69.わたくしはとても幸せです
わたくしが今、幸せか。そうお父様はわたくしに尋ねた。けれども、その答えは問われるまでもなく、決まっている。
「はい。わたくしはとても幸せです」
わたくしはお父様の、ついでお母様の瞳を真っ直ぐに見つめながら、そうはっきりと口にした。
「今のわたくしはフレデリク様の婚約者になれて本当に幸せなんです。そして、そのフレデリク様と出会えたのはわたくしが孤児院にいたからで……もし、わたくしが普通にこの家で育っていたら出会うこともなかったはずですから」
その言葉に、お母様が息を呑む音が聞こえた。
それから間もなく聞こえてきたのは、シェリーのすすり泣く声だ。わたくしは隣に座っている彼女の方に顔を向けた。
「本当にイェニーは幸せなの……? わたくしが貴女の幸せを奪ってしまったのではないの? 本当に、本当なの?」
「わたくしは幸せだけれど……わたくしこそ、シェリーの幸せを奪ってしまっているんじゃない? もし双子じゃなかったら、きっとシェリーにも婚約者が」
「違うわ!」
彼女はそう強弁した。いわく、婚約者ができないのは別に双子がどうとかいう問題ではなく、彼女自身の問題なのだと。
そう彼女が言うのならわたくしは否定できない。
けれど、あのおじさんがわたくしと彼女を間違えたから婚約に後ろ向きになっているという話が本当なら、それはやはりわたくしのせいではないだろうか。
シェリーはどちらにせよ答えてくれないだろうから、負担になるだけの質問は心の中にとどめておくことにするけれど。
「それじゃあ、シェリーは幸せなの?」
「……幸せだけれど、後ろめたいわ。だって、貴女が貧しい思いをしている時も、わたくしは何食わぬ顔で豊かさを享受していたのだから。貴女が暮らしていた孤児院に行って、わかったの。わたくしは恵まれているのだな、と」
そう自嘲する彼女はわたくしを視界の外に追いやるように窓の外に目を向けた。それでも、わたくしは諦めず彼女に話しかける。
「誰かと比べたら恵まれているだなんて言ったら、わたくしも一緒だよ。だって、もとはこの家に生まれていたからというだけでこんな生活ができているし、何よりフレデリク様と……」
「イェニー。貴女はフレデリク殿下と出会えたことを殊更に言っているけれど、もし出会っていなかったとしたら? それでも、貴女は幸せだった?」
わたくしは返す言葉を失った。フレデリク様がいたから、フレデリク様と婚約できたから。
思い返してみれば、わたくしの幸せはフレデリク様なしではありえないという答えになってしまっているのではないか。
彼女の言う通りだ。ぐうの音も出ない。だからわたくしは考えて考えて、絞り出すように思ったことを口にした。
「それでも、たとえフレデリク様と婚約することができていても。きっと家の居心地が悪かったら幸せになれなかったと思うし……だから」
わたくしは自身の孤児院での生活が不幸だったとはちっとも思わない。あそこにも温もりに満ちた時間が流れていた。この家だってそうだ。
幸せは比べられるものではないけれど、わたくしが今幸せだということに変わりはない。だから、わたくしが口にするとしたらこの一言だ。
「ありがとう」
感謝の言葉を口にすると、とうとう彼女はこちらを向いてくれた。その瞳からは涙がこぼれていた。
「そのようなことを言われたら泣くしかないじゃない……。わたくしも貴女が妹でよかったわ。応援してる」
その言葉に今度はわたくしが涙を流す番だ。わたくしはなんて恵まれているのだろう、と思ってしまう。そこにお父様が呼びかけてくる。
「君たちが幸せだというならよかったよ。僕は君たちには今よりももっと幸せになってほしいんだ。もちろん、ここにはいないヴァンやフアナもね」
そう告げるお父様の目は先ほどの穏やかさを取り戻していた。
やがて、王宮の城門が見えてくると、これから起こることを予期してか。わたくしの心臓は早鐘を打つように高鳴り始めた。
☆☆☆☆☆
御者の方にお礼の言葉を告げ、わたくしはお父様の助けを借りて馬車を降りた。続いてシェリーとお母様が出てくる。もう日はすっかり暮れてしまったようだ。
そうして、わたくしが西の空を見上げている間に馬車は門の前を去る。その様子を見つめていると、ふいにお母様に呼びかけられた。
「イェニー、お父様とシェリーはもう行ってしまったわよ? わたくしたちも行きましょう?」
そう言われて建物の入口に目をやると、お父様とシェリーは王宮内へと歩みを進めていた。わたくしたちは二人の後をできる限りの早歩きで追った。
今日のパーティーへの入口は王宮内で一番豪華な正面玄関で、普段わたくしが王太子妃教育で来た時に使っているそれとは別だ。
