90.あらためて、招待状を
結局わたくしたち兄弟姉妹四人がそれぞれの婚約者と共に昼食をとった昨日、わたくしはフレッドと二人きりの馬車で帰ってきた。
そして今日もわたくしは王太子妃教育のために王宮へと向かったのだけれど。
「イェニー、クッキーはいつできそうだ?」
「そうですね……」
今日の昼食は昨日と同じ部屋でとっている。とはいえ、もちろんテーブルについているのは向かい合って座るわたくしとフレッドの二人だけだ。
そしてフレッドが今しがた口にしたように、わたくしは彼からクッキーについて催促を受けている。
この質問のおかげで、わたくしはフレッドに手作りのクッキーをあげるという約束を忘れかけてしまっていたことを思い出した。
そして、孤児院の子供たちにクッキーをあげるという約束も芋づる式に思い出していく。
「まだ孤児院の子たちにもあげていないので、また後日でよろしいでしょうか?」
「そうか……いつまでも待っている」
フレッドが優しすぎてちょっとつらい。こんな自分が情けなくなってしまう。
もちろんそんなことを言っても困らせるだけだから、食事に集中して黙っておくのだけれど。
ふともう一度フレッドの方を見てみると、彼はまだ何か言いたそうな顔をしていた。彼にしては珍しい。
「あの、フレッド」
「どうした……?」
わたくしがそう呼びかけただけで笑顔を向けてくれるフレッド。クッキーの約束をすっかり忘れていた今のわたくしにとってはその笑顔が眩しい。
わたくしは気になったことを口にした。
「その……わたくし、まだ他にも何か忘れていました?」
「突然どうした?」
逆に質問を返されてしまった。どうやらわたくしが何かを忘れているわけではないらしい。とすると、残りは──
「いえ、フレッドが何かを言いたそうな顔をしているので」
そう彼に返してみると、彼は目を開けたかと思えば顔を急に赤らめ、顔を横にそらした。
「フレッド?」
「そう何度もそのかわいい声で愛称を呼ばれると、ちょっと耐えられそうにないな……寿命は延びても短期的には心臓に悪いらしい……」
「えっと……」
何を言っているのかちょっとわからない。
寿命が延びるという話は以前聞いたことがある気がするけれど、心臓には悪いと言われた覚えは……。
と、そこまで考えてふと自分のことを振り返ってみると、彼の言う通りな気もする。
「気にしないでくれ。独り言だ」
「短期的には悪い、と言って……」
「長期的に見れば問題ない」
そう口にするフレッドの顔は先ほどよりは落ち着いてきているようだ。
腑に落ちないながらも、わたくしが紅茶を口にしている間に、彼は元の姿勢に戻っていた。
「それでイェニー。何の話だっただろうか?」
「えっと、フレッドが何かを言いたそうにしていたので何かあるのかな、と思いまして」
そこで顎に拳をあてて少し考えこむフレッド。
数十秒ほどののち、何かを思い出したかのように少し上を仰いだ。続いて、部屋の隅に控えていた使用人の一人の方を向く。
彼は頷くと、側のサイドテーブルらしきものに置いてあったトレイを手に取り、わたくしたちの方へと向かって来る。
そこには一通の封筒と、宝飾品で彩られたいかにも高級そうなペーパーナイフが置かれており、フレッドはそれらを手に取った。
使用人がもとの位置に戻ったことを確認したフレッドはわたくしの方を向き直し、わたくしもまた使用人を追っていた視線をもとに戻した。
ナイフを机の上に置いたフレッドは、立ち上がってわたくしの隣まで歩いて来たかと思えば、跪いて封筒をわたくしに差し出す。わたくしもまた身体を少し彼の方へと向けた。
「これをイェニーに渡したかったのだ。受け取ってくれ」
「えっと……ありがとう、ございます?」
差し出された封筒は高級感あふれるものだ。王家の紋章を刻印した蝋で閉じられた封筒。
彼は席に戻ったかと思えば、今度はそこに一度置いたナイフをわたくしに差し出した。これで開けるようにということなのだろう。
わたくしがあらためて「ありがとうございます」という言葉と共にナイフを受け取ろうとすると、突然その刀身が現れる。
