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第5話 NOと言えない日本人、異世界の温かさに触れる

 教皇からの洗礼を受けた日の深夜。勇者が眠りについた後、女神と初めて対峙した世界、神性融合界精神世界、通称“しんとうかい”へと意識が引き込まれた。


 ――白銀の大理石が敷き詰められた神殿のような空間。

 天蓋からは光が降り注ぎ、空間のどこかからは鐘のような音が微かに鳴り響いていた。


 壁面には見たこともない古代文字が浮かび、空気はひたすらに澄んでいるのに、何故か胸の奥に重さを感じる。


 そこに立っていたのは、安寧の女神ニートリア。

 その姿は、勇者がこれまでに見たどの存在とも異なり、ただそこにあるだけで世界の均衡を象徴するような、圧倒的な静謐さを湛えていた。


 女神は神殿の中心に立ち、勇者に向けてゆっくりと口を開いた。


「……勇者様…まずは、この状況に巻き込んでしまったことを謝罪いたします」


 その声音は静かで落ち着いており、場に満ちる神聖な気配に揺らぎはなかった。


「本来であれば、あなたを迎えるための準備を整えてからお呼びする予定でした。しかし……その余裕すらなく、結果として不完全な形で転移させることとなりました」


 その場には当然他に誰もいないが、神殿全体がまるで意志を持つかのように、女神の言葉に呼応してわずかに震える。


 ニートリアは、現在この世界の女神に対する信仰心が著しく低下しており、その影響で神としての権能が大きく制限されている現状を正直に説明した。


「なぜ信仰が薄れたのか……確たる理由は不明です。ですが、信仰心が失われれば、女神の力は行使できず、自然災害も魔族の侵攻も抑えることができません」


 神の力とは、人の祈りによって支えられる──この世界の理そのもの。

 かつて神殿で祈りを捧げるだけで雨が止まり、病が癒えたという時代は、今は昔。


「それでも、私は私の子らを、世界を見捨てることはできません」


 その言葉には、女神としての慈愛と、どこか罪悪感を滲ませる響きがあった。


 女神は静かに両の手を組み、再び勇者へと視線を向けた。


「勇者様…あなたには、英雄としての道を歩んでいただきたいのです。各地を巡り、魔族を退け、民の希望となってほしいのです。信仰を集める象徴として。……それが、今の私にできる唯一の祈りです」


