63.帰りは二人で
やがて、孤児院は昼食の時間を迎えた。昼食の準備はこの孤児院出身の、数年前に近所の男性の下に嫁いだ女性が請け負ってくれているという。
ダレンさんいわく、報酬として孤児院の材料で作ったパンを一家の三食分持っていっているらしい。
これが妥当なのかを学んでいないわたくしにはわからないので「そうなのですね」と軽く流してしまったのは仕方のないことだろう。
でも今度勉強して必要ならフレデリク様を通してお給金を出すように進言しなければ。
玄関で待っていると、やがて孤児院の広場の前に一台の馬車が止まった。わたくしが今朝リチェット侯爵邸から乗ってきた馬車だ。
わたくしはダレンさんに暇を告げるためにお辞儀した。隣には同じくこれから帰ろうとしているフレデリク様もいる。
「本日はありがとうございました」
「滅相もございません。感謝すべきはこちらですよ」
「わたくしの勝手な一言であの子たちをここに居づらくさせてしまったかもしれませんのに」
もちろん、あの子たちとは双子のジョン君とリサちゃんのことだ。わたくしが彼らを庇ったことで、今後彼らに対して他の子たちが何をしでかすかわからないのだ。
「ご心配には及びません。それに、今後も時折訪ねていただけるのでしょう?」
お茶目にもダレンさんはウィンクをきめた。クッキーを持ってくることを約束したし、たしかに彼の言う通りだ。そうして、再び心をこの場所に戻した時には、ジョン君も側にいた。
「どうしたの?」
「いや、俺……あの……」
「少年。イェニーは私の婚約者だ」
え、なぜそのようなことを子供相手におっしゃるのですかフレデリク様と思わなくもなかったけれど、事実は事実だ。
ジョン君の戸惑い混じりの顔を視界の端にとらえながらフレデリク様の方を見ると、彼は口角を上げた。
「絶対に姉ちゃんを幸せにしなけりゃ許さないからな」
「わかっている」
「えっと、フレデリク様。ジョン君。わたくしは、フレデリク様の隣に居られるだけで幸せですけれど……」
わたくしの言葉に二人揃って驚いた顔をした。と思えばフレデリク様は次の瞬間には最高の笑顔を浮かべている。相変わらず穏やかな笑みを浮かべているのはダレンさんだ。
「……だそうだ。私にも譲れないものがあるのだ」
「子供相手に大人げねぇな!」
そう告げるジョン君を横目に、フレデリク様はこちらに手を差し出した。わたくしは一瞬だけジョン君の方を見て「フレデリク様がごめんなさい」という気持ちを込めて苦笑した。
どうやらそれでなんとなく伝わったようで「姉ちゃんも大変だな」と呆れられている気がする。彼の方を見ていると、再びフレデリク様に呼びかけられた。
もちろん、フレデリク様第一のわたくしは彼の方を向き直した。
「どうかしました?」
「浮気か?」
「フレデリク様はどうして子供相手にそのような言葉が出てくるのですか!?」
「フレッド……と今更言っても遅いな。まあいい。とにかく、私にとって貴女はたとえ大人げないと言われようと何と言われようと失いたくない存在なのだ」
側に人がいる状況で告げられた言葉に、わたくしはすぐにでもこの場から逃げ出したくなった。
しかしここは平民街で、下手に逃げれば危険に巻き込まれる可能性がある。馬車に逃げてもフレデリク様がついて来るだろうし、建物内に逃げても子供たちの無邪気で残酷な仕打ちにあわされるだろう。
というわけで、今のわたくしにできることは、ただ縮こまることだけだった。
「イェニー? 大丈夫か?」
「ひゃ、ひゃい」
緊張のあまり舌を軽く噛んでしまった。痛い。
差し出されたのは本日何度目かのフレデリク様の手。わたくしは羞恥に悶えながら差し伸べられた手を軽く握り返した。
最後にもう一度感謝の言葉を告げ、孤児院を後にする。馬車のところまで来ると、御者のおじさんと共にベスが外で待っていた。
