんて言ってくるモンまでいる」

「まあ」

「だいたいね、恋とか愛とかを声高に言うヤツは信用できないんだ。愛ほど不完全なものは無いだろう?それこそ新しい相手が見つかりゃあ、過去の恋心なんて綺麗さっぱりなくなるもんさ。だから最近じゃあ、縁結びのお守りを渡して帰って貰うことにしてるんだ」


「それでもお願いしたいの」


 食い下がるアンジェリカに、魔女はきっぱり「駄目だ」と告げた。


「どうして!?貴方なら出来るのでしょう?報酬なら、いくらでも用意しますわ」

「そういう事じゃないんだ。これを覗いてご覧」


 魔女が指した水晶玉を覗いたアンジェリカは「ひっ」と声を上げてのけぞった。

 そこに映っていたのは、彼女の身体に纏わり付く大きな蛇の姿。

 

「あ、あれは一体なんですの!?」

「姫さんの心を縛り付けているモノの正体さ。恋じゃない。ましてや愛でもない。あえて呼ぶならば……執着だろうね」

「執着……」

「執着は愛なんかよりずっと根深い。それを無理に剥がそうとしたら、魂に傷が付くかもしれない」

「それでもいいわ。この心を切り捨てられるのならば」

「魂に傷がつくと言うのは、心が壊れるということだ。私なら、そんな人間が治める国にはいたくないね。……それに」


 魔女の鳶色の目が、アンジェリカを見据えた。


「姫さん。あんたは切り捨てたい物が出てくるたびに、私の所へ来るつもりかい?」




 城へ戻ったアンジェリカは、すぐに女王へ面会を申し出た。

 玉座から娘を見下ろすベアトリス女王の顔からは、感情が読み取れない。いつもの鉄面皮――王の顔だ。


「アンジェリカ、急な用件とは何だ」

「ヴィジリオ殿下との婚約解消を。そして願わくば、陛下のお目に適う新たな配偶者を用意して頂きたいのです」

「いいのだな?玉座の前で口にしたことは、撤回できないぞ」

「はい。ヴィジリオ殿下との婚約は、私にとっては不利益しかもたらさないと気付きました」


 きっぱりと答えた彼女に、居並ぶ重臣たちからおぉという声が上がる。女王はじっとアンジェリカの顔を眺め、溜息を吐いた。


「……ようやくか。ぎりぎりであったぞ。もう少し遅ければ、そなたを廃摘させるところであった」

「陛下はもとより、重臣の皆さまにも長らくご心配をお掛けしましたこと、猛省しております」

「分かっているだろうが、貴族たちの間でそなたの評判は決して良いとは言えない。次期女王として、そなたが歩むのは茨の道。それを忘れず、精進せよ」

「はい。覚悟しております」


 王配に相応しくない男に執着し、醜態をさらす王女。

 アンジェリカの即位に反対している貴族は少なくない。いっそ王太女を辞退しようかとすら思った。

 しかし王の第一子として生まれた責務を放棄するようなことは、出来なかった。自分が切り捨てるべき物は、それではないのだから。


「憑き物が落ちたような顔をしているな。ここ数年の張りつめた雰囲気が無い。良い表情だ」

 

 相好を崩した女王の柔らかな微笑みは、国王ではなく母親の顔だった。



 その後アンジェリカとヴィジリオの婚約は速やかに解消され、新たにガーディナー侯爵の次男スティーヴとの婚約が結ばれた。妹王女や重臣たちは彼女の決意を喜び、事がスムーズに進むよう手を尽くしてくれたらしい。

 

 自分はちゃんと、皆から愛されている。

 ヴィジリオの事ばかりで視野が狭くなっていたから、気付けなかっただけ。


 アンジェリカの心変わりは魔法による物ではない。魔女に頼るべきではないと思い直したのだ。

 この恋を手放すと決めたのは自分の意志。

 蛇はまだ身体に纏わりついている。だけどもう、それに振り回されることはない。



 ◇ ◇ ◇



「アンジェリカと申します。ヴィジリオ殿下、今後ともよろしくお願い致します」

 

 頬を赤らめながらも見事なカーテシーをする娘。そのきらきらとした金髪と意志の強そうな眼差しに、ヴィジリオは強く心惹かれた。

 

 どんな相手だろうと、不安はあった。

 生国に二度と戻れないであろうことや、文化が異なる国で過ごさなければならないことも心細い。だけどアンジェリカの存在が彼の支えになった。

 

