78.クッキーの練習
最終章の投稿を開始いたします。
お楽しみいただけましたら幸いです。
夏の暑さはどこへやら。可愛らしい小鳥の鳴き声が聞こえてくる爽やかな朝。わたくし、イェニー・リチェットはいつも通り日の出と共に目を覚ました。
アストランティアから来たロナルド殿下が慌ただしく帰っていった式典の日から数日。久しぶりの涼しさに、わたくしはバルコニーへとつい足を踏み出してしまいたくなった。
ひとたび朝日に照らされた空を見ると、わたくしは今日の予定を思い出した。そう、今日は──そう詳しく思い返そうとした時、寝室の扉がノックされた。
「お嬢様~おはようございます!」
「……! 入って」
失礼します、という声と共に入室してきたのはミアだ。
彼女と朝のあいさつを交わしたわたくしは、寝室に戻る。ミアに続いてアニーも入ってきた。
「おはようございます」
「おはよう、アニー。ミアもおはよう」
二人に服を着替えさせてもらいながら、わたくしは今日の予定を確認する。
ちなみにベスは休みだ。王太子妃教育も休みなのでフレッド──「フレッド」と呼んでほしいと言われたけれど、まだ恥ずかしいのでせめて心の中だけでも、と目下練習している──に会えないのだけれど。かわりに
「本日はクッキーを焼くために厨房の使用許可をいただいております」
「ええ。ありがとう」
そう。今日はクッキーを焼く練習をする予定だ。
以前、わたくしがアーシャ様のかわりに孤児院へと慰問に向かって以来、我が家の厨房を使わせてほしいとお願いしていたのだが、それが今日やっと叶う。
もちろん、クッキーを焼くという貴族令嬢らしくないお願いをしていたのには理由があって。わたくしの婚約者のフレッドにクッキーをおねだりされたのだ。
どちらかというとわたくしの手料理を食べたい、というお願いだったかもしれないけれど。
今日は王宮に行くわけでもないので、いつもより動きやすいドレスに着替えさせてもらった。
その後のわたくしはといえば、アニーが朝食だと呼びに来るまで、ソファに座ってロマンス小説のページをめくっていた。
「おはようございます」
「おはようイェニー。今日はクッキーを焼くって言っていたね。その服装、似合っているよ」
「ありがとうございます」
今日は貴族らしくない服装をしているのだけれど、そんなわたくしを褒めてくれるお父様。
最近親バカというのはお父様──そしてお母様──のような方のことを言うのだろうなと学んだわたくしである。
席につくと、わたくしは続いてお姉様に話しかけられる。
「ふーん。その服装、絶対に王宮に着て行っては駄目よ。……まあ、似合ってはいるけれど。クッキー作り、せいぜい頑張りなさい」
「お姉様もありがとうございます」
わたくしがお辞儀をすると鼻をツンとさせるお姉様。しかし、これがお姉様の妹に対する愛情のこもった言葉なのだということはだいぶ分かるようになってきた。
「似合っている」と言っているから、間違いない。
その後わたくしはシェリーやお兄様、お母様からも「頑張ってね」といった激励を受けた。
☆☆☆☆☆
食事を終えたわたくしは、そのまま厨房へと向かった。さすがに邸の中で迷子になることはない。
久々の料理ということに胸を高鳴らせながら廊下を歩いていく。
厨房前についたわたくしは早速扉を開けて中を覗いてみる。
すると中ではすでにアニーたちが料理長と材料やら道具やら、色々と準備に忙しくしているらしかった。
その様子にたちまち冷や汗が背中を伝っていく嫌な感じがする。廊下をゆっくりと歩きすぎたからだろうか。遅刻してしまったらしい。
わたくしは半開きにしていたドアを全開にして厨房へと足を踏み入れた。
「ごめんなさい! ミア、アニー、料理長」
「……イェニーお嬢様? いかがなさいました?」
わたくしが叫んだせいであろう。料理長の言葉を合図に一斉に皆の視線がこちらに集まる。
しかし、それらは責めるようなものではなく、困惑に満ちたものだった。その様子に、わたくしもまた困惑する。
「あの、えっと……わたくし、皆を待たせてしまったのではありませんか?」
わたくしの言葉に顔を見合わせる三人。しばらくして合点がいったのか、再びこちらを向いてくれた。
「心配しなくても大丈夫です! わたしたち、先に準備に来ていただけですから。お嬢様はクッキーを焼くことに集中すればいいんです。準備とお片付けはわたしたちのお仕事ですから!」
胸を張って得意げに答えるミア。