ベスは驚いたような表情をした。フレデリク様がいるせいだろう。それでも、彼女の表情は一瞬で何ごともなかったかのように普段のものに戻った。さすが侯爵家の使用人というべきか。
「お帰りなさいませイェニー様。わたくしは御者台に乗りますので、お二人は中でどうぞごゆっくり」
「ベス殿、心遣い感謝する。さあ乗ろうイェニー」
わたくしはフレデリク様の言葉に頷きで返事をした。
お忍び用の馬車のはずなのに、わたくしたちも平民のものに近い服装をしているのに。フレデリク様が一緒だとそんな場所ですら華やかに感じる。
扉が閉まると馬車が動き出した。行き先はリチェット侯爵邸だ。このような事態を見越したフレデリク様は、侯爵邸に迎えを寄越すように予め伝えていたらしい。
ちなみに、アニーとミアは部屋の中で子供たちと共に昼食をとっている。彼女たちは休みだったので、わたくしとは別に歩いて来ているのだ。というわけで帰りも別々だ。
「さて、イェニー」
「?」
「母上の代理、大変ご苦労だった」
「は、はい。ありがとうございます」
わたくしはてっきりフレデリク様から褒め言葉や愛の囁きがたくさん飛んでくるのでは、と思ったので肩透かしを食らった気分だ。
婚約者への言葉ではなく、臣下に対するそれ。言葉にされると恥ずかしいのに、何もないとそれはそれで不安になるというわたくしは以前と変わらず我儘のままだ。
しかし、結局続く彼の言葉に面くらうことになってしまった。
「それでイェニー。実はアストランティアの王太子を迎え入れる茶会が近々予定されているのだ。悪いが参加してはもらえないだろうか?」
「え? お茶会、ですか?」
その通りだ。フレデリク様は首肯し、説明を続けた。
「茶会には彼の婚約者のエリーゼ嬢も参加する。もちろんこの国の王太子たる私も参加することになっている。しかし、貴女は必ずしも参加する必要はないのだ。ただ、我が国の面子に関わるから引き受けてくれないか尋ねただけだ。もちろん嫌なら断ってもらって構わない」
命令ではなく依頼という体をとるフレデリク様。これは彼の優しさの現れだと思う。
もちろん本来は参加しないという選択肢はないはずなのだけれども、彼はお願いという形を選んでくれているのだ。何なら、彼ならわたくしが参加したくないと言えば上手に周囲を言いくるめてしまうのだろう。
しかし、それはわたくしの望むことではない。訊かれた時点で答えは決まっていた。隣国の王太子とその婚約者が茶会をするのに、わたくしが欠席してフレデリク様だけで出れば何かあると勘ぐられかねない。それは嫌だ。
「もちろんです。わたくしはフレデリク様の婚約者ですから」
「ありがとう」
そう言って彼はわたくしの頬に口づけを落とす。嬉しいけれど、せっかく引いてきていた熱が戻ってきた。
やがてリチェット侯爵邸の前で停止する馬車。そこにはたしかに王家の馬車があった。
エスコートを受けて馬車を降りたわたくしは、すぐそばに止まっていた馬車に乗り込んでいくフレデリク様にお辞儀して見送る。今日はいつもと違ってまだ昼過ぎなのでちょっと新鮮だ。
ちなみに夕方帰ってきたミアたちからは、ダレンさんからわたくしがまた孤児院に遊びに来てよいと正式な許可をもらったことが告げられた。
といってもしばらく行けそうにないのが残念だ。そのことをまた伝えておいてほしいとお願いすれば、ミアは快諾してくれた。
子供たちの間でわたくしとフレデリク様の変な噂が広まっていないかだけは心配だけれどもどうしようもない。
それはともかく。この日のわたくしは恥ずかしいながらも満ち足りた一日を送ったと思う。
けれども、この時のわたくしは翌日に起こることを一切予期することができなかったのだ。




