58.フレデリク様と子供(2)
孤児院に上がると、フレデリク様の腕から解放された男の子は足早に部屋へと入っていった。
ミアのクッキーが食べたくなったのか、フレデリク様が嫌だったのか。きっと両方だろう。
部屋の後方──部屋に入って左側、つまり入口側の窓辺──にはアニーもいて、こちらに来るようにと手招きをしている。
部屋の右側というか前方にいるダレンさんと顔が合うと彼にも視線で入室を促されたので、わたくしたちも部屋の中へと入っていった。
わたくしたちは部屋の後ろの方の椅子に座る。アニーの隣だ。
ミアは前の方の小さな子たちのいる辺りに座っていた。特に席順は決まっていなさそうだけれども、後ろの方にくるにつれて大きな子たちが座っているようだ。
アニーにそのあたりの事情を尋ねると、わたくしの予想通りだったらしい。
前の方の子たちから順番に、ダレンさんとミアの手によって一人に二枚ずつクッキーが配られていく。
木の皿に乗せられたクッキーをじっと見つめる子に、ミアたちを視線で追いかける子。
全員に配られる前に手をつけようとしている子にその手をはたきおとす子など様々だ。
結局いざこざでクッキーパーティーは開かれなかったし、そのかわりという感じではあるものの、おやつの時間にお邪魔してしまい申し訳ない。後で謝罪しなくては。
とりあえずこれも慰問の一環だということにして納得することにした。
そして、視線を前の方から近くに戻すと、ジョン君もいた。
彼はわたくしと視線が合うと、すぐさま逃げるように目を逸らした。先ほどのことを引きずっているらしい。
そうこうしているうちにミアがわたくしたちの元にもやって来て、木の皿と二枚のクッキーを置いていく。
感謝の気持ちを込めて笑顔を向けると、彼女は満面の笑みを返してくれた。
フレデリク様の分まで配り終わると、彼女はそのまま前の方へと戻っていく。
彼女が席につくと子供たちは彼女の方を見たり近づいたり。やがて、パンパンと手拍子が聞こえてきた。その音の主はダレンさんだ。
「みなさん。朝も言いましたが、今日はお貴族様がみなさんのことを見に来ています。イェニー様、前へ来ていただいてもよろしいでしょうか?」
そう言って彼はわたくしの方を見た。わたくしは部屋の端を通り、前へと向かう。ダレンさんの隣というか、少し斜め前に立つと、彼はわたくしのことを紹介し始めた。
「このお方はリチェット家という、とてもすごい家の方です。名前はイェニー、イェニーお嬢様です。いつもみなさんにクッキーを作ってくれているミアお姉さんたちともとても仲のいい方ですよ……イェニー様。ご挨拶をいただけないでしょうか?」
「ご紹介にあずかりました。イェニー・リチェットと申します。これからもミアたちのことをよろしくお願いしますね。それから、わたくしとも仲良くしてもらえたら嬉しいです」
そう言って、淑女の礼を披露する。何人かの女の子に熱心な視線を向けられた気がするがたぶん間違いではないだろう。
わたくしやイライザもお姫様が出てくる物語とかが好きだったので、きっと彼女たちもまたわたくしたちと同じなのだ。
わたくしの生まれが本当にお姫様、もとい貴族令嬢だったとは孤児院にいた頃は思いもしなかったけれど。
後ろの方に戻る時も視線に追われていると感じたのは、やはり普段いないわたくしが気になるからだろうか。
わたくしが席についたのを見るやいなや、ダレンさんは「食べてもいいですよ」と合図を出す。それを皮切りに静まり返っていた室内は騒がしさを取り戻していった。
みんながクッキーに手をつける中ジョン君だけは食指が動かないらしく。
そんな様子を見ていると、再びわたくしの視線に気がついたようだ。途端に彼はそっぽを向いてクッキーを齧り始める。やはり先ほどのことで思うところがあるらしい。
わたくしも手元のクッキーに視線を落とし、一口齧ってみた。二人の作ってくれたクッキーは素朴ながらも、おいしい。
わたくしが孤児院にいた頃には、この程度のお菓子すら食べた覚えがない。甘味といえば果物だった。
クッキーとは呼んでいたけれど、今食べているものとはかなり違う。
回想に浸っていると、左側の椅子に座っていたアニーに声をかけられた。
「お嬢様、クッキーの味はいかがでしょうか?」
「とても美味しいわ。ありがとう」
「いえ。これはミアのレシピですので」
「ミアの……そう。後でいっぱいありがとうを伝えなきゃね。あ、もちろんアニーにも感謝しているのよ?」
「滅相もないことでございます」
そう言って頭を下げるアニー。
ああ、子供たちがこちらに注目しているじゃない。そう言いたかったけれどやめておいた。
