88.執務室での約束(2)
わざとらしい咳払いが聞こえてくる。フランツさんだ。愛の言葉を囁くフレッドに飽きれているらしかった。いや、理由はそれだけではなさそうだ。
「殿下。本当にいつになったら執務を始めるのです? ヴィクトーを呼んで来るとおっしゃいましたが、結局連れて来たのはイェニー嬢。そこまでは構いません。ですが、それは殿下が執務を素早くこなすことに繋がると考えたからです」
彼の発言から、どうしてフレッドが城内を歩いていたのかがなんとなく想像できた。
「フランツは頭が固いのではないか? それだからその年になってもまともに婚約者がいないのだ。違うか?」
「殿下の『まとも』とは? 初恋を拗らせ……まあいいでしょう」
盛大なため息をつくフランツさん。彼には婚約者がいないらしい。初耳だ。
それはそうと、ここはフレッドの執務室なわけで。
彼がここにわたくしを連れて来たのは、もともとわたくしの所に来る前はこの部屋にいたからというのが理由だろう。つまり、結局今わたくしは彼の仕事を妨害してしまっているのではないか。
そう思ったから、わたくしは彼に謝る──のではなく、彼の愛称を呼んだ。
「……フレッド」
「!? ど、どうした?」
「わたくし、フレッドのお仕事を邪魔しているのではありませんか?」
その言葉に、彼の肩が動く。おそらく、わたくしの予想通りなのだろう。
でも、先ほどの約束を思えば今すぐ謝るべきではないのでは、と思ってしまう。
「イェニー」
「はい」
「まず、怒らないで聞いてほしいのだが……私はイェニーの言う通り、これから仕事をしなくてはならない。そんな場所に連れて来たのも少々申し訳なく思う。だが……イェニーがいてくれると早く終わる気がするのだ」
「殿下のおっしゃる通りです。私が保障します」
フレッドの言葉に「本当かな」と思ってしまったわたくしだったけれど、フランツさんにそう言われると納得してしまう。
婚約者の言葉より、その従者の言葉の方を信じてしまうというのはどうかとも思うけれど、フランツさんの方が信頼できてしまうのだから仕方がない。
頷いてしまったからか、フレッドから微妙な視線を向けられる。
「イェニー、孤児院にいた時といい、なぜ貴女は私よりもフランツを……。今はもう婚約者なのだから、フランツより私を信じてくれてもよいではないか」
「ごめんなさい」
その言葉にわたくしはしゅんとしてしまう。でも、彼の言うことにも一理ある。
万が一の時にフレッドより他の誰かを信じては、この国の将来にさわるかもしれない。
わたくしは先ほどの心のありようはちょっと王太子妃としてありえないものだったと反省した。
というか、彼のまとう雰囲気に呑まされた気がしなくもないけれど……フレッドからの言葉はいつでも大歓迎だ。
「イェニー。私は謝ってほしいわけでは……」
「ご、ごめ……」
「イェニー」
「はい」
一度約束したことを、たった数分で何度も破ってしまうわたくしに、フレッドがストップをかけた。
これ以上はフレッドの仕事の邪魔にしかならないから素直に頷く。しかし、それはわたくしの勘違いだったようで。彼は咳払いをするとこう続けた。
「半時間ほどこの部屋で茶でも飲んで待っていてはもらえないだろうか……?」
「わかりました。待っています」
「ありがとう。……早く終わらせる」
再びわたくしはフレッドから抱擁を受ける。
もちろん、今からフレッドはお仕事だから本当に軽めのそれ。
仕事に向かうお父様がお母様に毎朝のようにやっていることをふと思い出す。
つまりこれはフレッドとわたくしが夫婦に……そこまで考えてわたくしの頭はフリーズした。
「……イェニー?」
「殿下。これはしばらくもとに戻らないでしょう。ヘレン、彼女にお茶を」
力が入らないわたくしをフレッドが椅子に座らせてくれる。
「行ってくる。半時間ほどで戻ってくるからここで待っていてはくれぬか?」
ここはお父様たちを見ていると「行ってらっしゃい」と言うべきところなのだろう。
しかし、すっかり固まってしまったわたくしに口を動かすほどの余力もあるわけがなく。フレッドは笑顔を残してそのまま作業机に──同じ室内だけれど──行ってしまった。
あとから、せめて笑顔を浮かべて送り出せばよかったと思ったが、できなかったのだからどうしようもない。
