56.ミアの事情
わたくしたちが空き部屋の椅子に座ると、ダレンさんは廊下の向かい側にある厨房へと入っていった。
残されたのはわたくし、フレデリク様、ミア、そしてこの孤児院で暮らしているのであろう少年の四人だ。
わたくしとフレデリク様が廊下の方を向いて座り、ミアたちはこちらを向いた椅子に座っている。
先ほどもらった──と言ってもおそらくミアたちが作ったのだろう──クッキーは袋ごと机の上に置かれることになった。
「あの、ミア……なんか、ごめんなさい」
「いえ! お嬢様はお仕事で来ているんですから、謝っちゃだめです」
「そう……じゃあ、ミアはどうしてここに来ているのか、教えてくれる?」
そう尋ねると、ミアは少し左上の方を見上げる。逡巡の後、再びこちらを向いて質問に答えてくれた。
「そうですね……まずここにわたしがはじめて来たのは、わたしが王都にお出かけして迷子になった時なんです」
彼女は幼い頃、使用人と共に母君への誕生日プレゼントを買いに王都に繰り出した時に迷子になったらしい。
わたくしにシェリーに彼女と、あの家の関係者は方向音痴率が少々高すぎるな、と思ったのは秘密だ。
それはともかく。一人で迷った末、彼女はこの孤児院で迎えを待つことになったそうだ。近所の方に助けてもらい、王都の庁舎を通じて男爵家に連絡がいったのだとか。
「もし悪い人に捕まっていたら、と思うと怖いんですけど……ダレンおじさんとはその時知り合ったんです。それで、最初はもう一回来るのも怖かったけどお礼をしたくて。どうしてもとお母様にせがんでクッキーを焼いて持ってきたのが二回目です。みんな喜んでくれたんですよ」
それから、彼女は不定期にこの孤児院を訪れるようになったのだという。やがて回数を重ねていくうちに、ここの一員のようになっていったらしい。
刺繡したものをバザーに出したりとか……と懐かしそうにそう語るミア。
「おいミア姉。クッキーは大丈夫か?」
「ジョン、大丈夫だよ。わたしの代わりにダレン先生が行ったし、アニーもいるから」
「え? アニーも来てたの?」
それは初耳だ。ミアだけでなくアニーも来ていたとは。そういえば二人で街に繰り出したと聞いた気もする。
ちなみに、時々シェリーの侍女のリリーも一緒に来ているとか。どういうことなのか全く理解できないわたくしに、彼女は理由を教えてくれた。
「わたし一応男爵令嬢だし、連れ去られたらまずいみたいで……それで邸に働きに出てからは二人のうちどっちかについて来てもらってるんですよ~」
「そっか……」
「まあ、アニーはお嬢様の家に働きに入る前から一緒にここに来てくれているんですけどね~」
忘れていた。彼女はこう見えて貴族令嬢だった。どんどん彼女たちの知らない事情が出てくる。
使用人のプライベートを聞くのはどうかとも思うが、彼女の話をとめる方が気に病むと思うので聞いたこと全部をお墓まで持って行くことにした。
ミアがリチェット家に行儀見習いとして出入りするようになる少し前。この孤児院に来るようになってから、彼女の言葉遣いが荒くなったと信じたお父君に孤児院への出入りを禁止されたらしい。
「えっと……ミア、この状況は怒られないの?」
「大丈夫ですよ~。お父様に伝わらなければ、ばれませんから!」
腰に手をあてて威勢よく胸を張るミア。確かにそうだけど、彼女ははたしてわたくしより年上なのだろうか……。
細身で農作業をすれば骨が折れそうな身体つきなのに、育ち盛りの青年をどうにかできるあたり、力強いし何者なのだろう。
とはいえ、そのようなことを考えても詮なき事だ。わたくしは事情を細かく教えてくれたミアに感謝の言葉を告げ、例の少年の方を向いた。
茶色の髪に茶色の瞳という、一見どこにでもいる普通の少年。しかし、その顔立ちはかなり整っていて、どこかで見た覚えがある気がする。
「ジョン、お嬢様に挨拶」
「ミア姉は黙ってろ! こいつ、ミア姉にここに来たら駄目って言った奴らと同じなんだろ?」
「お嬢様はお父様とは別だよ。お父様には内緒にしてくれるって」
そうミアが言うと彼は肩を竦めた。続けて溜め息を吐いたと思えばとこちらに厳しい視線を向ける少年。
立ち上がった彼は地獄の門番のように腕を組んで足を肩幅より大きく広げながら自己紹介をしてくれた。
「ジョンだ。ミア姉のことをお父様って奴にチクったら許さないからな」
「イェニーです。ミアがお世話になっています。これからもミアのことをよろしくね」