主のわたくしが何かしらの不満をこぼせば、彼女らの休日を台無しにしてしまう。そう、わたくしたちは偶然ここで会っただけで今日の彼女たちは休みなのだ。
やがてクッキーを食べ終えた子供から順番に一人、また一人と席を立っていった。
外に行く子にミアやダレンさんの方に行く子と、色々だ。
先ほどフレデリク様が抱えてきた男の子は二枚のクッキーをお腹に収めるとこちら──正確にはフレデリク様を一瞥して外に出ていった。
「フレッドさん。貴方、やはりあの子に嫌われたんじゃない?」
「イェニーが言うならそうなのかもしれないな……」
そう言って黙り込むフレデリク様。顔を下に向け、軽く閉じた右手を顎に当てている。
もしかして気にしているのだろうか。言わなければよかったかもしれない。
「大丈夫?」
「あー……帝王学同様、子供についても学ばなければな、と思っただけだ」
「またどうして……」
「私たちの子供に嫌われては悲しいではないか……イェニー?」
その言葉に今度はわたくしが俯いてしまった。
フレデリク様の言う「私たちの子供」。それはつまりわたくしの勘違いでなければ、彼とわたくしの間に将来生まれてくる子供ということなのだろう。
たしかに、彼の婚約者はわたくしで、わたくしたちは将来を誓い合った仲だ。そう考えるだけで赤面してしまうことは今まで何度もあった。
しかし、その先を考えたことは今までに一度もなくて。慣れていないせいだろうか。「私たちの子供」という言葉に落ち着かない。
それが貴族令嬢として一番に求められていることだとわかっているつもりだったのに。
でも、もしかしたら聞き間違いかもしれない。そう思って尋ねてみたのだが。
「? 私たちの子供に嫌われたくないのは当然であろう」
「それはつまり、フレッドとわたくしの」
「それ以外に誰がいるというのだ?」
聞き間違いではなかった。つい先ほどまで何の異常もなかったというのに、思考がうまく働かない。
ふと、フレデリク様の方を見ると、彼はとても真剣な表情をしていた。
思い返せば、フレデリク様は子供に嫌われたくないがために子供についての勉強を政治などと同等にしようというのだ。そう思うとちょっと微笑ましい。
わたくしはいつの間にか自然な笑みを浮かべていた。
「どうした? 何がおかしい」
「いえ。フレッドさんがそんな理由で」
「というわけで、子供と関わる心構えについて書かれた書物を知らないだろうか」
その質問に、わたくしはついに笑いを堪えられなくなり、噴き出してしまった。
今のわたくしを傍から見れば、きっと表情も何もかも淑女失格と言って過言ではない状態になっているだろう。
「何が可笑しい?」
「いえ……まだ生まれてもいない子供に嫌われたくないという理由で子供について勉強しようとするフレッドさんが、とても……やっぱりなんでもない」
「そこまで言われては気になってしまうではないか」
わたくしはその言葉にどう答えればいいかわからず、固まってしまった。
そんなわたくしの気持ちが伝わったのだろうか。一連の様子を見ていたアニーが助け舟を出してくれた。
「お嬢様。子供たちがお嬢様に興味があるようですが……いかがなさいますか?」
「……えっと、それはどういう」
「子供たちに交じって遊んであげてはいかがでしょう? ベスからは迎えの予定はもう少し後だと聞いておりますし」
アニーの言葉に遠くからこちらを見ている子供が何人かいることに気がついた。
彼らと目が合ったのでひとまずわたくしは笑顔を返しておく。
そして、フレデリク様にどういう顔をすればいいかわからなかったわたくしは、彼女の提案に一も二もなく飛びついた。
とはいえフレデリク様だけ仲間はずれにするわけにもいかないので、彼を誘うのも忘れない。
そこに前の方に立っていたダレンさんが口添えをしてくれる。
「イェニー様。可能でしたら、外で子供たちが遊んでいる様子も見ていってはいただけませんか? 先ほどとは違い、ゆっくりと」
「今ちょうどそのような話をしていた所です」
わたくしの返事に満足気に頷くダレンさん。気がつけば、ミアももう部屋の中にはいなかった。
窓の外を見てみれば、どうやら子供たちと共に遊んでいるらしい。というか、肩車をしていた。わたくしは村のおじさんたちが小さな子供にやっていた以外ではたぶん見たことがない。
あの華奢な身体の中にどれだけの力があるのだろうか? 今日ここで彼女と会わなければ、わたくしはミアが実は力持ちだったということを一生知らなかったかもしれない。
「……わかった外に行こう。イェニー、手を」
そう言って再び手を差し出すフレデリク様。もうエスコートの申し出にすっかり慣れたわたくしは、笑顔で応じた。
この時のわたくしは、この後大きなトラブルに巻き込まれるなどとは思いもしなかったのである。