ヘレンが部屋の外まで準備して持ってきていたのか、わたくしの目の前にはあっという間にお茶とチョコレートが用意された。
続いて、作業机に向かったフレッドの前にも同様にチョコレートが用意される。彼の手元にお茶がないのはきっと紙を濡らさないためなのだろう。
そこでようやく我に返ったわたくし。皿の上に置かれたチョコレートを見れば「懐かしいな」という思いがよぎる。
わたくしとフレッドが一緒にはじめて食べたチョコレート。今までに何度も食べているものだ。しかし、それをふと懐かしいと思ってしまったのはなぜだろう。
「イェニー様? お気に召しませんでしたか? 今までに何度かお召し上がりになっているとお聞きしたのですが……」
「あ、いえそういうわけではありませんから……用意してくれてありがとう」
そう伝えると彼女はスッとわたくしの斜め後ろ、壁際に立つ。わたくしたちから左斜め前の椅子、窓を背にして座っているフレッド。
彼はフランツさんと共にお仕事を進めていく。次々と処理されていく書類。きっとわたくしが読んでもよくわからないものだ。お兄様やローザ様なら詳しいのかもしれないけれど。
こうしてフレッドが予告したように、二人は半時間後には机の上に積み上げられていた書類をすっかり処理しきってしまった、らしい。今は種類ごとに分けられているのだろう。
フレッドはこちらを向くと、立ち上がりわたくしのもとまで来てくれる。
「イェニーのおかげだ」
「どういたしまして?」
「なぜ疑問形なのだ。イェニーはもっと胸を張ってよいのだぞ」
わたくしのおかげだと告げるフレッドに、わたくしは首を傾げてしまう。だってわたくしはわたくしがいない時のフレッドを知らないのだから。そう思っていたのだけれど。
「……普段であれば、ヴィクトーを呼んでなお、三人掛かりで終わっていない作業がたった二人で、それもあっという間に終わったのです。いや、殿下が普段の数倍の速度で書類を処理していらっしゃったというところが正確でしょうか」
フランツさんがそう神妙に頷く。今の話を聞く限りでは、わたくしがいるだけで効率が大幅に向上するらしい。
「イェニー嬢がいるだけで、殿下は人参を目の前にぶら下げられた馬同然の働きができるようになるのです」
「フランツ、不敬だ」
「殿下がそれをおっしゃいますか?」
歯に衣着せぬ物言いといい、二人はきっと信頼しあっているのだろうな、と思う。
殿方の友情は何でも言い合える関係がよいと聞いた覚えがある……気がする。詳しいことはわたくしにはわからないけれど。
「まあ、よい……イェニー」
「はい」
フレッドの手が目の前にすっと差し出される。
「私に、貴女を昼食に招待する権利をもらえないだろうか?」
「……? 権利も何も、フレッドはわたくしの婚約者、ですよね?」
「それでもだ。本当なら兄姉たちと共に食事を取る予定だったのだろう?」
「そう、かもしれませんが……わたくしはフレッドと一緒に食卓を囲むことができる方が嬉しいのです」
そう、わたくしは心からの笑みを浮かべる。間違いなく笑顔に見えている、はずだ。
当然自分では確認できないのだけれど、フレッドの顔がほころんでいるからわかる。わたくしは彼が嬉しそうにしていることが嬉しいし、フレッドもまたそうなのだと思う。
お父様とお母様の様子を見ている限り、これは間違っていないと思う。わたくしは差し出された手に自身の手を──
「殿下! 必要書類をお持ちいたしました!」
廊下から聞こえる声にフレッドはわざとらしく軽い舌打ちを決める。
わたくしはフレッドのこういう所も好いてしまうのだから、どうしようもない。
苦笑と共に彼を送り出そうとすると、フランツさんがかわりに入口へと向かう。
フレッドがわたくし同様に彼の方を見ていると、やがて立ち止まったフランツさんは少しだけ扉を開ける。
フランツさんはやって来た人物との会話を終えたのだろう。顔だけをわたくしたちの方へと向けて、こう告げた。
「殿下。二人だけの昼食はまた後日にいたしてください。今日はよいでしょう? いつも二人で食事を取っていらっしゃるのですから」
「どういうことだ、フランツ」
「イェニー嬢の兄姉が参りました。彼らも招待する必要があるでしょう」
再びわたくしにしか聞こえないぐらいの舌打ちをしたフレッド。わたくしがそれに苦笑していると、執務室に入ってきたのはお兄様にシェリー、そしてローザ様だった。




