94.ジョン君のクッキー
それからのわたくしはというと、暇だったので竈の方に近づいてみたのだけれど。
「はいはい。お貴族様は竈使ったことないでしょ? 危ないからどいたどいた!」
「使ったこと……ありますよ?」
そう口にすると驚かれてしまった。そうか、貴族は普通厨房に立ち入らないのだ。
というわけで、わたくしは少々自身の身の上話を打ち明けることにした。といっても、周知の事実なのだけれど。
「あの。わたくし、実は……」
「ちょっとそこどいて。そろそろ見るから」
「は、はい……ごめんなさい」
ドロシーさんの有無を言わせない強い言葉で竈の前を開けるように言われたわたくしは、横に退きながらもつい謝罪の言葉を口にしてしまっていた。
有無を言わせないその態度といえば、わたくしがかつてお貴族様に抱いたイメージそのもの……のはずなのに、なぜか嫌な気持ちにはならない。彼女が平民だからとか、そういう理由ではないとは思うけれど。
こちらにやって来たドロシーさんは、手を動かしながらもわたくしに問いかけてくる。
「それでイェニー様は使ったことがあるって話だったけれど」
「はい。わたくしは半年ほど前まで孤児院に預けられておりましたから……そこで使ったことがあったのです」
「孤児院!? あんた、孤児だったのかい!?」
それまで何事もなく手を動かしていた彼女にとっても、驚きが大きかったのだろうか。かわりに、こちらを向いて口を動かし始めた。
「いえ。わたくしはシェリーと双子だったので……」
「まさか、二人まとめて」
「いえ。わたくしだけです。でも、お父様もお母様もとても優しい方だったので戸惑ってしまいました」
そう苦笑すると、ドロシーさんは神妙に尋ねてくる。
「あんた、恨みとかはないのかい?」
「えっと……恨んでは、いませんね」
「……そうかい。よくできた子だね」
そう言ったきり、ドロシーさんはわたくしの過去について掘り返すのをやめた。
彼女によると、ここではどうやら子供は竈を扱わないらしい。わたくしのいた孤児院では子供が火の番をしていたけれど、今考えると子供のすることではないのかもしれない。
やがてジョン君のクッキーが竈から取り出される。
ドロシーさんが取り出したクッキーのひとつにフォークを突き刺すと、クッキーは少しだけ粉を撒きながら砕け散った。
「これなら大丈夫。はい、ジョン」
「……ありがと。ドロシー」
「ドロシー?」
「……さん」
二人のやりとりに、わたくしは乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
焼き上がったクッキーは机の上に皿ごと置かれる。ジョン君はその内の一枚を手にとってまじまじと見つめ始めた。
「ねえ。それどうするの?」
「ミ、ミア姉? えっとだな」
ミアに話しかけられて再び慌て出すジョン君。彼は俯いたかと思えば、しばらくすると再び顔を上げ、二人が対面する形になった。
「ミア姉……これを受け取ってくれ!」
予想外のジョン君の言葉に、竈のおかげで氷も解けそうなほど暖かい厨房内の空気は一瞬で固まってしまった。
しかし、しばらくするとその空気は生暖かいものに変わる。そんな中で最初に口を開いたのはミアだった。
「ジョン君……嬉しいけど、受け取れないよ」
「えっ!?」
「だって、クッキーはみんなの分だし。先に食べたらわたしの分だけない理由をみんなに聞かれちゃうし。わたしだけたくさん食べるわけにもいかないから……ね?」
どうして受け取れないのか。その理由を指折り数え上げていくミア。
彼女はジョン君の思いに気づいているのかいないのか。どちらなのかはわからないけれど、ジョン君がちょっとかわいそうだな、と思ってしまったのは仕方のないことだと思う。
とはいえ、実際問題彼女は曲がりなりにも男爵家の令嬢。ジョン君との結婚が認められるかと言われれば、非常に厳しいと思う。
身分差の恋が認められるのはおとぎ話やロマンス小説の中だけだ。でも、ジョン君がそれを認識しているかと言われれば怪しい。