 ヴィジリオは婚約者を誰よりも大切に思っている。

 だけど年頃になると、彼の方に困った事態が生じた。


 アンジェリカに顔を近づけられたり、身体を触れられたりすると――身体が熱くなるのだ。

 一度、たまらず彼女を抱き寄せようとしてやんわり侍女に止められた。ご成婚まで、過度な触れ合いをしてはいけません、と。

 

 この熱をどうやってやり過ごせばいいのか……。

 ヴィジリオはこっそりと側近に聞いてみた。


「簡単ですよ。愛人を作ればいいんです」


 側近たちはサアラムから連れてきた者であり、ヴィジリオと共にレラベールへ骨を埋める予定だ。既にこの国の令嬢と婚約もしている。

 高位貴族の令嬢である婚約者には軽々しく触れることができないため、平民や訳アリの令嬢を愛人にしていると彼らは語った。


「この国は一夫一妻制だろう。そんなこと許されるのか?」

「レラベールの貴族だって愛人は持ってますよ。公式に認められるのは正妻というだけで」


 サアラムは男性上位の国で、一夫多妻制だ。

 制度が違えど、男女の有り様は同じなのだろう。ヴィジリオはそう納得した。

 

 母親譲りの美貌を持つヴィジリオは、女性からとても人気がある。彼自身も美しい女性が大好きだ。

 だから自分に秋波を送ってきた令嬢と関係を持った。

 

 一度女の味を覚えてしまえば――そこからは堕ちる一方。

 次から次へと愛人を作った。

 

 だからといってアンジェリカを粗略にしたつもりはない。一番大切で、愛しているのは彼女だけ。

 会えばいつも「愛している」と囁いたし、贈り物をする際だってアンジェリカには一番高価なものを贈っている。父親が正妃に対して、そうしてきたように。


 新しい愛人の存在が表に出るたびにアンジェリカがひどく怒るのを、不思議に思っていた。

 ヴィジリオの母親は、他の妃が寵を受けても嫉妬を見せたことはない。母曰く「嫉妬などというのは、平民の女のすること。高位貴族の女性は、そんなはしたないことはしない」らしい。

 

「どうしてアンジェリカは、あんなに怒るんだろう。平民ならともかく、彼女は王女なのに」

「アンジェリカ殿下は、少々()()()()()のでしょう。次期女王だからと男性たちが傅くので、我儘にお育ちになったのかもしれませんね」

「女だてらに武術をたしなむとか。我が国の女性ならば考えられないことです。婚儀までに、殿下が躾けてやるべきかもしれませんね」

 

 ヴィジリオより幾分年上の側近たちは、自分たちの価値観に凝り固まっており、女性の地位が高いレラベールの風潮を受け入れようとしなかった。

 外交官は「アンジェリカ殿下の意に沿うようになさるべきです」と、何度も苦言を呈したのだが。

 ヴィジリオは側近たちの方を信じてしまった。その方が、自分に都合が良かったから。

 

 自分がどれだけ白い目で見られていたか。どれだけアンジェリカを傷つけていたか……。彼は全く気付いていなかったのである。

 

 

「婚約白紙!?なんでっ……」


 婚約が無くなったと外交官から突然に告げられ、ヴィジリオは困惑した。自分にどんな非があるのかさっぱり分からなかったからだ。


「度重なる不貞行為により、殿下は次期女王の配偶者に相応しくないと判断されました。婚約破棄ではなく白紙としたのは、互いに経歴に傷が付かないようにとの配慮でしょう」

「俺は王子で、次期王配だ。多くの愛人を抱えることは当然だ!」

「何度も申し上げたはずです。それはこの国では不貞であり、恥ずかしいことなのだと」


 きっぱりと断じる外交官の目は、酷く冷たい。


「レラベールにも愛人を持っている貴族はいると聞いた」

「正妻が許していれば、それもあるでしょうが。アンジェリカ殿下はヴィジリオ殿下をそれはそれは慕っておられた。愛人の存在など、許すはずはないでしょう」

「それは……アンジェリカがはしたない娘だから、嫉妬なんていう無様なことをするのかと」


 ヴィジリオ以上に青い顔をしている側近たちを、外交官はジロリと睨んだ。

 

