72.練習の成果
やがて舞踏会お決まりのダンスの時間がやって来る。今となってはかなり昔のことのように思われるが、一曲目はパートナーと踊るというのが習わしだというのはセルマ夫人から聞いたのだ。
というわけで、わたくしはフレデリク様とこれまたお決まりのやり取りをした。
「私と踊っていただけますか?」
「はい、喜んで」
わたくしの前に先ほどと同様、騎士のように跪いたフレデリク様。それにわたくしも定型文で返す。──もちろん満面の笑みを込めて。
ダンス前の儀式を終えるとフレデリク様は、エスコートのために再度わたくしの腰に腕を回した。
今度はこのドキドキも彼と一緒にいられる時間が延びると思えるようになったからか、平気だった。
ホールの中央あたりまで到着すると、そこでは遠くから見たように国王陛下とアーシャ様が二人で踊っていた。
一曲目は国王陛下と王妃殿下、並びに王家の関係者とその婚約者、そして賓客とそのパートナーが踊るという習わしだ。
二曲目以降であれば誰でも参加できるが、パートナーがいる場合は各々その夜に踊る一曲目はパートナーと踊るという決まりがある。
簡単にいえばフレデリクは王族だから一曲目にわたくしと踊れば後は自由なのだ。
とはいえ、そのようなことを考えていると胸がぎゅっと締め付けられる感覚に襲われるので、わたくしはすみやかにその思考を頭の隅へと追いやった。
わたくしたちも互いに向かい合い、リズムに身を任せる。一歩、また一歩と一拍ごとに足を動かしていくのが楽しい。レッスンの時も思ったけれど、フレデリク様のリードは本当に丁寧で踊りやすいのだ。
ロナルド殿下とエリーゼ様が同じように加わる。お二人も王太子と公爵令嬢というだけあって、付け焼き刃同然のわたくしよりも上手だ。
わたくしはフレデリク様のリードのおかげで踊れているようなもの。多少なら許容範囲ではあるものの、将来アストランティアの夫婦となるお二人に明らかに劣るというのはフレデリク様の評判を傷つけることになりかねない。
「楽しいか?」
「はい。フレデリク様のおかげです。ありがとうございます」
「私も楽しい。イェニーのおかげだ。ありがとう」
その言葉にわたくしははにかんでしまう。今までの彼の態度を考えると、きっと彼のこの言葉は嘘偽りのないものなのだろう。
かつてのわたくしならそう思えなかっただろうけれど、今なら彼の言葉を素直に受け止められる。
しかし、楽しい時間というものはあっという間に過ぎてしまうもので。
「ありがとうございました」
「イェニーこそ。楽しかった」
わたくしたちは互いに仰々しいお辞儀を決め、笑顔を深めて締めくくった……のだが。
「イェニー……ひとつ、ものは相談なのだが」
「どうかしました?」
ホールの中央を彼のエスコートで離れ、飲み物を取りに行く途中。二曲目が演奏され始めたところでフレデリク様にふいに声をかけられた。その言葉にわたくしは足を止めて彼の方を仰ぎ見た。
「もう一度、私と踊ってはくれないだろうか?」
「えっと……」
「同じ相手とは踊ってはいけない」という暗黙の了解があるらしいことをあらかじめ聞いていたわたくしは自身の婚約者の言葉に返答を窮した。
今の言葉はわたくしの聞き間違いだろうか。そう思ったのが顔に出ていたのか、彼は再び口を開いた。
「もう一度、私と踊ってほしい」
今度は間違いようもなく、彼の言葉がはっきりと耳に届いた。フレデリク様と一度しか踊れないのは残念だし、他の方と踊るのを見るのは心苦しいけれどしょうがない。そう思っていたのだけれど。
「あの! わたくし、フレデリク様と一緒に踊りたいのはやまやまで。でも、一晩に同じ相手と二度踊ってはいけないとお聞きしていたのですが……」
今度はそうわたくしが聞き返すと彼は「あー」と頭を軽く掻きむしりながら力の抜けた声を出し、その後にこう続けた。
「実は、そのことなのだが……夫婦や婚約者なら二回までなら踊ってもよいという決まりもあってな……つまり、だ」
そう告げる彼の頬は会場の熱気にあてられたのかというほどに紅潮していた。
つられてわたくしも顔が熱くなり、あっという間に身体の中を熱が回っていく。もちろん答えは決まっている。
「喜んでお受けいたします」
「……! ありがとう」
「どの曲を踊るのですか?」
彼はわたくしの返答に、ダンスカードを見て答えた。
「今日の曲目に『月夜の炎のワルツ』というものがあるだろう? 私たちの特訓の成果を皆に見せようではないか」
「えっと、でもあの曲は身体が熱い今だとうまく踊りきれる気が……」
「私を信じてはくれないか……? それに、とてもイェニーが頑張っていたことを私は知っている。貴女なら大丈夫だ」
「できない」と思っていたこともフレデリク様に「大丈夫」だと言われると、できる気がする。とても不思議だ。