わたくしはここから入るのがはじめてなので、軽く周囲に目をやってしまう。
二、三分程度歩くと、わたくしは視界の端にヘレンをとらえた。
彼女がこちらを見ていることに気づいて立ち止まったわたくしにお母様は「行ってらっしゃい」と背中を軽く押してくれる。
彼女がフレデリク様、もといアーシャ様からわたくしを連れてくるように言われているということを理解してのことだろう。
「それではお母様……行って参ります」
「ええ。ララや殿下によろしくね」
そうわたくしに告げたお母様は遠方で立ち止まっていたお父様の元へと足早に、しかし優雅さを失うことのない歩みで向かった。
そこにはもうシェリーはいなかったから、お友達のメイ様──デビュタントで国王陛下に挨拶をした直後にわたくしをシェリーと見間違えた方──か誰かお友達の元に向かったのだろう。
その後、わたくしはヘレンについて行けば一歩、また一歩と進むたびに心臓もうるさくなっていく。
数分歩いた彼女は王宮内の応接間の前で足を止める。彼女が扉を開けてくれると、そこには案の定というか、フレデリク様がいた。
「イェニー」
「こんばんは、フレデリク様」
フレデリク様は普段一緒にいるわたくしすら見たこともないような立派な服を着ていた。
漆黒のタキシードには豪華な国章がついていたりと、いつもよりキラキラと光っている。飾りのひとつひとつが最高級の品なのだろう。
彼はツカツカとこちらに近づいて来ると、わたくしの手の甲に手袋越しに口づけを落とした。それだけで、わたくしの身体は瞬く間に沸騰してしまう。
これはもしかしたら、シェリーのように肌を露出したドレスを着ていた方が熱が逃げやすくてよかったかもしれないと一瞬だけ思ったのはフレデリク様には秘密だ。
「今日もイェニーはかわいいな」
「か、からかわないでくださいっ」
クツクツと笑うフレデリク様。彼は夏場の暑い中、人の身体を温めて熱がらせる趣味でもあるのだろうか。
彼に褒められるのはものすごく嬉しいのだけれど、熱いものは熱い。
「本当はこのレース素材も避けたかったのだが、母上がうるさくてな……とはいえ、その他の部分はその、エリーゼやヘレンにも聞いてどうすればいいか、私なりに考えたのだ。最終的にはフランツにも見てもらった上でエイミーに注文したのだが……イェニー?」
わたくしはその言葉に今まで勘違いをしていたことに気がついた。
アーシャ様が中心になってデザインを決めたのだと思っていた。しかし、実際はアーシャ様がしたのは口出し程度で、ほとんどすべてをフレデリク様が頑張って用意してくれたのだという。
アーシャ様にもらえたものでは嬉しくないといえば嘘だが、フレデリク様が準備してくれたと聞いただけで嬉しさが何倍増しにもなる。わたくしも単純だ。
「いえ……このドレスはアーシャ様が準備したと思っていたのですが」
「母上にはデコルテを開くようにとだけしか言われていなかったからな……透けた素材で妥協させた」
あのアーシャ様を折らせるとは、さすがフレデリク様だ。わたくしではアーシャ様にそう迫られたら頷くしかできなかっただろう。
でも、フレデリク様と結婚したらドレスはアーシャ様と決めることになるはずで。
──ということはわたくしはアーシャ様に「嫌」を言えるようになっておかなければ、これから苦労することになるのは一目瞭然だ。
少なくとも、夜会用のドレスについては譲るわけにはいかない。
「わたくしもアーシャ様に自分の意見を言えるように頑張りますね」
「? イェニーは母上と仲良くしてくれれば」
「もしアーシャ様と『女同士二人きりで』と言われたらきっと断れないでしょうし……でも、夜会用のドレスをそこで決めるようにとなれば、わたくしはそこだけは断らなければなりませんから……」
フレデリク様はわたくしを甘やかすのが本当に上手だと思う。でも、これはわたくしとアーシャ様との問題だ。
今回はまだわたくしが嫁いでいないから、かわりにフレデリク様が間に入ってくれていただけなのだから。
「わかった。そこまで言うならイェニーに任せる」
「ありがとうございます」
わたくしがそう言うと、フレデリク様は顔を赤らめる。しかし、彼はすぐにその赤い顔のまま片膝をついてこう言った。
「今宵、わたくしに貴女をエスコートする権利をいただけませんか?」
「……はい。喜んで」
王に絶対の忠誠を誓う騎士のごとき礼をとったフレデリク様。
わたくしは彼に笑顔で返し、差し出された手をとった。すると彼はそのまま立ち上がり、流れるような動作でわたくしの腰に手をあてる。
久しぶりの距離にドキドキしながら、わたくしはフレデリク様と共に会場へと向かった。