「誰が殿下にそのような事を吹き込んだのかはさておき。確かに、この国でも愛人を抱える貴族は多い。しかしそれは決して褒められたことではないのです。王配とはこの国の貴族男性のトップであり、貴族男性の模範となるべき存在。不貞行為を許してしまえば、この国の規範を揺るがしかねませんから」

「それなら、他の女とは手を切る!俺だってアンジェリカが好きなんだ。彼女へ謝罪すればきっと許して」

「婚約白紙は決定事項です。既にアンジェリカ殿下には新しい婚約者もいらっしゃるとか。国王陛下からは、ヴィジリオ殿下はすぐにシェバト国女王へ嫁ぐようにとのご命令です」

 

 シェバトは女性優位の国で、女王陛下は御年40歳。後宮には正室の他、数多の側室を抱えている。つまり、ヴィジリオは側室の一人となるのだ。


「じ、じゃあ俺たちはどうなるんです!?」と側近たちが騒ぎ始める。

「側仕えはシェバト側で選ぶため、お前たちがついていくことはできません。サアラムへ戻ることになります。……ああ、ちなみにお前たちの婚約は既に破棄されていますよ」

「そんな……」

「国王陛下はお怒りですよ。私を含め、皆がヴィジリオ殿下をお諫め出来なかったのだから。故国へ戻れば、厳しい処罰を受けることになるでしょう」


 


 王宮では盛大な夜会が開かれていた。

 秋の収穫を祝う催しであり、ヴィジリオを含むサアラム一行も参列している。しかし彼らに近寄る者はいなかった。貴族たちも彼らを遠巻きして、ヒソヒソと囁き合っている。酷く居心地が悪いが、ヴィジリオはこの場から離れるわけにはいかなかった。

 

 あれからアンジェリカとは一度も会えていない。何度も謝罪の為にと面会を申し込んだが、忙しいとすげなく断られた。終いには「貴方と会う理由が無い」という言伝を最後に、申し次ぎすら受けて貰えなくなった。

 

 夜会ならば、彼女に会える。ヴィジリオの顔を見れば、きっといつものように笑ってくれるはずだ。ヴィジリオはこの期に及んでも、アンジェリカにさえ会えば何とかなると思っていた。

 

 

「アンジェリカ王女、並びにスティーヴ・ガーディナー侯爵令息、ご入場!」


 高らかな声と共に、長身の青年にエスコートされたアンジェリカが現れた。


「まあ、今日のアンジェリカ王女の美しいこと!」

「新しい婚約者は、やはりガーディナー侯爵令息だったか」

「宰相のご子息だけあって優秀な方らしいわ。お似合いの二人ね」


 そんな声が否が応でも耳に入る。

 馬鹿な。アンジェリカはずっと自分を慕ってきたのだ。あんな男とお似合いのわけはない。

 彼女だって、嫌々婚約したに決まっている。

 

 しかしヴィジリオの目に映ったのは、アンジェリカが青年に手を預け、柔らかい微笑みを向ける姿。

 ……急に、胸が焼け付くように熱くなった。ひどく息が苦しい。

 

「ヴィジリオ殿下。この度はシェバト女王陛下とのご婚約、まことにおめでとうございます」

「あ、アンジェリカ。俺は……」


 ぜぇぜぇと繰り返す浅い息を抑え、何とか言葉を絞り出そうとして。ヴィジリオは突然気付いた。アンジェリカの冷たい眼差しに。

 こんな目を向けられた事はなかった。

 いつだってキラキラした瞳と赤く染めた頬で、見つめてくれていたのに。


「私の我儘で殿下をお引止めしましたこと、本当に申し訳なく思っております。もうお会いする事も無いでしょうが、殿下の末永い幸せをお祈り申しあげますわ」

「あ……」


 引き留めようと伸ばした手が、空を切った。


 心配するように腕を添えるスティーヴと見つめ合うアンジェリカ。そこには誰も立ち入れない空気がある。

 ヴィジリオはようやく苦しさの正体に気付いた。


 これは、嫉妬だ。


 愛する者が、他の誰かを愛し、その身体を預ける。自分の想いが届かず、ただじりじりと炎が胸を焦がしていく焦燥。

 こんな。こんな辛い思いを、自分はずっとアンジェリカへ与えていたのだ。

 

