87.執務室での約束(1)
もちろん、そんな時間が永遠に続くわけがなく。
「殿下、ただいま戻りました。入室してもよろしいでしょうか?」
再び廊下から聞こえてくるフランツさんの声。フレッドはわたくしから離れると、入室を促した。
「ああ。入れ」
「失礼いたします」
その言葉と共に入ってきたのはフランツさんと──ヘレンだ。
彼女は普段現王妃殿下、つまりアーシャ様の侍女をしているのだが、わたくしが王宮にやって来た時はわたくしを優先するようにと伝えられているらしい。
王妃様に仕えている身だというのに、わたくしのような一介の侯爵令嬢につくように言われても文句を言わない彼女は侍女の鑑だと思う。
それはさておき。わたくしはフレッドに手を引かれるままに部屋の一角に用意された椅子に座る。
わたくしが腰を下ろすとフレッドは何かを言おうと口を開けたり閉じたり。
「あの、フレッ……フレデリク様」
「……何だ?」
少し、ほんの少しだけフレッドの声のトーンがいつもより低い気がする。本当に聞きたいことはそこではないのだけれど、わたくしは思わず聞きかけて──
「イェニー……フレッド、と」
フレッドからの言葉に納得してしまった。
でも、ここにはフランツさんやヘレンがいるわけで。だからわたくしも言い直したのだ。
というわけでわたくしが首を横に振ると、フレッドはあからさまに落ち込んだ。
同室にいたフランツさんはこの一連の様子を見ていたのだろう。わたくしたちの方まで歩いてくると、軽くため息をついた。
「イェニー嬢……それ以上は執務に差し障りがありますので愛称を」
「……呼びたいのはやまやまなのですが、二人だけではないので」
「──今回は目を瞑りましょう。その方が殿下のお仕事が早く終わり、結果的にイェニー嬢との時間が増えることで、より仕事に身が入るでしょうから。殿下の役に立ちたくはありませんか?」
フレッドと呼ぶことが彼のためになる……? フランツさんの言うことは事実なのだろうか。
それに、フレッドと一緒にいる時間も増やすことができるという。
フランツさんとしては早く仕事を進めたいのだろうけれど、わたくしにも、さらにはフレッドにもメリットがあるわけで。──わたくしは頷いた。
わたくしはいつの間にか適当な椅子に座って、机に顔をうずめているフレッドの背中を軽くさする。すると、彼は顔をわたくしの方に向けた。
それを確認したわたくしはいよいよ、ごくりと息を飲み込んで大好きな名前を口にする。
「──フレッド」
「イェニー……?」
わたくしの言葉に返事をしたフレッドの目に、光がともる。
「フレッド。わたくしをここに連れて来たのはどうしてですか?」
「それは……すまない。仕事部屋に連れ込むなど、私は婚約者失格だな」
「いえ。そういうわけでは……」
もしかして「さっきのぐらいではまだ足りない」というはしたないメッセージが伝わってしまったのか。わたくしはひとり心の中で頭を抱えた。
「やはりイェニーは優しいな」
「いえ……わたくしの言い方のせいで勘違いを」
「イェニーのそういうところが優しいのだ。他人を傷つけまいと自分で背負い込むのは貴女の美徳だが……」
そこで一度言葉を切るフレッド。わたくしが、優しい?
フレッドはそう言うけれど、彼がもしわたくしの心の中を覗けたなら、そんな感想は抱かないと思う。そう反論しようとして、やめた。
「それに、婚約者の貴女ばかりが責任を取っていたら、私の示しがつかないではないか。私は臣下に責を押し付ける王になりたくない」
「そう……ですね」
「重ねて言うが決してイェニーを責めているわけではないのだ」
「……フフッ」
慌てて弁明するフレッドに、わたくしはついに笑い声を漏らしてしまった。そのせいで、フレッドは余計に慌て始める。勢いで彼を立たせてしまったけれど、本当に申し訳ない。
「本当に責めているわけではないのです。わたくしが……」
わたくしの言い方が、まずかったのです。その言葉は最後まで口に出ることはなかった。
「イェニー」
「……はい」
ああ。やはりわたくしが何度も同じことを口にしていたからなのだろう。きっとお説教コースだ。そう思ったのだけれど。
「私は貴女を責めていないし、貴女も私を責めていない。ここまではいいだろうか?」
「はい」
「その上で互いに自分自身のことを責めている。そうだろう?」
「そう、ですね」
言われてみればわたくしも自分のことを責めてばかりだ。
フレッドが自分のことを責めていることばかり気になって。「貴方のせいじゃない」と伝えることに精一杯で。
そこまではいいのだろうけれど、自分を責めてしまっていた。
わたくしから見て、自身のことを責めるフレッドに「そんなに自分のことを責めないで」と言いたくなるのだから、彼もまた同じだとしても不思議ではない。
むしろ今のこの状況は、お互いに自分のことを責めて、そんな自分自身を責める相手に辟易しているという状況なのではないか。
そう思うと、わたくしとフレッドは今ほとんど同じ状態なのだといっても過言ではないと思う。
そんな状況──つまり、相手が自分に非があると信じて苦しむ状況──が嬉しいと思うわたくしは、王太子妃失格ではないか。
今でも時々思うのだ。わたくしなんかより王太子妃に相応しい女性など、いくらでもいるのでは、と。
もちろん、今それを口にすれば先ほどの状況に逆戻りして、フレッドの心境をより悪化させるかもしれないから呑み込む。
「相手が自分自身のことを責めている様子を見るのはつらい。少なくとも私はそうなのだが、イェニーはどうだ?」
「わたくしも……つらいですね」
わたくしの返事にフレッドが深く頷く。「そうだろう」と。やはりわたくしが予想した通り、お互いにそうだったのだ。
そう心の中で一人、フレッド同様に頷いていると、彼が次の言葉を口にする。
「そこでだ。互いに、今後はできるだけ自身のことを卑下しないという約束をしてはどうか、と思ってな……私は『ごめんなさい』よりも『ありがとう』が聞きたい性分なのだ」
その提案に、わたくしは少し考えてから、頷いた。
「ありがとう。私の提案に賛同してくれて」
「いえ、わたくしにも利があることですし」
「それにしても……愛称を呼んでくれたのはフランツの……」
「?」
フレッドが何かを言いたげに口を開いたが、わたくしはよく聞き取れず。首をかしげていると、彼は再びわたくしを抱擁した。突然のことに、わたくしは一歩も動くことができない。
「ハア……お熱いことで」
そうフランツさんに茶化されたせいなのだろう。急速に体温が上がっていく。恥ずかしさのあまり、わたくしがフレッドの肩に顔をうずめてしまったのも仕方がないと思う。
「愛してる、イェニー」
「ふぇ!?」
そんなわたくしは、続く婚約者からの突然の「愛している」という言葉に完全にまいってしまった。




