第一話 ep.8 手は滑るもの
私はおとこの娘を統べたい者。
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「フフフフ……このわたしに手伝わせたことを後悔させてやる……」
邪悪な笑みを浮かべた御猪口は、水をたっぷり入れた筆洗をチャプチャプと揺らし、画用紙と睨めっこする少女に向けて、大きく振りかぶった。
「おおおおおっとォ!!手が滑ったあぁぁぁぁ!!!」
体の捻りを最大限に利用して放たれた自称「誤射」は水の塊を前方へと飛ばし―――
「―――卯崎さんッッ!!」
「え?」
偶々通りかかった、千尋の体に余すことなく着弾した。
バシャアーーン!と大きな水飛沫を上げて炸裂した水は、千尋の体をぐっしょりと濡らし、滴る水滴が床の水たまりに波紋を無数に作っていた。
「え?え?」
「大丈夫?!」
理解しきれていない様子で自分の体を見下ろす千尋に、桜子は慌てて駆け寄る。
「うわァ〜…水浸しやん…」
「部長」
「まァ…風邪ひいたらアカンし、早よ着替えて来なァ〜?……で」
部長は微かに隈のある目を鋭く細めつつ、元凶、御猪口を見やる。
「なんかいうことあるやんなァ〜?」
「あー、え〜…っとお〜」
「(狙った相手にちゃんと当てられなくて)ごめんなさい!」
「黒井、こいつ死刑な」
「え“」
「わかりました部長」
黒井と呼ばれた一際背の高い部員が、ひょいと御猪口を脇に抱え、部室の出口へと歩いていく。どうやら御猪口は黒井のことをよほど恐れているのか、顔を青ざめさせ、逃れんとバタバタともがいていた。
「謝ったじゃん!謝ったじゃん!」
「あんな他意マシマシな謝罪で許されるわけないでしょうが!」
「AIと共にくたばれ!!」
「Go to hell !!」
「ちょっとぉ!容赦はないの!?」
「……容赦?」
ピタ…と扉の前で黒井の足が止められる。
「え………?」
「そんな上手い話が、あると思うのか?私の彫刻を壊したお前に………」
底冷えするような声に乗せられた殺気は、御猪口の体をヌルリと包み込み、御猪口を恐怖からガタガタと振るわせる。
「ちなみに、人間の骨って何本あるか知ってる?」
「き、急に何」
「君は半殺しだ」
「み、みんな助けーーー!!!」
バァン!!と勢いよく扉が閉められ、部室に静寂が満ちる。
気まずい沈黙を破ったのは「クシュンっ!」という可愛らしいくしゃみの音だった。
その音にみんな我に返り一斉に動き出す。
「ごっ、ごめん!すぐタオル持ってくるね!」
「あ、ありがとうございます…」
窓の隙間から入り込んだ風が部室の中に吹き渡る。春に入り、随分と温かくなって来た風も、ずぶ濡れのジャージに包まれた体にはよほど冷たく感じるのだろう、千尋は腕を抱えて、ブルリと体を振るわせる。
「寒いの?」
「はい…少し寒くてーーーーッツ!?」
はにかみつつ振り向いた千尋の目の前にいたのは、心配そうに眉を寄せる桜子であった。
「あえあっ」
逃れようとした相手が目と鼻の先にいるという現実に、体の隅々までビチョビチョのはずの千尋の体は急速に熱を帯び、顔を赤く染め上げた。
「顔赤いけど大丈夫…?」
「だ、大丈夫!大丈夫ですから!」
「そっか…とりあえずタオルが届くまで私の上着を羽織っておいたほうがいいかも」
「え“っ”??」
千尋の反応をよそに、桜子は何の躊躇いもなく、迅速に上着のボタンを外していく。
上からどんどん広げられていくブレザーの隙間から覗くシャツは、スカートに引っ張られているためかぴっちりと肌に張っており、桜子の胸や腰のラインをありありとーーー
「ちょッ待っ……!」
千尋は慌てて、ギュッと目を閉じた。視界が黒に染まり、代わりに体の感覚が鋭くなっていく。ドクンドクンと激しく動く心臓の音がうるさい。体が熱い。
何故そうなっているのか、疑問に喘いでいた千尋の思考は、
コツン、という頭に響いた衝撃に断ち切られた。
思わず目を開けた千尋の視界に映ったのは、
「う〜ん…顔は赤いけど熱はなさそうだね…」
「へぁ…?」
おでこを突き合わせ、至近距離で熱を測る桜子の体と、屈んだ彼女のシャツの襟元から見える黒色のブ…
「着替えてきますッツ!!!!!」
桜子の手から無理矢理逃れ、残像が残るほどの速度で部室の隅の更衣室へと向かった千尋は瞬時にバタン!と扉を閉め、閉じこもる。
残された桜子はただ「えぇ…?」と腑抜けた声を出すことしかできなかった。
独奏的なラウム8です
御猪口、よくやった、船に乗れ。
ちなみに、御猪口のキャンバスが頸椎に直撃した子はほかの子の付き添いで病院へ搬送されました。
御猪口、なにしてんだ、船降りろ。
合言葉
『犯人はヤス』




