第二話 ep.3 足も滑るもの
私はおとこの娘に統べられたい者
2-3
カウンターに立った俺は、グラスについた水を布巾で拭き取る作業をしつつ、店内をチラリと盗み見る。
相変わらず客は少ない。というか1組の客しかいない。飲食を提供する店として普段なら忌避すべき状況だが、今回ばかりはその不盛況具合がありがたい。
なぜならば、その1組の客の片割れ、金髪の子こそが今回のターゲットであるからだ。
二人はすでにスイーツを全て食べ終えており、今はお冷を口にしながら会話に花を咲かせている。
(卓上ピッチャーの水が減ってきているな……今がチャンスか?)
俺は、同じくカウンターで別の作業をしていた店長を見やる。
(やりますか?)
(そうね、今が好機よ)
(では参ります)
(Good Luck!)
二人に気取られぬよう、瞬きで会話して、作戦の開始を告げられた俺は悠然とした足取りで二人が囲むテーブルへと向かう―――水で満たしたピッチャーを手に。
目標、捕捉。
俺に与えられたミッションは、このピッチャーの水を金髪の子にぶっかけ、化粧を剥がすこと。
そしてそれを、その行動に対して一切の懐疑心を生ませずに遂行すること。
本来なら不可能に近い条件。そう、本来なら。
俺はこれを可能にする方法を知っている。
否、知っていた。
(射程距離まで、あと2歩……!)
それは、最も俺が得意とするもの。
それは、最も疑われない方法。
それは、きっと俺にしかできないこと。
それは―――
「おっとぉ!足が滑ったぁぁぁぁぁあ!!」
射程距離、水を満遍なくかけられる範囲に足を踏み入れた途端、不可視の段差に俺は躓き足をもつれさせ、前へと勢いよく倒れていく。
躓いた際の衝撃で上に跳ね上げられた俺の両腕は、その慣性をピッチャーの中の水に余すことなく伝え、水の塊を上へ打ち上げた!
このまま落ちれば金髪の子に全弾が着弾する。その美しい軌道に店長、氷上涼子は目を見開く。
(上手い……!完璧な挙動、完璧な慟哭、そして完璧な軌道…!この技量、常人の域を超えている…まさか、普段から皿を割り、何もないところで転け、色々なものをぶっ壊してきた。そろそろ解雇した方がいいかと初日から思わせるほどのお前の無能っぷりは全て、この時のための布石か……!?)
(―――っしゃあぁぁぁ!!)
心の中で勝利の雄叫びを上げながら、俺は受け身を取る暇もなく、倒れ込んでいく。
眼前に迫りつつある床に、目を閉じ、来たる衝撃を甘んじて受け入れようとした俺は、
ぽす…という柔らかい衝撃に裏切られた。
体の前面に感じる布の柔らかさ、鼻腔を満たす微かな香水の香り。
目を開けると、そこにあったのは―――俺の体を支える金髪の子の体であった。
「大丈夫ですか?」
「え…」
至近距離で微笑みながら問うてくる彼女に、理解が追いつかない俺は、「えぇ…?」と、ただ同じ音を口からもらす。
地面に体がついていない。何なら目を閉じた時から傾いてもいない。俺はテーブルから少し離れたところにいるのに、金髪の子が俺を支えていて―――
その時、俺は遅まきながら気づく。
(ぬ、濡れてねぇ!!??)
そう、桜子は一滴たりとも水を被っていなかった。
色艶のある肌はもちろん、髪もさらりと乾いているし、服すら真っ白で濡れているようには見えない。
慌てて俺は手に持つピッチャーを見やる。
水で満たされたピッチャーは、中身を全て吐き出しており、中には水滴が残るのみ。
確かに水は打ち上げられたのだ。
「み、水は……」
混乱したまま呟く俺に、金髪子は「あぁ」と、
「まっすぐ飛んできてくれてたので、全部掬い取っちゃいました」
「――――」
これ見よがしに差し出されたのは、先ほどまでテーブルの上にあったピッチャー。ほぼ水がなくなりつつあったそれには今、なみなみと水が注がれており―――
「はぁ……?」
―――それは彼女が空中で水を全て掬い取ってしまったことの証拠に他ならなかった。
震える声で息を漏らす俺を他所に、ピッチャーをゴト…と床に置いた彼女は俺の体を診ていく。
「怪我は、なさそうですね。立てますか?」
「え、あぁ、はい」
支えてもらいつつ立ち上がった俺は、金髪の子と向き合って
「……っ……………」
初めてはっきりと顔を見た。
カメラ越しに見ていたはずの顔。生身でも見ていたはずの顔。しかし、液晶や目的のフィルターが取り払われた今、彼女の顔は―――
「怪我がなくて、よかったです」
―――ひどく美しく見え―――
ジリリリリリリリ!!とけたたましいベルの音が響く。そのベルに重なるように、無機質な女の声が店内に響き渡り、それが告げる言葉を耳にした瞬間、その場にいた三人の目が大きく見開かれた。
『火事です 火事です』
「え!?火事?!」
「卯咲さん落ち着いて、離れないで」
(火事!?そんな訳が―――)
慌てて辺りを見回すが、やはりどこにも火元は見つけられない。そもそも今日は火を使う料理はほとんどしていない。ならば従業員室などの裏側か?と思案するがそれこそあり得ないとすぐに否定する。火がつくような物もつけられる物もないのだ。であるならば。
(まさか……ッッ!!?)
立てられた仮説に喘ぎ、古東は視線を跳ね上げ天井を見上げた。
そこにあるのはシーリングファンと灯りと、そして、
その存在を認めた瞬間、頭上から正解が降ってくる。
『スプリンクラー を 作動します』
ブシャ――!と文字通り降ってきたそれは、まるで夕立のように勢いよく床を打ち、辺りを水浸しにしていく。それはもちろん俺たちも同じで、頭から足まで満遍なく水を被り、服や髪の毛があっという間に水を含みびしょびしょになっていく。
混乱する二人とは対照的に、古東は落ち着いていて、そして感激に打ち震えていた。
目的のためなら手段を選ばない。よく聞く物だが、それを実行できる人は一握りだ。
だからまさか、
古東は額にへばりついた前髪の隙間から、その人を見やる。
(まさか……ここまでするとは……!!)
「ごめんね。ちょっと誤作動起こしたみたいで…………」
古東の視線の先、カウンターの内側で三人と同じく水を滴らせている店長、氷上は隠しきれない喜色を含んだ声で妖艶に笑って告げる。
「――とりあえず、体拭こうか」
独奏的なラウム8です
よくよく考えてみたら古東君滑るんじゃなくてこけてますね。
彼もまた、アホな存在なのです。
合言葉
『煩悩さんがえっちな妄想を授けて止まない。こまったなぁ』