あらためて二人の方を見てみると、ジョン君は突き放されたような顔をしていた。やはりわたくしの予想通り、彼はミアに恋していたのだろう。そんなジョン君はぽつりと寂しげに呟いた。
「……そっか」
「ねえ」
「?」
ミアが諦め顔のジョン君に話しかける。二人の顔が合うと、ミアはジョン君に満面の笑みを向けた。つられて、ジョン君の顔が驚きの色に変わる。
「さっきの受け取れないっていうの、なしにしていい?」
「ミア姉、それってどういう──」
「クッキー、邸に持って帰って食べていいかな~……なんて」
「……いい」
「え? いいの?」
ミアが目を輝かせている。これが本音なのだろう。
ジョン君の思いに気づいたからではなく、単に食い意地を張っているだけなのだと思うけれど。ものすごくミアらしい。
シェリーの侍女のリリーからはこちらに「制止しないのか」という戸惑いの視線が向けられる。
わたくしは肩を竦めながら溜め息をつくと、続けてミアの方を見て諦めて首を横に振った。そして、事態はわたくしがなんとなく予想していた方に転がり始める。
「ミア姉──だって、これはミア姉へのプレゼントだから!」
「え!? ……そっか。だからクッキーを作りたかったんだね」
そう言い終えたミアは、こちらを向いて「持って帰ってもいいですよね」と言わんばかりの表情だ。
ジョン君がミアの言葉に激しく頷いているけれど、彼女にとってはそんなことよりもクッキーそのものの方が重要らしい。
わたくしが仕方ないな、という思いを込めて苦笑しながら首肯すると、彼女はジョン君の方を向き直した──かと思えば、いきなり彼に飛びついた。
「ぐはっ!」
「ありがと~!」
直後に「いたっ」とジョン君が小さく叫ぶ。ミアはそこで我に返ったらしく。
「ジョ、ジョン君が! 大丈夫!?」
今度は激しく前後に揺らし始める。この様子を見かねたのか、ドロシーさんが二人のもとへ向かう……とすぐにミアに拳骨が落ちた。
叫び声と共にジョン君が解放される。
「いたた……」
「ハア……次のクッキーを焼かないと子供たちを待たせてしまうし、それジョンの目が回るからやめといて」
「はぁい……」
ドロシーさんに言われたことを気にしてか、ミアは厨房の隅で丸まってしまう。
反省しているのかもしれないので、そっとしておくことにした。
そんな状態の厨房で、ジョン君は復活した。
「あれ? 俺はミア姉にクッキーを受け取ってもらって……」
「おはよう。ミアならそこだよ」
そうミアの方に視線を動かすと、わたくしの視線の先を追ったジョン君は目を大きく見開いた。
すぐに彼女のもとへと小さな厨房内を駆け足で近づくジョン君。
「走るなら外にして!」
「…………」
再びしゅんとするジョン君。厨房の中は色々な道具が雑然と並べられているのだから、走るのを咎めるというのは当然のことではあるのだけれど。
彼は歩いてミアのそばまで行くと、彼女の隣の床に腰かけた。ミアがジョン君の方を向く。
この様子を見ていて「二人がもし互いに恋しているのであれば、幸せだろうな」と思ってしまったわたくしは、今さらだけれどかなりロマンス小説の影響を受けているのではないだろうか。
しかし実際は両思いではなく、さらには身分差もあるわけで。
「ミア姉」
「ジョン君!? クッキー、ありがとうね」
「いや、その……どういたしまして、なんだけどさ」
「?」
「俺、ミア姉のことが好き」
「わたしもだよ」
この瞬間、やはりわたくしには次どうなるかわかってしまった。これは──
「ストップ」
「? お嬢様~どうしたんですか?」
わたくしはジョン君ににらまれてしまったけれど、そんなことはお構いなしに話を進めていく。できるだけ角が立たないように考えて質問を口にした。
「ミア。ひとつ聞くけれど……もしかしてジョン君に恋、しちゃったとか?」
「いやですね~お嬢様。弟みたいでかわいいじゃないですか」
そしてわたくしが予想した通り、ジョン君はミアの言葉に再び肩を落としてしまった。
ミアも脈なしなのでご縁がなかったと思ってくれたらな……とはいえ、これ以上はお節介だろうから考えないことにしよう。
この後、わたくしの後ろからはドロシーさんの、前からはリリーの溜め息が聞こえてきた。




