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第2話 NOと言えない日本人、異世界で歓迎される

 薄い水の膜のような空間が、波紋のように静かに揺れている。


 上下も左右も曖昧なその場所は、光でも闇でもなく、ただ淡く澄んでいた。

 無数の光粒が水中花のように浮遊し、風もないのに緩やかに渦を描いて漂っている。


 その中心に、ひとりの少女──いや、若い女性が眠っていた。

 白い寝間着のような衣を身にまとい、腰まで届く銀の髪が、水の中のようにふわりと広がっている。


 長いまつげ、整った鼻筋、桃色がかった頬。どこをとっても神聖で、どこか現実味に欠けるような容貌だった。


 彼女の名はセーラ。大陸最大の宗教組織・女神教の聖女にして、今まさに夢の中にいる──


 いや、ここは夢ではない。彼女と“安寧の女神”ニートリアが意識を繋ぐ精神世界の領域だった。


 ふと、柔らかな声がこの空間に響く。


「セーラ。私の愛おしい子よ…起きなさい……」


 その声は、まるで水面に滴を落としたように空間を震わせ、優しく、しかし確かに彼女の意識を揺り動かす。


「……んぅ……あと……五時間……」


 セーラの唇がかすかに動いた。


「こら、二度寝すんな!!しかも単位がおかしい!!」


 突如、空間全体に鋭い念波が炸裂した。光粒が一斉に震え、波紋がいくつも重なる。


「……あああ……はい……起きます……起きますからぁ……」


 ようやく目を開けたセーラは、眠たげな瞳を瞬かせながら、空間の中央に現れた人物をぼんやりと見つめた。


 金色の髪に、白と青を基調としたゆるやかなドレス。

 その姿は神秘的でありながらも、どこか生活感のような気だるさをまとっている。


「……ニートリア様?」


「そうですわ。わたくしです」


 女神ニートリアは優雅に微笑みながら、しかし足元にはふかふかのクッションを魔法で召喚して腰を下ろす。


「お久しぶりです、前回ケーキを献上するようお告げをいただいて依頼ですね。何か……あったんですか?」


「……。ええ、とても大切なことが、ですわ。これよりこの教会に──救世の勇者様がいらっしゃいますの」


 その言葉に、セーラは目をこすりながら小首を傾けた。


「……え、あのニートリア様が……?お告げを……真面目に……?」


「真面目ですわよ。真剣そのもの。今回ばかりは、本当にマズいのですわ」


 セーラはしばらくぼんやりと宙を見つめたあと、ふわっと目を閉じた。


「……それなら……ニートリア様が……やってください……」


「……おいコラ、寝るな!」


 再び念波が炸裂し、空間がビリビリと振動した。


「うぅぅ……だって……私ひとりが頑張ったって教会の偉い人たちは何も聞いてくれないし……みんな勝手に期待ばっかり押しつけてくるし……ニートリア様が出てきた方が早いんじゃないですか……?」