その様子にアニーは処置なしと言わんばかりに肩を竦めている。料理長も苦笑いを隠せないようだ。
それからひと段落して、わたくしたちは調理に取りかかった。
今回は料理長を手本に、わたくしたち三人もそれぞれに同じ作業をしていくことになっている。
道具もたくさんあるし、全員──わたくしは少し違うけれど──経験者だからというわけで、こうした方が早くできるだろうというのが理由だ。
料理長がかっちりとした身体つきだからか、その手に持つヘラやボウルは子供用のように見えてしまう。
しかし、わたくしたちの手にはちょうどよいサイズなので料理長の身体が大きすぎるだけだろう。
それはともかく。わたくしたちはミアのレシピと料理長の腕を参考に、材料を混ぜていく。
以前孤児院で食べたクッキーが甘かったのは砂糖を使っていたからという話だったけれど、今日もしっかりと用意されているようだ。
わたくしがリチェット領の孤児院で過ごしていた頃には砂糖は手に入らなかった。だから、わたくしは甘味といえば蜂蜜やスーの実と呼ばれる果物ぐらいしか知らなかった。
材料を混ぜていると孤児院にいた頃を思い出す。ヤンにイライザ、院長先生。みんなは元気にしているのだろうか。
まだ半年ぐらいしか経っていないはずなのに、孤児院で暮らしていたのが遠い過去のようだ。
そう考えるうちに、動かしていた手が止まってしまったらしく。
「お嬢様? どうかなさいました?」
「あ、アニー……ちょっと昔を思い出してしまって」
「そうでしたか……不躾な質問をしてしまい申し訳ございません」
お辞儀をして申し訳なさそうにするアニーに「気にしないで」と返す。これはわたくしの問題であり、アニーたちの失態ではないのだから。
わたくしは気を取り直して作業を再開する。
バターに砂糖、卵と材料を加えていき、料理長の手捌きを参考に混ぜていく。
アニーやミアもさすがに本職には敵わないらしく「こうした方がいい」とか色々とアドバイスをもらっていた。
やがて、手を止めたかと思うと材料をそのままに裏の材料庫と思われる部屋へと入っていく料理長。一分ほどで再び戻ってきた彼の手に抱えられていたのは。
「イェニーお嬢様。お嬢様のご婚約者様がチョコレートを好きだとお聞きしましたので用意しておきました。お嬢様御用達のチョコレートです」
「……! ありがとうございます」
わたくしは料理長に頭を下げる。「このくらい」と言いながらも満更ではなさそうだ。
気を取りなおして作業を再開したわたくしたちはチョコレートに料理長の言う通りの処理を施していく。
さすがにミアやアニーもチョコレートクッキーを作ったことはないらしい。
わたくしたちはひたすらクッキーの完成に向けてはじめての作業に力を入れた。
☆☆☆☆☆
「ふむ……このぐらいでよろしいでしょう。あとはこの生地を形にして、焼き上げるだけですね」
プレーンクッキーとチョコレートクッキー。二種の生地が出来上がると、わたくしたちは完成した生地を手で形にしていく。
皆集中しているのか、それとも単純な作業を早く終わらせたいからなのか。とにかく無言だ。
一枚、二枚とひたすら作っていくと、やがて二色どちらの生地もボウルの中身が空っぽになっていく。
それぞれのボウルに少しずつ残ったものは料理長が「もったいない」と言って自分で混ぜてもう何枚かクッキーにしていた。
ここまで来たらあとは焼き上げるだけだ。ひとつひとつ、等間隔に並べられた生地が竈の中へと入っていく。
というわけで生地を並べ終わったわたくしはやることもなく手持ち無沙汰になってしまった。
「あの。片付けは……」
「わたくしたちがやっておきますので、お嬢様が気になさる必要ありませんよ」
アニーの言葉に続いてミアの笑顔と料理長の申し訳なさそうな顔が飛んでくる。
その顔にわたくしは何もやらせてもらえないことを理解した。本来なら厨房に立ち入ることすらお嬢様らしからぬ行いなのだから、もっともだ。
部屋の隅にある椅子に座って待つことしばらく。焼き上がったクッキーが竈から出てくる。
それが皿へと移し替えられた頃には、もうお茶の準備まで終わっていた。
ここにはカップもあるとはいえ、いつの間にティーセットを準備したのだろうか。わたくしは自身に仕える侍女たちの手際のよさを改めて実感したのであった。
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