そう笑顔で返すと、ジョン君は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。何かおかしなところでもあっただろうか。覗き見れば彼は「な、何だよ」とちょっと不機嫌そうな顔をした。
「お貴族様っていいよな……いっぱい食べれて」
「それは私に言っているのか?」
「お前じゃねぇし」
「ではそれはイェニーに言っているということでいいか?」
突然会話に加わったフレデリク様。隣に座る彼の方を見ると深い深い、非常に深い皺がたっぷりと刻まれた笑顔を浮かべていた。
笑顔なのに怖い。アーシャ様に出会った当初によく感じた感覚だ。さすが親子。
貴族はいついかなる時も微笑みを浮かべなければならないというけれど、今のフレデリク様は怒りをその笑顔の裏側に隠しているのだろう。
いや、隠しているつもりなのかもしれないけれど、正直全然隠すことができていないと思う。
さすがにジョン君もそれに気づいたらしく。彼の顔色はみるみるうちに悪くなっていった。フレデリク様を諌めるのは婚約者たるわたくしの責務だろう。
フレデリク様、と言おうとして今日はフレッドと呼ぶのだこれは仕事なのだと、すんでのところで思い出した。
「フレッドさん、もうやめてあげて」
「私が馬鹿にされるのは一向に構わないのだが……私はイェニーが軽んじられるのが嫌だ」
子供のように拗ねるフレデリク様。不覚にもちょっとかわいいと思ってしまった。
しかし、目の前の少年が可哀想だ。わたくしなんかのために怖がらせるのはやめてあげてほしい。切実に。
「フレッドさんの気持ちはわかったから……」
「ああ。怒っているのだ。貴女の過去を知らないとはいえ、あのような態度は」
「わたくしの、過去……」
そうか。一応管理者、つまりダレンさんにはわたくしが孤児院育ちだと伝わっているが、目の前の少年はそのような事情を一切知らないのだ。
だから何だとは思わなくもないが、フレデリク様なりの心遣いなのだろう。
「過去? お貴族様なんて過去を掘り返してもまともなことなんて一つもねぇだろ? 俺ら平民を虐げ、税を取り立てて、自分たちは俺らの金で飯を食う……ひでぇったらありゃしねぇ。貴族なんてのは悪魔に魂を売った奴のなるもん……ちょっ、ミア姉何すんだ!」
「今のは誰に言ったの?」
ミアが再び少年に馬乗りになる。今度の彼は仰向けだ。内心ひやひやしたが、押し倒す方向は考えていたらしく、その頭はクッションの上に乗せられていた。
とりあえず、ミアは何か問題があったら口より手が先に出るアグレッシブなタイプらしいということがわかった。侯爵家では見せない顔だから驚いてしまう。
「それでジョン、今のは誰の話? 悪魔に魂を売ったって、わたしのこと?」
「ミア姉のことじゃ……」
「ミアも落ち着いて……」
これが落ち着いていられるわけないじゃないですか! そう叫ぶミア。でも、二人とも子供相手にちょっと大人げないと思う。
何より、ここによく通っているというミアとジョン君の関係が悪化するのは避けたかった。そこに救いの手が現れた。
「お嬢様、慰問する孤児院とはこちらの……ミア? 何してるの?」
「ちょっとジョンがお嬢様のことを悪く言ったから~」
「懲らしめているというわけね?」
アニーの質問に頷くミア。救いは一瞬で消え去る。そこは否定してほしかった。アニーの方を見ると、大きな紙袋を抱えた彼女は首を横に振った。
「お嬢様にとっては衝撃的かもしれませんが……下町では力がものを言うのです。暴力沙汰など日常茶飯事。ミアはそのルールに則って『教育』を施しているのです。頭がクッションの上になるようにしている時点でかなり配慮していると言えますよ」
「そうです。お嬢様は優しいから考えられないかもしれませんけど、怖い貴族だっていっぱいいるんです。ジョンがそういう貴族に何か言ってひどい目に遭ってほしくないからこうしてるんですよ」
「そ、そうなんだ……」
ミアが笑顔でアニーの言ったことを補足してくれる。
まさに先ほどのフレデリク様が──と一瞬頭に浮かんだが、さすがに彼に限ってそのようなことはないはずだ。フレデリク様はちょっと意地悪だけど優しいのだ。
「わかった。わかったからそろそろジョン君を解放してあげて」
「はーい」
そうお願いすると、ミアは素直に彼から離れる。起き上がったジョン君はこちらに厳しい視線を向けてこう言い放った。
「ミア姉を泣かせたら、許さないからな」
「は、はい」
再びミアのことを気にかけた発言をするジョン君。わたくしはその気迫に蹴落とされたせいで、思わず丁寧な返事をしてしまう。
まだ十歳そこそこであろう少年。──しかし、彼が持つ貫禄はすでに大人のそれだった。