「できるわけないでしょうが。古の契約により、神は人間界に直接関与できませんの。そういう面倒事を押しつけるためにあなたがいるんですわよ!」


「ひどっ!」


「良いから話を聞きなさい!貴方にとっても悪い話ではありませんから…。しばらくのあいだ、あなたと身体を共有しますわ。そうしえ私は勇者様を直接サポートしますわ」


「は?共有……って、えええぇえ!?そんなの前代未聞ですってば!」


「もちろん、精神はわたくしとあなたの二人三脚。あなたは好きなだけ眠っていてよろしいですわ。必要な時だけ起こして差し上げます」


「え、ええ……それって……」


 セーラはぐるぐると目を回しながら、そして気づいた。


「……寝てていい……?」


「そういうことですわ。あなたは寝ていて、わたくしが喋る。人間界に直接関与していない、という建前も守れますし、あなたも幸せ。まさに──」


「ウィンウィン……!」


「そういうことですわ!」


 満面の笑みを浮かべて手を取り合うふたり。神域の空間に、怠惰で平和な波動がふわりと広がった。


 ***


 静かな風が吹き抜ける山岳地帯。その稜線を背にそびえるのは、黒曜石のような艶をもった魔王城。

 だが、威圧感に満ちた外観とは裏腹に、その中庭では奇妙な光景が広がっていた。


「……そこのカボチャ、もう少し日光に当てた方がいいと思うよ」


 声をかけたのは、豊かな黒髪をポニーテールにした女性──魔王ノクスだった。彼女は手にクワを持ち、土の感触を楽しむように畝を整えていた。


「了解でーす、魔王様ー!」

「葉っぱの裏に虫ついてましたー!」


 周囲には筋骨隆々とした魔族たちが、畑仕事に勤しんでいる。

 その誰もが額に汗をにじませ、泥だらけの手で笑顔を交わしていた。


「まったく、こんな平和でいいのかしらね……」


 宙にふわりと現れた女神ニートリアは、空中にクッションを出現させるとそこにどかりと腰掛けた。


「あれ?いらっしゃい。どうしたの、今日はずいぶん真面目な顔して」


「私はいつだって真面目ですわよ、失礼ですわ」


 いつも通りの軽口で挨拶を済まし、ニートリアは早速本題を切り出す。


「実は……つい先日、“神統合意評議会”でこの世界の信仰心の低さをを叩きつけられまして…」


「おお……それはさすがに不味いねw」


「でして。まぁ、楽して回避できる方法があるなら頑張ろうかしらって。勇者、用意しましたの」


 ノクスはクワを土に刺し、軽やかな足取りでニートリアの方へと歩み寄った。


「なるほど……またその手で来たか。了解。で、またウチの子たちを“やられ役”に?」


「できればお願いしたいですわ。もちろん、ボーナスは弾みます」


「あー、そりゃあありがたいけど……」


「姐さん、ボーナス頼みますよー!」「自分がいない間、母ちゃんの畑よろしく頼みますよー!」


 にこやかに手を振る魔族の農夫たち。その姿にノクスは深くため息をついた。


「こっちは本気で農業やってんだけどなぁ……」


「ほんとごめんなさい。でも、ウチの世界、見せかけだけでも盛り上げないと、信仰が集まらないんですのよ……」


「わかってるよ。だから協力は惜しまない。でも、死人は出させない。いいね?」


「当然ですわ。そもそも、あなたのところの魔族は核が残っていれば復活できるんですもの」


「うん、でもそれでも民が痛い想いするのはイヤなんだよ。できれば演技で済むように、うまくやってね」


「心得てますわ」


 女神と魔王──とても“人類の敵とその守護神”とは思えない、あまりに穏やかで、あまりに平和な会話が、空に溶けていった。


 ***


 それから数日後──


 女神教総本山の中心部に位置する大聖堂は、朝から慌ただしさに包まれていた。


「勇者様が来る……!本当に来るんだ……!」


 聖職者たちは浮き足立ち、見習い神官たちは境内の掃除に奔走していた。


 そして──


「皆さま、落ち着いてください。これはお告げに従っての、正式な神儀です」


 静かに、しかしよく通る声で呼びかけたのは、教会の聖女・セーラ──の姿をした、本来信仰の対象である女神ニートリアである。

 セーラ本人はというと、精神世界で布団にくるまって眠っていた。


 ニートリアは小さく溜め息をつきながらも、聖女らしい清らかな笑顔を浮かべて周囲に目を配る。


 そこへひとりの神官が駆け寄ってきた。「セーラ様、大変です!空が……!」


 空を仰いだ瞬間、それまで晴れ渡っていた青空が突如闇に包まれ、不自然な渦が巻き起こる。次の瞬間──まるで絵画に描かれたような巨大なシルエットが天に浮かび上がった。


「……まさか魔王……!?」


「(…来たわねノクス!)


 誰かがそう呟くと同時に、群衆の中から悲鳴が上がる。


 けれど、その影から発せられた声は、驚くほど理性的で落ち着いていた。


「人間たちよ。驚かせてしまってごめんね。ボクの名はノクス──魔王だよ」


 一瞬、群衆がざわつく。


「勇者が来るって聞いたから、ちゃんと挨拶をしておこうかと思ってね…ボクたちは戦争を望んでいない。だからどうか……無理だけはしないで。装備がなければ、逃げてもいいし、お年寄りや子どもは家にいてね…覚悟しろ人間さんたち!」


 ──どうやら宣戦布告にしては優しすぎたらしい。


「あの……なんか……すごく優しい……?」「うん……むしろ、心配されてるような……?」


(……やはりノクスに極悪な魔王の演技なんて出来る訳ありませんわね)


 困惑する人々の視線を受けながら、ノクスのシルエットはふっと消えた。


「ま、まぁなんと恐ろしい古の時代から生きると言われる魔王の姿なのかしら!」


 困惑する人々の恐怖を少しでも煽るため、ニートリアがセーラの身体を借りてが大きな声を上げた。わざとらしさ全開で。


(……いや、無理がありますわねこれ。もうちょっと怖がってくれてもいいんですけど……)


 心の中でぼやきながら、ニートリアは聖女セーラとしての演技を続ける。


 そのとき、空に再び光が差し込んだ。眩い光が天蓋を貫き、大聖堂の中心に一筋の柱となって降り注ぐ。


「来たわね……勇者様。最高のタイミングですわ」


 ニートリアがそっと呟いたその直後、光の中にぽつんと一人の影が現れる。


 スーツ姿にリクルートバッグ、寝癖のついた髪に靴も片方だけ少し泥がついている。どこからどう見ても、ただのサラリーマンだった。


 だが──


「……勇者様だ……!」


「本当に、伝説の勇者様が来てくださったんだ!伝説通りのお姿だ!!!」


 周囲の信者たちは歓喜し、涙を流し、次々に彼の名も知らぬ青年へと膝をつく。


「……え?」


 突然の環境と熱烈すぎる歓迎に、青年はただぽかんと立ち尽くしていた。


 騒ぎの中心に立つ青年は、状況を理解する間もなく、まるで神話の書から抜け出たかのような扱いを受けていた。

 そして──その背後でほくそ笑む者がひとり。


(……よし。ここからが、本番ですわね)


 聖女の衣をまとったニートリアは、心の中で静かに拳を握った。

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