 最後に女神は約束した。

 旅の果てには、元の世界に戻す。

 しかも、転移した“あの瞬間”にまで時間を補正して。


 それを聞いても勇者の反応はなく、ただその場に静かに立ち尽くしていた。

 やがて、神殿の光がやわらかく揺らめき、彼の意識はゆっくりと現実世界へと還っていく。


 ――


 朝焼けの中、勇者は一人静かに町の通りを歩いていた。


 街路樹の影が長く伸び、石畳には昨晩の夜露がまだわずかに残っている。遠くの方では商人たちが店を開け、朝の祈りを告げる鐘が教会の塔から響いていた。


 歩いているだけなのに、次々と声がかかる。


「勇者様……ありがたや…ありがたや…」

「あの、よければ握手してもらえませんか?」


 断っても断っても、子どもたちは群がり、老人は微笑み、店先では焼き菓子や果物が差し出される。


 ある筍屋の店主は勇者の手を強く握りながら、涙を浮かべて言った。


「うちの娘が、勇者様が来てから笑うようになったんです。本当に……ありがとうございます」


 勇者は何も答えない。ただ、深く頭を下げ、筍屋が差し出した灰汁を抜いた筍をそっと受け取る。


 そのうち、一人の老婆が「これも何かの縁ですから」と、刺繍入りのハンカチを手渡してきた。丁寧に畳まれた布には、風に揺れる花と家族の図が描かれている。


 ある小さな少女が手を引いてきたのは、少女より更に一回り幼い年齢の男児だった。


「この子、まだしゃべれないの。でも、“頑張って”って伝えてる……」


 その子は、勇者の手を取って小さく握り返す。


 胸の奥に、何かがぽつりと落ちる音がした。


 陽が傾き始める頃、町の小高い丘へ向かうと、そこには赤く染まる町の風景が広がっていた。


 屋根の上で旗がはためき、遠くからは子どもたちの笑い声と、鍛冶場の槌音が響いてくる。


 日本では、こんなふうに誰かに感謝されたのは、いつ以来だっただろう。自分をこんなに温かく呼ばれたことがあっただろうか。


 両手いっぱいの贈り物。胸にしまいきれないほどの「ありがとう」と応援。


 ──もし、自分が一歩踏み出すことでこの世界が守れるのだとしたら、ほんの少しでも役に立てるのなら。


 その想いは、否応なく胸に残った。


 そのまま勇者は丘を降り、教会の裏手に設けられた自室へと戻っていく。振り返った丘の上では、夕日が町全体を優しく包んでいた。


 遠くで鐘が鳴る。次なる旅路の始まりを告げる音が、静かにルーメンティアの空へ響いていた。


 ———


 翌朝、ルーメンティアの正門前には、旅支度を整えた勇者パーティーの姿があった。


 魔法使いのノクスは黒衣のローブを羽織り、杖を肩にかけて黙って空を見上げている。盗賊のシドは軽装のまま荷袋を片手に、のんびりと腰を伸ばしていた。


 そして、笑顔を浮かべて勇者の腕にぴたりと張り付いているのはセーラ──の身体を借り受けている安寧の女神ニートリア。


 ニートリアはなぜか少しだけ吹っ切れたような勇者の表情に首を傾げていた。


(……あれ?なんか昨日までと雰囲気が違いませんか?何かありましたかね?)


「それでは出発いたしましょう!」


 ニートリアが高らかに宣言する。


「まずは王都セラフィムを目指しますわ。王様への挨拶は形式だけでも必要ですからね。その道中、村や町があれば立ち寄りながら進んでいき、困ってる方々がいらしたら女神様や勇者様の名のもとに手を差し伸べていきましょう」


 シドが片手をひらひらと“了解”の意を示し、ノクスは無言のまま小さく頷いた。


 勇者はというと、頷くでも返事をするでもなく、ただじっと前を見据えているだけだった。


 そのまま一行は街道を歩き始めた。


 草原と森に囲まれた道を進み、朝の光が背中を押すように差し込む。


 やがて、最初の分かれ道に差し掛かった頃、ノクスがそわそわと落ち着きなく足元をいじり始める。


「……あ、来た来た。予定通り」


 木の陰から現れたのは、牙をはやし凶悪な顔をした獣人型の魔族。その動きには不自然な迷いがあり、明らかに演技がかっていた。


「がるるるる……ごふっ……ぶひぃぃ……ぶひ?」


 シドが一歩前に出て声を張る。「オークだ!新米の冒険者が年に数件犠牲になる魔族だが、油断しなければどうってことねぇ雑魚だ!」


「……雑魚ではない。オークくんも頑張っている……ちなみに腕相撲が超強い」


 ノクスがよく分からないことを言っているが、勇者の耳には届いていない。


 勇者の手が剣の柄に触れかけ──止まる。


「あの……勇者様?」


 ニートリアが心配そうに声をかける。


 勇者は黙ったまま、一歩だけ下がった。目が泳いでいる。


 記念すべき最初のやられ役のオークが一歩こちらへ踏み出した瞬間──




 ———勇者はくるりと背を向け、走り出した。


「ちょ、逃げ──!?!?!?!?!?!?!?」


 ニートリアが慌てて追いかけるが、林の中へ飛び込んだ勇者は、枝に躓いて転がり、その場にしゃがみこんで小刻みに震え始めた。


 顔を上げずに、肩を震わせながら小さく何かをつぶやくその姿にニートリアは額に手を当てて天を仰ぐ。


「ちょっと昨日!あんなに決意固めてたじゃないですか!?子供の手紙見て泣きそうになってたのに!?!?」


 そんなやりとりをよそに、ノクスが軽く手を挙げオークに合図を送る。


「取りあえず今日はもう大丈夫みたいだね。ありがとう」


 その一言に従い、オークはノクスに軽く会釈を返し立ち去り、勇者はというと木陰のやや後ろにしゃがみ込み、何やら地面の砂利をいじっている。両肩は明らかに震えていた。


「………………」


 ニートリアが勇者のもとへ歩み寄るが言葉はかけない。ただ隣にしゃがみ込み、同じ目線でじっと彼を見る。


 一方その頃、何も知らないシドがぽかんと口を開けて固まっている。


「……え?あれ、今のって……」


「今はまだ何も気にしないでいいよ?」


「え?何??どういうこと???」


 シドの頭上には「???」が浮かんで見えるほどだった。


 勇者を慰めるニートリア、シドを落ち着かせるノクス…カオスである。




 とりあえず、この後ニートリアとノクスの話し合いにより、魔族のやられ役の方たちは、勇者が安心して斬れるように、斬られた箇所から花弁が舞い、更に魔王の呪いが解呪され人間に戻る、という仕様に変更されたのだった。

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