そのはずみで思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
といっても、わたくしは持ち手の部分を掴んでいるので、切っ先はフレッドの方を向いている。
「あの……大丈夫、ですか?」
彼の答えが返ってくるよりも前に、彼の手を注視してしまう。これは仕方のないことだと思う。
「ああ、問題ない。このような事態に陥る危険性があると事前にわかっていたからこうしたのだ。間違ってもイェニーの白魚の手に傷をつけた日には……考えたくもないな」
わたくしが今のように引き抜いてしまった時に怪我をさせないようにと心遣いをしてくれるフレッド。その心遣いがとても嬉しい。
しかし、同時に彼が傷つかなくてよかった、と思う自分が心の中にいることも、また事実だ。
油断するとわたくし自身の存在が負担になっていないか──といったような、正式に婚約する前の心情に戻ってしまいそうだ。
というわけで心の中で気合を入れ直すわたくし。
どうやらやたら装飾的に感じられたのは、ナイフ自体が収められていた鞘に起因するものらしい。
「使いにくいだろうな」と思ってしまったけれど、杞憂だったようだ。
わたくしは刃を封筒にあててから、再びフレッドの方を見上げる。
「開けてもいいですか?」
「ああ。そのためのナイフだ」
彼が笑顔で返してくれたので、わたくしは封筒に刃を入れていく。わたくしが封筒を開け終えナイフの扱いに困っていると、彼は抜き身の刀に鞘をかぶせてくれる。そのまま手を離すとナイフは彼の手元へと戻っていった。
いつの間にかトレイを持って近づいてきていた使用人に彼がナイフを返すと、わたくしたちの視線は当然封筒に向かう。中から出てきたのは一枚の紙だ。それは──
「えっと、これはフレッドの誕生日パーティーへの」
「その通りだ」
彼はそう頷いた。フレッドの誕生日パーティーへの招待状。しかし、これは。
「あの、もう以前いただいた覚えが……」
「それは母上から受け取ったものだろう? 私の手から直接イェニーに渡したかったのだ。……イェニー?」
わたくしの顔を、大粒の涙が伝っていった。ああ、これはきっと嬉しい時の涙だ。間違いない。わたくしは彼に勘違いされる前に言葉を紡いだ。
「とても、嬉しいです」
「そうか。……しかし、これでは私が泣かせてしまっているようではないか」
「そうですよ。フレッドのおかげで泣いているんです……っ」
自分でそう言っているうちに、いつしか本当に雨のように涙がこぼれてきてしまった。
フレッドが再び立ち上がったかと思えば、彼はこちらにやって来て膝をつく。
胸ポケットからハンカチを取り出し、わたくしにの涙を拭っていく。泣きすぎて声も出ない、というかフレッドの大胆な行動に驚いたわたくしは固まってしまった。
しばらくして、落ち着いてくるとそのハンカチを受け取り、自分で涙をふいていく。すっかり拭き終わり、ハンカチに目をやると。
「これ……まだ持っていてくださったのですね」
「もちろんだ。イェニーからの贈り物を私が手放すと思うか?」
わたくしが今しがた借りたハンカチはかつてわたくしが「何かお返しを」と考えた上でプレゼントしたハンカチだった。
このハンカチを見ているだけで、彼との思い出が溢れてくるようだ。今見ればちょっと拙いが、それでもわたくしにとっては大事な思い出だ。
そのハンカチをしっかりと目に焼きつけたわたくしは「ありがとうございました」という言葉と共にそれを折りたたんでフレッドに笑顔で返す。
「そうか。今思えばまだ婚約して半年もないというのに……いや、今のは忘れてくれ」
「は、はい」
フレッドの心遣いが優しくて、彼からの招待状が嬉しくて、彼との思い出が懐かしくて。この日のわたくしは胸がいっぱいになってしまった。
こんな状況でも、外面だけは取り繕えるのだから、王太子妃教育とは恐ろしい。
そして次の休日。わたくしはミアやシェリー、そして彼女の侍女のリリーと共に、馬車に乗りこんだ。行き先はもちろん、以前慰問に訪れた孤児院だ。