「う……くっぅ……」


 ぽろぽろと涙が零れ落ちる。

 大好きだった彼女の笑顔。あの笑顔が見られなくなったのは、いつからだったろうか。

 ……自分がアンジェリカを苦しめたから。あの笑顔を奪ったのは自分だった。


 床に落ちた後悔の涙は誰にも顧みられることなく、染みこんで消えていった。


 

  ◇ ◇ ◇


 

「ハミルトン伯爵家は賠償金を支払えず、爵位を返上致しました。令嬢は娼館送りになったそうです」


 王太女の執務室で、アンジェリカはスティーヴからの報告を受けていた。

 婚約が決まってすぐに女王から与えられた仕事。それは、ヴィジリオに近寄った令嬢とその実家の処分だった。

 

 まともな貴族令嬢であれば、王太女の婚約者に近づこうなど思わないだろう。あるいは親が止めるはずだ。

 つまり裏がある。それを突き止めろ、との密命。


 二人は王家の影を使い、裏取りを行った。

 調査を進めるうちに浮かび上がったのは、アンジェリカの廃嫡を狙う者たちの存在。

 全ての糸を引いていたのは、王家に連なるファリントン公爵家。股と頭の緩い令嬢を選んでけしかけていたのだ。恐らく自らの血筋を女王にするため、アンジェリカの評判を落とそうと目論んだのだろう。

 

 アンジェリカとスティーヴは、ファリントン家に協力した貴族を表から、あるいは裏から一個一個潰していったのである。

 

「ファリントン公爵家はどうしようかしらね。流石に大物過ぎてすぐには潰せないわ」

「これだけ()()()が潰されたのだから、大人しくなるでしょう。後は徐々に力を削いでいくしかないかと。公爵の主な収入源はアゼルフェ国との交易ですから、そちらに手を回しましょう。クリスティアナ王女のご助力を頂きたく」

「妹に伝えておくわ。……本当に、今回の件は貴方には助けられたわね」

「これが俺の仕事ですから」


 スティーヴは非常に優秀だった。頭の固そうな文官に見えたが、存外柔軟だ。目的を果たすためには裏の手を使う事も辞さない。

 流石は母が選んだことはある、とアンジェリカは感心していた。


「以前にも話したけれど……私は貴方を愛せるかどうかは分からない。本当に、この婚約を続けても良いの?」

 

 婚約を結ぶ際、アンジェリカは正直に自分の気持ちを話した。

 恋がどれだけ自らを愚かにしてきたか。そして女王となるために、二度と愛や恋に溺れるつもりはないのだと。


「構いませんよ。自分は朴念仁なもので、色恋というものがよく分からないのです。だから今まで婚約者も作らなかった。しかし婚約者と定められた以上、貴方の治世の為に誠心誠意尽くすつもりです。そこだけは、信頼して頂きたい」

「信頼はしているわ。これまでの仕事で、貴方の事はよく分かったもの。貴方がそれで良いのならば、私もスティーヴがいいわ」

 

「光栄です」とスティーヴが微笑む。


「貴方、そんな顔もできるのね」

「俺だっていつも仏頂面ではないですよ」


 常に表情を崩さないスティーヴの拗ねたような顔に、アンジェリカは吹き出した。

 

 ヴィジリオはシェバト女王に嫁いだものの、後宮の隅に追いやられているらしい。

 女王の側室は美男ばかり。しかも様々な能力に秀でた者たちばかりと聞く。

 容姿しか取り柄の無いヴィジリオが、女王の寵を得られるはずもないのだ。


 何故あんな男に囚われていたのか……。今となってはよく分からない。

 スティーヴならば背中を預けられる。共に歩んでいける。それだけは確かだと思う。


 彼に対して、胸がときめくような感情はない。だから、これは恋じゃない。

 そもそも二度と恋なんてするつもりはないのだ。

 そう自分に言い聞かせながら、アンジェリカの胸に甘い予感を含んだ風が吹き抜けていった。

東の魔女はこちらの話(https://ncode.syosetu.com/n2364jt/)に出てきた魔女さんと同一人物です。

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― 新着の感想 ―
アンジェリカ、思い切れて良かった♪ 巨大な蛇はもういなささそう(*´ω`*)
 ヴィリジオは本来の資質からして王配には向かない浅はかな王子だったのでしょうが、彼を正しく導ける側近にも恵まれなかったのは少し気の毒でしたね。  東の魔女がアンジェリカを諭す言葉が素晴らしかったです。…
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