『月夜の炎のワルツ』というのはフレデリク様と一緒に練習した、王太子妃教育の最初の方に習った曲である。
どうしてこれほど難しい曲をはじめから練習するのかというほど難しい。おかげで他の曲はかなり楽に感じられるようになったほどだ。
「イェニー。手を」
「はい」
わたくしは再びフレデリク様のエスコートでホール中央へと向かう。今度は一度目と違い、おおくの方々でごった返していた。
曲が始まると、皆それぞれにペアの相手と共にステップを踏んでいく。
クライマックスに向けてどんどん速くなっていく曲。それでも、フレデリク様のリードのおかげで誰ともぶつからずに踊ることができている。
遠くの方でロナルド殿下とエリーゼ様も踊っていたのが目に入ったけれど、一瞬で二人が視界の端へと消え去っていくほど足元は忙しい。
やがて曲は最高潮を迎え、ヴァイオリンが終わりを告げる一音を奏でる。曲がフェードアウトしていくのに合わせて、わたくしたちはもう一度礼をした。
「ありがとうございました、フレデリク様。とても踊りやすかったです」
「このぐらい何てことない。イェニーの笑顔が見られただけで嬉しかった」
彼の笑顔が眩しい。今度こそ飲み物を取りに行こうと二人で会場の一角に向かっていく最中、わたくしは気になっていたことを切り出した。
「ところでフレデリク様。王太子妃教育では先ほどの難しい曲をはじめに練習するのが決まりなのでしょうか?」
「『月夜の炎のワルツ』のことか?」
わたくしは彼の答えに頷いた。すると、どこからともなくやって来たのはロナルド殿下とエリーゼ様だ。
わたくしたちと同じであの激しい曲を踊っていたはずなのに。わたくしは一瞬で見失ってしまったのに。どうやら二人にはわたくしたちを見つけることなどたやすいらしかった。
「あの曲は我が国の作曲家によるものと言われているんだ」
「アストランティアの……でも、どうしてあの曲を?」
ロナルド殿下にも先ほどの話が聞こえていたらしい。わたくしの疑問に答えてくれたのはフレデリク様だった。
「二年に一度あるこの交流会では、歓迎の意を表して相手の国の曲を入れることになっているのだ」
「フレッドの言う通りだ。それで、この『月夜の炎のワルツ』だが……」
そこからはロナルド殿下の独り舞台が始まった。
彼の話をまとめると、この曲は人間が誕生する以前の神々の世界の熱狂をイメージした曲なのだという。
どんどんと加速していくのは最初は落ち着いていたお祭りの場がどんどん盛り上がっていく様子を表現したものなのだ、とも。
この話は一体いつまで続くのだろう。そう思っていたところで饒舌に語るロナルド殿下の話を止めたのは、エリーゼ様だった。
「ロナルド殿下。その曲はアストランティアではオペラにもなっているとお聞きいたしましたが、事実なのですか?」
「……! すまないねエリーゼ嬢。少々熱く語りすぎたようだ。それじゃあフレッド、リチェット侯爵令嬢、またね。バイバイ」
そう言って二人は立ち去って行った。去り際にエリーゼ様がこちらにウィンクをしてくれたのだが、わたくしの思いが伝わったのだろうか。
将来はかかあ天下になりそうだ。数日前よりも仲が深まっている気がする。
もしかすると、曲の話をするためだけにこちらにやって来たのかもしれない。
愛国心ゆえか曲が好きなのか作曲家が好きなのか。どういう理由かはわからないけれど彼があの曲にのめり込んでいることだけは間違いなさそうだった。
ひとまずフレデリク様の顔を見ると、ちょっと呆れたような顔をしていたけれど。
「ところでイェニー。四日後の話なのだが、今日と同じように、その日も式典の準備で忙しくて迎えに行けないのだ……すまない。それと」
そこで一旦言葉を切ったフレデリク様。しばらくしてやって来たヘレンからトレーに載った飲み物入りグラスを手に取った彼は、それをこちらに差し出した。
「……これを飲んでみないか?」
「これは?」
「特製のイチゴジュースだ。酒は飲まないと聞いたから」
「……ありがとうございます?」
わたくしは疑問形になりながらも感謝の言葉を告げ、グラスを受け取った。
口に含むと、それはフレデリク様が言った通り夜会には場違いで、季節はずれのはずの、美味しいイチゴジュースだった。
この時のわたくしは、彼がイチゴが好きだと言っていたことを失念していた。
そのせいで、彼が自分の好きな果物だからイチゴジュースを選んだのだということに気がつかなかったのだ。
──そう、気がつかなかったのだ。同様に、この時すでにわたくしは狙われていたのだということにも。
第二章もそろそろ終わりが近づいてまいりました。
引き続き孤児院令嬢をよろしくお願いいたします。




